驟雨(3)  投稿者:R/D


『長瀬ちゃん、電波届いた?』

 雨に濡れる病棟から歩み出す。折り畳み傘を開き、教科書が詰った鞄を持ちなおして歩く。叔
父との約束のため、今日は学校へ行く前に病院を訪ねた。本当は面会時間ではないはずだが、付
き添いの女性が気づいてくれたので、彼女に会うことができた。病室はいつもと同じ。白い壁に
白いカーテン。僅かに変化があったのは、花瓶にいけてあった花だけだった。
 学校が見えてきた。周囲に学生服が溢れる。賑やかにさんざめきながら登校するのは1、2年
生だろう。受験生でそれだけの余裕を持っている者は少ない。僕は重い足取りで校門へと向かっ
ていった。
 見なれぬ制服が視界に飛びこむ。心臓が跳ね上がった。柏木さんだ。真っ直ぐに顔を上げ、大
またで足を進めている。宝塚の男役のような立ち居振舞いだ。ショートカットの髪型も含め、女
子に人気が出そうな要素を満たしている。
 僕は頭の中に浮かぶどうでもいい考えを振り払い、改めて彼女を見た。彼女は校舎へ向かって
自分のペースを守りながら歩いている。僕は無意識のうちに足音をひそめ、彼女の後を追った。
それが叔父との約束だった。

『彼女を見張るんだ。いいな』

 昨日、あの喫茶店で叔父はそう言った。真剣な顔つきで、感情を窺わせない眼を僕に向けなが
ら。隆山の事件の関係者がこの場所に現れた。そのことを叔父は重視している。彼女がいかなる
理由でここに来たのか、何を狙ってわざわざこの時期に転校してきたのか。それを探るのが僕の
役目だ。

 教室に入った彼女は早速クラスメートから挨拶を受けていた。一見にこやかに応じている。少
し遅れて教室へ到着した僕は彼女から顔を逸らすように自分の席へと向かった。級友たちに囲ま
れる彼女を自分の席から窺う。彼女はなぜこの時期に転校してきたのだろう。どうしてあの惨殺
事件について調べていたのだろう。
 彼女がふと顔を上げた。その視線が僕とぶつかった。

 既視感。

 僕は目を逸らした。急いで鞄から教科書を取り出すふりをする。やっぱり素人の自分が他人の
動向を見張るのは難しい。さりげない様を装ってみたいが、とてもできない。チャイムが鳴った
ときは密かに安堵のため息をついていた。



 雨が降っている。冬の訪れを告げる冷たい雨。その雨音をBGMにしながら、教室に詰め込ま
れた生徒たちが無言でペンを走らせる。柏木さんの様子に変化はない。皆と同じようにノートを
取っているだけだ。僕は横目で彼女を見ながら、ノートを取るふりをしていた。これでまた成績
が落ちるかもしれない。そうなったら叔父の責任だ。大学受験に失敗したら予備校の授業料くら
いは負担してもらおうか。
 教師が淡々とした口調で説明をする。生徒は黙ってそれを聞く。単調な教師の声はよく子守唄
に例えられる。まだ受験が迫っていない時期であれば、それに誘われて眠る生徒も多い。でも、
この時期にそんな神経の太い奴はいない。モノトーンの音を聞きながら目の色を変えて必死に手
を動かしている。
 もしかしたら、この風景は宗教行事と似ているかもしれない。単調な声はある種の呪文。それ
を聞く信者たちがほとんどトランス状態で一定の行為を繰り返す。それをすれば我が身に奇跡が
訪れると信じているかのように。
 唐突に儀式の終わりを告げる鐘が鳴った。教師は何事もなかったかのように教科書を小脇に抱
えて教室を去る。弛緩した空気がその場を覆い、堰が切れたように皆がおしゃべりを始める。僕
はゆっくりと教科書を鞄に仕舞いながら眼の隅で柏木さんの様子を窺った。
 彼女は席を立って扉へと歩き出すところだった。その姿が教室を横切り、僕の視界から消え去
る。僕は慌てて立ちあがり、教室の扉へ急いだ。叔父には彼女からできるだけ目を離すなと言わ
れている。僕は廊下へ出た。

 柏木さんは階段を上っていた。僕はできるだけ気づかれないよう注意しながらその後を追う。
彼女は真っ直ぐに上へ向かっている。目的地がはっきりと決まっているかのように。だが、上の
教室にいったい何の用事だろうか。そもそも、転校してきたばかりの彼女がそんなに校舎内に詳
しいとも思えないが。
 でも彼女は足を緩めなかった。僕はやむを得ず階段を上る。どこまで行くつもりなのだろう。
これより上はもう屋上しかない。しかし、そんなところに用事があるとはとても思えない。そも
そも外は雨だ。屋上に出たって濡れるだけで、いいことなど何もない。それに。
 それに、僕は屋上にはあまり近づきたくない。
 そんな思いを無視するように彼女は最後の踊り場を通りすぎ、屋上へと通じる扉を開けた。コ
ンクリートを叩く雨音が大きくなる。柏木さんは振りかえりもせずに屋上へと足を踏み出した。
彼女を飲みこんだ扉がゆっくりと閉まる。

 何てことだ。僕は思わず舌打ちをした。本当に屋上へ出るとは思いもしなかった。いったいど
うすればいいんだ。目を離すなと言われているのだから、やはり彼女を追って僕も屋上へ行くべ
きなのだろう。だが、おそらく屋上には僕と彼女しかいない。彼女に何をしに屋上へ来たのかと
問い詰められでもしたら困った事態になる。
 僕は踊り場に立ち竦み、バカみたいに屋上へ通じる扉を見ていた。壁の向こうから降りしきる
雨の音が聞こえてくる。屋上へ出た柏木さんが何をしているのか、全く分からない。僕は取りあ
えず階段を上って扉に耳をつけた。聞こえるのは雨音だけ。柏木さんの様子は掴めない。
 僕は深呼吸をした。仕方がない。不自然なのは覚悟のうえで屋上へ出てみるしかない。何しに
来たのかと問われたら、彼女こそこんなところに何の用だと切り返すとしよう。僕は扉のノブを
掴み、屋上へ出た。

「……!」

 屋上へ出た僕はいきなり襟首を掴まれた。そのまま扉の横にある壁に身体を押しつけられる。
たたらを踏んだ足が水溜りに嵌まり、水滴が跳ねた。冷たい雨が顔を打つ。襟首を掴んだ腕は強
い力で僕の動きを封じている。壁に押しつけられた背中に冷気が伝わってくる。でも、それを感
じる心の余裕はなかった。

「…来ると思ったよ」

 柏木さんは信じられない力で僕を壁に縫い付けていた。片手だけ。襟首を掴む右手だけで僕は
身動きが取れなくなっていた。

「さあ、話をしてもらおうか」

 低い声だった。それでもその声は雨音の中ではっきりと僕の耳を貫いた。柏木さんは顔を寄せ
て僕を睨む。あの眼が、眼の光に僕は射抜かれる。

 既視感。

『――オマエガッ』

「言っとくけどね、とぼけようったって無駄だからね」

 どうやら柏木さんは僕が彼女を見張っていたことに気づいていたようだ。どこで失敗したのか
は分からないが、彼女がここへ来たのも僕をおびき出すために違いない。叔父に託された役目は
早くも破綻したようだ。素人の僕に依頼する方が悪いのだが。

「…いつまで隠しているつもりだい」
「ごめん。やっぱバレてたんだね」
「なら早く正体を現しなよ」

 正体? 僕に仕事を頼んだ叔父との関係についてだろうか。とにかくここは大人しく言うこと
を聞いた方がいいと思った僕が口をあけた瞬間、柏木さんが眉を顰めた。

「…あ、あんた」
「いや、実は僕は頼まれて」
「もしかしたら、同族じゃないのか…」
「へ?」

 襟首を掴む右手に彼女が力を入れた。服がよじれ、息が苦しくなる。

「ちょ、ちょっと」
「どういうことだっ。何であんたが同族の臭いをまといつかせているんだっ」
「ど、同族って」
「どこかで会ったんだな、おい、そうなんだろっ」
「くる、くるし」
「答えろっ。会ったんだろう鬼にっ」

 鬼。

 鬼って何だ? いったい何の話をしてるんだい、柏木さん。鬼がどうしたんだよ。君が巻き込
まれた事件、叔父が追っている事件に関係しているのかい。どうして僕にそんなことを聞くんだ
い。ねえ、柏木さん。
 声が出ない。憤怒の形相に染め上げられた彼女の顔がぼやけていく。その声が遠ざかる。



 目の前が明るくなる。意識が戻ってくる。

「おう、気づいたか」

 瞼を開いた僕の視界に最初に飛び込んできたのは、長瀬教諭の顔だった。叔父は僕の顔を見て
いつもと同じように顎の不精髭を撫でた。

「ったく、何で屋上なんかで寝てたんだ」
「…屋上?」
「おう。何ってったっけ、あの転校生がわざわざここまで連れてきてくれたんだぞ。ずぶ濡れに
なってな」
「柏木…さんが」
「ああ。後で礼を言って」

 僕はベッドの上で跳ね起きた。そこは医務室だった。校医の姿は見えず、何故か叔父が傍の椅
子に腰を下ろしている。

「おいおい。落ち着けよ」
「柏木さんは今どこにっ」
「ああ、教室じゃないのか。そろそろ授業が終わる時間だが」

 僕はすぐにベッドから降り、立ち上がった。壁のハンガーにかけられた上着を掴む。ほとんど
乾いているようだ。僕は手早くそれを着込むと医務室を出ようとした。

「落ち着けと言ってるんだがな」

 叔父の声に振り向く。叔父は相変わらず呑気な様子を崩さない。これがこの人なりの処世術な
のだろう。何が起きても取りあえず傍観者のような顔を見せる。そうすれば本当に傍観者になれ
る可能性が高い。そうやってトラブルに巻き込まれない人生を送ってきたに違いない。

「お世話になりました。授業に戻ります」
「まあ、焦るな。今から戻ったってほとんど授業なんぞ受けられないぞ」

 叔父はゆっくりと椅子から立ちあがり、僕の顔を面白そうに眺めた。

「それよりお前、柏木って娘とどんな関係なんだ」
「え?」
「無関係のお前をわざわざ屋上から運ぶとも思えないし、お前はお前で柏木の名前を聞いたとた
んに飛び出そうとするし」

 にやにやと笑う叔父。僕をからかっているらしい。

「…僕も教えてもらいたいですよ」
「あん?」

 不思議そうな顔をする叔父に背中を向けて扉を開ける。廊下へ歩き出しながら僕は叔父に声を
投げかけた。

「屋上で僕を気絶させたのは、彼女ですよ」

 そうして叔父の返事を聞く前に扉を閉める。そのまま教室へ向かって走り始めた。問い詰めな
くてはならない。叔父の長瀬刑事には見張るだけにしろと言われていたが、もうそんなことを言
っている場合ではない。こちらから問うべきだ。彼女の狙いを、その言動の理由を。

 僕に見張りを依頼した叔父は、彼女のことをある事件の関係者だと言った。その事件とは、こ
の夏に**県隆山で起きた連続猟奇殺人事件のことだった。街中にある公園を通りがかった複数
の人間が、無残に引き裂かれて殺されたあの事件。確か、犯人は近くに住む大学生だった。事件
現場で行方不明になっていた女子高生らが、その大学生の部屋に監禁されているのが見つかった
と報道されていた。大学生は薬物中毒だったらしい。
 同時に隆山の旧家で起きた一家惨殺事件も、彼の犯行だと目されていた。地元の名家で旅館を
経営している一族が、公園と同じような手口で殺されていた。その家の姉妹3人と、遊びにきて
いた従兄一人が。

『その一家のただ一人の生き残りが柏木梓だ』

 叔父はそう言っていた。彼女は事件の当日、ちょうど家を離れていたらしい。第一発見者も彼
女だった。彼女は家族のすべてをあの事件で失っていたのだ。

 ただ警察は、報道されたように大学生が犯人だと単純に考えてはいないようだ。身柄を確保さ
れた大学生はほとんど廃人同然であり、とてもあのような事件を起こせる状態ではなかったと叔
父は話していた。
 叔父がこの地へ捜査に出向いてきたのも、そうした疑問があったからだという。先日起きた年
配の男性の惨殺事件が、隆山の事件と何らかの関わりがあるのではないか。そういう見方がある
から、叔父が出張することになったそうだ。ところが出張先で叔父は偶然、柏木梓を見つけた。
叔父の心に疑惑が生じた。
 これは偶然ではないのかもしれない。そもそも、彼女だけがあの事件で生き延びたというのも
不自然といえば不自然だ。何のためにこの土地へ来たのかも分からない。だから、彼女の動きを
見張った方がいい。そして、都合のいいことに、彼女が転校したクラスには自分の甥がいた。

 僕が教室にたどり着いた瞬間、チャイムが鳴った。目の前でいきなり扉が開かれる。教室から
出てきた教師は僕を見てちょっと吃驚していたが、すぐ足早に去った。僕は彼女を探すため教室
へ入った。
 いなかった。授業が終わり、帰り支度を始めているクラスメートの中に、彼女の制服は見当た
らなかった。ひとわたり顔を見まわしても同じ。僕は彼女の席まで急いで歩み寄ると、隣席の女
生徒に慌てて話しかけた。

「柏木さん? 今日は早退したわよ」

 全身を脱力感が襲った。彼女を問い質そうと意気込んでやってきたのに空振りとは。僕は自分
の席にへたり込んだ。

「おいおい、なに落ち込んでるんだよ長瀬。もしかして、柏木さんと一緒に帰りたかったとか」
「うひょお、やーるねぇ」

 周りでクラスメートが囃し立てる。僕は俯いたまま苦笑した。叔父といい、こいつらといい、
どうしてそういう風にしか考えられないのだろうか。僕が彼女を追っているのは、そういうこと
とは関係ない。

 柏木さんの眼が思い浮かんだ。