ハーメルンの笛吹き男(6) 投稿者:R/D 投稿日:3月4日(土)23時51分
「まったく不思議な奇蹟を伝えよう。それはミンデン司教区内のハーメルン市で主の年1284
年の、まさに『ヨハネとパウロの日』に起こった出来事である。30歳位とみられる若い男が橋
を渡り、ヴェーゼルフォルテから町に入って来た。この男は極めて上等の服を着、美しかったの
で皆感嘆したものである。男は奇妙な形の銀の笛をもっていた町中に吹きならした。するとその
笛の音を聞いた子供たちその数およそ130人はすべて男に従って、東門を通ってカルワリオあ
るいは処刑場のあたりまで行き、そこで姿を消してしまった。子供らが何処へ行ったか、一人で
も残っているのか誰も知るすべがなかった。子供らの親たちは町から町へと走って(子供たちを
探し求めたが)何も見つからなかった。
 そしてひとつの声がラマで聞こえ(マタイ伝2ノ18)、母親たちは皆息子を思って泣いた。
主の年から1年、2年、またある記念ののちの1年、2年という風に年月が数えられるように、
ハーメルンでは子供たちが失踪したときから1年、2年、3年というように年月を数えている。
私はこのことを一冊の古い書物でみた。院長ヨハンネス・デ・リューデ氏の母は子供たちが出て
ゆくのを目撃した」
                               ――リューネブルク手書本



 電話が鳴る。満足した表情で男は受話器を取る。しばらく静かに耳を傾けていたその顔が、唐
突に驚愕に歪む。電話線の向こうから聞こえる声に、男の表情は暗く沈んでいく。



 浩之は足音を殺すようにしながら塀沿いの道を歩いている。その後ろに続く雅史も息を潜めて
いる。来栖川電工HM研究所の敷地を取り囲む塀の外は、すでに夜闇の中に暗く沈んでいた。浩
之は正門の方角を窺う。詰め所から漏れる光を見つめ、浩之は小さく頷く。

「…浩之」
「声が大きい」

 雅史にそう囁くと浩之は正門に背中を向ける。しばらく進むと曲がり角が現れる。90度に折
れ曲がった塀に添って動き、正門から死角になる場所へ辿り着く。周囲に視線を配る。向かい側
は別の企業の工場の敷地のようだ。倉庫らしき建物の屋根が夜の中に黒々と聳える。もう一度周
囲を見まわす。人影はない。

「…手伝ってくれ、雅史」
「え? いいけど」
「恩に着る」

 そう言うと浩之は雅史の肩を掴み下に押し下げた。驚いた雅史が腰を落とす。

「肩車しろ」

 浩之はそう告げて雅史の両肩に足を乗せた。ようやく得心が行ったらしい雅史が塀に手をつけ
てゆっくりと身体を持ち上げる。浩之の身体が塀の傍で次第に上に上がって行く。雅史が完全に
立ち上がったとき、浩之の両手は十分に塀の上に届いていた。彼はそのまま懸垂の要領で身体を
持ち上げ、研究所の敷地内へと身を躍らせる。
 広大な敷地内には剥き出しの地面があった。浩之はその上をゆっくりと歩きながら建物のある
方角へと向かう。建物そのものはいくつもあり、どこを目的とすればいいのかは分からない。取
りあえず彼は最も近い建造物に目標を定め、ゆっくりと足を運ぶ。
 建物はどれもまだ明かりを灯している。必要以上に近づけば見つかる可能性が高い。しかし、
近づかなければ目的の人物に会うこともできない。浩之は悩みながら建物の様子を窺う。堅牢な
構造物の周囲は異様な沈黙に閉ざされ、空気までも圧縮されているかのようだった。浩之はその
中を泳ぐように動く。息苦しい。
 取りあえず暗い窓に近づき、覗き込んでみる。もちろん何も見えない。遠くの明かりを反射し
た窓ガラスは無意味に浩之の顔を映す。浩之は少しずつ建物の周囲を回り始める。最初の角が近
づき、そこから浩之は片目だけ突き出す。

「……!」

 人影があった。建物と建物に挟まれたその狭い空間には、複数の影が蠢いていた。浩之は物音
をたてないように注意しながら腰を落とす。そして再び低い位置から顔を出した。
 やはりいた。人影が複数。それが列をなしていた。彼らは動いている。ゆっくりと、どこか不
器用に。地面を踏みしめる音に混じって、かすかなモーターの駆動音が響く。メイドロボだ。メ
イドロボが縦列で歩いている。
 彼方から届く微かな光の中、メイドロボたちはゆっくりと進んでいる。それはまるで夢の中の
光景。虚ろな瞳に闇を映したメイドロボたちは、誰かに付き従うかのように盲目的な素直さで足
を交互に動かす。右、左、右、左。センサーが動き、髪の毛が揺れる。
 ロボたちの先頭には白衣の男がいる。男は何か機械のようなものを両手に持ち、その機械とメ
イドロボたちに交互に視線をやりながら歩く。地面を踏む男の革靴が僅かな灯りに浮かぶ。男が
その狭い場所から出てくるその瞬間、浩之は立ちあがると男の前に飛び出す。

「うわっ」
「…どういうことだよ、これは」

 情けない悲鳴を上げた男を睨み、浩之は低い声で問い質す。仰け反った男の背中にメイドロボ
がぶつかり、動きを止める。男の眼鏡が光を反射し、長い顔を一瞬だけ浮かび上がらせる。男は
眼鏡の向こうから浩之の顔を確認し、淡々と話した。

「おや、これは藤田君。こんなとこで何してるんですか」
「聞きたいのはこっちだ。これはどういうことだ?」
「はあ。これと言うと」
「これだこれ、あんたの後ろについているそのメイドロボたちだよっ」

 浩之は長瀬の背後に縦隊を作っているメイドロボたちを指差した。長瀬が振りかえり、ずらり
と並んだメイドロボを見る。

「…これが何か?」
「何かじゃないっ。もっと早く気づくべきだったよ。あんたが『笛吹き男』だったんだな」
「はあ?」
「白衣を着た背の高い男。そしてメイドロボを自在に操るだけの知識を持っているヤツ。あんた
はその条件にぴったりだ」
「…あのー」
「現に今、そうやってメイドロボを連れて歩いているだろうがっ。そのメイドロボはどこから連
れてきたんだ? 何のためにメイドロボをそんな変なやり方で回収している? マルチはどこに
いるんだ?」

 畳みかけるように声を浴びせる浩之に冷たい視線を向けたまま、長瀬は沈黙している。浩之は
一段と大きな声で叫んだ。

「答えろっ」
「…分かりました、お答えしましょう。まずこのメイドロボですが、これは当来栖川電工HM研
究所で所有しているものです。ロボット実験や開発を目的とした研究所に複数のメイドロボがい
るのは当然でしょう」
「…なに?」
「次に私が今やっていることですが、これは実験の一つでしてね」
「実験だと」
「ええ。『笛吹き男』がどのようにしてメイドロボを拉致したのか、それを実証してみようと思
ったんですよ」
「何だってええええっ」

 浩之の大声に合わせるかのように、周囲からわらわらと警備員が溢れ出してきた。



 男は唇を噛む。予想外の事態だ。いや、単に見通しが甘かっただけか。いずれにせよ、対応策
が必要になる。男は宙を睨みながら考える。



 浩之は長瀬から手渡されたものを見つめた。ここは長瀬が使っている研究室らしい。本や様々
な工具類が乱雑に散らばった室内でスプリングにガタが来たソファに腰掛け、浩之は長瀬の顔を
見た。

「どうです」

 手の中には大きめのリモコンにアンテナがついたような機械がある。長瀬が浩之に手渡し、こ
れを見ろと言ったのだ。浩之は仕方なく答える。

「何ですかこりゃ。携帯電話ですか」
「いやいや。今時こんなでかい携帯電話はありません」
「それじゃあ」
「これが、笛吹き男の笛ですよ」

 長瀬は淡々と言葉を繋ぐ。浩之は手の中のものを見る。何の変哲もない小さな機械。浩之は再
び顔を上げて長瀬を見る。長瀬の口元が歪み、笑みを形作る。

「…どういう意味なんですか」
「藤田君。君はあの、メイドロボの耳についているものが何か、知ってますね」
「ええ。ありゃセンサーでしょ」
「その通り。基本的には障害物などとの距離を調べるためにあるセンサーです。ただ、それだけ
の理由であんなでかいものを着けているわけではないんですよ」
「人間と見分けやすくするためだと」
「それもあるんですが、あれは本来はオフィスや工場で仕事する際に利用するものでして」
「え?」
「オフィスや工場では特に効率性が重要になりますね。通常、メイドロボは人間の言語や表情と
いった情報をパターン認識したうえで処理し、必要と思われる行動を取るようにプログラムされ
ています。ですが、工場などで活動する場合は、いちいち人間の指示を受けてそうした処理をし
ていたのでは時間がかかりすぎます。人間の言葉というものは、あまりに非効率なんですよ」
「だったらどうするんですか」
「このセンサーに、直に必要な情報を送信します。極端な場合は行動プログラムを直接にね。そ
うすればメイドロボは人間から指示を受けるより遥かに早く、効率的に行動することができるよ
うになるんですよ」

 表情を変えずに話し続ける長瀬に浩之は言葉をぶつける。

「…ちょっと待ってくれ。それってつまり、メイドロボをただの工作機械として使うってことな
のか? 一方的にプログラムを送り込んでその通りに動かすってことは」
「そうです。メイドロボを産業用ロボットのように動かすことができます。あのセンサーはその
ための装置なんですよ」
「それじゃまるで奴隷じゃないかっ」
「奴隷じゃなくて道具です。メイドロボだって産業用ロボットだって、どっちも人間の道具に過
ぎないんですよ。使う側の要望に応じて必要な機能を備えることは、道具にとって重要なことで
す。道具を供給するメーカーにとってもね」
「それは…でも…」
「もちろん、家庭で使用する場合にはこの機能はほとんど使われません。家事労働はそれほどの
効率性を要求されるものではないのでね。それに、メイドロボの家庭に於ける機能は、実は家事
労働の代替ではないんですよ」
「何だって?」
「一時期、多くのペット型ロボットが発売されたのは覚えていますか。あれの延長上にあるのが
メイドロボです。言うなれば高価な玩具ですな」
「…………」

 黙り込んだ浩之を見ながら長瀬は話を戻す。

「失礼。笛吹き男の話でしたね」
「…………」
「もうお分かりだと思いますが、このリモコンみたいな装置は、メイドロボのセンサーに直接情
報を送り込むことができる発信機です。笛吹き男は、この装置と同じ機能を持つ機械を使ってメ
イドロボのセンサーに直接命令を送り込んでいるんです」
「…………」
「もちろん、メイドロボはどんな命令でも簡単に受け付けるようなつくりにはなっていません。
本来なら認証コードが必要な筈です。だが、犯人は複数のメイドロボを、しかも異なるメーカー
のメイドロボをこのやり方で操っている。おそらく、単純な障害物との距離情報としてセンサー
にアクセスし、その上でメイドロボの中に予め存在するデータを活用して、いわば幻を見せてい
るんだと思います」
「幻?」
「ええ。多分、そのメイドロボの持ち主が声をかけて、こちらへ来いと呼んでいるといった類の
ものでしょうね。持ち主の映像パターン情報などはメイドロボ内にあるモノを使っているのでし
ょう。実際に送信されるデータ量はそんなに多くはない筈ですよ」
「本当に、そんなことができるのかよ」
「できますね。よほどメイドロボに詳しい人間なら。実際、メイドロボの基本仕様を業界内で話
し合って決めた当時から、こうしたセキュリティホールが存在することを指摘する声はあったよ
うです。ただ、仕様を定める際にはそうしたリスクより使い勝手の良さを選んだんですよ。何し
ろそんなことができるのは、余程メイドロボに詳しい、業界内の人間しかいないだろうと思われ
ていましたから」

 長瀬の話に浩之は顔を上げ、その目を見た。長瀬の瞳は最初に出会った時とまったく変わって
いないようだった。浩之はその奥にあるものを見透かすことを念じながら口を開いた。

「…もしかしたら、犯人に心当たりがあるんじゃないのか」
「固有名詞を上げることはできませんね。ただ、いずれ元メイドロボメーカーの関係者であるこ
とは間違いないと思います。それに、どこを当たればいいかも見当はつきますよ」
「何だって?」
「先ほど、私はこの発信機を持ってメイドロボを連れて歩いてましたね」
「ああ」
「本当はね、あんなことをする必要はないんです」
「え?」
「言ったでしょ、データ量は多くないって。データの送信もほとんどあっという間に終わる筈で
す。つまり、機械を抱えてメイドロボを誘導する必要はまったくないってことです。持ち主に呼
ばれて特定の場所まで移動する、というデータさえ送ってしまえば、後はメイドロボが勝手に移
動してくれるんですよ」

 浩之の目の前を、ゆらゆらと歩くメイドロボがよぎった。あれはいつ見たのだろう。確か、理
緒ちゃんと喫茶店で話をしている時に、店の外を通りすぎたメイドロボがあんな歩き方をしてい
た。どこかに視線を据え、その視線に引っ張られるように。あの視線の先には…。

「…持ち主に呼ばれたと思い込んだメイドロボは勝手に動いてくれる。笛吹き男はデータさえ送
ってしまえば、あとは知らぬ顔でいればいいんです。目撃される危険を犯してメイドロボを引率
する必要なんかありません」

『――変なものを口に当てた男が駐車場の隅を歩いていたんだけど、そいつの後ろになぜか何体
かのメイドロボがついていってた』
『――白衣を着ていたな。けっこう、背は高かった』
『――後ろ姿しか見ていないから』

 後ろ姿しか見ていない? それならなぜ男が変なものを『口に当て』ていたことが分かったん
だ? 男がものを持っていたことは分かるかもしれない。だが、口に当てていたのを見ることは
できない筈だ。男がまるで笛を吹いているかのようなポーズを取っていたなんて…。

「ですから、私が思うに」
「畜生、あいつかっ」

 大声を上げ、浩之は立ち上がった。脳裏にスーパーの駐車場にあった詰め所で出会った若い男
の姿が浮かぶ。自分がどこで笛吹き男を目撃したのか、わざわざ扉までやって来て外を指差しな
がら説明していたあの男。
 研究室の出口に向かって走りだそうとする瞬間、長瀬がのんびりと声をかけた。

「藤田君。どこから出て行くつもりですか」
「…え?」
「うちはこれでもセキュリティは厳しいんですよ。門から出て行く際にはそれまで訪問していた
先の担当者からはんこをもらわないと出してもらえませんよ」
「なら早くそうしてくれよ」
「やれやれ」

 せっつく浩之に促され、ゆっくりと立ち上がった長瀬は引き出しを開け、中をかき回した。

「…それにしても、入るときにはどうやったんですかねえ。門からは無理だろうし、塀もかなり
高いはず」
「しまったあああっ」

 浩之の大声に思わず飛びあがった長瀬は、向こう脛をぶつけて激痛に顔を顰めた。

「…雅史のこと、忘れてた」