驟雨(1)  投稿者:R/D


 チャイムが鳴る。教室の中に大勢の人間が閉じ込められる時間が終わりを告げ、周囲から安堵
感の混じったざわめきが起きる。放課後だ。周りの同級生たちは待ちかねたように互いに呼び交
わし、これからの相談を始める。
 これから、と言っても塾に行くまでの僅かな時間を意味するケースがほとんどだ。秋も押し詰
まったこの時期に呑気にしていられる受験生はほんの一握りだろう。僕も含め大多数の者は、厭
々ながらも勉強に追われている。間近に迫った受験から目を逸らせないなら、せめて押し潰され
まいとするかのように陽気さを装いながら。
 だけど、それが一番賢い方法なのだろう。僕は机の上に広げていた教科書とノートを鞄にしま
いながらそんなことを考えた。つまらない現実でも、それを見続けるほかないのなら、つまらな
くないふりをするのが。

 鞄を持ち、席を立つ。高まったざわめきは次第に収まっている。そう言えば、今週は週番だっ
た。僕は教壇へ向かい、週番日誌を開いた。簡単に記述を終えると、日誌を小脇に抱えて扉へ向
かう。

「春木屋行こーぜ」
「おう」

 クラスメートたちの声を背中に聞きながら扉に手をかける。授業中、死んだような眼をしなが
らノートを取る彼らも、この瞬間だけは生き生きとした表情を甦らせる。その時だけ、世界は色
と音を取り戻す。

 そこには、彼女はいない。

 寒気が廊下に出た僕を取り巻く。掃除当番が窓を開け放したため、廊下の気温は一気に下がっ
ていた。肌を刺す澄みきった空気は、一年の最初と最後を占める季節の到来を告げている。
 あの事件が起きた季節。僕を変えたあの時間(とき)が、再び巡ってこようとしている。
 僕は俯き加減に廊下を急いだ。



 2階にある職員室の扉を開く。中から溢れ出す温かい空気に、知らず緊張していた全身の筋肉
が緩む。そろそろ厚手の下着に代えた方がいいかもしれない。そんなことを思いながら軽く会釈
をして担任の座る席へ向かった。

「…先生、日誌です」
「おう、ご苦労さん」

 僕の差し出した日誌を受け取りながら、そろそろ髪の毛が白くなりかけている担任が呟くよう
に話す。

「…ちゃんと勉強してるか?」

 最近は誰の顔を見ても二言目にはこの台詞が出てくる。僕たちが受験生であることを日々思い
知らせるのが、担任である自分の責務だと考えているのだろうか。

「ええ、まあ」

 だから、僕の返事もこんなものになる。相手も詳しい返事を期待している訳じゃない。これで
儀式は終わり。後は帰るだけだ。
 僕は頭を下げ、担任に背中を向けた。

「…おい、祐介」

 しばらく耳にしなかった声が、僕の名を呼んだ。同じ学校で教師をしている叔父の声。

『長瀬ちゃん…』

 叔父を見ると、彼女のことを思い出す。だからあの事件以来、できるだけ叔父と接触がないよ
う心がけてきた。叔父も用事がない限りは話しかけてこなかった。

「何ですか」

 振り返って叔父の姿を探す。思わぬ人の顔が目に飛び込んできた。僕のもう一人の叔父。**
県警に勤めている長瀬刑事が、なぜか長瀬教諭の隣りに立っていた。

(そう言えば、どっちも地方公務員だったな)

 そんなことを思いながら二人に近づく。叔父さんは、教師をやっている叔父さんはいつものよ
うに締まりのない笑みを浮かべ、

「ちゃんと挨拶しろよ」

 と僕を促す。長瀬刑事は無表情だ。何を考えているのか分からない。

「久しぶりだな、祐介」

 何と言って挨拶しようか悩んでいるうちに、向こうの方が話しかけてきた。

「…どうも、お久しぶりです」
「どうだ、勉強はしてるか?」

 なぜこんなに工夫のない台詞が出てくるのだろう。世の大人たちは受験生に話しかける語彙を
あまり持っていないのか。

「ええ、まあ」

 同じ返事しかできない僕の語彙も大したことはない。

「そろそろ本番だからな。健康には気を付けろよ」
「はい、分かりました」

 それで会話は途絶える。長瀬刑事は視線をそらして周囲を見回している。長瀬教諭は何か書類
を整理中だ。僕は茫然と突っ立っている。
 それにしても**県警の刑事が、なぜ管轄外のこんなところにやって来たのだろうか。親戚を
訪ねてきたとはとても思えない。第一、それなら家に行けばいい筈だ。わざわざ学校に来る理由
はない。何か事件でもない限りは…。
 事件、なのだろうか。何が起きたのか。聞いてみようか。
 僕は叔父の、刑事の顔を見た。相変わらず無愛想だ。いくら親戚とはいえ部外者に口を挟まれ
たら叔父は怒るかもしれない。だが…。

「あの、この学校に何の用ですか」

 質問を受けた長瀬刑事は全く顔色を変えずに僕の目を見た。親戚を見る目じゃない。多分、事
件の関係者に向けられる目だ。僕はなぜかそう感じた。

「…………」

 沈黙が続く。やっぱり余計な質問だったか。僕は後悔した。

「…そう言えば」

 叔父は表情を変えずに話し始めた。

「お前の知り合いで、先日の惨殺事件について何か知っているヤツはいるか?」
「惨殺事件?」
「この近くであっただろう」

 思い出した。学校の近くで年配の男性が殺された事件。全身を切り刻まれ、無残に引き裂かれ
た姿で発見された。テレビでも派手に報道されていた筈だ。学校でも話題にはのぼった。
 でも、それだけだ。テレビの報道以上に詳しいことは誰も知らなかった。猛獣の仕業か、それ
とも狂人がやったのか。無責任な噂はあったが具体的な中身はなにもなかった。
 その後、何も起きなかったこともあって、急速にその話題は消えていった。そんな噂に構って
いる暇はない。勉強が忙しいこの時期にいつまでもそんなことにかかわってはいられない。そん
な雰囲気が僕の周囲にあった。

 …あの事件の時もそうだった。狂気に陥った同級生の話題が、まるで申し合わせたように急速
にしぼんでいった。

「…どうだ、祐介?」
「え?」

 叔父が僕を見ている。

「いや、大した話は…」
「いやー。お待たせしました、刑事さん。これが確かそうですよ」

 いきなり扉が開き、教頭先生が職員室へ入ってきた。手には大きな書類の束を抱えている。

「わざわざありがとうございます」

 叔父は僕から視線を外し、教頭の方へ素早く移動する。もう僕の方は振り向きもしない。

「…もういいぞ。早く帰ったらどうだ」

 叔父が、長瀬教諭が僕にそう話しかけた。

「はい、失礼します」

 仕方なく僕はそう答え、職員室を出た。誰も僕に注目する人はいなかった。下駄箱へ向かう途
中、僕は考えた。叔父は何かを調べに来たのだ。多分、あの惨殺事件に関連する何かを。だが、
なぜ**県警に勤める叔父がここに来たのだろうか。明らかにここは叔父の管轄外なのに。
 やめよう。こんなことを考えて何になる。厄介ごとはゴメンだ。あの時も叔父の、長瀬教諭の
口車に乗せられたために、あんな目にあったんだ。これ以上、余計なことには関わらない方がい
い。

 僕は黙って校舎を出た。どんよりと曇った空の下、北から運ばれてきた冷たい空気が僕の肌を
刺す。僕は身を竦め、病院へ向かった。



「あら、またあなた?」
「…あ、どうも」
「いつもご苦労様。お茶でも淹れようか」
「いえ、僕はここで失礼します」

 彼女とその兄の身の回りを世話している女性にそう挨拶し、僕は病室を出た。元看護婦らしい
この賄い婦を雇ったのは、彼女の伯父なのだろう。だけど僕はその雇い主に会ったことがない。
何度も病室を訪れているのに、一度たりとも。自分が経営している病院に入院している彼女たち
を見舞う暇がないほど忙しいわけでもないだろうに。
 僕は徒労感に覆われる足を引きずりながら病院の階段を下る。スーツを着こんだ眼鏡の若い男
性とすれ違い、パジャマ姿の入院患者たちを追い越す。病院では明るい顔の人にはほとんど出会
わない。皆どこか精気を失ったような顔つきでうろついている。まるで仮面を被っているかのよ
うな人々が僕の周囲を通りすぎる。
 病院を出てもその感覚は消えなかった。僕の周りには仮面が溢れていた。仮面の海。僕はそこ
を泳いでいた。いや、流されていた。無表情で現実感のない人々が僕を押し流して行く。
 いや、違う。僕は唇を噛み締めた。他人の顔が仮面になっているのではない。僕の眼が、他人
の顔を仮面としか認識できなくなっているんだ。そうなってしまう理由も分かっている。彼女に
会ったからだ。病院を訪ねた後は、いつもこうなる。彼女に出会う前の、あの時期の自分に戻っ
てしまう。世界を憎み、世界に背を向けていたあの時の自分のように。なぜなら…。



「……さない」

 微かな声が僕の耳に飛び込んだ。顔を上げる。街の中、次々に通りすぎる自動車に背を向けて
その女性は立っていた。

 既視感。

『――オマエガッ』

 僕の視線はその女性に吸い寄せられ、離れなくなった。デジャ・ヴ。そんな言葉が浮かんだ。
 彼女は歩道の真ん中に立ち、近くの塀を見つめていた。大柄な身体を、ジーパンとセーターの
上から羽織ったウインドブレーカーで包んでいる。履いているジョギングシューズは結構使い込
まれているようだ。ショートにした髪の毛にはカチューシャを飾っている。肩にかけた大きなボ
ストンバッグが重そうに感じられないところを見ると、案外力持ちなのかもしれない。
 そして、彼女の眼。僕の視線はその眼に吸い寄せられた。どこが違うのか、上手く説明できな
い。でも、それが周囲にいる仮面の人々の眼とはまるで異なることだけはよく分かった。その眼
の光が僕の胸の奥を刺激することも。

 彼女が見ている塀の下には花束が置いてあった。よく見れば線香の燃えかすも。その時、僕は
自分を襲った既視感が何だったのか、ようやく気づいた。見たことがある筈だ。この場所は何度
もテレビで見た。バラバラになった中年男性の死体が発見された惨殺事件の現場として。

「ちょっと、いいかな」

 女性の声がした。考えに耽っていた僕が慌てて顔を上げると、目の前に彼女がいた。つり目が
ちの大きな瞳に、意思の強さを思わせる引き締められた口元。美人だ。そう意識してしまい、思
わず顔が赤く染まる。

「あ、えと、な、何でしょう、か」
「もし知ってたら教えてほしいんだけど」

 彼女は僕を正面から見つめていた。その視線は全く揺らぐことがなかった。

「この間、ここであった事件について、何か知っていることや聞いたことがないかな」
「…事件についてって」

 一瞬、何を言われているのか分からず、僕は彼女の台詞をおうむ返しにした。

「バラバラにされた死体が見つかった事件」

 僕の脳裏に叔父の言葉が甦る。

『この間の惨殺事件について何か知っているヤツはいるか』

 舌が凍りついた。何でこの娘はそんなことを僕に聞くのだろうか。

「何か知ってるの」

 僕の表情を読んだのか、勢い込んで彼女は質問を投げかけてきた。僕は慌てて首を振る。

「いや、別に詳しいことは知らないけど…」
「…そう」

 彼女はゆっくりと肩を落とした。無表情を装っているが、落胆していることははっきりと分か
る。彼女の瞳が妖しく煌いた。

「ごめん、いきなり変な質問をして…それじゃ」

 踵を返す彼女に僕は思わず呼びかけた。

「その、もしかして、殺された人の知り合いなの?」

 彼女の足が止まる。その後ろ姿が微かに震える。彼女に向けて伸ばしていた僕の腕が動かなく
なった。いや、彼女が放つ威圧感に動かせなくなった。
 無意識に息を止めた。彼女がゆっくりと振り返る。また、あの眼が僕の胸を打った。激しい既
視感が再び襲いかかる。その眼。抑えきれない何かが今にも吹き出しそうな眼に、僕は釘づけに
なる。

「……いえ、違うわ」

 押し出すように言葉を紡ぎ、彼女は僕に背中を向けた。その姿が視界から消え、やっと僕は呼
吸を再開することができた。
 僕はしばらく、彼女が去った道を呆然と見つめていた。胸の中に膨れ上がる焦燥感を抱えて。