驟雨(5)  投稿者:R/D


「この写真だ」

 叔父はそう言って僕に顔写真を見せた。そこにはおとなしそうな表情をした若い男が写ってい
た。眼鏡をかけた瞳の奥にある感情は見えない。身分証明用の写真となれば誰もが顔を作るから
感情が見えないのも当たり前だが。

「どうだ、間違いないか」

 無表情な男の眼に、先ほど見たあの人間離れした何かは感じられない。だが、顔の造作は間違
いなく僕が屋上で出会った彼のものだ。僕は写真から顔を上げると、黙って頷いた。

「そうか」

 叔父はそう呟き、写真を懐に仕舞った。男が校舎の屋上から地面まで飛び降りた姿は教師に目
撃されていたらしい。教師は教頭に報告し、教頭は叔父に連絡した。叔父が学校に駆けつけ、男
と出会っていた僕らを探し当てるまではほとんど時間がかからなかった。手際良く関係者から事
情を聴取し、情報を集めたのだろう。屋上から教室に引き上げた僕らの服が乾くよりも早く、叔
父は僕らを見つけ出した。警察関係者なればこその早業だった。
 僕の隣に座っている柏木さんは黙って叔父を見ていた。濡れた髪はほとんど乾いていたが、ま
だ制服は黒く湿ったままだ。カチューシャを外した彼女の短い髪が額の上で乱れている。首筋に
タオルを引っ掛けた格好で、彼女は叔父の様子を窺っていた。
 その眼に、あの光があった。

「叔父さん」

 僕が声をかけると、彼はゆっくりと僕に視線を移した。その顔が酷くやつれて見えることに気
づき、僕は驚いた。叔父はとても疲れた表情で僕を見ていた。

「…何だ」
「その写真の人、いったい誰なんですか」

 柏木さんが僅かに身を乗り出す。叔父は僕を無表情で見つめている。日が暮れかけた教室の中
は白々しい蛍光灯の明かりで照らされ、その下にいる3人の者たちを浮かび上がらせる。外から
は相変わらず雨の音が聞こえてきた。

「事件の参考人だ」
「どの事件ですか」
「色々な事件の、な」

 呟くように答えた後で、叔父は柏木さんに視線を向けた。彼女の爛々と光る眼は叔父を一直線
に捉えている。叔父は僕に視線を戻すと口元を歪めた。

「…おいおい。これじゃまるでお前が警官で俺が参考人みたいじゃないか」
「でも」
「いいか、これは捜査のうえで極めて重要なことなんだ。余計な質問をして時間を無駄にするよ
うな真似は慎んでくれ」
「叔父さん」
「お前はこの写真の男と屋上で会った。今日の放課後、時間は4時過ぎ。そうだな?」
「叔父さん、その人は…」
「質問はなしだ。お前は知っていることを話せばいい。さて、お前は屋上でその男と何について
話したんだ?」
「答える必要はないよ、長瀬」

 いきなり柏木さんが口を挟んだ。叔父があの刑事の目で彼女を見る。彼女の眼は叔父を射抜く
かのようだった。

「これは任意の捜査だ。あたしたちが答えなくちゃいけない義務はない」
「確かにその通りだ」

 叔父が間髪を入れずに反論する。

「…だが、答えなければそれだけこちらの心証を悪くすることを忘れては困るな」
「あたしの心証はもう十分に悪いはずだろ」
「誰がそんなことを言ったんだ」
「聞かなくても分かるよ。あの時のあんたらの態度を見ていればね、刑事さん。あたしの家族が
殺された時に捜査にやってきたあんたの顔に書いてあったよ」
「何と書いてあったんだ?」
「あたしのことを危ない奴だと思っていたんだろ。鬼がいる、鬼に殺されたっていうあたしの言
葉を聞いて、そう考えたんだろ」

 鬼。

 あれが鬼だ。柏木さんは屋上でそう言った。確かに、屋上から飛び降りて何の怪我もなかった
ことだけ見れば人間業とは思えない。でも、それ以外は普通だった。僕が見たあの男は、一見し
てただのサラリーマンにしか見えなかった。その底冷えがするような眼以外は。
 僕は何気なく首筋に手をやった。傷に触れ、痛みが走る。あの男に首筋を掴まれた時に傷がで
きていた。まるで猛獣に噛みつかれたような傷があった。

「…確かに、そう思わなかったと言えば嘘になる」

 叔父は低い声で話す。

「だが、こちらも仕事でやっているんだ。どんな可能性だって検討はしているさ。そして」
 叔父の口元が微かに緩んだ。
「あながち、お前の言うことも間違いじゃないと、今はそう思っている」

 柏木さんの眼の色が変わった。信じられないという表情が彼女の顔を覆う。彼女の変化を読み
取った叔父さんは心底楽しそうな笑みを浮かべた。それは実に意地の悪い笑みだった。

「いいか、警察はバカじゃない。お前たちヒヨッコが知らないような情報もすでに持っている。
隆山で何が起きたのか、誰がそんなことをしたのか、もう見当はついている」
「誰だっ」

 柏木さんがものすごい勢いで立ち上がった。彼女が座っていた椅子が倒れる。

「誰がやったんだっ。あの男は誰なんだっ」

 そのまま彼女は叔父の胸倉を両手で掴み上げた。僕は慌てて二人の間に割って入ろうとする。

「落ち着いて、柏木さん落ち着くんだ」
「答えろ、あいつの名前を教えろっ」
「離すんだ、柏木」

 叔父が落ち着いた声で彼女に向かって言う。

「今すぐこの手を離せ」
「離してほしけりゃ答えろっ、あの男の名前をっ」
「公務執行妨害で拘束してもいいんだがな」
「何だとおっ」
「やめなよ、柏木さんっ」

 僕は必死に彼女にしがみついた。彼女の力は、とても女性とは思えないほど強いものだった。
腰に掴まった僕は自分の身体ごと彼女に振りまわされていた。

「そうだ、止めた方がいい。自分で仇を討とうなどと考えるのはな」

 叔父の声が僕の耳を打った。柏木さんの動きが止まる。彼女が息を呑むのが分かった。叔父は
まったく口調を変えずに話し続けた。

「これは殺人事件だ。それも極めて悪質なものだ。ただの素人が出るべきじゃない。専門家であ
る我々に任せるんだ。そうしなければお前だって」
「警察に任せるだってっ。あの時は警官だってあっさり殺されていたじゃないかっ。警察なんか
に手におえる相手じゃないんだっ。あれは、あいつはっ」
「組織の力を侮らないほうがいい」

 叔父はゆっくりと立ちあがり、自分の手で柏木さんの腕を掴んだ。

「例えお前の言う通り、これが人間離れした化け物の行った犯罪だったとしても、警察という組
織が本気になればその化け物だって捕まえることはできる」

 胸倉を掴んだ彼女の手をゆっくりと外しながら、叔父が言葉を続ける。

「組織とはそういうものだ。ただの人間である警官個人はその化け物に敵わずとも、人間たちが
組織を作って動き出せばほぼ対抗することは不可能だ。もしかしたら、さらに大勢の警官が被害
に遭うかもしれない。しかし、最後に勝つのは組織の側だ。集団の力だ」
「…だけど、だけど」

 柏木さんは力のない声を上げる。僕は彼女を掴んでいた腕の力を緩め、彼女の顔を見上げた。
彼女は唇を噛み締めていた。その眼に宿る光が揺れていた。

「祐介」

 叔父が僕を呼んだ。僕は慌てて叔父の方に振り向く。

「何が屋上であったのか、話してくれ」

 叔父は真剣な瞳で僕を見ていた。

「柏木にバカなことをさせる訳にはいかない。こいつに復讐などさせちゃならない。分かるな、
祐介」

 僕は叔父の台詞を聞き、ゆっくりと頷いた。いきなり柏木さんが背中を向けた。そのまま教室
の出口へ駆けて行く。僕は思わず彼女の名を呼んだ。彼女は足を緩めることなく、教室から走り
出していった。

「…気にするな。とにかく犯人を捕まえることが先決だ」

 叔父の言葉に頷きながら、それでも僕は彼女が出て行った方向から目を逸らすことができなか
った。彼女の思いから、彼女の無念から。

 あの眼が、心の中で僕を見る。



 雨が降る。冷たく、寂しい雨が降る。僕の目の前には外灯を照らした大きな家があった。月島
さんたちを引き取った親戚の家。その家が雨の中、無言で立ち尽くしていた。

 あの時、僕は月島さんを背負って学校からこの家まで運んだ。瑠璃子さんが僕の隣にいた。二
人とも無言だった。何も話したくなかった。ただ、黙って月の照らす夜道を歩いた。夢の中にい
るかのような一時だった。
 玄関で彼女は僕を見た。そして、唇が触れるだけのキスをした。それが最後だった。僕が動く
彼女を見たのは、その時が。次に彼女を見た時、彼女はもう眼を開かなかった。

 瑠璃子さんの眼が僕を見る。屋上で、叔父から探索の依頼を受けた直後に、彼女が僕を見た。
かつて同じクラスにいた美しい少女が、虚ろな瞳で世界を見るようになってしまったことに、僕
はショックを受けた。
 瑠璃子さんの眼が僕を見る。屋上で、夕焼けに赤く染まった彼女が僕を見た。彼女は僕を呼ん
でいた。僕に来てほしいと、助けてほしいと。僕も叫んでいた。誰か助けてくれ、このままじゃ
僕は消えてしまう。この世界からいなくなってしまう、と。
 瑠璃子さんの眼が僕を見る。生徒会室で、狂宴に巻き込まれた僕を見た。彼女は僕に手を差し
伸べた。そこから僕を連れ出そうとしてくれた。僕は彼女についていった。そうすることが正し
いと思えたから。そうすることが彼女の望みだと思ったから。
 瑠璃子さんの眼が僕を見る。体育館の片隅で、彼女の記憶が僕を焼く。僕は力を手に入れ、そ
の力を持って歩き出した。巻き込まれた女の子たちを助けるために。自分が英雄になれる。彼女
を助けることができる。僕はそのことに酔っていた。
 月島さんの心の奥にもぐり込んで行った時、彼らの過去を見た時、そこにいた瑠璃子さんは僕
を見ていなかった。彼女が見ていたのは兄だった。彼女を狂気の縁へと追いやった張本人。なの
に彼女は彼を見ていた。僕は嫉妬に狂った。彼女の代わりに僕が復讐しようと思った。
 月島さんを壊した。

 そして、瑠璃子さんの眼は僕を見なくなった。

 雨は止まない。この家が、二度と月島さんたちを迎え入れることがないだろうと思われる白塗
りの家が、雨に濡れて微かに光る。月島さんたちをそういう運命に陥れたのは僕だ。僕は怒りに
任せ、復讐の炎に身を投じた。そして、僕はあの時に得たすべてを失った。

『――お前が瑠璃子さんをっ』

 月島さんを壊そうとした時、僕はその眼を見ていた。その眼には僕の顔が映っていた。僕の眼
が映っていた。怒りにぎらつき、妄執に凝り固まった眼だった。ただ復讐だけを念じ、他の全て
が見えなくなっている眼だった。
 今の柏木さんと同じ眼だった。

 踵を返し、歩き出す。僕は復讐を遂げ、彼女を失った。瑠璃子さんは僕を置き去りにし、僕は
取り残された。僕に残ったのは、後悔と罪の意識だけだった。
 僕は今でも消えそうになっている。この世界からいなくなってしまいそうになっている。そし
て心のどこかで、そうなることを望んでいる。この世界に生き続け、やがて瑠璃子さんを忘れて
しまうくらいなら、いっそ彼女のところへ…。

 雨の音が、僕の耳元で鳴り続けている。



 病院の玄関に制服警官が立っているのを見つけ、僕は踵を返した。僕の話を聞いた叔父が早速
手配したのだろう。玄関に叔父はいなかったが、中にいるか、そうでなければ捜査に駆けまわっ
ているに違いない。おそらく昨日の夜からずっと。僕のもたらした情報を追って。

 あの男は言っていた。月島さんたちと自分とは古い知り合いだと。そして、しばらく音信不通
になっていたと。何時頃から連絡が途絶えていたのかは分からない。どんな知り合いだったのか
想像もつかない。とにかく、あの男はそう言っていた。
 若かった。多分、まだ20代だろう。その姿を見る限りでは学生や自由業でなく、会社員のよ
うな立場にいると思われる。眼鏡の奥から覗く瞳の落ち着いた様子といい、僕の突拍子のない話
を聞いても余り顔色を変えなかったことといい、かなり肝の据わった人物じゃないだろうか。
 ただ、若いとはいえ月島さんや僕とは結構年の差がありそうだ。学校の先輩後輩といった関係
には見えない。どちらかの家庭教師でもやっていた人物だろうか。いや、それもおかしい。月島
さんたちを引き取った親戚の人は、ほとんど彼らを厄介者扱いしていたようだ。わざわざ家庭教
師を雇うことはしないだろう。
 それに、問題は彼がおそらく**県隆山のあの惨殺事件とかかわりがあるという点だ。少なく
ともこの夏、あの事件が起きた際には彼は**県に住んでいたと考えるのが妥当だろう。しかし
ながら、月島さんたちが**県に所縁があるという話はまったく聞いたことがない。おそらくか
つてそこに住んだこともないだろう。そこであの男と月島さんが知り合った可能性はほとんどあ
るまい。
 あるいは、あの男はかつてこの街に住んでいたことでもあるのだろうか。そこで月島さんと出
会ったのか。その可能性はある。でも、世代が違いすぎるだけに、接点は余り多くなさそうだ。
少なくとも月島さんや瑠璃子さんが通っている学校で出会ったということは考えにくい。むしろ
近所の住人だったとか、親同士が知り合いだったとか、そういう理由の方がありそうだ。
 親同士? 駄目だ。月島さんの両親は彼が小さい時に死んでいる。それとも、まだ月島さんが
小さい頃の知り合いだったのか。まだ彼らの両親が生きている頃の。いや、それなら何で今にな
って急に月島さんに再会しようとするんだろうか。長い間音信不通だった相手に、それもかつて
はほんの子供だった相手に、なぜ今になって。

 目を上げると校門にたどり着いていた。色とりどりの傘が降り注ぐ雨の下で揺らめく。僕はそ
の間を縫って校舎へ向かった。考えても仕方がない。叔父の言う通りなんだ。専門家である警察
に任せるのが一番いい。僕のような素人が何かしようと思っても、ろくなことにはならない。あ
の時だってそうだった。僕は自分だけで事態の解決を図ろうとして、失敗した。事件を終わらせ
ることはできたが、被害は防ぐことができなかった。いや、むしろ被害を増やした。瑠璃子さん
を失った。
 教室に入り、僕はため息をついた。そうだ。一人でできることは限られている。どんなに強い
思いを持っていても、それだけで事態を打開できるとは限らない。警察に、組織に任せた方がい
いに決まっている。
 柏木さんにもそう言おう。そうした方がいいと伝えよう。そうした方がいいと。

 彼女は姿を見せなかった。



 一時限目が終わる頃には僕は居ても立ってもいられなくなっていた。胸騒ぎを押さえることが
できない。どうして彼女は姿を見せないんだ。なぜ休んでいる。なぜ。彼女の眼が何度も頭に思
い浮かんだ。叔父に止めろと言われたときに見せた、堪えきれぬ思いが溢れたその眼が。僕は唇
を噛み締めた。
 授業の終了を告げるチャイムが鳴ると同時に僕は席を立った。急ぎ足で柏木さんの席の隣に座
る女生徒に近づく。この数日、彼女が最も仲良く話していた相手だ。僕はその女生徒の名を呼ん
だ。思ったより大声で。振り向く彼女に息せき切って訊ねる。

「柏木さん、どうしたのか知らない?」
「え?」

 僕の様子に圧倒されたのか、その娘は軽いパニックを起こしたようだった。当惑した表情を浮
かべる彼女に苛立ちながら、僕はもう一度大声で質問を繰り返した。

「あ、あたし、知らないけど…」

 その台詞だけ確認すると僕は彼女に背を向け、大急ぎで教室を出た。背後でクラスメートが何
か言っているが、すべて無視した。気にも留めなかった。それどころじゃない。何かが起きてい
る。僕は走るように職員室へ向かった。

 職員室へ飛びこんだ僕は、中にいる教師たちを一斉に振り向かせることになった。僕は真っ直
ぐ担任の席に向かう。視界の隅に楽しそうな表情を浮かべてこちらの様子を窺っている叔父の姿
が映る。担任は口をぼんやりと開けて近づく僕を見ていた。

「柏木さんから連絡はありましたか」

 もしかしたら彼女は風邪か何かで休んでいるだけかもしれない。あるいは何か急用が生じたと
か。それなら教師には連絡しているはずだ。

「どうしたんだ長瀬。えらく怖い顔をして…」
「連絡はあったんですか」

 担任の声を遮るように質問を再度ぶつける。担任は僕の勢いに押されるように身を引きながら
首を横に振った。

「いや、今日は何の連絡も…」
「早退します」

 僕はそう言うと担任に背を向けた。心の中で一つの予感が育っている。いや、それはほとんど
確信と言っていい。もしこの予感が正しければ、こんなところにいる場合ではなくなる。僕は担
任の呼びとめる声を無視し、職員室を飛び出した。廊下を抜け、階段を駆け降りる。荷物も傘も
教室に置きっぱなしだが、取りに行く暇はない。僕は校舎を飛び出し、雨が降る校門を駆け抜け
た。

 病院に急がなくては。彼女を止めなくては。

 あの男が僕を問い詰めていた時の台詞を、彼女が聞いていた可能性がある。彼女が飛び出して
くる寸前に僕が喚いていた言葉が、彼女の記憶に残っていたかもしれない。僕は確か、月島さん
や瑠璃子さんの名前を叫んでいた。あの男も月島と言っていた。もしもそれを柏木さんが聞いて
いたら。月島の名が、あの男と関係があることに気づいていたら…。
 彼女は昨日、僕を尾行していたと言った。僕が病院に寄った時も、きっと後を尾行けていたに
違いない。僕がどの病室を訪ねていたかを探るのは難しいことじゃない。その病室に入院してい
る人の名も簡単に分かる。月島拓也と月島瑠璃子。あの男の知り合い。あの男が、柏木さんの仇
が再会を求めていた兄妹。
 病院への道を駆けながら、僕は確信していた。柏木さんはあそこにいる。あそこで男が現れる
のを待っているに違いない。自らの手で決着をつけるため。復讐を成し遂げるため。昨日、叔父
と僕の前から姿を消した彼女は、間違いなくあそこにいる。

 病院が見えてきた。ついしばらく前に見たときに入り口にいた警官の姿がなかった。僕は院内
に駆けこむ。待合室にいた老人を突き飛ばしそうになり、謝りながら走り続けた。息を切らせて
階段を駆け上がる。雨に濡れた身体から水滴を飛ばしながら、僕は必死に足を動かした。
 瑠璃子さんの眠る病室がある階にたどり着く。病室めがけて最後の力を振り絞ろうとした時、
僕の耳に奇妙な音が飛び込んできた。階段の上の方から、聞き覚えのある叫び声がする。僕は瞬
時に行き先を変更した。音を頼りに階段を上る。足が攣る。疲労で腰から下が言うことをきかな
くなる。僕はよろめく足を踏みしめ、屋上へと行きついた。

 扉を開けた。雨が降っている。降りしきる雨の下、二人の男が対峙していた。
 叔父の長瀬刑事と、あの男だった。