驟雨(6)  投稿者:R/D


 雨が降っていた。屋上は雨に濡れていた。下の方からサイレンの音が聞こえる。二人は声もな
く互いに睨み合っていた。

「随分と派手な陽動をやったもんだな」

 叔父が陽気な調子で男にそう話しかける。男の表情は変わらない。曇りかけた眼鏡の下から叔
父を黙って見ている。

「病院の裏で騒ぎを起こし、警備の注意を引いた後で屋上から病棟へもぐりこむ。やろうと思っ
てもなかなかできることじゃない」
「あんたは騙せなかったがな」

 男は落ち着いた声でそう答える。雨に濡れた髪から雫が落ちる。男は奇妙なほどの静けさをた
たえていた。まるで贔屓チームの試合の予想でもしているかのような気楽な様子。その男と問答
する叔父も、のんびりとした調子で話す。

「そりゃま、あれだけコンビを組まされればな。まあ、お前が考えそうなことは何となく予想が
ついちまうよ」
「そうかい」

 僕は口を挟むことができなかった。叔父も、男も、僕がやってきたことには気づいているはず
だ。だが、二人とも僕の方に視線を動かそうとすらしない。二人はただ互いを睨んでいた。その
眼は、互いだけに据えられていた。叔父が口元に浮かべていた笑みを消し、低い声を出す。

「…もういいだろう。ここまでにしろ」
「ここまで?」
「そうだ。お前がやっていたことは分かっている。阿部貴之の部屋からは指紋も出ているんだ。
これ以上バカなことをするな」
「バカなことか。あんたの目にはそう見えるんだな」
「誰が見てもそう思うさ。だから」
「生憎と俺は今捕まるわけにはいかない。まだやらなきゃならんことがあるからな。そこにいる
餓鬼に、俺の手で罰を下すという仕事が」
「罰だと」

 叔父の声に怒気が混ざる。

「罰を受けなくてはならないのはお前だ。隆山の公園で起きた連続殺人事件、柏木家の一家惨殺
事件、それに女子高生らの拉致事件。全てお前がやったことだ」

 叔父の声が高まる。

「鬼と化したお前の仕業だ」

 男の表情に初めて変化が現れた。口元を強く引き締め、眼鏡の奥の眼を細めて叔父を見る。

「…何を言っている」
「とぼけるなよ。そして警察を嘗めるな。例えどんなに信じられないことでも、他に可能性がな
ければ検討しろ。お前にはそう教えたはずだ」
「そしてあんたは後輩に教えたことを実践している、というわけか」

 男が口元を歪めた。彼は笑っていた。それは凄絶な笑みだった。鬼の笑みだった。

「まったく大したもんだ。俺が鬼だと気づいていたから、だから屋上からやってくると踏んでこ
こで見張っていたのか」
「普通の人間ならヘリでも使わなければ無理だがな。もういいだろう。これ以上、お前が罪を重
ねるのを見たくはない」
「…あんたは何か勘違いをしているようだな」
「勘違いだと」

 男の口が耳元まで裂けた。僕は驚愕に一歩退いた。

「俺は自分のしていることが罪だなどと、これっぽっちも思っちゃいない。俺はただ自分の力を
振るっているだけ。狩猟者として獲物を狩っているだけだ」
「何だとっ」
「罪の意識を持っているのは、むしろそっちの餓鬼の方だろう。何しろ人間を二人も廃人にした
んだからな」

 叔父が驚きの表情と伴に僕に視線を走らせる。僅かな隙。しかし、男にとってはそれで十分だ
った。叔父の視線が外れた瞬間に男は驚異的な速度で動いていた。男の腕がしなやかに動く。次
の瞬間に叔父の身体が宙を舞った。男の口元から牙が見える。指の先に尖った刃物のようなもの
が。その眼が赤く輝く。
 叔父の身体がコンクリートに落ちる。血飛沫が舞う。僕のすぐ隣に叔父の身体が横たわる。僕
は身動きが取れなかった。男から眼を離すことができなかった。身体が凍り付いていた。足が石
像のようだった。

「これで邪魔者はいないな」

 男の身体が急激に変貌を始めた。僕はただ呆気に取られて見ていた。自分の眼が信じられなか
った。男の全身の筋肉が膨れ上がり、服が弾け飛ぶ。口元から覗いていた牙が伸び、指先の爪が
巨大化し、鉈のようになる。頭部からは角が聳え、身体中を分厚い体毛が覆う。
 僕はやっと理解した。柏木さんの言葉を、叔父の台詞を。目の前にいる異形の存在。人間とは
まったく異なるものを見て。

 それは鬼だった。

「さあ」

 鬼がゆっくりと僕に近づく。その赤く染まった眼が僕を見る。眼に宿る光が、感情が僕を射竦
める。

「…月島の仇を、討たせてもらうぞ」

 仇を、復讐を。

『――お前が瑠璃子さんをっ』

 僕は彼女の仇を討とうとした。復讐しようとした。そして今、僕のやった復讐が新たな復讐を
生み出そうとしている。

『…月島の仇を』

 鬼が近づく。その眼は、かつての僕の眼だった。瑠璃子さんを助けようとし、月島さんを壊し
た時に僕が囚われていた激情が、鬼の眼の中で荒れ狂っていた。僕は、昔の自分と向き合ってい
た。昔の自分に殺されようとしていた。因果は巡る。己の過ちは己自身で償わなければ。

 瑠璃子さんの顔が遠くに見えた。鬼が腕を振り上げた。瑠璃子さんは僕を見ていた。泣いてい
た。瑠璃子さんの眼から溢れ出た涙の雫が…。

 悲鳴。



 僕はコンクリートの上にへたり込んでいた。目の前にいた鬼が衝撃で弾き飛ばされるのを、ま
るで夢でも見ているかのようにぼんやりと眺めていた。奇妙にゆっくりと鬼は宙を飛び、金網に
追突する。衝撃で金網が歪み、水滴が飛散する。鬼は瞬時に体勢を立て直していた。鬼の眼が自
分を突き飛ばしたモノを見る。僕の目の前に立っているモノを。

「――まだ、終わっちゃいないっ」

 荒い息の下からそう叫んだのは柏木さんだった。彼女は右腕を左手で押さえていた。その格好
のまま左肩から鬼に突っ込んだのだ。彼女の右腕は力なく肩からぶら下がり、その指を幾筋もの
血が滴っていた。見ると腕を押さえている左手の指の隙間からも赤いものが覗いている。乱れた
髪の下に見える首筋にも。

「しぶとい奴だ」

 鬼が低く呟く。柏木さんは僕に視線を配った。彼女の顔は半分ほど流血で染まっていた。

「その刑事さんを連れて早く逃げな」

 彼女の引き裂かれた服を雨がつたう。僕は彼女に眼を釘づけにされていた。彼女の眼も同じだ
った。あの鬼と、昔の僕と。

「逃がしはしない。お前たちは全員、俺の獲物だ」

 鬼はそう言うと跳躍した。顔を戻した柏木さんが左手を振り上げながら鬼に向かって走る。二
つの影は正面からぶつかり合った。衝撃が音となって僕を襲う。水と血が激しく舞う。柏木さん
が吼える。鬼が叫ぶ。
 柏木さんの身体から、異常な気が広がった。最初に彼女に出会った際に感じた圧迫感が何百倍
にも増幅されて僕を襲う。それに合わせるように鬼からも気が放出される。人ではあり得ない、
人には発することができない空気が二つの影から出て屋上を覆う。

『同族に会ったんだなっ』

 柏木さんがかつて言った言葉が思い浮かぶ。僕はやっとその言葉を理解した。同族なのだ。彼
女はこの異形の者と同じ種族なのだ。

 柏木さんもまた、鬼なのだ。

「無駄なことをっ」
「黙れっ。あたしはあんたを殺すっ」

 復讐鬼の言葉が僕を打つ。二つの鬼は再び間合いを取って互いの様子を窺っている。僕はいざ
るように横へ動いた。叔父の身体に触れる。叔父が呻いた。僕の心に迷いが浮かんだ。
 柏木さんの言う通り、叔父を連れてここを逃げ出すべきなのだろうか。叔父の怪我の具合は分
からないが、先ほどからほとんど動かないところを見ると深刻な状態かもしれない。ならば彼女
の言葉に従って叔父を抱えてここから脱出した方がいい。
 だが、それでは柏木さんはどうなるんだ? 彼女だって無傷じゃない。おそらく、この男がや
った陽動とは柏木さんと戦うことだったのだろう。予め病院の外に彼女をおびき出し、そこで怪
我をさせ、警備陣が気づいたところで病棟へ移動したのだ。あの驚くべき跳躍力を使って。
 とにかく、陽動に使われた彼女がここまで来たということは、おそらく警備陣もこちらへ近づ
きつつあるに違いない。ならばそれを待った方がいいかもしれない。彼女を見捨てるより、ここ
で応援を待った方が。
 でも、応援が来たとしてあの鬼を倒すことができるだろうか。叔父は組織の力があればどんな
化け物でも勝てると言っていた。だが、目の前の鬼を見ているととてもそうは思えない。誰が来
たところで、あの鬼に殺されるだけではないのか。

「千鶴姉のっ、楓のっ、初音のっ」

 柏木さんが叫びながら腕を振りまわす。鬼がそれをかわしながら後退していく。僕は叔父の身
体に手を回した。とにかく、すぐ動けるよう準備だけはしておかなくては。力のこもらない足に
無理やり意識を集中させ、何とか立ちあがろうとする。

「耕一の仇っ」

 柏木さんの一撃を身体を回転させながらいなした鬼は、勢い余って身体が泳いだ彼女に強烈な
打撃を叩きこむ。柏木さんの胴体は激しく屋上に衝突し、溜まっていた水が跳ねる。彼女の顔が
苦痛に歪むのが見えた。
 僕は思わず叫んだ。彼女の方へ駆け寄ろうとして、叔父を抱えていたことに気づく。柏木さん
が体勢を立て直すより早く、鬼が鉈のような爪を振り上げる。その下には彼女の身体がある。僕
はほとんど無意識に静止の声を上げようとした。

「…なぜ月島に会おうとしたんだっ」

 声は僕の隣から聞こえた。鬼の動きが止まる。

「答えろ、柳川っ。どうして今になって、月島に会おうと思ったんだっ」

 叔父は苦痛を堪えるように大声を上げていた。鬼が僕を、僕が抱える叔父を見る。その眼が微
かに揺れる。

「…言ってやろうか。お前は思い出そうとしていたんだよ。自分が、何で警官になろうと決意し
たのかを」

 鬼の腕が震える。

「お前が昔住んでいたアパートの大家に話を聞いたよ。お前が母親と一緒に住んでいたあのアパ
ートだ。月島とは近所づきあいをしていたんだってな。お前は月島家の子供たちとよく遊んでい
たそうじゃないか」
「…黙れ」

 鬼が口を微かに動かす。叔父は構わずに話し続ける。

「彼らの両親が引き逃げ事故で亡くなった時には、子供たちのためを思って泣いたんだってな。
両親を失い、苦労する彼らのために」
「黙れ」
「大家から聞いたよ。お前がその時に言った言葉を。あんな子供をこれ以上生み出してはいけな
い。だから自分は将来警官になって、弱い人を守りたいって」
「黙れぇっ」

 鬼がこちらに向き直り、大声を上げた。その眼が爛々と光る。巨躯がゆっくりとこちらへ近づ
いてくる。

「だから月島に会いにきたんだろう。自分の初心を取り戻すために。お前は鬼になった。数多の
人を殺した。だがな、お前の中にはまだ警官だった時の心が残っているはずだっ。弱い者を守ろ
うとしていたあの時の思いがっ」
「…駄目だ。もう…遅い」

 鬼の口から苦しそうに言葉が漏れる。その眼に理性の光が宿っていることに気づき、僕は驚き
を覚えた。そこには苦悩と悲しみがあった。己の成した罪に怯える魂があった。僕はただ黙って
その眼を見ていることしかできなかった。

「遅くはない。まだ」
「遅いんだよ、長瀬さん。なぜなら」

 鬼の眼から、涙の雫が零れた。ただ一粒の雫が。

「俺はもう、変わってしまった。もう、引き返せなく…なった」

 鬼の眼にあった光が消え、再びその瞳が赤く染まる。口元はまたしても耳元まで裂け、邪悪な
笑みがその顔を覆う。僕は黙ってそれを見ていた。それもまた、僕の姿だった。自分のしでかし
たことを悔いながら、やがてはその後悔の思いすら失って行く。それは鏡に映った僕の似姿。僕
の影。

 僕は近づく鬼を黙って見ている。鬼はゆっくりと腕を振り上げる。



 血飛沫。



「……!」

 その血は僕の目の前にある影から吹き出していた。柏木さんが僕と鬼の間に割り込んでいた。
鬼の爪が彼女の肩に食い込んでいる。彼女は自由に使える左手で鬼の腕を抱え込んでいた。

「ば…かやろうっ」

 彼女のかすれた声が耳を打つ。

「早く、逃げろって言っただろっ」

 僕の顔を雨とは異なる液体が流れ落ちる。彼女が流した血液が僕の唇をつたう。僕は彼女を見
た。濡れた髪を乱して振りかえった彼女の顔は、なぜだかとても美しかった。

「…こいつは、あたしがやる」

 柏木さんは笑っていた。僕を見て、口元を緩めて。彼女は鬼の方に振りかえると、ゆっくりと
鬼を押し始めた。鬼は掴まれた腕にさらに力を入れ彼女の肩を切り裂く。それでも柏木さんは鬼
を押し続けた。まるで僕と叔父から鬼を遠ざけようとするかのように。

 僕の中で何かが急激に膨れ上がっていった。

 柏木さんと初めて出会った時のことを思い出した。クラスメートの前で挨拶する彼女の顔が浮
かんだ。屋上で僕を問い詰めた時の顔が、病院から出てきた僕に質問を投げかけた声が、叔父に
背中を向けて教室から逃げ出した時の後姿が。
 切迫した思いが僕を突き動かす。衝動に駆られ、激情に動かされ、僕は頭の中で渦を巻いてい
るものを解き放った。僕の周囲に火花が散る。荒れ狂う力が屋上を駆け巡る。かつて使った力。
月島さんを壊した力。瑠璃子さんを失ってから封印してきた力。僕はその力を鬼に叩きつけた。

 衝撃。

 鬼の膝が崩れる。鬼の喉から悲鳴が搾り出される。柏木さんの身体に食い込んでいた爪が外れ
る。鬼は自分の頭を抱え込む。柏木さんはそれを呆然と見守る。叔父は眼を剥いて僕の周囲を飛
び交う粒を見る。

 僕は何も考えていなかった。考えるより前に力を使っていた。

 鬼の爪が縮む。身体を覆っていた体毛が抜け落ちる。角が消える。牙が引っ込む。鬼はコンク
リートの上でもがいている。その身体がどんどん小さくなる。周囲に発していた威圧感が消えて
行く。



 そして、そこには一人の男が残された。



 雨が降りしきる。病院の屋上に横たわる裸の若い男。その眼からはすべての光が失われ、その
身体は力なく投げ出されていた。
 僕はゆっくりと膝をついた。男の眼を見た。それは月島さんと同じ眼。僕が壊した。あの時と
同じように。僕はまた、同じ事を繰り返した。
 男の傍に立っていた柏木さんが呟く。

「…なにが、起きたの」

 僕は黙っていた。

「ねえ、何よこれ。何がどうなってんのよっ」

 柏木さんの声が次第に大きくなる。

「何をしたのっ、何をしたんだよ長瀬っ」

 彼女は僕を見る。僕は黙って男を、男の抜け殻を見つめる。

「あたしの仇になにをしたんだっ」

 僕は答えない。彼女は僕から眼を逸らし、人形のような男を見る。

「…こいつは、あたしの仇だ」

 彼女は腕を振り上げる。もはや彼女はあの周囲を圧する気を発してはいない。

「だから、あたしがとどめを…」
「止めなよ、もう」

 僕は呟く。彼女は振り上げた腕を止める。

「もう終わったんだ。君の復讐も、この人の狂気も。もう、これ以上」
「どうしてっ」

 彼女の悲鳴に僕は顔を上げた。柏木さんは泣いていた。見開いた眼から、次々と涙の雫が流れ
落ちていた。

「あたしはずっとこいつを追ってきたんだっ。あの時からずっと。なのにどうして」

 涙が雨と一緒にコンクリートの上に落ちる。雫が跳ね、男の手に降り注ぐ。

「…どう、して」

 僕はゆっくりと立ちあがると彼女の振り上げたままになっている手を握り、それを下へ降ろし
た。柏木さんの手は濡れて冷たくなっていた。

 雨は降り続いていた。