驟雨(2)  投稿者:R/D


 鬱陶しい雨だった。さして大降りでない、かと言って傘をささずに済むほど僅かでもない。黒
い折り畳み傘の柄を握り、学校への道を歩きながら僕は考えた。今降っている分を、別の日にま
とめて大雨にしてしまえば効率がいいのに。

『雨の日は、マンホールの蓋を開けて地下に潜ればよく聞こえると思うの』

 彼女の言葉が頭に浮かぶ。屋上で会話を交わした時、僕に向かって行ったあの言葉。童女のよ
うな笑みを浮かべ、虚ろな眼で僕を見ていた。細い髪が風になびき、白いうなじで揺れて。あの
冬の終わりの日。穏やかに晴れた日。
 校門で足を止める。顔を上げると、校舎と金網に囲まれた屋上が見える。あの時、僕たちがい
たあの場所。今は微かな雨に濡れ、冷たく横たわる。
 僕は目を伏せて教室へと向かった。

 授業前のざわめき。教室内を覆ういつもの騒音。僕は腰を下ろすと鞄から英語の教科書を取り
出した。戦争で日本に勝った国の言葉、何万人もの人間を焼き尽くす爆弾を使って日本を打ち負
かした国の母国語。そんなことを思いながら英語の授業を受けたこともあった。室内を舞うチョ
ークの粉をぼんやりと眺めながら。
 彼女はあの頃、どんな思いで授業を受けていたのだろうか。扉を開きかけた彼女。兄を止めよ
うとして救世主となるべき人を探していた彼女。
 屋上で電波を集めていた彼女の前に、同級生の姿をした救世主が現れた。だけど、それは本当
は神の姿を真似た悪魔だった。その悪魔は彼女の兄を、そして彼女自身を扉の向こうへと追いや
ってしまった。二度と戻れない世界の裏側へ。
 英語の授業を受けていたあの時の僕は、いずれ自分がそんな役割を果たすことになるなど想像
もしていなかった。ただ、自分がこの灰色をした世界の被害者だと思いこみ、復讐の妄想だけを
繰り返していた。自分は悪くない、この世界が悪い。僕は被害者でこの世界が加害者。だから僕
は復讐する、この世界を滅ぼす。

『――オマエガッ』

 その僅か後に、僕は加害者になった。世界などという曖昧なものにではなく、名前を持った具
体的な人に対して、取り返しのつかないことをした。僕は…

「…本当かよぉ」
「マジだって。本当に転校生らしいぜ」

 周囲の声に自分を取り戻した。気がつくと手がじっとりと汗で滲んでいる。両手をこすり合わ
せながら僕は心の裡で呟いた。分かっている。自分がしたことは分かっている。今更繰り返すま
でもない。それは消えようのない事実なのだから。
 扉が開いた。担任が来たらしい。周囲で駄弁っていた連中が慌てて席に走る。何とも言いよう
のないざわめきとともに。僕は教科書を睨みつけたまま小さく深呼吸をする。

「…よーし、静まれ。ほら、静かにせんか」

 担任の声が聞こえる。ざわめきは一向に収まらない。僕は顔を上げて、凍りついた。

「あー、こんな時期だが、転校生だ。**県の方から来たんだ。いろいろ都合があってどうして
も転校せざるを得なかったんだな。まぁ、あまり長い付き合いにはならないだろうが、みんな仲
良くしてくれよ。じゃ、自己紹介を」

 妙に若者ぶった担任の声を真面目に聞く者はほとんどいなかった。だが、彼女が口を開く段に
なると、教室内の騒音は見事に静まった。

「…柏木梓と言います。よろしくお願いします」

 僕は彼女から目を逸らすことができなかった。昨日、街角で見かけたあの女性が、今は見なれ
ない制服に身を包んで教室の中にいる。つり目がちの大きな瞳に引き締まった口元。その眼から
窺えるのは、強い意思。いや、違う。何か偏執的な、取り憑かれた者が見せる異常な執着心のよ
うなものが…。
 担任の指示に従い柏木さんが最後列の席へ向かう。僕の傍を通る時、目が合った。その表情が
変わる。僕のことを憶えていたようだ。僕は彼女の目を見た。
 何かが思い出せそうな気がする。その瞳の奥に、その心の内に、僕を惹きつけるモノがある。
 柏木さんは僕から視線を外した。そのまま席に座り、教壇を見る。僕とは目を合わせようとし
ない。

「さあ、それじゃ始めるぞ」

 担任が大声を上げる。柏木さんに集中していたみんなの関心が教壇へ向かう。僕も仕方なく前
を向き、それから再び彼女の様子を窺った。女性にしては大柄な身体は、周囲と違う制服のせい
もあって教室の中で違和感を醸し出している。僕は彼女を見ながら、嫌な予感が心を覆っていく
のを感じていた。



 休み時間になると、彼女の周囲にはクラスメートの輪ができた。高校3年生の2学期も終わり
というこの時期に転校する生徒など、普通はいない。よほど特殊な事情がない限り。となれば、
どんな事情があったのかを知りたくなるのは人情だろう。噂好きの女生徒たちが真っ先に彼女を
取り巻き、続いて男たちがさりげなく近づく。男の場合は別の狙いもあるのかもしれない。

 僕は彼らに背中を向けて廊下へ出た。あの事件をきっかけに極端な人嫌いは無くなったという
ものの、すぐに親しい友人を作れるほど僕は器用ではなかった。今でも休み時間は一人で過ごす
ことが多い。僕は廊下の窓に凭れた。
 窓ガラスは雨に濡れていた。外気温と差があるのだろうか、ガラスの内側は少し曇っている。
息を吐きかけると曇りが強まり、ほとんど外が見えなくなった。白い平面を見ながら、僕は黙っ
て時間が過ぎ去るのを待っていた。

「おい、祐介」

 廊下の奥から声がする。叔父だ。僕は億劫そうに顔を上げた。教科書を抱えた叔父がゆっくり
と近づいてくる。叔父はいつでもこうした歩き方をしている。周囲がどんなに急いでいる時でも
叔父だけはペースを変えない。非難訓練でもそうした有様で、他の教師から批判的な視線を浴び
せられても平然としていたことを思い出す。

「ちょっといいか」
「…ええ、何ですか」
「いやなに」

 僕の目の前で足を止めた叔父は顎の不精髭を撫でながらぼそぼそと呟く。

「兄貴がな、またお前に話があるって言うんだ」
「叔父さんが?」

 長瀬刑事がいったい何の用事だろう。

「ああ。学校が終わった後でいいから…」
「何でこんなトコにいるのっ」

 背後から大声が聞こえた。吃驚して振り返ると、そこにはあの転校生がいた。女性にしては大
柄な体躯で廊下の真中に立ちはだかり、僕と叔父を睨んでいる。

「へ?」
「何しに来たのよ。まだあたしに用があるっての?」

 喧嘩腰の彼女が視線を据えていたのは叔父だった。僕は呆気にとられて叔父の顔を見た。叔父
は垂れ目を数回しばたたかせると僕に言った。

「…おい祐介、お前彼女に何かしたのか?」
「しらばっくれるのはやめてよ」

 大声を聞きつけ隣のクラスの連中がわらわらと廊下へ出てくる。僕のクラスの者はすでに扉に
鈴なりだ。彼女が教室から出た直後に大声が聞こえたので急いでやってきたのだろう。どうやら
僕と叔父はとんだ見世物の主役になってしまったらしい。

「…あたしが知っていることは全部話したでしょ、刑事さん」
「刑事? 何を言ってるんだ」

 叔父が素っ頓狂な声を上げる。その声を聞いて彼女は何かに気づいたように表情を変えた。し
ばらく叔父の顔を睨む。その顔色が次第に変わっていった。

「あ、あの、あれ? え、えーっと」
「誰と間違えたのか知らんが、私はこの学校の教師だ」
「えっ」

 驚愕と羞恥が彼女の顔に浮かんだ。慌てたように周囲を見回す。辺りを取り囲んだ野次馬たち
の顔に苦笑が浮かぶ。

「あ、その、ごめんなさいっ。私てっきり」
「ああ、まあ構わんよ、うん」

 米搗きバッタのように頭を下げる彼女に向かって叔父は鷹揚にそう答えた。物事にあまりこだ
わらない叔父らしい態度だ。その様子を見て周囲の連中もさんざめきながら次第に散会していっ
た。

「すみませんでした。失礼しますっ」
「あ、ちょっと」

 僕は背中を向けた彼女に思わず声をかけた。

「刑事って誰のこと? もしかして」

 彼女の動きが止まった。僕は一歩、彼女に近づいた。

「もしかしてあの」
「それじゃ」

 彼女は叩きつけるようにそう言うと、いきなり走り出した。僕はその後ろ姿をただ呆然と見送
った。何で逃げるのだろうか。何かまずいことでもあるのか。

「おい祐介」

 叔父の声を聞き流し、僕は彼女が消えた廊下を見ていた。彼女が言っていたのは、長瀬刑事の
ことに違いない。確かさっきの紹介では彼女は**県から来たという話だった。そして長瀬刑事
が勤めているのは**県警。加えて、何より二人ともあの惨殺事件のことを僕に聞いている。
 長瀬刑事も、彼女も、もしかしたら同じ理由でここへ来たのではないのか。あの事件と何らか
の関わりを持って。

「おい、聞こえているのか」

 長瀬教諭に肩を叩かれ、僕は慌てて振りかえった。そこにはいつもと変わらぬのんびりした顔
の叔父がいた。

「祐介、あの娘はいったい誰なんだ」
「あ、ええと。彼女が今日転校してきた」
「ああ、彼女があの。名前は?」

 僕は再び振りかえり、彼女が消えた廊下の奥を見た。

「…柏木梓さん」

 その声はゆっくりと廊下に響き、消えて行った。



 病院を出る。雨は止まない。頭上にかざした折り畳み傘を打つ雨だれが不愉快な騒音をがなり
たてる。僕は重い足を引きずるように歩く。
 病室には誰もいなかった。誰もいない日がほとんどだ。昨日のように付き添いの賄い婦が部屋
に来ることもそんなに多くない。彼女も、その兄も、ほとんど誰も訪れない部屋で時を過ごして
いる。僕以外にはほとんど誰も。

 駅前近くの商店街に足を踏み入れる。途中で見えた喫茶店の扉をくぐった。薄暗い店内を見渡
し、入り口が見える窓際の席に座っている叔父を見つけた。同時に僕を発見した長瀬刑事も片手
を上げて合図を寄越す。

「すまんな。受験生をわざわざ呼びたててしまって」
「いえ」

 叔父は目の前にあるコーヒーをまずそうに飲みながら言った。

「何でも注文していいぞ。ただし、あまり高いのは駄目だ」
「叔父さん」
「思いっきり奮発して上限は…」
「叔父さん、ちょっと聞きたいことがあるんです」

 僕の大きな声に叔父が傾けていたカップを止める。その眼が僕を見ていることを確認し、僕は
一言一言区切るように言った。

「叔父さんは柏木梓さんとどういう関係なんですか」

 叔父の顔からすっと表情が消えた。その眼は冷たく僕を見ている。これが仕事用の叔父の顔な
のだ。目の前にいる人間を冷静に観察し、その僅かな隙を見逃さないようにする。犯罪者といつ
も向き合ってきた叔父の本当の顔だ。

「…なぜ、そんなことを聞く?」

 僕はかいつまんで休み時間にあったことを説明した。長瀬教諭の顔を見た彼女が相手を刑事だ
と勘違いしたことを。

「柏木さんは**県から来ました。そして叔父さんは**県警の刑事だ」
「なるほど」
「それに、柏木さんは叔父さんと同じ質問をしている」
「同じ質問?」
「ええ、この近くであった惨殺事件について。彼女は現場を通りかかった僕に、何か事件につい
て知らないかって話しかけてきたんですよ」
「それは何時のことだ」
「昨日の帰りがけ。叔父さんと話をした後です」
「ふん」

 叔父はそう頷くと腕を組んで何かを考え始めた。

「教えてください。柏木さんとはいったい」
「…彼女はある事件の関係者なんだよ。私が捜査しているある事件の、ね」
「それがあの惨殺事件なんですか」

 僕は身を乗り出して聞いた。

「それも間接的だが関係している。彼女はこの夏にあったある事件の、いわば生き残りだ」
「え?」

 叔父はゆっくりと組んでいた腕を解き、僕を真っ直ぐに見ながら言った。

「これ以上聞きたいのなら、条件がある」
「条件?」
「ああ。柏木梓について色々と教える代わりに、お前にやってもらいたいことがある」

 叔父の声が、僕の耳を打った。

『お前に調べてもらいたいことがある』

 僕の耳に、もう一人の叔父の声が重なる。冬の終わりに聞いた声。あの事件に僕を巻き込むこ
とになったあの声。彼女と出会い、彼女と別れることになった、あの夜をもたらす全てのきっか
けとなった、あの時の声が。