手紙(上)  投稿者:R/D


  拝啓

 お元気ですか。私は今、岡山に来ています。

 前に柏木君の故郷でばったり出くわしたことがあったよね。あの時、私が隆山に旅行したのは
雨月山の鬼に興味があるからだって言ったでしょ。実はあの旅行以来、鬼について一段とのめり
込むようになっちゃってね。自分でもビョーキだと思うけど、とうとうこんな所まで来てしまっ
たの。

 え? 岡山と鬼に何の関係があるのかって?

 桃太郎は知っているよね。日本人なら誰でも知っている昔話。実はその舞台になったのが岡山
だっていう話があるの。
 川上からどんぶらこ、どんぶらこと流れてきた大きな桃。お婆さんが拾ったその桃から生まれ
た桃太郎は、大きくなって鬼退治に出かけたよね。その時に、お婆さんにキビ団子を作ってくれ
とお願いしたでしょ。桃太郎はそのキビ団子をイヌ、サル、キジに渡して彼らをお供にした。
 岡山はずっと昔には「吉備の国」と呼ばれていた所。黍が取れる場所だったからそう呼ばれて
いたそうよ。だから吉備団子は岡山の名産品。あちこちでお土産として売られているし、桃太郎
の里という看板もよく見かけるしね。そうそう、桃も岡山の名産よ。

 桃太郎だけじゃなくて、鬼ともかかわりがあるのよ。確かに「鬼が島」なんて島はないけど、
代わりに岡山には「鬼ノ城」というのがあるの。標高400メートル弱の山頂付近に巨大な石垣
を巡らせた城跡でね、かつてここに鬼が住んでいたと言われているわ。この城に立てこもり、周
囲の人々に乱暴狼藉を働いて、最後には退治されてしまった鬼が。

 温羅(うら)というのが、その鬼の名前。そして、鬼を退治した人の名は吉備津彦。



 そう教えてくれたのは石上さん。公務員で休暇を使って東京から遊びに来ている人よ。30歳
前後の結構かっこいい人でね、私が鬼に興味があるっていったら色々と話をしてくれたの。
 知り合ったきっかけはつまんないことなんだけどね。岡山へ行く新幹線の中で隣りに座っただ
け。私が岡山の歴史の本を読んでいたら向こうから話しかけてきて、それで意気投合しちゃった
という訳よ。どうも私は友達からは不用心な人間だと思われているようで、人懐こいのはいいけ
ど少しは用心しろってよく言われるけどね、石上さんはそんなに悪い人には見えなかったわ。ま
あ、そこそこ美形だったから採点が甘くなっているのかもね。

「桃太郎の原型は日本書紀などに記されている四道将軍まで遡るんだ。第十代崇神天皇の時、大
和朝廷に従わない地方を平定するために送り出された四人の将軍の一人が、後の桃太郎さ」

 石上さんは新幹線のシートに背を預け、指を一本立てながらそう説明したわ。ちょっと気障な
格好なんだけど、なぜかそれが様になるんだよね。まあ、男の目で見たら違う感想も思い浮かぶ
かもしれないけど。

「将軍たちの中で吉備へ派遣されたのが五十狭芹彦(いさせりひこ)。皇族の一人だったと言わ
れている。彼は吉備を平定した功績で『吉備津彦』と呼ばれるようになったのさ。そして、今で
は地元の神社に祭られている」

 彼はそう言って私が持っていた本のあるページを指さした。そのページには大きな社を持つ神
社の写真が掲載されていて、横に「吉備津神社」と書いてあったわ。石上さんによると随分と由
緒正しい神社だそうで、延喜式にも「名神大社吉備津彦神社」と名前が記されているんだって。
昔の備中国の中では一番、格の高い神社だそうよ。

 ちょっと面白いのが、この吉備津神社以外にもすぐそばに「吉備津彦神社」というのがあるこ
と。ちょうど小さな山を挟んで西に吉備津神社、東に吉備津彦神社となっているの。そして、今
の吉備津神社が昔の名神大社吉備津彦神社で、今の吉備津彦神社は昔は国の序列から外れた式外
社だったということになるの。分かる?
 私も混乱して何度も石上さんに聞いたんだけどね。要するに吉備津神社は備中の、吉備津彦神
社は備前の一番偉い神社だったんだって。この二つの神社の間に昔の国境が通っていたのね。実
際、吉備津彦神社の近くにある駅の名前は「備前一宮」。備前の国でもっとも格式の高い神社っ
てことね。

 石上さんは一通り解説した後で、一緒に桃太郎の神社を見に行かないかって誘ってきたわ。一
人で観光するより美人と同行した方が楽しい、だって。私も捨てたモンじゃないわよね。元々、
鬼と関係する所を見て回るつもりだったから、思いっきりもったいつけた上でOKしたわ。軽い
女だとは思われたくないけど、ハンサムで趣味の合う人とデートする機会も逃がしたくないし。

 それとも、やっぱ不用心すぎるかな。柏木君はどう思う?



 岡山駅ってものすごくホームが多いのよ。何だかたくさんの路線がここから四方八方に伸びて
いるみたいで、どのホームに行けばいいのか迷いそうになったくらい。石上さんと一緒に階段を
駆け上がったり駆け下りたり。二人とも大きな荷物を持っているもんだから最後は息切れしてふ
らふらになっちゃったわ。
 やっとの思いでたどり着いたのが、一番端っこにある小さなホームだったの。止まっている列
車はたったの二両編成で、それでも中は空席が目立っていた。地元の高校生らしい女の子たちが
乗客の大半で、彼女たちは辺りを気にせず賑やかにおしゃべりしていたわ。石上さんは何だか不
愉快そうにしてたけど。
 で、私たちが乗り込んだこの列車がまたすごいのよ。田舎路線だから単線なのは分かるんだけ
ど、駅に止まっても扉が開かないの。どうも冬場は手動で扉を開けなくちゃいけないみたい。そ
りゃ確かに寒いから必要な時以外は扉を閉めておく方がいいのかもしれないけど、初めて乗り込
んだ人は絶対に戸惑うと思う。実は私もうろたえてしまってね、女の子たちに笑われたわ。ちょ
っとムッときたけどね。

 私たちが降りたのは、さっきも書いた「備前一宮」駅。片側だけのホームを歩き、自動じゃな
い改札を通って少し歩くとすぐに参道が見えたわ。線路を渡った向こうに鳥居と小さな池があっ
て、さらにその先には大きな社。社の背後には小高い山が聳えているの。

「これが吉備津彦神社さ。神社の向こうにある山は『吉備の中山』と言われている」

 石上さんの声を聞きながら神社の門をくぐったら、一気に視界が開けたの。広々とした敷地の
割に樹木が少ないせいか、妙に閑散とした印象のある境内だったわ。門の向こうにある石段を数
段のぼると、大きなしめ縄のかかった本殿がすぐ目の前にあった。神社っていうのは、くねくね
した道を歩かされたり、長い石段を延々登らされたり、そうやってやっと本殿に到着するのがほ
とんどでしょ? 随分あっけないなぁと思ったわ。

「何だか物足りなさそうだね」

 石上さんは私の顔を見ながらそう笑ったわ。よほど不満そうな顔をしてたのかな。まあ、鬼を
求めて東奔西走しているのに、こんなあっけらかんとした神社じゃしょうがない、と思ったのは
事実だけどね。雨月山の伝承を聞いたお寺は、奥深い山の中にあるいい雰囲気のところだったの
に、なんて心の中で比べていたのがばれたみたい。

 その時、一人のお婆さんが境内に入ってきたわ。多分、地元の人なんだと思うけど、腰がほと
んど90度に曲がった白髪の人だった。杖にすがりながらお婆さんは石段を登り、本殿の前にい
る私たちの傍に来たの。そして、手を合わせて拝み始めたわ。
 妙な気分を覚えたのはその時だった。別にお婆さんの参拝のやり方が変だった訳じゃない。拍
手(かしわで)を打つのが神道の正式な参拝方法だけど、ほとんどの人はお参りの時に単に手を
合わせるだけだし、私もそのことに違和感を感じたんじゃないの。
 ただ、何か違う。どこかおかしい。私はそう思いながらお婆さんの姿をずっと目で追っていた
の。お婆さんが再び境内を出て視界から消えるまで。彼女が見えなくなってからも、彼女の真っ
白な頭が私の脳裏に残っていたわ。網膜に深く刻み込まれたかのように。私はとても不安になっ
て石上さんの方に振り向いたの。

 石上さんは、なぜだかとても怖い顔をしていた。



 吉備の中山をぐるりと回り込むように歩いた。石上さんは陽気な声で収穫が終わった田んぼに
いる鳥のことなんかを話していたわ。私たちが歩いているサイクリングコースには柔らかな陽射
しが差し込んでいた。南北を山に挟まれたその谷間を西へ歩くと、やがて平野が目の前に広がっ
て来たわ。そこに来るのを待っていたように、石上さんが大きく指を右斜め前に向けたの。

「ほら、あれが鬼ノ城だ」

 吉備津彦神社で見たお婆さんも、石上さんが時折見せる怖い顔も、その言葉を聞いた瞬間に頭
の中からきれいさっぱり消えて無くなったわ。私はすぐに石上さんが指さす方に目を凝らした。
背の低い山が北の方角に連なっていて、その一部に岩のようなものが露出していたわ。それが鬼
ノ城だと気づいた私は、思わず大声をあげて石上さんに飛びついちゃった。

 露出していたのは岩じゃないの。山頂近くに高々と組み上げられた石垣だったのよ。

「山の上に聳える巨大な石垣。あの山の頂一帯が、全部鬼ノ城なのさ」

 密生している樹木でよく分からなかったけど、実はその山の山頂は石垣や土塁の跡で周囲を完
全に囲まれているんだって。周囲2.8キロメートル、囲まれた地域の広さは約30ヘクタール
にも達する巨大な山城。それが鬼ノ城だったの。
 山頂まで登れば、石垣や土塁だけじゃなくて門まで見ることができるって石上さんは話してい
た。食糧の保存用に作られたと思われる建物の跡も残っているそうよ。急峻な地形の上に作られ
た強固な城。鬼が立てこもり、吉備津彦と戦った城。

「鬼の名前は温羅(うら)という。彼は大陸から空を飛んでこの吉備の地に来訪し、あの山に城
を築いた。両眼は爛々として虎狼のごとく、蓬々たる鬚髪は赤きこと燃えるがごとく、身長は一
丈四尺(約4メートル)もあったそうだ。そして、西国から都へ送る貢物を載せた船をしばしば
略奪したらしい」

 石上さんはそう言うと私を見てニヤリと笑った。

「そうそう。婦女子も略奪の対象になったそうだよ。君みたいな美人がその時代に生きていたら
真っ先に攫われていたかもね」

 猜疑心が強い人ならこんな台詞を聞けば相手に下心があると疑うんでしょうね。でも、私はな
ぜか警戒心が湧かなかった。自分でも相手の術中に嵌まっているような気がしてならなかったけ
どね。

「温羅はあの城にこもった。そして、温羅に対抗するために大和朝廷から送り込まれた五十狭芹
彦(いさせりひこ)が陣を置いたのが、この吉備の中山さ」

 そう言って石上さんは南方に顔を向けた。私たちの目の前には小さな山がある。鬼ノ城に比べ
ると遥かに小さく、頼りなさそうな山。でも、後に桃太郎となった将軍は、この山を拠点に鬼を
退治したの。そう思えばこの背の低い山もどこか力強く見えてくるから不思議よね。

 五十狭芹彦はここに陣を構え、西は片岡山という所に石楯を築いてそれから戦いを始めた。ま
ず彼は温羅に向かって弓矢を射たんだって。でも、その矢は必ず温羅が投げる石とぶつかって地
面に落ちたの。「矢喰神社」という所に、温羅が投げたと言われる石が残っているわ。どうして
も温羅を倒すことができなかった五十狭芹彦は一計を案じ、巨大な弓を使って一度に二本の矢を
射たの。このうち一本はまた温羅の投げる石と噛み合って海に落ちたんだけど、もう一本の矢は
ついに温羅の左目を射ぬいたそうよ。温羅の左目からは血が迸って「血吸川」になったと言われ
ているわ。
  さすがの温羅も恐れおののいて雉に姿を変えて山中に隠れたけど、五十狭芹彦は鷹となって
これを追いかけたんだって。温羅は今度は鯉に化けて血吸川に入って跡をくらまそうとしたら、
五十狭芹彦は鵜となってこれを噛み揚げ、ついに温羅を捕らえることに成功。その場所には今で
は「鯉喰神社」という神社があるわ。こうして五十狭芹彦は温羅を退治しました、めでたしめで
たしとなったのよ。
 勿論、これは御伽噺の原型になった物語であって、史実とは違うでしょうね。前に雨月山の鬼
の話について柏木君にもそういった話をしたでしょ。鬼とはおそらく山賊の類じゃないかって。
そういえばこの温羅も、源頼光の一党が退治した大江山の鬼も、雨月山と同じように山の中に拠
点を持っているよね。山の中は、やっぱり無法者が立てこもるにはいい場所なのかな。

 そんなことを石上さんに話したら、彼はちょっと神秘的な表情で私を見た。そして、低い声で
呟いたわ。

「…鬼は本当にいるのさ」



 鬼。

 鬼と言えば誰もが思い浮かべるのが、虎皮の腰布を巻いて角を生やし怖い顔をしたあの鬼。桃
太郎に退治され、坂田金時に退治され、節分になると豆をぶつけられる鬼。空想上の妖怪の一種
である、あの鬼。
 でも、鬼という言葉は日常用語でもよく使うよね。「鬼に金棒」「鬼の霍乱」「鬼のいぬ間に
洗濯」「鬼軍曹」「仕事の鬼」。考え様によっては誉め言葉ともとれるものもあるわ。今でも日
本人にとって、鬼は意外と身近な存在なのかもしれない。

 そうそう、鬼が角を生やしたのは陰陽道のせいだって意見もあるのよ。最も古い文献、日本書
紀に登場する鬼は笠をかぶっているけど、角はない。でも平安時代に入ってきた陰陽道では東北
の方角、つまり十二支で言う「丑寅」が「鬼門」となった。角を生やした牛と関係する方角から
の連想で、いつの間にか鬼は角を生やすようになったんだ。
 同じように角を生やしているのが般若。ほら、よく能のお面なんかであるじゃない。口をぐわ
っと開け、二本の角を持っているのがさ。あれって、元々は嫉妬に狂った女の顔なんだよね。や
きもちを焼いている女は鬼と同一視されてたってことね。

「吉備津神社と言えば、女の嫉妬に関する有名な話があるよ。自分を裏切った男に復讐をする女
の話がね」

 吉備の中山の西側に回りこみ、吉備津神社へ向かって歩いている時に石上さんがそう話しかけ
てきた。これがまた悪戯好きの子供みたいな笑みを浮かべているんだ。いや、若い女性をからか
おうとする中年オヤジの笑みかな。私は澄ました表情のまま、何のことでしょうかってそっけな
く返事したの。次の瞬間に石上さんが言った言葉を聞いて、私は飛びあがるほど驚いたわ。

「上田秋成の雨月物語さ。吉備津の釜という作品がある。この作品の舞台が、まさしくこの吉備
津神社なんだよ」

 雨月物語(うげつものがたり)。雨月山(うづきやま)に魅せられ、鬼を捜し求めて歩いてい
る私が、別の鬼の地で読み方は違うけど同じ漢字を使う書物と出会うとはね。もしかしたら、こ
れって何かの運命なのかな。

 私の動揺に気づいたのかどうなのか、石上さんはゆっくりと雨月物語の話をしてくれた。それ
はとっても悲しい話。男に誠意を尽くしながら裏切られた女が、死してなおその男を求め、取り
憑いて彼を殺す話。殺すことでやっと男を自分のものにできた女の話。

 昔、吉備津神社の神主の娘に、磯良(いそら)という非常に良く出来た娘がいた。彼女に持ち
込まれた縁談が悲劇のきっかけだった。井沢庄太夫という者が息子の正太郎の嫁に、彼女を求め
たんだって。実は正太郎は酒と女に溺れてどうにもならない性格だったんだけど、しっかりした
女性と結婚させれば少しは落ち着くのではないかと父親は考えたようね。磯良の父親も乗り気に
なり話を進めたそうよ。
 そしてある程度話が進んだ時、この婚儀に関して一応神意を伺っておこうということになった
のね。神主である父親は祝部を集めて鳴釜神事を行った。この神社には物事の吉凶を釜で占う伝
統があるの。占いたいことを告げ、竃の上に据え付けてある大きな釜を沸騰させる。釜がぐらぐ
らと音を立てれば吉。だけどもし何の音もしなかったら、それは凶兆なのだと。

 そして、磯良の婚儀を占った時、釜は全く鳴らなかったのよ。

 でも、神主の妻は「鳴らなかったのはきっと祝部たちがきちんと身を清めていなかったからに
違いない」と主張して結婚を進めようとした。結局、磯良は正太郎と夫婦になったのよ。
 磯良と結婚して、しばらくは正太郎もおとなしくしていた。でも、彼の生来の遊び癖は直って
なかったの。彼はやがて妻を疎んじ、袖という女と恋仲になったわ。それでも磯良は夫が帰って
くると優しく接していたの。それを見た舅がさすがに見かねて正太郎に厳しく説教したのよ。す
ると正太郎は磯良のところに戻ってきて、詫びてこう言ったわ。

『許して欲しい。ただ、あの女は全く身寄りがなく、私に捨てられたら娼婦になるしかない。私
はあの女を京都に連れていって、しっかりした家に奉公させようと思う。済まないが旅費に少し
お金を貸してくれないだろうか』

 磯良は夫が反省している様子に喜んで自分の着物や持ち物を金に替え、実家からもお金を借り
て正太郎に渡した。でも、正太郎は二度と帰って来なかったの。彼は最初から袖と駆け落ちする
つもりで、その費用を自分の妻に調達させたのよ。さすがの磯良もショックを受け、やがて伏せ
がちになったわ。そして、それから彼女の復讐が始まる。

 逃げ出した正太郎たちは袖の親戚のところに居候することになった。ところがすぐに袖の体調
が悪くなったわ。何かに憑かれたかのように錯乱することもあったの。そして袖は7日の後、亡
くなってしまった。正太郎は泣き悲しみ、墓を立て坊主を呼んで袖を丁寧に弔ったそうよ。
 それから暫く後、正太郎は墓場でしばしば見かける女があることに気付いたわ。話を聞くと、
女は夫に先立たれて気を落としている自分の主人の代わりに墓参りをしていることが分かったの
よ。正太郎はそれを聞いてその女主人に一度会わせ欲しいと頼んだわ。そして、女に案内されて
庭の荒れた一軒の家へ行ったの。

 そこに現れたのは磯良。

 正太郎は慌てて家に逃げ帰り、袖の親戚にその話をしたの。彼は陰陽師を紹介し、その陰陽師
は占いを立ててこれが磯良の怨みだと言った。正太郎は彼の言葉に従い、それから42日間、家
の戸をしっかり閉めお札を貼って閉じこもることにしたの。
 その夜から毎晩、家の外では女の声が響くようになった。お札があって入れないという大きな
声。正太郎は恐ろしさのあまりブルブル震えながら42日間を過ごしたわ。お札のおかげで磯良
の怨霊は家の中まで入ってくることはできなかったのね。
 そして最後の夜。正太郎もさすがに疲れがたまって少しうとうとしたの。やがて彼は戸を叩く
音で起こされたわ。見ると外はもう明るい。朝だ。彼は喜んで戸を開けた。

 でも、まだ外は暗かったの。明るいと思えたのは満月の明かりのせい。

 翌日、袖の親戚は正太郎がいた部屋でおびただしい血の痕を見た。でも、どんなに探しても死
体さえ見つけることができなかったのよ。

「かくも女の嫉妬は浅ましいものだ。上田秋成はそう物語を結んでいる」

 石上さんは話を終えた。納得がいかなかった。何で上田秋成はそういうことを最後に書いたの
かしら。それじゃあまりにも磯良がかわいそうだと思わない? 男に裏切られて捨てられて、あ
げくにそんな言われ方をされたんじゃ浮かばれないわ。

「なぜ釜が鳴ると吉、鳴らないと凶ということになっているか知っているかい」

 石上さんはそう言って私の肩に手をかけた。私は黙って目の前にある鳥居を見上げたの。中山
の麓から山腹へと登る石段が私の前にある。吉備津神社。石段の上には赤い柱に白塗りの壁を持
つ大きな門があり、その向こうには本殿が見える。
 なぜだか、寒気を感じた。雨月物語と雨月山。退治された鬼。吉備津の釜。左目に突き刺さる
矢。裏切られ、般若となる女。色々な言葉が頭の中を駆け巡る。厭な予感が私を包む。それが神
社から来るのか、石上さんの手が置かれた肩から伝わってくるのか分からなかったけど。

「……この神社の中には今でも釜がある。見に行こう」

 石上さんに促され、私は石段を上り始めた。



 格子から射し込む光の中を湯気がゆっくりと立ち上っている。一抱えはありそうな釜が、炎を
上げる竈の上に置かれ、静かに煮立っている。それが吉備津神社の中にある「御釜殿」の中の様
子だった。それは、とても静謐な光景だったわ。

「この釜に奉仕する巫女は『阿曽女(あぞめ)』と呼ばれている。最初にこの釜に奉仕したのが
温羅の妻であった阿曽媛だったから、以後、巫女は皆そう呼ばれるようになったんだよ」

 石上さんの声が耳元で聞こえた。ふざけてみせたり、気障なくらいに格好つけたり、石上さん
の話し方はいつもどこか芝居がかっていたけど、なぜかこの時は妙に生真面目な様子だったわ。
振り向くと、口元を厳しく結んだ石上さんの顔が視界に飛びこんできた。急に老け込んだようだ
った。

「…捕らえられた温羅は、五十狭芹彦によってその首を刎ねられるんだ。だが、胴体から泣き別
れ、串に刺された首は、それから何年も大声を発して唸り続けたという」

 石上さんの言葉は低く御釜殿の中を流れていった。

「五十狭芹彦はその首を犬に食わせたが、骨だけになっても首は唸りを上げ続けた。さらにこの
御釜殿の竈の下八尺を掘って埋めたが、それでも十三年間は唸りが止まなかった。唸りが収まっ
たのは、五十狭芹彦の夢に現れた温羅が自分の妻に釜を祭らせろと告げてからだ。この釜は退治
された鬼を祭ったものだ。そして祭られた温羅の精霊は、その後『丑寅みさき』と呼ばれるよう
になった」

 釜は静かに佇んでいる。湯気は軽やかに流れ、畳敷きの釜殿の中で消えて行く。私は妙な気分
になっていたの。この静かな釜が恐ろしい鬼を祭ったもので、この神社の地下には骨だけになっ
ても叫び続けた鬼の頭蓋骨がある。平穏な神社のたたずまいと、そこに伝わる恐ろしげな縁起。
雨月山のお寺で話を聞いた時もこんな気分になったわ。歴史の陰に消えて行った鬼たちに抱く恐
怖感と憧れ。人を遥かに凌駕する力を持つ鬼への興味と畏怖。
 神域の力で荒ぶる鬼の御霊を鎮めたい。
 眠る鬼を起こしその怒りを解き放ちたい。

 二律背反。

「釜が鳴ると吉、鳴らないと凶。なぜそうなるのか想像はつくだろう。釜の鳴る音は実は鬼の唸
り声なんだ。もし占い事が吉であれば、鬼はそれを不満に思って唸りを上げる。もし凶ならば、
鬼は満足して沈黙を守る。鬼とは人にとって悪。だから人の不幸を喜び、人の幸運を妬む」

 石上さんの声が強くなった。その声を聞きながら、私の心は二つに引き裂かれていく。

「人とは相容れない存在が鬼だ。人がポジなら鬼はネガ。人とはベクトルが逆向きの存在。鬼と
はそういうものさ」
「そうでしょうか?」

 唐突に割り込んできた言葉に、私は自分を取り戻した。振り返ると、御釜殿の入り口に一人の
男性がいた。和服をまとった中年の人。彼は私たちを鋭い目で見ながらゆっくりと屋内に足を踏
み入れてきた。石上さんがその人の方に向き直る。その顔は、吉備津彦神社であのお婆さんを見
た時のように歪んでいた。

 その時、なぜか私は神話の時代の対決を見ているような気になったの。一方は鬼ノ城にこもっ
て戦う温羅。もう一方はこの吉備の中山に陣を敷いた五十狭芹彦。二人の男性がにらみ合ってい
るだけなのに、それが千数百年の昔と直結している。
 なんて書いたら柏木君は笑うかもしれないね。けど、その時は本当にそんな気分になったんだ
から。にらみ合っていた二人の顔が本当に怖かったからかもしれない。いえ、私が勝手にそう思
いこんでいただけかな。でも、このままだと二人が殺し合いでもするんじゃないかって気分にな
ったのは本当。だから止めようと思って石上さんの名前を呼んだのよ。

「石上?」

 中年の男性が私の方を見た。その目は何の感情もない、至極冷静なものだったわ。それと同時
にさっきまで私が感じていた恐怖感もすっとなくなっちゃった。中年のおじさんは再び石上さん
の方に向き直り、静かで穏やかな声を出したわ。

「もしかすると、大和の石上神宮(いそのかみじんぐう)所縁の方ですかな」
「いえ。私は東京の人間ですよ」

 答える石上さんの声も、いつもと同じ楽しそうなものだった。

「そうでしたか。遠いところからご苦労さまです。いかがですか、吉備津神社は」
「噂に違わぬ立派なお社ですね。流石は桃太郎の元になった神様を祭っているところです。吉備
随一のお宮でしょうね」
「そうですね。確かにここに祭られているのは大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)です。
ですが、この御釜殿は少し違うのですよ」
「それは存じておりますよ。ここは温羅の首を埋めた場所でしょう」
「その通りです」

 中年の男性の目が一瞬光ったような気がした。男性は私の方へと振り向く。

「貴方は温羅のことはご存知ですか」

 私は石上さんから聞いた話をそのまま答えた。桃太郎に退治される鬼の原型になった、巨大で
強い鬼。山に立てこもって物資や婦女子を奪い、吉備の人々を困らせ、最後は大和からやってき
た将軍に倒された鬼だと。

「温羅は元は朝鮮半島にあった国の王子です。日本に仏教を伝えた百済(くだら)の国から、こ
の地へやって来たと伝えられています。鬼神のように空を飛行したとか、鬼のように力が強かっ
たとも言われています。ですが…」

 男性は私の目を真っ直ぐに見ていた。それは何もかも見とおすような視線だった。

「温羅が鬼だったという記録は、ないんですよ……」