謀略  投稿者:R/D


 ガシャーン

 鋭い音と伴に「木葉興業」と大書されたガラスが砕け散る。

「なんじゃぁいっ」
「カチコミかっ」

 わらわらとビルの中から駆け出してくるその筋のみなさん。
 彼らの前方で背中を向けて走り去るスクーターが声を上げた。

「わはははははは。ざまあ見ろ。文句があったら藤田浩之のところまで来いっ」

 代貸しが外に出ている間、この場の責任を負う立場にあった吉川は大声を上げた。

「て、てめえっ。待ちやがれぇっ」

 追いかける三下たちをあざ笑うかのように、スクーターはあっさりと逃げおおせた。

「おのれぇっ。藤田とやら、必ず探し出してやるっ」

 吉川は鬼のような形相をしながらそう叫んだ。



「ああ、やっとここまで来たのね」

 舞台の袖でマイクを握りしめ、森川はそう呟いた。長かった。有名プロデューサーに見いださ
れ、アイドルへの道を歩みだして幾星霜。ドサ回りで日本中を巡った。スーパーの駐車場や、小
さな公民館で歌ったこともあった。客がほとんどいないステージで心で泣きながら笑顔を振りま
いたことも。苦労を重ね、やっとこれだけのコンサートを開くことができるようになったのだ。
 走馬灯のように脳裏を走る思い出を振り払い、森川は顔を上げた。出番だ。この華やかなスポ
ットライトの中へ歩み出すのだ。大きく深呼吸した森川はステージへと駆け出した。そこには何
者かが投げ出したバナナの皮があった。

 見事にこけた。

「わははははははは。いい見せ物だぜ。この藤田浩之の演出に感謝しな」
「な、何てことをっ」

 舞台の袖から青くなった女性マネージャーが飛び出してくる。大混乱に陥る客に紛れ、バナナ
を投げた男は姿をくらました。

「ゆ、許さないわよ、藤田。彼女にした仕打ちは百倍にして返してやるっ」

 森川を抱きかかえたマネージャーは般若のような顔で唸った。



 ようやく準備が整った。長谷部は自分に与えられたスペースに山と積まれた同人誌を眺め、満
足そうに頷いた。
 今回のは自信作だ。ストーリーはじっくりと練り上げたし、直前まで徹夜を重ねて書き上げた
原稿の質は高い。買ってくれた人を十分満足させられるだけのものになった。睡眠不足で体力的
にはつらいが、オープン間近のこの時間に、できあがった本をこうやって眺めるのは至福の…

 ザッパーン

 積み上げられた本が水浸しになった。

「わはははははははは。くだらない本を並べているんじゃねえよ。この藤田浩之様の作った落書
きを置く方がよっぽど有意義だぜ」

 水をぶっかけた男がそう叫びながら逃げて行く。長谷部は真っ青な顔で唇を噛み締めた。拳が
強く握られる。

「あ、あたしの自信作が…。ひ、酷い、酷すぎるぅぅぅぅぅぅっ」

 彼女の瞳が次第に復讐の色へと染まっていった。



「な、何が起きたんだいったいっ」

 少年はかすれた声でそう呟いた。白い病室、窓から射し込む柔らかな陽射し。暖かいベッドの
上で静かに眠る少女の顔をみつめたまま、少年は身体を震わせる。

「だ、誰が瑠璃子さんにこんなことをっ」

 穏やかな表情で眠る少女の顔には、見事なカイゼル髭が落書きされていた。少年は呆然とその
髭を見つめる。美しい少女の頬に描かれた髭。少年の肩が怒りに震える。

「こ、こんなことをしたのはっ」

 少年が睨んだ病室の壁には、スプレーで『藤田浩之参上!』と書かれていた。

「ふ、ふふふふふふふ。瑠璃子さんの仇だ。壊してやる。壊してやるよ、藤田ぁっ」

 少年の悲痛な声が木霊する。少女と同じ部屋で眠る彼女の兄の顔に描かれたもっとえげつない
落書きは、少年の目には入っていなかった。



「…ああ」

 楓は男に情熱的に抱かれ、ため息を漏らした。前世からの恋人が今夜、彼女の部屋へと忍び込
んできたのだ。何百年にも渡る想いが、やっと叶うのだ。彼女は男の身体にしがみついた。

 互いを確かめ合う、狂おしい一時。

 終わった後の余韻に浸っていた彼女の耳に、ドアを激しく叩く音が飛び込んできた。

「おい、楓ちゃん、何だ今の悲鳴というか嬌声というか妙に艶めかしい叫びはっ。おい、返事を
してくれっ」

 その声を聞いた楓の顔が一気に青褪める。その声こそ彼女が本当に好きな人物の声だ。それで
は今、自分のベッドの中にいるこの男はいったい…

 楓が悲鳴を上げるのと同時に男がベッドから飛び出し、窓ガラスを割って逃げ出した。飛びこ
んできた彼女の従兄は室内の様子を見て事情を察し、慌てて窓の外を見た。すでに人影はない。

「ちくしょうっ、誰なんだっ。俺の名を騙ってこんなことをした奴はっ」

 従兄が大声で怒鳴りながら壁に拳をめり込ませた。振動でベッドから何かが落ちる。気づいた
彼はそれを拾い上げた。それは、藤田浩之という名が書かれた学生証だった。

「く、くくくくくく。藤田め、お前の命の炎を見てやるぜっ」

 彼女の従兄は、学生証を握りつぶしながら口元に狂気の笑みを浮かべた。



「おらあっ、藤田、出てこんかいっ」
「きっちり落とし前をつけてもらいますからねっ」
「返してよっ、あたしの自信作を返してっ」
「壊してやる壊してやる壊してやる壊してやる壊し」
「隠れても無駄だっ、覚悟を決めて出てきやがれっ」

 藤田家の前で騒いでいる人々を見て、神岸あかりは息を呑んだ。

「あ、あの、浩之ちゃんが何か…」

 話しかけてきたあかりを見て、藤田家の前に集まった人々は目を吊り上げ、口々に彼がしでか
したことを喚き始めた。混乱に陥るあかり。あの浩之ちゃんがそんな酷いことをするなんて。

 だが、よく聞いているうちに彼女はおかしな点に気づいた。

「ちょ、ちょっと待ってください。皆さんがおっしゃっている日には、浩之ちゃんはずっと私と
一緒にいた筈です」
「んだとこらあっ。ざけんじゃねえぞっ」

 目の前のやーさんが凄む。あかりは負けずに叫んだ。

「間違いありませんっ。その日は朝から私とデートしていましたっ。浩之ちゃんにそんなことが
できる訳がないですっ」
「そうそう。それはヒロじゃないわよ」

 唐突に姿を現した長岡志保がそう口を挟む。

「どういうことかしらっ」

 怖い眼をした大人の女性が問い詰める。

「あたし見てたわよ。やーさんの事務所の窓割ったり、アイドルコンサートを邪魔したり、コミ
ぱで水ぶち撒いたり、病院に忍び込んだりしていた人物」
「誰だ」

 目の据わった少年が低い声を出した。

「橋本先輩よ。ご丁寧に逃げ出すたびにヒロの名前を出しながら悪さしてたわ。そうやってヒロ
への恨みを晴らそうとしたんじゃないのかな」
「橋本だなっ。よーし分かったっ」

 大学生らしい男が人間業とも思えないスピードで走り出した。その他の面々も彼を追う。橋本
のところへと向かったのだろう。辺りには再び静けさが戻ってきた。

「やれやれ、あの先輩も復讐するならもっと別の手を使えばいいのに」
「…ねえ、志保」
「なぁに」
「何で橋本先輩が浩之ちゃんに恨みを持っているの?」
「それは図書館…あ、いや、何でもない何でもない」
「…な、何でもないことないでしょ」
「何でもないのよっ。気にしちゃだめだって」
「気になるわよ。図書館がどうしたの」
「あーもう、男なら細かいことにこだわるんじゃないのっ」
「……あたしは男じゃないっ」



「ひえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ」
「おらああああああっ」
「さあっ、土下座なさいっ」
「このっこのっこのっ」
「壊れてしまえ壊れてしまえ壊れてしまえ壊れ」
「くくくくくく、炎だ、命の炎だぁっ」

 橋本はぼこぼこにされていた。

「やくざを嘗めるんじゃねぇっ」
「謝りなさいっ、彼女に、彼女の夢を壊したことにっ」
「ご、ごめんなさいごめんなさい」
「返してよっ、あたしの自信作をっ」
「壊れろ壊れろ壊れろ壊れ」
「ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサ」
「さあ、人の女を横取りしたんだ。覚悟はできてるだろうなあっ」
「え? そ、そんな。俺はそんなことはしていな」
「やかましいっ。死にさらせええええええええっ」
「ぎぃええええええええええええぇぇぇぇぇぇっ」



「ふっふっふ。上手くいったな」

 藤田浩之は自分の部屋でほくそえんでいた。

「まあ単純だからな、あの先輩も。俺に罪をなすりつけようとして変なことをやるのは想像でき
たし。後はタイミングを合わせればばっちりだ」

 彼は鏡を見ていた。稀代のスケこましと言われる男の顔はだらしなく緩んでいた。

「こうでもしないとあの美人姉妹に手を出すなんて危険な真似はできないしな。いやー、橋本先
輩。あなたの尊い犠牲で彼女をコマすことができました。心より感謝してますよ」

 藤田はおどけて頭を下げる。どこからか橋本の断末魔が聞こえたような気がした。

「さて、今度は矢島を生贄にするとして……誰をコマすかな?」

 脳裏に次々と女性の顔を思い浮かべながら藤田は再びにんまりと笑うのであった。