固茹  投稿者:R/D


 ハードボイルドには雨がよく似合う

 そんなことを思いながら僕はトレンチコートの襟を立てた。霧雨に煙る夜の街は沈黙し、遠い
思い出を呼び覚ますかのように僕を誘う。実にいい。ハードボイルドに話を始めるには絶好の雰
囲気だ。
 もっとも、こうやって街中で物語が始まるハードボイルドはあまり多くない。たいがいは主人
公である探偵のオフィスとか、あるいは依頼者である金持ちの家などが冒頭のシーンになる。あ
えて常道を外してきたのはどういう訳だろうか。
 うむ、きっとここで依頼者と待ち合わせをするのだろう。謎めいた依頼者の一方的な通告で呼
び出される主人公。おまけに呼び出された街角がかつて恋人と別れた場所だったりすると、なお
よろしい。ここで昔日の別離を思い出し、ニヒルな苦笑いを浮かべたりすると叙情派ハードボイ
ルドにぴったりだ。

 僕はニヒルに笑ってみる。

 んで、そうやっていると主人公の前に依頼人が現れるんだな。これがまた予想通りの若い美し
い女。その女は怯えたように辺りを見回しながら僕の方へと歩いてくる。そして、僕の顔を見て
息をのむんだ。だけど、僕には心当たりがない。女は足早に近づくと袋に包まれたなにかを僕の
手に押しつけて……。
 いや、駄目だ駄目だ。これじゃゴル〇13に狙撃を頼んでいるみたいだ。もっとこう、ミステ
リアスな雰囲気を漂わせた女性でないと。

「長瀬ちゃん」

 あれ、瑠璃子さん。

「よく来てくれたね」

 こいつは予想外。
 うーむ、そりゃ瑠璃子さんはある意味ミステリアスな女性ではあるけどなぁ。なんだかちょっ
とハードボイルド向けではないような気がする。やっぱりもっと「悪女」な空気を纏った「おと
なのを・ん・な」って感じの方が。

「長瀬ちゃん、お願いしたいことがあるの」

 え? やっぱり瑠璃子さんが依頼者なの?

「電波を集めてほしいの」

 ……は?

「雨の日は、マンホールの蓋を開けて地下に潜ればよく聞こえると思うの」

 …………

 やっぱりハードボイルドの依頼者は悪女と相場は決まっているようだ。うっかり依頼を聞いた
主人公はろくな目に合わないことになっている。そういうお約束なんだよな、ハードボイルドっ
て……。

 僕はマンホールの中でコートの中までずぶぬれになりながらそう呟いた。



 そもそも、一人称『僕』でハードボイルドをやろうとするのが間違っている。伝統に従うのな
ら『私』。あるいは『俺』でもいいだろう。前任者の失敗はそこにある。

 そう思いながら俺は屋内を見回した。ハードボイルド主人公が使うにはちょっと贅沢すぎる作
りの部屋。もっとこう、全体に薄汚れていて、壊れかけたブラインドから西日が差し込んだりし
ている方が望ましいな。古いファイルキャビネットと、スプリングがいかれたソファなんかがあ
れば最高だ。
 まあいい。俺は差し込まない西日に目を細めながら懐からタバコを取り出す。さて、問題はこ
こだ。ハードボイルドでは吸うタバコにもこだわりがいる。「なんとかライト」などというのは
断じて許されない。ハードボイルドな男が「ニコチン、タールを減量しました」といった宣伝文
句につられてはいけないんだ。できれば「かんとかセブン」みたいなありふれた銘柄も避けた方
が無難だろう。
 例えば、ある日本の作家が書いている私立探偵みたいに両切りタバコしか吸わないという設定
もいいだろう。自分で紙巻きを作るのも、何か20年代っぽくていいかもしんない。ただ、葉巻
はちょっといただけない。パイプになるとハードボイルドじゃなくて本格派だ。キセルは論外だ
ろう。なかなかタバコ一つとっても難しいものだ。
 だが、これを乗り切らなくては前任者の轍を踏むことになってしまう。俺はキャメルの箱を取
り出した。これならまあ大丈夫だろう。一本抜き出して口に銜える。火をつけるにはライターを
使う。もちろんジッポーだ。このためにわざわざ買っておいた。ふふふ、完璧だ。

 げほげほげほ

 むせてしまった。よく考えれば俺は普段、タバコを吸っていない。いきなり肺いっぱいに煙を
吸い込めばそりゃむせるわな。おまけにタバコの煙に目を直撃され、涙が出てきた。いかん。こ
れ以上ボロが出ないうちにやめた方が安全だ。そうしないと前任者のようになりかねない。
 タバコをもみ消す。紫煙がゆっくりと屋内を漂い、天井へと消えていく。それを見ながら俺は
思った。そろそろ依頼者が現れるころだ。今回は主人公のオフィスが舞台だ。前任者と同じミス
をしないためにも、何としても依頼者をこちらのペースに巻き込むべきだろう。ハードボイルド
の主人公は客に向かってとんでもない口をきく。普通なら依頼を受ける前から客を怒らせる探偵
などいないと思うが、これもハードボイルドのお約束。さあ、いつでも来なさい。受けてたって
やろうじゃないか。依頼者、かもーん。

「あら、耕一さん」

 ちっちっち。
 俺は舌を鳴らしながら指を左右に振った。女は目を見開いて俺を見ている。

「何ですかいったい」

 ボギーと呼んでくれ。

「耕一さん、ゴルフを始めたんですか」

 いや、そのボギーじゃなくて

「これからこの会長室で会議があるんです。外してもらえませんか」

 あの、そんなにあっさりとこの部屋の正体をばらされては

「とにかく席を外してください。後で遊んであげますから」

 俺はガキかいっ

「あ、それと耕一さん。就職して自分で稼ぐようになるまで、あまりゴルフはしない方がいいで
すよ。結構、お金がかかりますから」

 ゴルフじゃないのにぃぃぃっ




 ムーディーな音楽が店内を流れる。少し薄暗い店内でざわめく男と女。夜の街も、そこに蠢く
者たちも、ハードボイルドには必要不可欠な舞台装置だ。

「失礼なコト言わないで欲しいネ。店内は十分に明るいハズよ」

 オレは目の前に歩いてきたバーテンダーに向かって低い声でアルコールを注文する。ハードボ
イルドな男にとって、何を飲むかは重要ではない。問題は飲み方だ。水割りなどという甘っちょ
ろい飲み方はNG。男は黙ってストレートだ。

「未成年者の飲酒は禁止されてるヨ」

 そこを何とか。

「ファミリーレストランでウイスキーのストレートを頼む人はいないネ。ヒロユキも諦めてちゃ
んと注文してヨ」

 かくてオレのハードボイルド計画はあっさり挫折した。まったく、ハードボイルドな男にとっ
ては生きづらい世の中になったもんだ。

「ナンパの帝王がハードボイルドだなんて、ちゃんちゃらオカシイねっ」

 それを言うなあっ