ハーメルンの笛吹き男(8) 投稿者:R/D 投稿日:3月6日(月)23時29分
「ヨハネとパウロの日に、ハーメルン市内で130人の者がカルワリオ山の方向へ向かい、引率
者のもとで多くの危険を冒してコッペンまで連れてゆかれ、そこで消え失せた」
                 ――ハーメルンのマルクト教会にあったガラス絵の説明文



 昼下がりの喫茶店。先ほどまで店内を占領していたサラリーマンやOLたちは、仕事の続きを
始めるために去って行った。浩之はぬるくなったコーヒーに口をつけ、襟元をなでる。昨晩見た
時には赤い跡が残っていたが、今はどうなのだろう。自分では確認できないことを気にして浩之
は再び首筋に手を伸ばした。
 窓の外をメイドロボが歩き過ぎる。浩之は首に手をあてた格好のまま固まった。そのメイドロ
ボは視線を前方に据え、着実な足取りで歩いている。メイドロボの目に浩之は映っていない。メ
イドロボが見るのは持ち主だけ。それ以外の存在は、すべてセンサーを使って回避すべき障害物
でしかない。買い物籠を抱えたメイドロボが曲がり角の向こうまで消えるのを、浩之は黙って見
送る。待ち人はまだ来ない。
 コーヒーのお代わりを注文し、それにミルクを入れたところで入り口が開いた。扉を引き開け
た人物は自分の背後にいる人影に何か話しかけている。主婦らしいその人影は軽く頭を下げ、そ
の場を立ち去る。喫茶店の入り口を通して、その小さな顔が一瞬だけ浩之の視界を通り過ぎる。
デジャヴ。

「…ごめんなさい、お待たせしちゃって」

 賑やかに挨拶をしながら彼のテーブルに近づいてきたのは理緒だった。跳ねあがった前髪が彼
女の動きに合わせて揺れる。先ほど、入り口で主婦らしき女性と話していたのは彼女だ。浩之は
問いかけた。

「今の人は?」
「え?」
「ほら、入り口で挨拶していただろ」
「ああ」

 理緒は満面に笑みを浮かべて頷く。

「同じとこでバイトしているの。ちょうど仕事が終わったところだからここまで一緒に歩いてき
たのよ」
「仲がいいんだね」
「というより優しいのね、あの人。苦労人なんだけどそれを感じさせないし、皆に気を遣ってい
るからついそれに甘えることも多くって」

 理緒の言葉に浩之は微かに笑ってみせる。注文したレモンティーに砂糖を入れながら理緒は言
葉を続ける。

「…そういえばこの間のメイドロボは?」
「そう、それを話しておいた方がいいと思ってね」
「え?」
「色々なことがあったんだよ。あれから後、理緒ちゃんと再会したあの時から後にね」
「ふうん」
「覚えているかな、あの時に『ハーメルンの笛吹き男』の話をしたのを」

 浩之の問いに理緒は曖昧に頷く。浩之は舌で唇を湿らせる。

「…あの後、オレたちは出会ったんだ。本物の『笛吹き男』に」
「…………」

 浩之は全てを話した。マルチの拉致から始まったあの4日間のことを。メイドロボを誘拐して
いた笛吹き男は浩之たちに追い詰められ、最後は綾香の一撃によってあっさり倒された。彼らは
犯人を警察に突き出し、警察は男が行った犯罪をすべて調べた。窃盗と器物破損。それが男の主
な罪状だった。

「…要するに人格的に問題があって、どっかのメイドロボメーカーを馘首にされたヤツが逆恨み
でやったらしいな。自分こそメイドロボメーカーに必要な人材である。そう見せつけたかったか
らあんなことをしたらしい。勿論、それで金儲けもしようと思ってたんだろうけどね」
「それで、藤田君のメイドロボは助かったの」
「ああ、マルチは助かった。何でも自己防衛機能が働いたんだそうだ。理緒ちゃんも気づいてい
ると思うけど、あのマルチは他のメイドロボとは違う。自我を持っている。でも、犯人に捕まっ
ている間、マルチはその自我を偽りの人格の下に隠していたんだそうだ。典型的なメイドロボ用
の簡易AIに搭載されている擬似人格と同じものの下にね。“彼女”はそうやってオレ以外の人
間から自分自身を守ったんだよ」
「ふうん」
「今はメンテ中だ。来栖川電工の人によると時間さえかければ本当の自我をまた取り出すことが
できるそうだよ。またあのマルチが戻ってくるんだ」

 浩之はにこやかに説明する。理緒はその顔を見ながら呟くように話す。

「…大変だったんだね」
「まあな。オレ一人じゃ無理だったかもしれない。雅史や綾香がいてくれたからだろうな。とに
かくこれで悪い『笛吹き男』は退治されました、めでたしめでたしってわけさ」
「犯人はどうなったの」
「当然、警察で取り調べ中さ。拉致したメイドロボの製造番号を削って故買屋に売りさばいてい
たんだから言い訳はきかない。けどね、実はこの笛吹き男、結構間抜けなヤツだったらしい」
「え?」
「メイドロボを売りさばけばいい金になる。こいつはそう言って故買屋を巻き込んだらしいんだ
が、途中で故買屋に怒られたそうだよ」
「なぜかしら」
「全然金にならない。故買屋はそう言って笛吹き男を詰ったんだと。そりゃそうだ。これだけ競
争が激化して安売りが行われている時に、身元の怪しい故買品に高い金をつける物好きなんてい
やしないよ。どうもメーカーのバーゲン品よりさらに安い値段で売りさばかれることになったら
しいね」
「…………」
「バカな話さ。苦労してメイドロボをおびき寄せる機械を開発し、履歴書も誤魔化して万全の準
備を整えたつもりが骨折り損のくたびれ儲け。あいつがカモフラージュのためにやっていたスー
パーの駐車場係員の方がよっぽど割のいい仕事だったんじゃないかな。最後はそいつもかなり焦
ったみたいで、随分と沢山のメイドロボを一気に拉致しようとしていたらしいな」
「そう、ね。バカみたいね」
「いや本当。近来まれに見る間抜けな怪盗だな」
「その間抜けな怪盗が捕まったせいで、あんな思いをする人がいるのね」
「へ?」

 理緒は浩之を正面から見据えた。浩之の顔に浮かんだ笑みが凍りつく。

「さっき、喫茶店の入り口で別れた人のこと見てたよね」
「あ、ああ」
「あの人、これから家に戻って買ったばかりのメイドロボを返却しなくちゃいけないのよ」
「え?」
「とても安く購入できるから、だから買ったのに、それが故買品だってことが判ったのよ。バカ
な怪盗が捨て値でさばいた品だってことが」
「まさか」
「本当よ。あの人笑ってた。いつもみたいに。こんなに安く買える筈がないと思ったらやっぱり
そうだった。これはきっと神様が私を止めようとしたんだ。家事くらい自分でやれと言ってるん
だって」
「そ、そう」
「本当は買うつもりなかったんだって。どんなに安くても、あれはやっぱり玩具だから。あんな
ものがなくても困らないから。そう言っていたあの人が、なぜメイドロボを買ったか分かる?」

 理緒の視線にたじろいだように浩之は俯いた。店内を流れる有線の音楽がかすかに二人の耳元
を通りすぎる。

「子供のため」
「…何だって」
「あの人、女手一つで子供を育てているの。子供が学校でバカにされるって。メイドロボも買え
ない貧乏人って。子供が可哀想だったから、だから必要ないと思ったメイドロボでも買うつもり
になったんだって」

 浩之の脳裏に忘れていた光景が浮かぶ。古いアパートに運び込まれるメイドロボと、それを見
て嬉しそうにはしゃぐ子供。子供を嗜めていたあの母親の顔が、喫茶店の入り口から瞬時覗いた
小さな顔と重なる。運転手が運び込もうとしていたダンボール箱には何のロゴも入っていなかっ
た。大きく書かれている筈のメイドロボメーカーの名前すら…。

「子供に理由を説明しなくちゃいけない、それが辛いって。あんなにはしゃいでいた子供が落胆
する顔をみなくちゃいけないのが」
「…………」
「子供がまた学校で苛められるのが嫌だって、そう話していたのよ、あの人。クラスのほとんど
の家にはメイドロボがあるのに、お前のとこだけメイドロボがないって。貧しいのはその子供の
せいじゃないのに。メイドロボを持たない数少ない家の子供に、なりたくてなった訳じゃないの
に」
「…その」
「藤田君、前に会った時に私が言ったこと、覚えている?」
「え?」
「『ハーメルンの笛吹き男』という伝説には、悲しい歴史があるって」
「ああ」
「あの話には、元々『笛吹き男』は登場しなかったの。最初に知られていたのは、130人の子
供がいきなり行方不明になったという事実だけ。誰もその理由は知らなかった。なのになぜ、笛
吹き男が子供を連れていったことになったんだと思う?」
「…………」
「中世の笛吹き男は、人々から何の言われもなく差別されていた賤民なのよ。彼らはあちこちを
旅しながら生活していた。でも、中世の人々の大半は土地に縛り付けられて暮らしていた。土地
に腰を据え、一生動かずに暮らす人から見たら、生涯旅を続ける人々は少数派の特殊な人たち。
そして中世の人々はその少数の人たちを差別し、悪行の象徴としてあらゆる不幸な事件の責任を
転嫁していたのよ」
「…理緒ちゃん」
「いい。人々が他の人々を差別するから、だから笛吹き男が現れたの。笛吹き男が子供たちを連
れ去ったんじゃない。子供たちを連れ去った悪魔を探さずに入られなかった人々が笛吹き男を呼
び出したのよ」

 理緒は黙った。浩之は俯いたまま言った。

「…理緒ちゃん」
「…………」
「オレに、どうしろって言うんだ?」
「…………」
「犯人を見逃せば良かったのかい。故買品のメイドロボが安く出回るのを手伝った方がその子供
のためになると? マルチが壊されるのを、そのまま放っておけば良かったのかっ」
「…分かんない。分かんないわ」

 理緒はため息をつき、席を立つ。

「…けど、一つだけ分かることがある」
「…………」
「藤田君と私は違うってことが。私はメイドロボのために命がけになんかなれない。それがどん
なに特別なものでも、メイドロボはやっぱりただの道具、ただの玩具だもの。貴方みたいに必死
になって追いかけ回すなんてことは…」

 浩之は俯いたまま動かない。マルチが攫われた晩、あかりが見せた諦めの表情が彼の心に深く
沈んで行く。理緒が呟く言葉が、あかりの最後の言葉と重なる。

「…さよなら」

 そうして二人は別れた。



                            ハーメルンの笛吹き男 終