継承(1) 投稿者:R/D 投稿日:7月2日(日)02時16分
 物体は落下するに当たり重力によって加速される。等加速度運動というヤツだ。物体の質量は
その際、速度に対しては何の影響も及ぼさない。もちろん、現実には空気の抵抗も考えなければ
ならないのだが、このケースでは考慮に入れる必要はないだろう。この物体はほぼ重力加速度に
従って運動し、高度を下げるに伴い速度を上げながらアスファルトの路面に激突したはずだ。
 重力はいつものように、自らが成すべき仕事を無慈悲に淡々と成し遂げたのだ。そう、あの時
と同じように。人であれ何であれ、重力という名の神に逆らうのは容易ではない。

 矢島は軽く首を横に振った。頭の中に浮かびそうになる映像を払い落とす。ねっとりとした暑
い空気が顔面にまとわりつく。うんざりしながら懐から取り出したハンカチで額を拭った。すで
にかなり酷使されていたハンカチは本来の機能を十分に果たすことがかなわず、生え際からなだ
れ落ちる汗はほとんどが皮膚の上に残った。矢島は空を仰ぐ。現場を動き回る警官や鑑識課員、
それを取り囲む野次馬を、太陽は等しく照らしつけていた。

「…矢島」

 声に振り返ると上司が手招きしていた。自分より若い上司の方へ歩く。彼のトレードマークと
なっているアルミの水筒が太陽の光を鈍く反射した。隣の鑑識課員に手短に命令を与えると、近
づいてきた矢島に向き直る。

「何でしょうか」
「大丈夫ですか、矢島さん」

 彼の口調が変わる。周囲の者に話を聞かれる可能性が少ない時、彼は矢島に対して敬称をつけ
て話すようになる。昔、矢島の後輩だった時の癖だろう。実際、二人はよく組んで仕事をした。
同僚たちからもいいコンビだと見られていた。今は違う。彼は出世し、矢島は取り残された。あ
る事情でそうなった。上司となった元後輩が矢島の表情を窺いながら抑えた声を出す。

「今回のヤマ、外れても構いませんよ」
「…………」
「無理することないすからね。俺の方から上に言っときますから」
「…いや、気を遣わないでくれ」
「けど、何しろアレが」
「大丈夫だ。仕事はきちんとやる」

 矢島は語調を強めた。若い上司の瞳に、微かな不快感と怒りが浮かぶ。上司の言葉に従わない
部下に対する感情が思わず表情に出たのだろう。口元を歪めて笑って見せる。

「私情は交えない。約束する。と言っても信じちゃくれんだろうが」
「そんなつもりはありません」
「…ありがとう。とにかくやらせてくれ」

 重ねた言葉に上司は僅かな時間、黙り込む。矢島を見るその目の奥で計算している様子が手に
取るように分かる。彼も結局、組織の人間だ。組織の中でどう評価されるかが最大の関心事であ
る。そして矢島は、その組織の中で不適応を起こしたことがある存在なのだ。
 矢島は今一度、卑屈に笑った。それは身についた習性だった。かつての後輩の前で、彼は再び
懇願を口にする。珍しいことじゃない。これまでも何度も色々なところでやってきたことだ。今
さら傷つくようなプライドなど持ち合わせちゃいない。とにかく何かしていられればいい。どん
なヤマでも構わない。職場で干され、早い時間に誰もいない家に帰るよりは。

「…分かりました。それじゃ」

 上司が口を開いたその時、彼らのすぐ傍に聳えるマンションの玄関が開いた。若い女性刑事が
泡を食った様子で駆けつけてくるのを見て上司は口をつぐむ。その切迫した表情を見て矢島の口
元も無意識のうちに引き締まる。何か予想外の事態が起こったのか。

「大変です、こんなものが…」

 息を切らせた彼女が差し出したのは白い封筒だった。表書きの「遺書」という文字に素早く目
をやると上司は開かれた封の中から便箋を取り出す。そこに書かれた文字を追う彼の視線が次第
に厳しさを増していく。
 矢島は嫌な予感を覚えた。妙に強烈な違和感が心をつかむ。何の根拠もありはしないが、自分
はやはりこのヤマにかかわってはいけないような気がする。真相を追ったとしても、そこに待つ
ものはあの時と同じ不快な結末かもしれない。あの蒸し暑い夏の凄惨な体験と同じ。

 矢島は視線を巡らせた。自らの意思ではない、何か強い磁力に引き寄せられるように。視線の
先にはアスファルトの路面に散らばった物体の残骸。そこには、マンションの上層階から墜落し
て壊れたメイドロボが転がっていた。



「目撃者の証言からメイドロボがこのアパートの12階に住む住人のものであることは間違いな
いと思ったので、警備会社と連絡を取って部屋の扉を開けました。暗証ロックがかかっていたほ
か、チェーンまでしていたので多少手間取りましたが」

 若い女性刑事はエレベーターの中で矢島に向かって簡単な説明を始めた。正午少し前、メイド
ロボが上空高くから地面へと慌しい移動をした直後には近所の住人による連絡が警察に入ってお
り、それから矢島が駆けつけるまでさしたる時間は経過していない。おそらく矢島が到着した時
には、彼女はまだその部屋の扉を開けていなかったのだろう。変わり続ける階数表示に視線を据
えたまま、彼女の声に耳を傾ける。

「その住人は警備会社のデータによると一人暮し、というかメイドロボと一緒に暮らしていたよ
うです。室内の様子は、実際に見てもらった方がいいですね。その遺書は…封筒は床の上に置い
てありました。そして、ベランダへ出るガラス戸は開け放たれていました」

 エレベーターが止まり、扉が開いた。エレベーターホールに立っていた警官が彼らを見て敬礼
を送る。女性警官が先に立ち廊下に並ぶ扉の一つへと向かう。ノブを握った彼女は背後に矢島ら
がいるのを確認すると、ゆっくりと扉を開いた。背の低い彼女の頭越しに矢島の視界に飛び込ん
できたのは、空中に浮かんでゆらゆらと揺れる2本の足だった。
 矢島の心臓が唐突に跳ねあがる。夏の陽射しが差し込む窓をバックに黒く浮かび上がる人間の
足。それはあるべき場所から数十センチも上に浮かび、振り子のように運動していた。矢島の脳
髄が凄まじい勢いで過去の記憶を検索する。揺れる足、室内で、暑い夏、陽射しと陰、扉を開い
て中に飛び込みそこで。

「…男か」

 上司の声が矢島の耳に届く。酷く遠くから聞こえるその声が矢島の意識を覚醒させた。記憶が
脳裏で渦を巻き、矢島は思わず目を閉じ唸る。食いしばった歯の間から意外なほど大きな声が漏
れた。女性刑事が振り返る。荒い呼吸をしている矢島の様子に気付いた彼女が声を上げる。

「大丈夫ですか」
「…おい、矢島っ」

 ほとんど同時に振り返った上司が慌てて矢島の腕を掴み、外へと引っ張る。矢島は無抵抗のま
ま引きずられるように廊下を2、3歩よろめき、蹲った。駆け寄った女性刑事がしゃがんで矢島
の顔を覗き込もうとする。

「どうしましたっ、真っ青じゃないですかっ」
「…まさかお前」

 頭の中で数を数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。激しく鼓動を刻む心臓を誤魔化すため、わざ
とゆっくり呼吸をする。落ち着け。あれは男だ。あそこでぶら下がっているのは、おそらく首を
吊って自らの命を絶ったのは男性なんだ。思い出すな。記憶を甦らせるな。考えたって何にもな
らない。だから忘れろ。目の前の仕事に集中するんだ。成すべきことを成せ。

「おい、聞こえるか矢島」
「…大丈夫です」

 息を吐き出しながらそう答える。ゆっくりと膝を伸ばす。大丈夫だ。どんな現場だってホトケ
はいる。他のホトケと違いはない。ほんの少しばかり重力に逆らっているだけだ。矢島は無理や
り笑顔を浮かべてみせる。

「昨日の酒がまだ残っていただけですよ。仕事には差し支えありません」
「しかし…」
「問題ないです。行きましょう」

 矢島は二人を無視するように再び問題の部屋へと行った。エレベーターホールで立ち番をして
いる警官の好奇の視線を背中に感じつつ、開いたドアの中を覗く。男が天井から吊り下げられて
いる。矢島は自分に言い聞かせながらその死体を視線だけで検分する。自分が正気であることを
示さなければならない。この死体をよく見ろ。その特徴は何だ。

「…矢島」

 すぐ背後から上司の声がする。矢島は抑えた声で言った。

「足元に脚立。床には粗相の痕跡。死後硬直や死斑といった外見上の特徴はなし。頚部を詳しく
調べる必要はあるが、おそらく自殺と見られる」

 振り返り、再び笑みを浮かべてみせる。そうだ、自分は冷静さを失ってはいない。やらねばな
らないことはきっちりとやってみせる。
 上司は暫く矢島の目を見た後、やれやれといった様子で肩を竦めた。そして振り返り、戸惑っ
た様子で入り口に佇んでいた女性刑事に声をかけた。

「…春木君。説明の続きを頼む」
「あ、はあ。ですが」
「彼なら大丈夫だ。本人がそう言っているのだからな」
「…分かりました」

 春木と呼ばれた女性刑事は胡乱な目で矢島を見ながら室内へ足を踏み入れた。室内で調査を行
っていた鑑識課員は騒ぎに気付かぬふりをしながら作業を続けていた。春木は鑑識課員の邪魔に
ならないように不器用に足を動かしながら死体に接近していった。

「今、矢島刑事が指摘した通り、この男性の死体は自殺によるものだと思われます。もちろん、
正式な結論は司法解剖待ちですが、まず間違いないでしょう。それに亡くなってからさほど時間
は経過していないと思われます。おそらく1時間前プラスマイナス30分、午前11時から正午
までといったところです」

 春木は醒めた目で死体を見ながら淡々と話した。若い割に落ち着いたその口ぶりに矢島は少し
感心した。まだ大学を出たばかりのように見えるが、意外と肝が据わっているのだろう。いや、
あるいは単に見た目が若いだけで経験はかなりあるのか。春木がこの所轄署に転勤してきたのは
最近のことだ。転勤してきた際に年齢も聞いた筈だが、矢島の記憶からはすっぽりと抜け落ちて
いた。

「問題は、この部屋の中なんです」

 春木は矢島と上司に視線を戻してそう言った。指摘されるまでもなかった。男は玄関から真っ
直ぐ伸びる廊下の突き当たりにあるリビングで死んでいた。リビング内には家具も荷物も、何も
ない。横倒しになった脚立と宙に浮かぶ死体だけ。カーテンすらなく、フローリングの床に無慈
悲な夏の太陽が直接射し込んでいた。

「見ての通り、何もありません」
「他の部屋は」
「ほとんど同じです。寝室に万年床があるのと、別の部屋にメイドロボ用の充電機、マニュアル
などが見つかった程度ですか。家具も食器も本も家電製品も、衣服すら見当たりません。死体が
着用している服を除いて」
「…身元を調べるものは」

 矢島の問いに春木は向き直った。彼女の丸い目が矢島の表情を読むかのように鈍い光を放つ。

「死体のポケットの中に免許証がありました。真鍋義男。この部屋の住人の名前です。そして遺
書に残されていた署名とも一致しています。問題は遺書の内容なんです」
「何が書かれていたんですか」

 矢島は上司に問い掛けた。上司はそれに答えず、ベランダに通じるガラス戸を見ていた。ガラ
ス戸は大きく開かれ、太陽に燻られた外気を容赦なく屋内へ導いている。

「…遺書を見せてください」

 矢島の強い声に彼は振り返った。その表情に戸惑いが浮かぶ。矢島は黙って彼を見た。渋々と
いった様子で懐から白い封筒を取り出す。矢島は手袋を嵌めた手でそこから便箋を引っ張る。薄
っぺらい紙を蒸し暑い部屋の中で開いた。



『ご迷惑をおかけします。けど、私にはこうするしかありません。
 もう疲れました。早く妻のところへ行きたいんです。
 私たちが生きた証は残していきます。
 彼女が後のことをしてくれるでしょう。
 私が自分にかけた生命保険が役立ってくれると思います。
 私と妻の子供が無事に育つことを祈っております。
 親としての責任を放棄していながら、勝手な言い草ではありますが、
 どうか子供をよろしくお願いします』



 再び暴れ出しそうになる心臓を矢島は意志の力でねじ伏せた。いくつかの言葉が彼の視覚に突
き刺さり、脳髄の記憶領域が再び活性化しそうになる。止めろ。思い出すな。思い出すんじゃな
い。唇を噛み締める。
 矢島はできるだけゆっくりと便箋を折り畳み、封筒の中へ戻した。矢島を睨みその様子を窺っ
ていた上司に封筒を返す。彼はそれを懐に入れる間も矢島から視線を外さなかった。矢島はその
視線を正面からはね返す。上司は厳しい目のまま口を開いた。

「どう思う?」

 試している。今になって彼はおそらく、矢島をこのヤマから外すべきだったと思っているのに
違いない。矢島は口を開いた。声は震えていない。

「…自殺じゃ生命保険はおりません。この男はそのことを知らなかったんでしょう。それと遺書
の中にあった『彼女』というのが、このマンションの下でバラバラになっていたメイドロボだと
したら」
「目撃者の証言だと、あのメイドロボはこの部屋の持ち主のものらしい。いつもこの部屋に出入
りしていたそうだ」
「そしてあれは『メドー』だった。だとすると確かに奇妙ですね」

 矢島は上司の目を睨みながらそう言う。そう、あれは『メドー』だった。プレグロボと呼ぶ者
もいる。プレグナンス・メイドロボ。業界では後発だったメドー社がシェア拡大のために厚生省
と協力して作り出した、当時としては新型のメイドロボ。同業他社が同種のメイドロボを作るよ
うになり、世の中に広まった今でも、多くの人が最初にそのメイドロボを示す呼称として人口に
膾炙した『メドー』を使っている。妊娠可能なタイプのメイドロボ全体を指す言葉として。



 20世紀後半に大量生産された自然には存在しない各種の化合物は、世界中に撒き散らされ、
沈殿し、生物の体内に溜まり、ついに生命のライフサイクルに影響を及ぼすようになった。環境
ホルモンと呼ばれたその物質は、特に食物連鎖の上位に位置する生物にとっては致命的なものだ
った。
 環境ホルモンは人間の体内で働く各種のホルモンのバランスを崩した。特に、ホルモンが重要
な働きをする発生過程と成長過程で、そのダメージは決定的だった。環境ホルモンに晒された胎
児や子供の成長に異常が生じ、多くの子供たちが成長することなくこの世を去った。母親の体内
に蓄積された環境ホルモンが人間に復讐を始めた。
 事態を把握した政府はすぐに対応策の検討を始めた。特に子供に影響を与えるのが母親の身体
にある環境ホルモンであることが判明。厚生省が中心になって各種の対策が進められた。その中
で最も根本的な策として研究され、やがて開発にこぎつけたのが人工子宮だった。
 厚生省は人工子宮センターという組織を作り、そこで運用を始めた。どうしても子供ができな
い夫婦のために、両親の生殖細胞を試験管で受精させたうえで人工子宮に着床させ、そこで育て
るようにしたのだ。しかし、そうした方法に対する反感も出た。極めて個人的な体験である妊娠
と出産をすべて国に管理されることに対し、本能的な違和感を持つ人が多かったのだ。
 その状況に注目したのが、後発の弱小メイドロボメーカーだったメドー社だった。彼らは独特
の思考プログラムを開発して、より「生物的」な印象を持つメイドロボを作っていた。メドー社
はこのメイドロボの体内に人工子宮を埋め込んで販売することを厚生省に提案した。こうすれば
子供が欲しい者は自分が所有するメイドロボを使って自由に子供を作ることができる。厚生省の
外郭組織に出頭して各種の手続きを取る必要もない。
 異論もあった。そもそも人工子宮に反対という人は必ずいたし、それ以外にも移動するメイド
ロボの体内に人工子宮を入れることで胎児にとって危険が増えるとの意見もあった。頑丈な半地
下構造物である人工子宮センターなら事故もほとんどないだろうが、これがただのメイドロボだ
ったらそうはいかない。うっかりトラックに轢かれたらどうする。
 メドー社の解答は、彼らが既に開発していた思考プログラムだった。メドー社のプログラムは
進化論や行動生物学を元にしたもので、それはメイドロボの行動をより自然淘汰に対して適合的
にするのが売り物だったのだ。つまり、メイドロボはロボット三原則の範囲内ではあるが、他の
動物と同様に自分を守ることに積極的になる。そしてそれは同時に体内にある胎児を積極的に守
ることにもつながっている。
 厚生省は様々な検討を行った結果、メドー社の提案を受け入れた。プレグナンス・メイドロボ
が発売され、それは次第に広まって行った。メドー社が自社の思考プログラムについて低価格で
のライセンス生産を認めたこともあって他のメーカーも同タイプのメイドロボを作り始めた。や
がて『メドー』と呼ばれる新タイプのメイドロボがあちこちで当たり前のように見かけられるよ
うになった。

 そう、当たり前のように。だが、矢島はまだマンションから飛び降りたメイドロボなるものを
見たことはなかった。

「…主人から後を託されたはずのメイドロボが、なぜ地面に激突してしまったのか」

 矢島の声に春木が大きく頷く。

「そうなんです。メイドロボが自ら飛び降り自殺することはありません。あのメイドロボがもし
ここから飛び降りたなら、それは誰かにそうするよう命令されたか、誰かに無理やり突き落とさ
れたか、そのいずれかしかあり得ません。でもこの男性がメイドロボに飛び降りろと命令したは
ずはないんです」
「遺書の通り、あの『メドー』が自分の子供を宿していたならな」
「それはすぐ確認できるでしょう。もし命令したのでないなら、誰かがメイドロボをベランダか
ら突き落としたことになります。でも、そうするともっと変なんです」
「ああ、変だ。そうなると誰が突き落としたかが問題になる」
「おいおい。余り先走るな」

 熱心に会話を交わす矢島と春木を見て上司が口を挟んだ。

「この部屋で何が起きたか、我々にはまだほとんど分かっていないんだ。もっと目撃証言なり物
証なりを調べたうえで判断すべきだろう」
「そうでした。すみません」

 春木は舌を出して照れ笑いすると軽く頭を下げて謝った。子供っぽいその動作を見て、矢島は
また彼女の年齢が分からなくなった。いや、中年男に若い女性の年齢を推し量るのがそもそも無
理なのかもしれない。

「同じフロアの連中には話は聞いたのか」

 春木に向かって発せられた上司の問いに対する答えは背後から聞こえてきた。

「今、行ってきましたよ」

 入り口から木下刑事が流れる汗を拭いながら現れた。太った身体をもてあますように廊下を歩
いてくる。おそらく、春木らが部屋を開けようと苦闘している間に隣人の証言を集めていたのだ
ろう。彼は手帳を手に矢島らに近づき、いきなり報告を始めた。

「隣のおばはんの証言なんですがね、彼女、正午少し前にベランダで干し物をしてたらしいんで
すわ。んで、隣のベランダから妙な声が聞こえたそうで、振り向いた瞬間にあのメイドロボが長
い髪をなびかせて手すりから外へ落ちてったとか。思いっきり悲鳴上げたそうです」
「やはりこの部屋から落ちたんだな。屋上や他の部屋からではなく」

 上司が問い返す。木下は頷いた。

「ええ、間違いないそうです」
「聞こえてきた妙な声って何ですか」

 問い質した春木に向かい、木下は砕けた口調で応じた。

「うん、何でも『かっこう』とか言ってたらしい。誰の声かは分からんと。メイドロボの声かも
しれんし、他の誰かかもしれんし」
「かっこう、ですか」

 春木は妙な顔をした。矢島も思わず考え込む。かっこう。どういう意味だろうか。ベランダか
ら転落する寸前に言う言葉、あるいはメイドロボを突き落とす瞬間に言う言葉。考えてみたが上
手い解釈は思いつかなかった。見ると木下はシャツの袖で再び額を拭っている。律儀に着込んだ
長袖のワイシャツは全身、湿っていた。矢島もつられてハンカチを取り出す。暑い。

「別のおばはんの話によると、これは三軒隣なんですが、今朝方、この部屋の男とメイドロボが
部屋に入っていくのを見たそうです。時間は10時ごろ。これがまた噂好きの人でしてね、どう
もこの部屋の住人は失業してからこっち、毎朝メイドロボと一緒に朝食を食べに出かけ、10時
ごろに戻ってきてたそうです」
「ちょっと待て、失業だって」

 上司が口を挟んだ。彼は頷く。

「ええ。少し前に失業したそうです。職を探していた様子もないので、もしかしたら自ら職を辞
めたのかもしれませんね。仕事もしないでメイドロボを連れて歩いているもんだから、周囲から
は妙な目で見られていたそうです。いや、そのおばはんがそう言ってるだけですけど。何でも奥
さんを亡くしてから目に見えて落ち込んでいたとか」

 矢島の胸が痛む。上司はちらりと彼に視線をやり、すぐに木下に向き直った。

「遺書にも書いてあったが、被害者の女房は死んでたのか」
「病気だそうで。随分急に亡くなったと言ってましたね。まあ、それ以降は世話をしてくれるあ
のメイドロボと始終一緒にいたそうです。早いとこ別の女性を紹介してやれば良かった、という
のがおばはんの見解ですわ」
「亡くなったのはいつなんだ」
「3ヶ月ほど前です。えらく仲のいい夫婦だったそうで、旦那の嘆き様は尋常じゃなかったそう
ですな。そうそう、『メドー』を購入したのは奥さんが病に倒れてからだそうですよ」
「…で、他には」
「いえ、役に立つ証言はありません。午前10時以降にこの部屋の住人を見た者はいません。メ
イドロボもね。はっきりしているのは10時までこの住人は生きていたこと、そして正午少し前
にメイドロボがこの部屋から墜落したこと、この2点だけですか」

 上司は腕を組んで黙り込んだ。眉間に皺が寄る。黙って聞いていた春木が我慢しきれなくなっ
たのか、性急に口を開いた。

「隣室の人はメイドロボを突き落とした犯人を見たんですかっ」
「いんや。おばはんが見たのは手すりを越えて落ちていく『メドー』だけだと。もっとも気付か
なかっただけかもしれんけどな。落ちていくロボしか見てなかったそうだから」
「じゃあ、誰がロボを落としたのかは」
「ああ、分からんそうだ」

 矢島は踵を返してベランダへ向かった。開きっぱなしのガラス戸を通り、照りつける太陽の下
へ歩み出す。ベランダは小さく、幅は一間ほどしかなかった。周囲を見渡すと上下左右に同じよ
うなベランダが並んでいる。部屋毎に作りつけられたベランダは、通常の集合住宅によくある隣
室と繋がったタイプではなかった。

「…気付きましたか、矢島さん」

 すぐ後ろから春木の声がした。振り返ると彼女は矢島を熱心な表情で見詰めている。矢島はゆ
っくりと頷いた。

「ああ。このベランダでは隣室から移動してくることはできない。隣のベランダとは2メートル
以上の距離が開いているし、その間には何の手がかりもないしな。つまり、もしメイドロボを突
き落とした犯人がいたとして、その犯人はベランダからは逃げられなかったということになる」
「そうです。つまり犯人はベランダから『メドー』を突き落とした後、部屋の中に戻ってそして
入り口から逃げた筈なんです。なのに」
「なのに…警察が駆けつけた時にその入り口には暗証ロックとチェーンがかかっていた」

 春木が何度も首を上下に振った。そして興奮した調子で声を上げた。

「そうです。これって、密室ですよね」




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