驟雨(4)  投稿者:R/D


 病室には誰もいなかった。いけられた花はいまだ鮮やかに僕の眼を射る。二つのベッドに眠る
二人の兄妹は、いつもと変わらぬ穏やかな顔だった。そして、壁もカーテンも、いつものように
白かった。
 窓の外の景色もこの数日変わらない。激しくはなく、だが止むこともなく、空から灰色の水滴
が落ちてくる。窓を雨が叩く音が続く。僕は彼女の傍に近づいた。やつれた少女の顔が、大きな
枕の中、静かに横たわっている。彼女が眼を閉じ、この世界から消えてどのくらい経過しただろ
う。閉じられた瞼の下にあるどこか虚ろな瞳を見たのは、どれだけ前のことだったか。
 腕時計を見る。あまりゆっくりはしていられない。学校もそろそろ始まる。受験が迫っている
この時期に意味も無く休むわけにはいかない。それに、柏木さんに会わなければならない。会っ
て話を聞かなければ。僕は出口へと振りかえった。
 視線の片隅を白い何かがよぎった。それは花瓶の下に敷かれていた小さな紙片だった。僕は何
の気なしにその紙片を手に取った。折りたたまれた小さな紙。メモ帳か何かを破りとったものの
ようだ。僕は紙片を開き、衝撃を受けた。

『長瀬祐介へ。月島の件について話がある。放課後、学校の屋上へ来い』

 何の変哲もない、ボールペンで書かれた文字。その綺麗な楷書を見ながら、自分の身体がどう
しようもなく震えてくるのを感じていた。その僅かな文字に込められた書き手の意思に、僕は怯
えていた。文字の間から立ち上る感覚に歯の根が合わぬほどの恐れを感じた。本能だったのかも
しれない。僕は白い部屋の中で凍り付いていた。

 月島の件とは何だろうか。決まっている。あのことだ。あの事件、僕の人生を変えたあの冬の
事件のことだ。僕は独りぼっちで泣いていた。世界を憎み、その破壊を妄想していた。そこで僕
は彼女と出会った。彼女と一緒になった。モノトーンだった僕の世界に、彼女が色と音とを取り
戻してくれた。
 僕は有頂天になっていたのかもしれない。その出会いに、自分がまだこの世界で必要とされて
いることに。調子に乗った僕は、自分が彼女を守るナイトになれると思いこんだ。彼女を助け出
す英雄になれると。

 そして僕は、取り返しのつかないことをした。

 この部屋は僕の罪。ここは僕を罰するために作られた場所。僕は一日も休まずにここを訪れ、
自らがかつて犯した咎と向き合った。彼女は何も言わずに僕を迎える。僕を見ず、僕の声も聞か
ず、ただひたすら過ぎ去る時の中にいる。そして、取り残された僕はやつれ、衰えて行く彼女の
顔をひたすら見つづける。
 それが僕の受ける罰。そう思っていた。ここを毎日訪れることが、取り残された自分がやらね
ばならないことなのだと。だが、それだけか。それだけなのか。

 時は流れる。僕を取り巻く日常は厭でも変わっていく。新しいクラス、新しい日常、迫る大学
受験、勉強に追われる日々。春が来て、新入生が入学し、教室が変わり、夏が来て、クラスメー
トたちの間で受験の話題が増え、秋が来て、教師が目の色を変えて、そしてまた冬が。
 ゆっくりと過ぎ去る時間の中、僕の中で彼女の面影は薄れて行った。僕が覚えている彼女は白
い病室で枕に埋もれるように眠る姿だけ。あの娘はどんな声を出したのか、どんな表情をしてい
たのか、どんな仕草を見せたのか。
 どんな眼をしていたのだろうか。もう、思い出せない。
 僕の罪は目の前にあるのに。
 変わりつづける彼女の顔を見ても、もう何も思わなくなった。心の疼きも消え、痛みも感じら
れなくなってしまった。僕の心は過ぎ行く時間の中で何時の間にか厚い鎧をまとい、何者にも傷
つけられなくなっていた。

 そして僕はその事実に気づいてしまった。このメモが、僕に宛てられたこの手紙が、それに気
づかせた。
 そうだ、僕は罪を忘れている。自分が犯した犯罪を。忘れないように病室へと通ったのに、そ
の行動すらもルーチンワークとなってしまった。僕は、僕は…。



『我はわが咎を知る。わが罪は常にわが前にあり』

 病院を出た僕の前に立っていたのは柏木さんだった。

「…話があるわ」

 彼女はあの眼で僕を見た。僕はポケットの中に入れた紙片を固く握る。俯いて彼女から視線を
逸らした。今は彼女と顔を合わせたくなかった。既視感を呼び起こすその眼を見ていたくなかっ
た。

「昨日は何で早退したのさ」

 何の関係もない話をぶつける。時間稼ぎにしかならない。彼女は僕から何かを聞き出そうとし
ている。僕も彼女に聞きたいことがあるはずだ。だが、今は止めてほしい。とてもそんな気には
なれない。

「…あんたを尾行するためだよ」
「え?」

 思わぬ彼女の台詞に僕は顔を上げた。また、あの眼が僕の視界に飛びこんできた。焦燥感に満
ちた、思いつめた眼。僕の頭の中で何かが叫ぶ。お前は罪人だ。罪人であることすら忘れた罪深
い魂だ。

『――オマエガッ』

「気になることがあってね。どうしてもあんたの動向を掴んでおきたかったのよ」

 彼女はそう言って一歩、僕に近づいた。

「ここで誰に会ったの」
「…そろそろ学校が始まるよ」

 僕は彼女から目を逸らし、そう呟くように言った。とにかく苦痛だった。彼女と話をしたくな
かった。この場所にすらいたくなかった。

「そんなことはどうでもいい」
「どうでも、って」
「答えてもらうまで放すつもりはないよ。ここで、誰に会ったの」
「…………」
「何で学校へ行く途中にこの病院に寄ったの」
「…………」
「昨日もそうだったんだろ。この病院に来ていたんだろ」
「…………」
「誰に会ってたんだよ、長瀬っ」
「…何で」
「え?」
「何でそんなことを聞くんだよっ」

 僕は顔を上げて怒鳴った。彼女が少しだけひるんだように見えた。

「僕がいつ病院に来ようと、そこで誰に会おうと君には関係ないだろっ。何でわざわざ僕の後を
尾行までしてそんなことを調べるんだっ。君とは関係ない、何の関係もないっ」

 病院の駐車場にいたガードマンがこちらを見ている。喧嘩だと思っているのだろうか、いざと
なったら止めに入るつもりかもしれない。頭の片隅でそんなことを考えながら僕は彼女の前で荒
い息をついた。頭の中が熱くなっていた。あの紙片に書かれた言葉が僕を責めさいなんでいた。
柏木さんの眼が僕の心を乱していた。
 目を瞑る。こみ上げる激情を一生懸命押さえてみる。深呼吸。僕の耳に彼女の声が聞こえた。

「…関係あるんだよ、あたしには」

 低い、落ち着いた声だった。僕はゆっくりと瞼を上げた。目の前の柏木さんはさっきとまるで
変わらない表情で僕を見ていた。僕の激発も彼女には全く動揺を与えなかったらしい。彼女は繰
り返した。

「関係あるのさ。あんたが誰に会っていたのか、あたしにはとても重要なことだ」
「何でさ」

 彼女の眼が微かに揺らいだ。彼女はその眼で自分の姉妹の惨殺死体を見たのだ。自分がたった
一人でこの世に取り残されることになったその現場を、他の誰でもなく彼女が最初に発見したの
だ。

「あんたはあたしの同族と会っている」
「…………」
「あたしの仇と出会っている。でなければあんたの周囲に同族の臭いが感じられるはずがないん
だ。あんたは見たはずだ、この病院であたしの同族を」

 眼が昏い光を放つ。既視感。

「鬼と、会っていたはずだ」
「…お、に」
「そうだ。鬼だ。人を喰らい、人を殺すあの…」
「ふざけるなっ」

 怒りの余り、目の前が見えなくなりそうだった。

「なにが、何が鬼だっ、どうして彼女が鬼なんだっ」
「…彼女?」
「いくら、いくら何でも言っていいことと悪いことがあるぞっ。彼女は、瑠璃子さんは鬼なんか
じゃないっ。第一、お前が彼女の何を知っているんだっ。何も知らないくせに、何も知らないく
せにっ」

 僕の剣幕に押され、彼女が後ずさる。駐車場にいたガードマンが慌ててこちらへ駆け寄ってく
るのが見えた。僕は走り出した。ガードマンから、柏木さんから、病院から、瑠璃子さんから逃
げ出すために。

 鬼だって? とんでもない。瑠璃子さんは、あの女性はそんなんじゃない。彼女は僕を助けよ
うとしてくれたんだ。僕がその恩を仇で返すことになるとは思わずに。

 そうだ。鬼は彼女じゃない。鬼と呼ばれるのは僕の方こそふさわしい。



『私のこと、忘れたの』
 違う。そんなことはない。
『嘘』
 嘘じゃないよ、忘れてなんかいない。だって…。
『だって、何?』
 だって僕は毎日、病院へ行っていたんだ。病院で、君と、君のお兄さんをお見舞いしていたん
だよ。あの時から一日も休まず。
『だから?』
 だから忘れてなんかいないさ。忘れたくても忘れられないよ。だって毎日会ってたんだから。
『やっぱり嘘』
 嘘じゃないっ。
『嘘よ。だって長瀬ちゃんは私の声を覚えていないでしょ』
 そ、それは。
『私の表情も、仕草も、眼も、何もかも忘れているくせに』
 だって、だって瑠璃子さん、いつも目を閉じているじゃないかっ。いつも眠っているじゃない
かっ。
『だから忘れたの』
 仕方ないだろっ。忘れたくなんかないけど、でも僕が見ることができるのは瑠璃子さんの寝顔
だけなんだから。
『本当に仕方ないと思っているの?』
 本当だよっ。
『本当に忘れたくないの?』
 本当だってばっ。
『…いいえ、違う。長瀬ちゃんは忘れたいの』
 そんなことはないっ。
『忘れたいのよ。だって長瀬ちゃんはお兄ちゃんをあんな目に遭わせたんだもの』
 そ、それは。
『私がこうなったのも、長瀬ちゃんのせい』
 瑠璃子さんっ。
『だから忘れたい。自分がやってしまったことを』
 違う、違うんだっ。
『忘れてしまえば楽になれる。自分が罪人であることさえ忘れれば、自分だけは幸せになれる』
 そんなことは考えていないっ。
『でも、過去は消えない。起きたことはなかったことにはできない』
 分かってる、分かってるよそんなことはっ。
『だから』



 授業は苦痛だった。僕の脳裏で瑠璃子さんが話しつづけていた。僕は彼女に謝った。必死に頭
を下げた。それでも瑠璃子さんは話を止めなかった。僕はひたすら頭を下げて時が過ぎるのを待
ち続けた。あの時のようだ。世界が色を失い、音を失い、僕は消えてなくなりそうだった。
 だけど、あの時と同じじゃない。あの時、僕は自分を被害者だと思っていた。周囲を取り巻く
日常こそが僕をモノトーンの世界に閉じ込めようとする元凶。だから僕はその日常を憎んでいれ
ばよかった。でも、今は違う。僕は被害者ではなく加害者だ。僕には逃げ場はない。他人を憎む
ことはできない。憎まれるべきは、恨まれるべきは自分自身だ。
 ポケットに入れた紙片がかさりと音を立てる。それは僕を告発する声。その紙に文字を書き記
した誰かが僕を糾弾する。お前が彼女をあんな風にしたのだ。正義漢を気取ったお前のしたこと
が、彼女をあそこまで追い詰めたのだ。それだけではない。お前はそのことを忘れようとしてい
た。お前はその記憶を風化させ、過去へ塗り込めようとしていたのだ。そうだ、お前は罪人だ。
 罪人だ。
 あのメモは僕を罰するために送り込まれたものかもしれない。あの事件の記憶を薄れさせ、罪
悪感を消そうとしている僕に対して。僕に審判を下すために。

 昼休み、柏木さんが僕の方に近づいてきた。何か言いたい様子だったが、僕はそれを無視して
席を立った。

「長瀬っ」

 彼女の声を背に逃げ出すように廊下へ出た。走ってトイレへ駆けこむ。そのまま隠れ続けた。
誰とも会いたくなかった。このまま消えてしまいたかった。やつれた瑠璃子さんの顔が脳裏に繰
り返し繰り返し思い浮かんだ。月島さんのやせ衰えた手が僕の前でゆっくりと揺れていた。頭を
抱え込んだ。厭だ、もう厭だ。早く放課後になってくれ。そうすれば僕は屋上へ行く。そこで終
わるんだ。
 そこで、僕に審判が下るんだ。

 午後の授業の間。僕は瑠璃子さんと話をし続けた。



 雨が降り続いていた。僕はゆっくりと顔を上げた。何時の間にか、教室からはほとんど人影が
消えている。もう放課後になっていたようだ。僕は鞄を掴み、ゆっくりと席から立ち上がった。
瑠璃子さんが呼んでいる。廊下へと足を踏み出した。
 薄暗い廊下を歩く。あの時もこうして廊下を歩いた。屋上で夜まで過ごし、日が暮れた後にな
って彼女と、瑠璃子さんと一緒に。僕はその時と逆のコースをたどり、階段を上る。雨の音がす
る。この世界を一色に塗り込めようとするかのように、雨の音がする。
 扉。ここを開ければ屋上だ。あの時、そこで僕は真っ赤に染まった空を見た。その空の下で僕
に向かって微かに微笑む彼女を見た。風が彼女の細い髪をさらさらと揺らしていた。彼女の眼に
赤い空が映った。瑠璃子さんがいた。

 扉を開ける。

 降りしきる雨の下、傘も差さずに立ち尽くしていたのは、スーツを着込んだサラリーマン風の
若い男だった。その眼鏡が光を反射した。

「…お前が長瀬だな」

 男はそう言った。低い、感情のこもらない声だった。僕はその男を見た。男は酷く雨に濡れて
いた。それを気に留める様子はなかった。ただ、僕に冷たい視線を送っていた。

「聞きたいことがある」
「…月島さんのこと、ですか」

 声がかすれる。この男が本当に審判者なのだろうか。彼は僕を罰するために現れたのか。

「そうだ。お前が毎日、彼らの病室を見舞っていると聞いたのでな」

 男が僕に一歩近づいた。

「俺は月島たちとは古い知り合いだ。最近まで互いに音信不通だった。先日、久しぶりに会おう
と思ったら、あんなことになっていた」

 人間の声とは思えないほど、平版な口調だった。

「彼らにいったい何が起きたのか、俺はそれを知りたい」

 僕の心臓が跳ねあがった。やはりこの男は僕を糾弾するためにここに現れたのだ。僕の罪を暴
き、罰を下すために。

「病院の連中は何も知らなかった。誰に聞いても分からない。知っているとすれば長瀬、お前だ
けだ」
「……あ」
「何が起きたんだ、あの二人に。何であんなことになっているんだ」

 男がさらに僕に近づく。眼鏡に隠れたその瞳が僕を捉えた。それを見て僕は気づいた。この眼
は人間のものではない。もっと異なる何者かの眼だ。

「…それは」

 人間でないものが僕に近づく。それは審判者。僕の罪を問う異世界からの使い。

「僕の、せいだ」

 男の動きが止まった。

「僕のせいだ。僕が、僕が月島さんを壊したんだ」

 男が眉を顰める。僕はその顔を見ながら喋り続けた。

「そうだ。僕が壊したんです。月島さんが瑠璃子さんに酷いことをしていたから、だから僕は彼
女のために月島さんに罰を与えたんだ、いや」
「何を言っている」

 男が低い声を出す。

「だから僕がやったんですよ。あの二人をあんな風にしたのはこの僕だ。僕が彼女からもらった
力で壊したんだ。そしたら彼女も壊れた。自分を壊した。僕はだから毎日あの病室に通って彼女
を見守ろうとしたんだ。そうだ。毎日会っていればもしかしたら戻ってきてくれるかもしれない
から。僕を置き去りにした瑠璃子さんが戻ってきて。でもそんなことはなかった。そりゃある訳
ないよ。だって彼女をあんな目に遭わせたのは僕なんだから。僕のために彼女がそんなことをし
てくれるはずがな」
「おいっ」

 男が僕の胸倉を掴み上げた。僕の身体が金網に押し付けられる。男は僕の眼を覗き込むように
しながら言った。

「もっと分かるように言え。お前は月島たちに何をしたんだ」
「壊したって言ってるでしょ。僕が壊したんだ」
「壊しただと? 彼らが目を覚まさなくなった原因がお前にあるとでも言うのか」
「そうだよっ。僕が壊したんだ。月島さんの精神を、瑠璃子さんの心を、僕が、僕が」

 男の目が細められる。その瞳が赤く染まっているような気がした。僕は取りつかれたように喋
り続ける。赤い瞳に魅入られたように。

「僕にはその力があるんだよ。僕だけじゃなくて月島さんにも瑠璃子さんにもあるんだけどね。
誰も信じちゃくれないだろうね。でも本当だ。僕が壊した。壊したんだ。あなたが月島さんとど
んな関係があるのか知らないけど、なぜ月島さんたちのことを調べているのか分からないけど、
とにかくやったのは僕だ。僕が壊したんだ」
「…それは、本当か」

 男の声がさらに低くなる。答える僕の声はほとんど悲鳴に近かった。

「嘘じゃないっ。僕だ、僕がやったんだ。月島さんが憎かった。瑠璃子さんにあんなことをした
彼が、それでも瑠璃子さんに心配してもらえるあの男がっ。だから壊した。壊したんだよ僕が。
あいつを壊せば、瑠璃子さんは僕だけを見てくれるかもしれない。あいつがいなければ僕だけに
なる。僕だけが瑠璃子さんの近くに」
「本当らしいな」

 男が僕を掴んだ腕に力を込める。彼の周囲に何かこれまで感じたことがないような空気がまと
わりつく。その圧力に僕は我を失う。やっぱりそうだ。これは審判者だ。僕の罪を問い、僕に罰
を与えるためにやってきた何者かだ。僕は罰せられる。瑠璃子さんを悲しませた罪で。

「ならば、俺は貴様を殺すまでだ」

 男が空いた手で僕の首筋を握った。爪が首に食い込む。痛みと同時に呼吸困難が僕を襲う。頚
動脈を締められ、目の前が次第に暗くなる。審判だ。これは僕が犯した罪に対する…。

「…貴様ぁっ」

 甲高い声が響いた。僕の首を握った手が離れ、僕の身体はコンクリートの上に崩れ落ちる。屋
上に溜まった水が跳ね、僕の顔を濡らす。滲んだ視界の中、見なれぬ制服をまとった影が男に向
かって走っていくのが見える。

「同族か」

 男の呟くような低い声が耳に入る。その声に向かって影が躍りかかる。

「殺してやるっ」

 影が男に重なる。二つの姿がもつれ、倒れる。僕は呆然とそれを見つめる。影は少し揉みあっ
た後ですぐ二つに分かたれる。男は金網を背に前かがみの姿勢を取っていた。もう一つの影は片
膝をついて男の様子を窺っている。

「…そうか、柏木の生き残りだな」
「貴様だなっ。貴様が耕一を、千鶴姉を、楓と初音をっ」

 膝をついていた影はゆっくりと立ち上がった。柏木さんだった。その瞳が赤く染まっていた。
その中にあの光がある。僕を苛立たせるあの眼。

『――お前がっ』

 既視感。

「耕一の仇っ」

 柏木さんが凄まじい勢いで男に向かって突進する。男は僅かに身を沈める。次の瞬間、男の姿
が消えた。勢い余って柏木さんは金網に衝突する。金網がひしゃげた。

「逃げるなあっ」

 男の姿が金網の向こうに見え、すぐに消えた。僕はゆっくりと立ち上がった。金網へと近づき
そこから遥か下の地面を見る。そこにはあの男が立っていた。先ほどとまったく変わった様子も
なく、屋上にいる僕らを見ていた。

「貴様っ、そこから動くなよっ」

 僕の隣にいる柏木さんがそう言うと同時に男は走り出した。とても人間とは思えないほどの速
度だった。その姿はすぐに見えなくなった。僕は、雨に濡れた金網にもたれ、呆然と男が消えた
方角を見ていた。首筋から流れる血にも気づかずに。



「あれが鬼よ」

 自分を取り戻したのは、柏木さんのその声を聞いた時だった。僕はゆっくりと彼女を見た。金
網を強く握り締める彼女の眼は、僕の心に突き刺さった。

「…長瀬、あんたはあいつとどんな関係があるの?」

 彼女は僕を見ていた。その眼。既視感。僕は彼女の眼から視線を外すことができない。

「いったい何の用であんたはあいつを」

 その眼が、僕を苛む。
 瑠璃子さんの、声が聞こえる。

「…僕を罰しに来たんだ」

 自分の声が遠くから聞こえるようだった。頭の中で大きな鐘がいくつも鳴り響いているようだ
った。僕は誰かの顔を、誰かの瞳を覗きこんでいる。柏木さんが眉を顰めた。

「罰しに?」
「そうだ。僕は取り返しのつかないことをした。月島さんを、瑠璃子さんを、壊してしまった。
僕が壊した」
「長瀬、あんた何を言って…」
「憎かったんだ。月島さんが。だからあんなことをした。するべきじゃなかったのに。そんなこ
とをしても瑠璃子さんが喜ぶわけはないのに。だから」
「ちょっと長瀬…」
「だから瑠璃子さんは僕を置き去りにした。仕方ないんだ。僕がやったことが原因なんだから。
そうだよ、僕がいけなかった。そう思ったからずっと月島さんのお見舞いを続けたんだ。忘れな
いように、忘れてしまわないように」
「なが…」
「だけど僕は忘れそうになっていた。いや、忘れたかった。瑠璃子さんを忘れようとしていた。
僕だけが幸せになろうとしていたんだ。そんなことは許されない。だから来たんだ。僕に自分の
罪を思い出させるために、僕を罰するために」
「…………」
「彼は僕を殺すと言ってた」
「何だってっ」
「仕方ないよ。僕は罪を犯して、しかもそれを忘れそうになっていたんだから。それを許せなか
ったんだ。だから彼は僕を」
「ふざけるなっ」

 柏木さんは大声を上げると僕の肩を両手で掴み、僕を激しく揺さぶった。

「それじゃなに、あんたあの鬼に殺されても良かったってのっ」
「だって仕方ない…」
「いい加減にしろよっ」

 頬に衝撃が走った。僕は手を上げて自分の頬を押さえる。目の前にいる女性が僕を平手で打っ
たことに気づくのに、多少の時間がかかった。

「殺されても仕方ないだって? 本気で言ってるんじゃないだろうねっ」
「だって…」
「あんたが過去になにをしたのか、何で悲劇の主人公ぶっているのか、あたしにはわかんないけ
どねっ」

 柏木さんが顔を近づける。その瞳に僕の顔が映る。僕の眼が映る。僕の眼が揺れる。

「あたしの目の前でこれ以上誰かを殺されてたまるもんかっ。これ以上、あんなものを見るわけ
にはいかないんだよっ。殺されたきゃあたしの目の届かないとこまで行きなよ。地球の裏側でも
何でもいい。あたしの目の前では、もう誰も殺させやしないっ」
「…か、柏木さん」
「誰も、誰もこれ以上…」

 彼女の眼から涙が溢れていた。激情の余り、流れ出した雫が頬を零れ落ちる。それを見て、僕
はやっと思い出した。彼女に初めて出会った時から感じてきた既視感の正体を。その眼に宿る光
を。

『――お前が、瑠璃子さんをっ』

 その眼はかつて、僕自身が持っていたのと同じものだった。激情に駆られ、焦燥と憤怒に突き
動かされていた僕が、月島さんに見せた眼と。
 瑠璃子さんの代わりに月島さんに復讐しようとした僕が、同じ眼をしていた。