葛城(上)  投稿者:R/D


「――月島さん」
 声に若者が振り向く。背の高い、学生服に身を包んだ男は声の主を見ると微かな影を瞳に宿ら
せた。その僅かな変化に気づかぬまま、声をかけた少女が彼の傍へ駆け寄る。
「生徒会室に行くんですね。一緒に行きましょう」
 少女は月島と呼んだ男子生徒の顔を見上げながら彼と肩を並べる。満面に喜色を浮かべる少女
の前で男子生徒は少し戸惑った様子で口を開く。
「ああ、別にいいけど」
「よかったー。やっぱ今日はツイてるんだ」
「え?」
「友達がそう言うんですよ。私の星座、今日は幸運に恵まれるって。私はあんまり占いとか信じ
ないんですけどね」
「そう」
「ええ。でも、今日からは宗旨変えしよっかな」
 そう言って下から若い男の顔を覗き込む。男は黙って前方を見ていた。彼が口を開く。
「…早く行かないとな。あまり遅くなったら皆に示しがつかない」
 そして男は生徒会室へと足を動かしだす。慌てて後を追った少女だが、スタートが遅れた分だ
け男の斜め後ろに位置することになった。
「あ、待ってください月島さん」
 月島と呼ばれた生徒は振りかえることもなく声を出す。
「さあ、太田君も急いで」
「はい」
 二人は廊下を早足で遠ざかって行った。その二人の後ろ姿を見送る少女がいた。細い髪を肩で
切り揃えた少女は、二人を黙って見送っていた。



 不安だったの。
 説明なんかできない。自分でも理由はよく分からない。だけど、不安だった。一緒に生徒会の
メンバーになって、毎日のように顔を合わせて、色々な理由を作って話をして。傍にいて彼を見
て彼の視界に自分を置いて彼の耳に私の声を届けて。
 でも、不安感は無くならなかった。
 誰か恋人がいる訳じゃない。そんな話は聞いたことがなかった。私以外に彼にアプローチしよ
うとしている娘がいる様子もなかった。私が一番、彼に近づいている。彼の心に近づいている。
そう思っていた。思いこもうとしていた。
 それでも、不安は残った。
 友人に相談したり、そういった記事が載っている雑誌を読んだり、それこそ宗旨変えしておま
じないをやってみたり。自分でもわざとらしいと思いながら「可愛い後輩」を演じてみたり。彼
の本当の視線を自分に向けるため、あらゆることを試みてみた。
 不安の源に気づいてしまった、あの時まで。



「お疲れさまー」
 三々五々、生徒会室に残っていた役員たちが席を離れる。今日の仕事は一段落だ。太田は書類
をまとめ、引き出しに仕舞いながら生徒会長の様子を窺った。月島は一息入れるかのように、本
を手に持って読んでいた。
「何を読んでいるんですか」
 太田が月島に近づき、手元を覗き込む。月島が驚いたように慌てて振り向いた。その目が険し
い。太田は月島の視線に射竦められ、思わず仰け反った。
「…ああ。君か」
「あの、驚かせてしまいましたか」
「いや」
 月島は小さく呟くと手に持った本の表紙を彼女にかざして見せる。そこには『古事記』という
表題があった。図書室の本らしい。
「へえ。もしかして勉強ですか」
 太田は小首を傾げて男を見た。意図したものか否か、それは分からないが、彼女の目には密や
かな媚が含まれていた。月島は表情を消して淡々と返答する。
「勉強、というよりは趣味に近いかな」
「古事記を読むのが趣味ですか。うわー、やっぱ頭のいい人は違いますね」
「頭の良し悪しとは関係ないよ」
「そんなことないですよ。月島さん、成績いいじゃないですか」
 太田の声を聞き流し、月島は黙って本を鞄に納めた。そのまま席を立つ。
「…あの、月島さん」
「君もそろそろ帰った方がいいよ」
「あ、だったら一緒に帰りませんか」
 太田は急いで鞄を掴み、月島の傍に駆け寄る。太田を見る月島の細められた目に冷たい光が浮
かぶ。
「悪いけど、今日は用事があるんだ」
「…そう、ですか」
「それじゃ」
 肩を落とした太田にそう声を投げかけると、月島は誰もいなくなった生徒会室から去った。残
された太田は彼が出て行った扉を暫く眺め、小さくため息をつく。
「何で上手くいかないんだろ」
 彼女の呟きは虚空へと吸い込まれた。その声に反応するものはなかった。



 私が最初に彼と出会ったのは、高校に入学した直後のことだった。入学式が終わり、クラス別
に行われた担任の紹介や注意事項伝達も済み、後は帰るだけになって、私は入学式の際に体育館
に忘れ物をしていたことを思い出した。
 慌てて体育館に走った。けど、体育館の扉はもうすべて閉まっていた。私は途方に暮れた。ど
うすればいいのか、どこに訴え出ればいいのか、入学したばかりの私にはそういった知識がまっ
たくなかった。ただ、呆然と体育館の前に立ち尽くしていた。
 ――君が太田さんかい。
 彼の声が聞こえたのはその時だった。振りかえった私の目の前に、忘れ物があった。彼が私の
忘れ物を手に持ち、私に笑いかけていた。
 彼は仕事をしただけだ。生徒会のメンバーとして、入学式の後片付けをしていて、私の忘れ物
を見つけたのだろう。片付けが終わった所でそれを届けようと思っていたら、ちょうど慌て者が
体育館へと戻ってきた。それだけだ。
 だけど、私にはそう思えなかった。なぜか彼の笑顔が私の脳裏に焼き付いて離れなくなった。
その声が耳の中で何度も繰り返し響き渡った。彼のことが忘れられなくなった。
 それまで、自分がロマンチストだと思ったことはなかった。どちらかといえば積極的な性格の
持ち主で、夢見がちな周囲の女の子たちとは趣味が合わなかった。「白馬の王子様」を待つなん
て性に合わないと思っていた。
 それが、彼の声で変わった。彼の笑顔が私の思いこみを砕いた。私の前に立っていたのは、間
違いなく「白馬の王子様」だった。
 運命の出会いというのがある。私はそう確信した。そして私は彼を追いかけ始めた。彼と一緒
にいるために生徒会の役員になった。学年は違うけど、口実を設けて何度も彼のクラスに押しか
けた。これは運命。だから必ず私の思いは彼に通じる。そう思ってた。
 そう信じ込もうとしていた。



 学校から帰る途中にある書店。夕方になり、仕事帰りのサラリーマンやOLでごった返すその
店に太田は入った。入り口近くにある雑誌のコーナーに群がる人ごみをかき分け、普段は余り近
づかない奥まった場所へと歩く。
 立ち並ぶ書架を埋め尽くすように並ぶ新刊書。こうした出版物を巡る状況が厳しくなっている
という話を、先日のテレビ番組で見た。戦後、一貫して伸びてきた出版物の売上が、この数年は
落ち込んできているのだという。どんな不景気でも成長を続けてきた産業が、ここに来てついに
曲がり角を迎えていると。
 新刊書を一冊一冊、目で追う。今までこれほど熱心に本を探したことはなかった。彼女もその
他大勢と同様、あまり本を読まない生活を送ってきた。本など読まなくても、楽しいことは沢山
ある。
 だが今、彼女は必死に本を探していた。それが、彼との絆を繋ぐきっかけになるかもしれない
と考えて。彼が読んでいた書物を入手することで、それを読むことで、少しでも彼に近づけると
思って。
 彼女の動きが止まる。その手が伸び、一冊の文庫本を書棚から取り出した。彼が読んでいたの
は確か単行本だったが、この書店には文庫しかなかった。彼女は難しい顔をしてページを開く。
暫くページを見ていた彼女はがっくりと肩を落とし、大きく息をついた。
 分からなかった。書かれている文章が全く理解できなかった。その文庫本には、古事記の原文
である漢文の他に読み下し文も掲載されていたのだが、彼女にとってはどちらも意味不明である
ことに変わりなかった。
 彼女はゆっくりと本を閉じ、それを書棚に戻した。暗い瞳で背表紙を見る。そこから微かに繋
がっていた彼へ通じる糸が、目の前で絶ち切られたような気分だった。太田はもう一度ため息を
つくと書棚の前を離れ、出口へと向かおうとした。
 彼女の動きが止まる。出口の向こう、自動ドアの先にある人影を見て、太田の足が固まる。そ
こには、細い髪を肩で切り揃えた少女がいた。学校でたまに見かける少女。太田と同じ学年にい
る、儚げな様子をまとった大人しい少女。
 月島の妹だった。彼女が、書店の前を通りすぎようとしていた。手に膨らんだ鞄をぶら提げ、
ゆっくりと歩く。夕闇が落ちた街の中で、その歩みは妙にゆっくりとしていた。太田の目が彼女
の手元に引きつけられる。
 鞄と一緒に持っている手提げに描かれた大手書店のロゴ。太田は彼女がどう呼ばれているかを
思い出した。文学少女。今時、余り聞かない呼び方。彼女の姿と、静かな表情で本を読む月島の
姿が頭の中で重なった。
 太田の足がいきなり反対へと向いた。決然とした足取りで彼女は先ほどまでいた書棚の前に戻
り、一度戻した文庫本を再び手に取る。暫く表紙を睨んでいた彼女は、まるで決闘の現場に向か
うかのような表情で書店のカウンターへ足を運んだ。
 その手に文庫本を握り締めて。



其大后石之日賣命、甚多嫉妬。故、天皇所使之妾者、不得臨宮中、言立者、足母阿賀迦邇嫉妬。
『その大后石之日賣命、甚多く嫉妬みたまひき。故、天皇の使はせる妾は、宮の中に得臨かず、
言立てば、足もあがかに嫉妬みたまひき』
                              ――古事記下卷 仁徳天皇条



 不安にかられた私が手にしたのは、彼が読んでいた本だった。読めば彼のことが理解できるか
もしれない。そう思って手に取った。
 本は、とても難解だった。それまで古代の歴史に興味を持ったことなどない私にとって、それ
は異国の言葉で書かれた呪文と同じだった。彼がこの本のどこに興味を覚えたのか、それを読み
取ることなどとてもできなかった。
 それでも私は本を読んだ。運命の出会い。親しい態度。生徒会役員として同じ時を過ごし、彼
の近くにいる時間を増やしてきたのに、私は湧きあがる不安を抑えられない。その不安を抑える
ヒントが手に入るかもしれない。この本は唯一の手がかり。だから私は本を読んだ。
 そして、私はその女性を知った。古事記に登場する、葛城磐之媛という女性を。
 仁徳天皇の皇后、大豪族葛城氏の娘。誇り高く、強情な女性。己の意思を通そうとして苦闘を
続け、最後には力尽きたように歴史の舞台から消えたひと。
 嫉妬。
 彼女は夫が他の女性と親しくするのに耐え切れず、いつもやきもちを焼いていたという。宮中
に他の女性が入ることさえ許さず、夫の前で自分を売り込もうとする女性を見ると地団太踏んで
怒った。
 あの時代だ。一国の王が複数の女性を娶るのは珍しくなかった。当然のように彼女の夫も美人
と評判の女性に次々と手を出した。それが当然とされる時代だった。
 そんな時代の女性としては、彼女は異色の存在だった。彼女は自分の気持ちを抑えることなく
外に出した。自分の感情をはっきりと見せた。
 私は、彼女のことがとても気にかかった。



 休み時間の到来を告げるチャイムが鳴った。太田は机の中にあった文庫本を取り出すと立ちあ
がる。扉を開ける彼女の動きはどこか軽やかだった。短い髪を揺らしながら彼女はスキップでも
するような足取りで廊下を歩く。手にはしっかりと本が握られている。
 彼女は上機嫌で階段を上る。通りすぎる男子生徒や女子生徒。彼女の目にその姿は映らない。
彼女の頭にあるのは上の階にある上級生の教室のことだけ。その教室にいる男性のことだけ。そ
こを訪ねることは何度もあった。彼に会うため。その度ごとに理由をつけ彼の顔を見に行った。
今回もそう。いつもと同じ。
 けど、少し違うこともある。彼女の手が強く本を握る。彼の心に繋がる手がかり。彼女はその
まま階段を上りきり、三年生の教室が並ぶフロアに一歩踏み出した。
 その足が止まる。彼の教室の方角を見たその顔が強張る。太田は無意識のうちに物陰に隠れて
いた。
 廊下は静かだった。休み時間なのに、ほとんど人影がない。偶然の結果だ。誰が意図した訳で
もないのに、まるで申し合わせたかのように人通りが途絶える瞬間。賑やかな街中にもそうした
瞬間がある。それと同じ時が、気まぐれにこの廊下に訪れたかのよう。
 廊下にはたった二人の人影しかなかった。
 一人は小柄。その細い髪は廊下の窓から射し込む光に微かに煌いている。
 一人は長身。小柄な人影を見下ろすその視線には優しさがあった。
 小柄な影が手に持った何かを手渡す。少女が差し出したのは、本だった。兄はそれを受け取り
少女に何か話しかけている。話の中身は分からない。ただ、口だけが動いている。少女はそれに
答えるかのように顔を上げ、柔らかな唇を動かす。
 静かな誰もいない廊下で、兄妹は互いだけを見て話していた。
 太田は二人を見ながら身体を固くしていた。本を握る手に力がこもり、やわな文庫が歪む。太
田はそれに気づかず、ただ二人の姿を見続けていた。表情に険しさが増す。
「香奈子ちゃん」
 いきなりの声に太田は飛びあがりそうになった。慌てて振りかえる。そこには眼鏡をかけた中
学時代からの友人がいた。
「…ど、どうしたの、怖い顔して」
 友人が振りかえった太田の顔に怯えたように身構えながら口に出す。指摘された太田は慌てて
わざとらしい笑みを浮かべると首を横に振った。
「べ、別に怖い顔なんかしてないわ」
 強い調子で断言するその声に気圧された友人は、太田の目を覗き込むようにしながら言葉を続
けた。
「本当? どっか調子が悪いとか、そういうことはないの」
「ないない。全然ないってば。もう、瑞穂ったら何言ってんのよ」
「そっかなぁ」
「そうだってば。それよりさ、何の用?」
 太田の声はいつもの調子に戻っていた。その顔には普段通りの自信に溢れた笑みが浮かんでい
る。この友人の前でいつも見せる彼女の表情。それを見た友人が安堵の色を見せる。
「ううん、別に用事はないの。ちょっと見かけたから声をかけただけよ」
「あれ、太田君じゃないか」
 彼の声に太田は慌てて振りかえった。いつの間にか月島が彼女の傍に立っていた。あの少女は
見当たらない。太田の顔に一瞬の翳が射す。
「つ、月島さん」
 男に返答しながら、彼女の目は慌しく廊下を前後する。先ほどまで彼の傍にいた女性を探す彼
女の視線は、次の男の声で動きを止めた。
「へえ、君もその本を読んでいるんだ」
 声が耳に飛びこんだとたん、太田の心臓が跳ねた。彼女の目が正面に立つ長身の男性に向く。
彼の目は面白そうな色を湛え、太田が持っている本へと据えられていた。太田は慌てて答える。
声が上ずってしまう。
「え、ええ。ちょっと、興味があって」
「なかなかいい趣味をしているね」
 男はそう言って笑って見せた。彼女の目に、初めて月島と出会った時の光景がだぶる。太田の
口から言葉が紡ぎ出される。
「あの、この本、難しくて、その、分からないところ、聞いても」
「ああ。僕に分かることならね。何でも質問してよ」
「はいっ、ありがとうございますっ」
 太田の顔が紅潮する。抑えきれぬ歓びが彼女の全身を貫く。男の優しげな顔を見つめ、彼女は
大きく何度も頭を下げた。
 隣にいた太田の友人は呆気に取られた表情で彼女を見ていた。