驟雨(7)  投稿者:R/D


 病室はいつものように静かだった。降り続いていた雨も上がり、白いカーテン越しに小春日和
の柔らかな陽射しが差し込んでいる。
 僕はベッドに横たわる瑠璃子さんを覗きこんだ。眼を閉じ、静かに息をする。その顔には何の
表情も浮かんではいない。かつて屋上で見せた童女のような笑みも、僕が覗きこんだ記憶の中に
あった涙を浮かべた顔も、そこにはない。彼女はただ眠っている。時が流れるままに。

「…この人が月島さんなの」

 僕の隣で柏木さんがそう呟いた。僕はゆっくりと頷く。柏木さんは初めて出会った時と同じ格
好をしている。ジーパンとセーターの上からウインドブレーカーを羽織り、使いこんだジョギン
グシューズを履いている。ショートにした髪の毛にはカチューシャ。肩には大きなボストンバッ
グ。
 最初に僕が柏木さんを見た時、彼女はとても怖い眼をしていた。強い思いに取りつかれた眼で
壁を睨んでいた。今はもう違う。

 僕は事件が終結した後、柏木さんにすべてを説明した。自分がかつてしでかしたことを。二人
の人間をあちらの世界へ追いやってしまったことを。瑠璃子さんのことを。彼女は瑠璃子さんに
会いたいといった。僕は彼女を病院へ連れてきた。

「いつ出発するんだい」

 僕は彼女の顔を見ずに問いかける。

「そろそろ。もう少し大丈夫だけど」

 彼女は隆山に帰る。追い続けた仇があのようになってしまった今、この街にいる意味はない。
彼女は僕にそう言った。隆山に帰るよ。帰ってみんなにもう一度会ってくる。葬式が終わってか
らずっとあいつを追いかけていたし、ここらで墓参りでもしないと恨まれそうだからね。そう言
って笑った。寂しそうな笑いだった。
 あの男は警察に身柄を確保された。完全に正気を失っていたため、取調べはできなかった。詳
しい精神鑑定が必要だが、起訴するのは無理だろうと叔父が話していた。その叔父はまだ病院に
いる。引き裂かれた傷口は塞がったが、ついでの検査で胃に穴が開いていたことが判明したため
だ。叔父は苦笑しながらいい骨休めだと言っていた。

「ねえ」

 柏木さんの声が近くから聞こえた。僕は彼女の方に顔を向ける。その眼が僕を捉えた。僕の既
視感を呼び起こしたあの光は見当たらない。眼の中で荒れ狂っていた感情もない。まるで憑き物
が落ちたかのように、その眼は穏やかだった。

「あんたが自分のしたことを後悔しているのは分かるよ。でも」

 柏木さんは少し躊躇い、言葉を続けた。

「忘れることは、そんなにいけないことなの?」

 僕は彼女の眼を見る。

「自分が見たもの、自分が聞いたこと、体験したすべてをまったく忘れられなかったら、それは
とても苦痛じゃないかな。厭なことも、辛いことも、苦しいことも、何でもかんでもリアルな記
憶として頭の中に残っていたら、ほとんどの人間はそれに耐えられないと思う」
「…そうだね」
「あたしだって何時までもあの惨劇を覚えていることはないと思う。いずれ忘れてしまう時が来
るって。最初はそんなこと考えもしなかった。仇を追っている時は。でも、今ではそれでいいと
思っているよ。その方がいいって」
「…………」
「あんただって言ったじゃないか。復讐なんか止めた方がいいって。それって何時までも過去を
覚えていても仕方ないってことだろ。だったら、忘れればいいじゃないか。復讐も、後悔も。こ
こにいる娘はそれは可哀想だけど、でもこの娘は死んだ訳じゃない。あんたが何時までも自分を
責める必要はないと思う」
「うん、ありがとう」

 僕は少し笑ってみせた。彼女の顔が僅かに綻ぶ。

「…でも、僕は忘れるつもりはないよ」
「え?」

 怪訝そうな表情を浮かべる。僕は言葉を続けた。

「君の言う通り、もうそのことに拘り続けることはしない。何時までも後悔に臍を噛んでいても
仕方ないからね。だけど、あの事件も今回の事件も忘れはしないよ。忘れなければ同じ過ちは避
けられる。他人が自分と同じ失敗を繰り返そうとするのを止めることだってできる。今回、君の
復讐を邪魔したみたいにね。復讐の結果に、君自身が責め苛まれるのを防ぐために」
「長瀬…」
「忘れなかったから、君を助けることができたんだと思う」

 僕はそう言葉を結んだ。彼女は視線を落とし、照れくさそうに鼻の頭をかいた。

「…あ、あたし、そろそろ電車の時間だから」
「うん」
「それと」

 彼女は再び僕に視線を向けた。澄んだ眼が真っ直ぐに僕を見る。

「大丈夫だと思うけど、あの男を壊したことについても、いつまでも気にかけたら駄目だよ。あ
れは仕方なかったんだからさ。正当防衛だよ」
「…分かっているよ」

 僕の返事を聞いた彼女は軽く頷き、背中を向けて病室の出口へと小走りに向かう。扉の向こう
に見える窓の外には冬の陽射しがあった。それは昨日まで降り続いた雨に濡れた世界を照らし、
輝かせていた。

「…柏木さん」

 僕の声に彼女は足を止め、振りかえる。僕は彼女に向かって手を上げ、思いを言葉に乗せた。

「ありがとう」

 僕の言葉を受けた彼女は悪戯っぽく笑うと、ウインクしながら親指を立ててみせた。

「GOOD LUCK!」



 その顔はとても眩しかった。



                                    驟雨 終