ハーメルンの笛吹き男(7) 投稿者:R/D 投稿日:3月5日(日)23時54分
「1284年、この年は男と女が消え失せた年であり、130人の愛すべきハーメルンの子供た
ちが天意によってか奪い去られた『ヨハネとパウロの日』のあの年である。人はいう、カルワリ
オが子供らを皆生きたまま呑み込んだと。キリストよ、このような不幸にみまわれないように罪
人を守り給え。
 1284年、『ヨハネとパウロの日』にカルワリオ山に入っていった130人の子供たちが行
方不明になった」
                        ――ハーメルンのミサ書に記された脚韻詩



 男は家を出る。やり方を変える必要がある。今日からは今までのようにはいかない。男は決意
を新たにする。



 開店前にスーパーへ駆けつけた浩之はすぐに駐車場整理の係員がいる詰め所へ走った。だが、
そこにいた男の返答は彼の期待を挫くものだった。

「ああ、あいつは何日か前に辞めたよ」

 浩之の膝から力が抜けた。目の前でへたり込んだ浩之を見て係員が目を丸くする。浩之の隣に
立つ雅史はめげずに言葉を繋いだ。

「じゃあ、その人の履歴書とかありませんか」
「履歴書? それはここに聞かれてもなあ」
「どこなら分かりますか」

 係員はスーパーの裏手にある従業員入り口を指し示した。そこから中に入ればそういった事務
を担当する者がいるという。礼もそこそこに浩之と雅史はそちらへ走り出す。
 中から出てきた事務員は二人を胡散臭そうに見た。浩之は事情を説明し、脅し、すかし、懇願
し、土下座までしてようやく事務員立会いのもとで履歴書を見せてもらえることになった。履歴
書に視線を走らせた雅史は住所を書きとめると、何度も事務員に感謝の気持ちを述べてその場を
去った。

「そんなに遠くない。これから行こう」
「いいのか、雅史。お前たしか今日も練習が」
「昨日、あんなとこで置き去りくらったお蔭で風邪ひいたよ。今日は休み」

 二人は最寄の駅に駆け込み、やってきた電車に飛び乗った。流れ去る車窓の風景が二人を取り
囲む。浩之は拳を握ったり放したりしながら吊り広告を睨む。席に座った雅史は忙しく足を組替
えながら通りすぎる駅を数える。
 目的の駅に辿り着き、二人は改札を出た。駅前にある派出所に向かい、雅史が詳しい道筋を確
認する。外で待つ浩之はすぐにでも駆け出せるよう周囲に視線を配る。派出所から出てきた雅史
の指差す方向に、浩之は走る。

「…ここだ」

 雅史が示したのは古い公団住宅だった。年季の入ったコンクリートの壁には縦横に細かい皹が
通り、入り口付近にはクリーム色の郵便受けが冷たく横たわっている。浩之を前にして二人は階
段を駆け上がる。目的の部屋に辿り着いた彼らは、呼吸を整え、呼び鈴を押した。

「へ? そんな人は知りませんけどなあ」

 出てきたのは耳の遠い老女だった。スーパーで見かけた若い男の人相風体を説明しても、老女
は首を傾げるばかりだった。我慢しきれなくなった浩之がマルチの拉致から始まる長い話を聞か
せると、老女は目を丸くして呆然と立ち尽くしていた。その顔は混じり気なしの驚きに満たされ
ていた。何かを隠している様子はない。彼女があの男と関係ないことはほぼ確実だった。
 念の為、二人は向かいの部屋を始め周辺の部屋に次々と当たってみた。結果、あの老女はもう
20年以上もこの団地のあの部屋に住んでいることが判明した。昔は亭主と一緒だったらしいが
一人暮しになってもう長い。老女の親戚や知り合いに、あの若い男に相当する人物がいないこと
は隣人たちが口をそろえて保証した。

 要するに、あの男に繋がる手がかりはここで途絶えた。

「つまり、あの履歴書自体が嘘だったんだな」
「あのスーパーの採用担当者の目は節穴かよっ。贋物の履歴書をあっさり信じるんじゃねえっ」

 荒れる浩之の隣で、雅史は暗澹たる気持ちに襲われていた。太陽は頭上を通りすぎ、次第に傾
きを増そうとしている。

「…もう、4日目なんだぞ」

 力ない浩之の言葉が流れる。二人は、この時間が止まったような静かな住宅地の真中で行き場
を見失って竦んでいた。



 まだだ。まだ足りない。男は血走った目を慌しく動かす。もっとだ。もっと。



 けたたましい音が響く。道端に力尽きたように腰を下ろしていた浩之が、億劫そうに懐に手を
差し入れた。賑やかに騒ぐ携帯電話を取りだし、耳に当てる。

「…はい」

 電話の向こうからきんきんと声が響いてくるのを、雅史はぼんやりと聞いていた。ここに来て
昨晩の苦行が効いてきたらしい。寒い中、寂しい路上でひたすら浩之を待ち続けたせいで、明ら
かに体調がおかしい。朦朧とした頭のまま、雅史は浩之を見下ろす。俯いていた筈の浩之の顔が
上がっている。正面を睨む彼の目がらんらんと光を湛える。

「ああ…分かった、すぐ行く」

 携帯電話を切った浩之は勢い良く立ちあがり、雅史の肩を掴んだ。

「見つかるかもしれんっ」
「え?」
「マルチだ。今、綾香から連絡があった。すぐこっちに来る。拉致されたメイドロボがどこにい
るか、調べることができるそうだ」
「し、らべるって。どうやって」
「んなこたどうでもいい。行くぞっ」
「へ? どこへ」
「こっちから綾香に近づく」

 そういうと浩之は走り出した。慌てて雅史は後を追う。次第に長く伸びる影を追うように浩之
は駆けて行く。墓石のような集合住宅が並んだ高台を通り抜け、眼下に見えるだだっ広く横たわ
る市街地へ。下り坂を浩之は羽が生えたように走り、その後を重荷を担いだように息を切らせた
雅史が続く。
 もう4日目。浩之はそう言っていた。自分が呼び出されたのが確かマルチが行方不明になった
丸1日後だから、それからでも3日近く経過しているのか。いったい、拉致されたメイドロボに
とって4日というのは長いのだろうか、それとも短いのか。
 なぜその男はメイドロボを拉致するのだろう。その男に会ったのは浩之だけだ。自分も綾香も
直接顔を合わせてはいない。だから、そいつがどんな人間なのかもよく分からない。何を望んで
メイドロボを盗んでいるのか。そんなことをする意味は。
 雅史の考えは一向にまとまらない。頭を覆う霧のような感覚が思考を妨げる。意のままに動か
ない身体が余計な負荷を脳にかけているかのようだ。ずっと前に走って行った浩之の姿が小さく
見える。浩之は手を振っている。雅史は足を必死に動かす。浩之の声が届く。

「早くこいっ」
「急いで、佐藤君っ」

 この女は誰だろう。どうして女の声がするのだろう。そう思いながら雅史はどうにか浩之のと
ころまで辿り着いた。髪の長い女が雅史の顔を覗き込む。

「…車に乗って。中で休んでいていいわよ」
「うん」

 雅史は素直に頷き、後部座席に乗り込んだ。浩之と女の会話が遠く近く聞こえる。

「いったいどうやったんだ」
「囮作戦よ」
「何っ」
「それがちょっと予想外でね。あのスーパーの辺りに囮を送り込むつもりだったんだけど、そこ
まで行くより前に笛吹き男に捕まったみたい」
「ああ、犯人はもうあそこにはいない筈だ」
「なんで知っているの」

 浩之は簡単にこれまでのことを説明する。綾香は軽く頷くと口元に妖艶な笑みを浮かべる。

「…どうやらツイてるみたいね、あたしたち」
「何でだ?」
「笛吹き男はあのスーパーから逃げ出したんでしょ? そりゃ、あれだけメイドロボを拉致して
いればいずれ怪しまれるのは分かっていることだしね。おそらく一定期間あの場所で仕事をした
ら、いずれ河岸を変えるつもりだったんじゃないかしら」
「かもしれないな」
「あたしが用意した囮は、ウチで使っているセリオタイプのメイドロボよ。これをあのスーパー
に送り込んでわざと笛吹き男に捕まえさせるつもりだったの。でも笛吹き男はもう場所を変えて
いた。普通ならあたしの作戦も空振りする筈よね」
「空振りしたのかっ」
「捕まったって言ってるでしょ。笛吹き男は囮に引っかかった。これをツイていると言わずして
何と言うの」
「…いったいどこでその囮は捕まったんだ」
「動きがおかしくなったのは、スーパーまで移動する途中。乗り込むはずだった鉄道の駅前でい
きなり変な行動を取り始めたわ。まあ、笛吹き男の狙いとしては分かりやすい場所ね。スーパー
と同じように大勢のメイドロボが動き回っているところだし、その中で数体のメイドロボが変な
行動を見せても目立たないってことでしょ」
「でも、どうやってセリオタイプの動きを追っかけてんだよ」
「発信機よ」
「へ?」
「セリオタイプは元々サテライトサービス機能を持っているの。そのついでに所在地発信機能も
ね。自分のいる場所を絶えず発信して持ち主が追尾できるようになってる。でも、長瀬さんに聞
いたら拉致されたセリオタイプの発信機能は、どうやら笛吹き男によってキャンセルされている
らしいわ」
「それじゃ追いかけられないじゃないか」
「だから発信機を持たせたって言ってるでしょ。PHSをね」
「あ…」

 綾香は浩之を横目で見て、にんまりと笑った。

「長瀬さんから話は聞いてるわ。犯人は『笛』を吹いてメイドロボを拉致しているけど、その際
にほとんどメイドロボに近づかないようにしているって。セリオタイプが元々持っている発信機
能は潰しても、服の中に隠している発信機能付きPHSには気づいてないでしょうね」



 男は足を引きずるように隠れ家へ向かう。自分の知識を総動員して作り上げた装置。それを使
ってメイドロボを拉致し、売りさばく計画は思わぬ障害で頓挫しようとしていた。電話の向こう
で怒鳴っていた男の声が頭の中で鳴り響く。そんなことはどうでもいい。約束を守れ。それとも
俺を裏切るつもりか。
 かつて男は信じていたものに裏切られた。そう思った。彼が心血を注いで開発を行ったメイド
ロボ。人間のパートナーになることを期待して作り上げた現代のピュグマリオン。だが、彼がい
た会社は、彼が所属した業界はそれをただの道具にしようとした。
 センサーの装備が義務付けられた。認証コードと伴にコマンドを送り込めば、まるでマリオネ
ットのように操ることができるようになった。出来あがったものは木偶人形。男が望んだ存在と
はまるで異なるものだった。
 男は業界から去った。男は思っていた。あんなものは人々には受け入れられない。人間が求め
ているのはただの操り人形なんかじゃない。誰も買わない商品の在庫が溜まったところで、会社
の連中もようやく自分の警告を思い出すだろう。そうすれば戻ってやる。今一度、自分の力が必
要とされる時が必ず来る。

 予想は外れた。

 人々は争ってメイドロボを購入した。操り人形に過ぎない、よくできたマリオネットに見境い
なしに金をつぎ込んだ。男は気づいた。誰も己のパートナーになる存在など求めていなかったこ
とに。消費者が欲したのは、ただの高価な玩具だったと。
 男の心に暗い情熱が湧きあがったのはその時からだった。人々に教えなければならない。メイ
ドロボのあるべき姿を、その本質を。誰もそれに気づかないのならば、自分が人々を導かなけれ
ば。ハーメルンの笛吹き男と言われようと、彼らを連れて行かねばならない。メイドロボが人間
にとってどんな意味を持つのか、それを理解させるのだ。
 あいつと接触したのはそのための方便だった。連れ去ったメイドロボを処分するために手を結
んだ。だが、目論みは外れた。電話の向こうから男を罵る声が聞こえた。気高い理想のために活
動を始めた男は、現実によって追い詰められようとしていた。
 現実は資金難という形を取って現れた。必要な装置を作るために男は多額の資金を投入してい
た。会社を辞めてかなり経過しており、退職金も底をついている。懐が厳しかった。貧困という
名の恐怖に追い込まれ、男は理想を棄てた。主義も理念も、自分が思い描いたユートピアへの夢
も、男を助けることはできなかった。今や男は、ただ金儲けのためだけに笛を吹いている。
 暗い表情を隠そうともせず、男は歩く。男の立てた計画が、男の無知によって瓦解するときが
迫っていた。



 カーナビを睨み、ゆっくりと車を進める。日は暮れようとしている。丸4日。浩之は掌に滲む
汗をズボンにこすりつけて落とす。綾香が車を止める。後部座席の雅史が低くうめいた。

「…いい、浩之」
「ああ」

 綾香は背後に振り向くと、後部座席に横たわる雅史にしばらく休んでなさいと声をかけ、滑る
ように車外に出た。浩之も外に出る。町外れの倉庫街。動き出した綾香の後ろについていくよう
に歩く。長い影が路上の大半を暗く覆っている。
 綾香は周囲に視線をやりながら、思ったより無造作に足を進める。浩之ははやる気持ちを必死
に押さえながら彼女についていく。綾香が見ない方向にできるだけ視線を配る。視界の隅を夕日
に赤く染まった階段がよぎる。

 階段を上りつつある影が止まった。浩之の視線がその影を見る。若い男だった。男の顔を確認
した瞬間、男も浩之の正体に気づいた。浩之は走り出す。男は階段を駆け登る。鉄製の階段にた
どり着いた浩之が男を追う。上の方で扉を閉める音が響く。浩之は必死の形相で上る。
 男が閉めた扉の前に立つ。ノブを掴むと一気に引き開ける。浩之がいた空間を何かがよぎる。
扉を開ける瞬間、手すりに張りつくようにして身体をかわしたのは正解だった。男の持った鉄パ
イプが鉄製の踊り場を叩き、激しい音を立てる。浩之はすぐに頭を下げて突っ込む。
 男の身体と浩之の身体が絡みながら屋内へなだれ込む。とにかく男の身体を掴んだ浩之は何と
か自分が上になろうともがく。男は両手両足を激しく動かし、浩之の意図を遮ろうとする。二人
の身体が床の上を転がる。
 頭部に衝撃。床に放り出されていた何かがぶつかったらしい。一瞬、痛みに手を緩めたのが失
敗だった。男はいきなり飛びあがり、あっという間に浩之の上に馬乗りになった。男の手が浩之
の首筋で動く。浩之はそれを邪魔しようとする。激しい呼吸音が耳元で鳴る。心臓が恐るべき勢
いで血流を送り出す。視界の隅に夕日に照らされた壁が映る。壁には人形が寄りかかっている。
いや、人形ではなくメイドロボが。
 男の手が喉に潜り込む。気道が絞まる。浩之は男の手首を掴み、その意図を挫こうとする。男
は諦めることなく指に力を入れる。目の前が次第に赤く染まってくる。夕日の赤、誰かの赤い髪
の毛。動かないはずの人形が動く。その虚ろな目が浩之を見る。口が動く。

『ご主人様』

 鈍い音がした。首を覆っていた力があっという間に消えて行った。新鮮な空気がいきなり肺に
なだれ込み、浩之は思わずせき込んだ。必死の思いで体勢を立て直そうとする。目の前にあの若
い男が目を剥いて倒れている。気を失って。浩之は顔を上げた。そこには腰に手を当てた綾香が
立っていた。

「…相変わらず弱いわね、藤田君」

 綾香は口元を吊り上げ、笑った。