ハーメルンの笛吹き男(2) 投稿者:R/D 投稿日:2月29日(火)23時33分
「1284年にハーメルンの町に不思議な男が現れた。この男は様々な色の混じった布で出来た
上衣を着ていたので『まだら男』と呼ばれていたという。男は自ら鼠捕り男だと称し、いくらか
の金を払えばこの町の鼠どもを退治してみせると約束した。市民たちはこの男と取引を結び、一
定額の報酬を支払うことを約束した。そこで鼠捕り男は笛をとり出し、吹きならした。すると間
もなく、すべての家々から鼠どもが走り出て来て男の周りに群がった。もう一匹も残っていない
と思ったところで男は〔町から〕出て行き、鼠の大群もあとについていった。こうして男はヴェ
ーゼル河まで鼠どもを連れてゆき、そこで服をからげて水の中に入っていった。鼠どもも皆男の
あとについて行き、溺れてしまった」
                ――グリム兄弟『ドイツ伝説集』<ハーメルンの子供たち>



 道具の調子はいい。男は歩きながら考える。これならもう少し続けてもいいだろう。男の視線
が周囲を窺う。



 スーパーの店内をゆっくりと彷徨していた浩之の目の前に、物陰から出てきたカートが鼻面を
突き出した。それを押す女性と目が合う。

「あれ」
「あ、浩之ちゃん」

 同じ大学に通う幼馴染の姿に、浩之はたじろいだように身体を逸らした。あかりはその僅かな
動きに気づかなかったようににこやかに笑いながら浩之に話しかける。

「浩之ちゃんも買い物?」
「ああ、荷物持ちだけどな」
「…じゃあ、マルチちゃんが一緒なの」
「おう。今は多分、生鮮食品のコーナーにいるんじゃないのか」

 マルチと伴に何度も買い物をするようになった浩之は、このスーパーの内部をほぼすべて把握
している。マルチがどのような順番で売り場を回るかも承知だ。途中で分かれてそれぞれが買い
物をするのもいつものこと。浩之はあかりが押しているカートの中身を覗き込んだ。

「へえ、相変わらず品数が多いな。色々な材料を組み合わせるのは得意だもんなお前」
「そうでもないよ。このくらいは普通じゃないかな」
「いやいや、やっぱ大したもんだよ。マルチも随分ましになったとは言え、まだまだお前には敵
いそうにないな」
「マルチちゃんも頑張っているんじゃないの」
「そりゃそうだけど。なあ、またそのうちマルチに料理を教えてくれないかな」
「え、それはいいけど」
「さんきゅ。そのうち頼むよ」

 そう言って浩之は周囲を見まわす。スーパーの中は多くの人影でごった返していた。いや、そ
の影の何割かは人ではなくメイドロボだった。来栖川電工が低コストのメイドロボを売り出し、
それに他のメーカーが追随してからというもの、メイドロボの普及度は急速に高まっている。そ
のスピードはかつて携帯電話が一気にありふれた物になった時とよく似ていた。
 浩之の動きに合わせるように、何となくあかりもスーパーの中を見渡した。そして浩之が何を
しているのかに気づいた。浩之はマルチを探しているのだ。いつもなら、そろそろ合流する時間
なのかもしれない。あかりは浩之に向かって小さな声で言った。

「浩之ちゃん。私そろそろ」
「あ、ああ」

 驚いたようにあかりに顔を向けた浩之は掠れた声を出した。二人の視線がぶつかり、逸れる。
緊張感のある沈黙が降りる。それまで聞こえていなかった店内に流れる妙に明るい音楽が、彼ら
の耳に響き渡る。

「…はは。すまんな。マルチがいればちゃんと挨拶させるんだけど。おかしいな、何処に行った
んだあいつは」
「ううん、別に気にしていないよ。じゃあまた」
「ちょっと待ってくれ」

 浩之は引き攣った声を上げた。その目は相変わらず店内を慌しく見まわしている。口元に浮か
べていた笑みが強張り、唇が細かく動く。彼を見て眉を顰めたあかりは、一歩近づくと問いかけ
た。

「どうしたの、浩之ちゃん」
「…見当たらねえ」
「え?」
「おかしい。いない、マルチがいない」

 浩之はいきなり走り出した。手に持った籠が激しく揺れる。その姿はすぐに角を曲がり、あか
りの視界から消える。商品を並べた棚の向こうから叫び声が聞こえた。浩之が誰かと衝突しそう
になったらしい。あかりは急いでカートを押しながら浩之を追った。
 足音が店内に響き、人々が、メイドロボたちが彼女に視線を向ける。気にせずあかりは浩之を
追う。迷路のような店内を駆ける浩之の姿はすぐに彼女の目から失せる。あかりは走る。邪魔な
カートは途中で放り出して追いかける。店内すべてを回った浩之に追いついたのは、レジのすぐ
手前だった。浩之の傍に立ち、彼女は膝に手を当てて呼吸を整える。前かがみになりながら見上
げた浩之は、あかりを泣きそうな顔で見る。

「いなくなった」

 その声は親に捨てられた子供のような声だった。

「マルチが、いなくなった」



 この辺りが潮時だ。男は仕事を終える。道具は再び懐に仕舞われる。男は立ち去る。



 浩之は廊下に置かれたソファに腰を下ろし、屈みこんで頭を抱えていた。隣に座るあかりは黙
ったまま正面を見ている。正面にあるカウンターの辺りには大勢の人間が行き交い、会話を交わ
したり合図したり頷いたりしている。二人に声をかけるものはいない。
 すでに辺りは完全に闇に落ちたにもかかわらず、この建物では活発に人が動き続けていた。目
的を持った人、目的に追われる人、目的を失った人、目的を探す人。老若男女の区別無く人々は
活動を続けている。警察署の夜は遅い。

「…君らがそうか」

 二人の前に立った男がそう話した。あかりはその男の顔を見上げる。眠そうな顔をした中年の
男が顎をしゃくって合図した。ついてこいと言っている。そう思ったあかりは隣でうなだれる浩
之の腕を持った。彼が僅かに顔を上げる。あかりは目で立つように促した。立ちあがった浩之を
見て男は背中を向け、建物の奥へと歩き出す。どこかだらしない歩き方をするその男の後を、力
無く足を進める浩之と、その横に立って彼を支えるような姿勢を取るあかりが続く。
 やがて男は汚いドアを開け、彼らを招き入れた。室内には薄汚れ、引っかき傷だらけになった
テーブルが据えられ、それを挟んでパイプ椅子が置いてあった。窓には金網がかけられ、すぐ外
の道路を通りすぎる自動車のヘッドライトを反射する。男の向かいにあかりと浩之は並んで座っ
た。浩之の横顔を窓から射し込んだ光が照らす。彼は憔悴していた。

「えーっと、名前は」

 彼らの前でノートを開いた男は無愛想に問い掛けた。刑事の言葉にあかりが答え、さらに浩之
も応答する。その声はいつもの彼に似ず、弱々しく響いた。あかりが浩之を窺う。刑事は気にす
る様子もなく質問を続ける。住所、保護者、学校、人定質問が続く。

「そっちの藤田君が所有するメイドロボが行方不明になったんだな」

 刑事が顔を上げてそう問いかける。刑事の瞼は相変わらず重そうに垂れ、その目には何の光も
ない。浩之はテーブルに視線を落としたまま、説明をする。刑事の持つ鉛筆がノートの上を走る
かすれた音が狭い室内に微かに木霊する。いつメイドロボを購入したのか、どのメーカーか、ど
こで行方不明になったのか、いつ、その時の状況は。浩之の小さい声がだらだらと流れる。

「…で、被害額は」

 刑事の声に浩之の肩が震える。眉を上げた彼が刑事の顔を見る。刑事は浩之の表情が変わった
ことに気づいた様子もなくノートに鉛筆を据え、彼の言葉を待っている。

「…額?」
「そうだ。被害額だ」
「額って、何ですか」
「金額だよ。メイドロボを購入した時はいくらしたんだ? それが分からないと…」
「マルチが行方不明なのに、何でそんなことを聞くんだっ」

 浩之は椅子を蹴って立ちあがり、大声で怒鳴りながらテーブルを叩いた。

「そんなことを聞いている暇があったらすぐにマルチを探しに行くべきだろうがっ。そのための
警察じゃないのかよっ」

 驚いたあかりが慌てて彼に取りすがる。浩之の罵声を正面から浴びせられた刑事は、しかしう
んざりとした様子で浩之に一瞥をくれただけだった。

「…まったく、どいつもこいつも同じような反応をしやがって」
「何だとっ」
「落ち着いてよ浩之ちゃんっ」

 あかりにしがみつかれた浩之は暫く荒い息をしていたが、やがて不承不承に腰を下ろした。刑
事はわずかに見せていた丁寧さを完全に脱ぎ捨て、冷え切った目で浩之を見ながら話す。

「失せ物探しは警察の仕事じゃない。おまけに最近はメイドロボが消えたと言って駆けこむヤツ
がやたらと多いんだ。いちいち調べる余裕なんぞある訳がねえ」
「じゃあ、何でオレらの話を聞いてるんだよっ」
「調書を作るためだ」
「作ってどうすんだよ。何もしないんなら、何でそんなもん作るんだよっ」
「法律で作れと決められているからだ。警察は法律で動いている。だからわざわざ話を聞いてや
ってんだ。そうでなきゃこんな仕事を誰がすき好んでやるものか。朝から何度も何度も似たよう
な話を聞かされてこっちはうんざりしてるんだ。これ以上手間取らせるんじゃねえよ」
「何をっ」
「駄目だってば」

 再び立ちあがろうとした浩之を必死になだめるあかり。彼女は浩之を押さえながら刑事に向か
って質問する。

「…刑事さん。朝から何度もって言いましたよね」
「ああ、言ったよ」
「それって、同じようにメイドロボが行方不明になった事件があったってことですか」

 浩之がもがくのをやめ、あかりに視線を据える。

「…おい、あかり。それって」
「どうなんですか刑事さん」
「その通りだよ。今日だけじゃねえ、このところ毎日のように何人もやって来ている」
「どういうことだよそりゃあっ」

 浩之が刑事に向かって吼えた。刑事はうるさそうに彼の顔を見ると吐き棄てるように言った。

「知るかよ。飼い主の監督不行き届きじゃねえのか」



 男は扉を開け部屋へ戻る。壁を探り灯りをつける。だだっ広い空間がしらじらとした証明に照
らし出される。男は部屋を見まわす。



 二人が警察署を出たのは随分と遅い時間だった。浩之はポケットに手を突っ込んだまま黙って
歩き、その横であかりが無言のまま足を進める。速度を上げて行き交う自動車のライトが二人を
交互に照らす。苛立ちを抱えた浩之の目と、無表情のまま凍りついたあかりの頬。両者は決闘の
場に急ぐかのように歩調を速める。
 空には下弦の月が上り、星々が散らばる。それが人間たちを見下ろす。人間たちは空を見上げ
ない。誰も振り仰ごうとしない。ただ己が興味をもつ対象だけを見る。車のライトは正面を照ら
し、街灯は下に光を向ける。横と下が明るく浮かび上がる分だけ、上は暗くなる。月も星も見え
なくなる。

「…浩之ちゃん」

 あかりが正面を見たまま声を出す。浩之は黙って歩く。再びあかりが声を上げる。浩之が喉の
奥でよく聞き取れない返事をする。あかりは両足をせわしなく動かしながら言う。

「浩之ちゃん、何を考えているの」

 浩之が俯く。暫く沈黙を続ける。足を休めることはない。夜になっても交通量の多い道沿いを
二人は移動し続ける。

「…別に」
「嘘」

 短い会話と長い沈黙が交互に交わされる。次第に彼らを追い越す自動車の数が減ってくる。街
灯と街灯の距離がいつの間にか広がり、暗闇が占める頻度が高まる。夜も遅い。道の両隣にある
民家も今は戸締りを終えて闇に沈んでいる。

「浩之ちゃん。教えて」
「…………」

 二人は顔を合わせない。浩之は下を、あかりは正面を向いている。歩く速度は同じ。言葉は互
いの間を行き交う。他の情報は遮断されている。表情、仕草、目の動きや色合い。どちらもそれ
を相手に見せない。相手を見ない。

「これから、どうするの」
「…別に」
「嘘」

 沈黙。足音が響く。二人の家が近づく。分かれるべき場所が迫る。歩く速度は変わらない。終
わりの時が両腕を広げ、彼らを迎え入れる。

「マルチちゃんを自分で探すのね」
「…そうだ」
「警察に任せる気はないんでしょ」
「任せられる訳がない」
「そう」

 あかりが足を止めた。浩之は数歩進んだところで、同じく動きを止める。正面を見続けるあか
りの視界に浩之が入っている。浩之は顔を上げない。

「見つけられると、思っているの?」
「何としても見つけ出す。あいつは、オレの一部なんだから」
「そう」

 あかりが小さくため息をつく。浩之は気づかない。風が吹く。あかりの髪の毛が揺れる。浩之
の背中に向けてあかりが声を放つ。

「…さよなら」
「ああ」

 そうして二人は別れた。