追悼(上)  投稿者:R/D


『残念ですが……』



 滴り落ちる汗を抗菌処理したハンカチで拭いながら矢島は顔を上げた。真夏の陽射しは容赦な
く捜査陣に襲い掛かり、その水分と気力を奪い取っている。恨めしそうに頭上の恒星を睨み据え
てみても自分の置かれた状況が変わる訳ではない。矢島はため息をつき、視線を再び落とした。
 そこには腹部を切り裂かれた若い女性の死体が転がっていた。

「変質者の仕業ですかね」
「さあな」
「通りすがりのカネ目当ての犯罪者だったら、こんな面倒なことはしないでしょう」
「そうとも限らないだろう」

 後輩に当たる若い男が、矢島の隣りでかつて女だったものを見ている。こいつも刑事らしくな
ってきた。最初に死体を見た時には5秒と持たずに吐いたのが、今では平然として顔色も変えて
いない。それも夜勤明けなのに、だ。精神も肉体もタフにならざるを得ない仕事。こいつは何を
好き好んでこんな仕事に就こうと思ったのだろうか。
 矢島の心に浮かんだ小さな疑問も知らず、後輩はアルミ製の水筒に入ったニアウォーターで喉
を潤して周囲に視線を配った。

「現場はここじゃありませんね」
「ああ。血痕がほとんどないからな」
「ルミノールは出ますかね」
「自動車を使えばすぐ傍まで来られるんだ。あまり期待はできないだろう」
「タイヤ痕も難しいかな」

 バブル期に計画が立てられ、不況にもかかわらず関係者の面子だけで造成が進められたこの工
業団地は隅々までアスファルトが敷き詰められている。だが、そこを動き回るべきトラックも乗
用車もない。運ぶものがないし運ぶ先も存在しない。女の死体は空き地の間を縫うアスファルト
の道路沿いに打ち捨てられていた。

「当然、目撃者もいる訳ない、と」
「世の中、なかなか楽はできないようになっているのさ」

 矢島はそう話すと死体の傍から立ち上がった人影に近づいていった。白衣を纏ったその中年男
は木綿製の手袋を引きはがしながら矢島に顔を向けた。

「どうですか」
「どうせ司法解剖に回すんだろう。詳しいことはそこで聞け」
「分かったことだけでも教えていただきたいんですが」
「見ての通りだ。誰かが腹を切り裂いた。膀胱も腸も子宮もずたぼろにした」
「死因は?」
「おそらく失血が原因だ」

 監察医の台詞を聞いた後輩が顔を顰める。腹部以外に傷がなく、死因が失血なら、犯人は生き
た女の腹を引き裂いたことになる。

「ま、詳しいことはこれからホトケさんをバラす奴に聞いてくれ」

 医者はそういいながらポケットに入れたボールペンを取りだし、手元の紙に何かを書き記し始
めた。ペンを見た後輩が眉を顰める。

「そのボールペンの外殻はプラスチック製ですか」
「ああ」
「もうそんなものは製造されていない筈でしょう」
「引き出しの中にあったんだ。急がされて慌てて引っつかんだのがこれだったんだがな。それが
どうした」

 無愛想な医者の態度に後輩の声が高くなる。

「そういった物から環境ホルモンが発生することは医者ならご存じでしょう」
「ああ、知っとる」
「ならば」
「くだらん。そんなことを気にしてどうする」
「何ですって」
「学のない奴だ。ホルモンの影響を大きく受けるのは子供、特に胎児だ。儂みたいな中年男には
関係ない」
「それでも」
「まあ、落ち着けよ」

 矢島は後輩の肩を叩き、彼の言葉を遮った。後輩が振り返って矢島の目を覗き込む。その目に
浮かんだ思いに気付かないふりをしながら矢島は医者の方を向いた。

「他に犯人像について言えることは」
「詳しいことは分からんと言っとるだろうが」
「これだけ人間の身体を切り刻むにはかなりの体力が必要でしょう」
「だから犯人は男だ、とでも言いたいのか? わしには断言できん。今時の女はかなり力もある
からな」

 医者が恐妻家であるという評判を思い出し、矢島は苦笑を浮かべた。それに気付いた中年男は
思いきり顔を歪め、無言でその場を立ち去る。残された矢島は後輩と二人、布製のシートにくる
まれて現場から運び出されようとしている死体に目をやった。
 埃が舞う。後輩は慌てて懐から防塵マスクを取り出すと口元を覆った。目を細め、大気中を漂
う微細な粒子に恨めしげな視線を注ぐ。矢島は黙って立っていた。後輩が不審そうな表情で矢島
を見た。矢島は傲然と胸を反らし、彼の周囲を包む埃を睨む。

 熱気に包まれた矢島の脳裏に声が甦った。



『これ以上、試みたとしても無駄に終わるでしょう』



 所轄署に捜査本部が設置された。県警捜査一課と所轄の刑事たちが動き回る。やがてくたびれ
きった彼らが集まり、それまでの捜査結果が報告された。

 被害者の身元は残された免許証からあっさりと割り出された。独り暮しのフリーター。家族は
田舎におり、普段の彼女の行動については何も知らない。探し出したバイト先でも、仕事以外の
プライベートについて知っていた同僚はなし。友人、知人を捜し歩き、しらみつぶしに当たるし
か被害者の足取りを掴む方法はなさそうだった。
 矢島たちが担当した現場周辺の聞き込みはさらに成果の薄いものだった。もとより現場周辺は
ただの空き地であり、人などいない。範囲を広げて調べたものの、事件に繋がる話は出てこなか
った。第一発見者である、産業廃棄物を不法投棄していたトラックの運転手が絞り上げられたが
無駄に終わった。どのようにして死体が運ばれてきたのか、一切不明だった。
 期待がかかった鑑識の調査も芳しいものではなかった。現場周辺の遺留物のうち、事件のヒン
トになるようなものは見つからず。タイヤ痕もはっきりしたものは発見できなかった。もちろん
ルミノール反応も。

「とにかく被害者の足取りを掴むことだ。今後はそちらに重点を置いてくれ」

 それで会議は終わった。席を立とうとした矢島に後輩が近づいてきた。

「ちょっとメシでも食いませんか」
「すまんな。今日は戻らなきゃならんのだ」
「あれ、結婚記念日か何かですか」

 後輩がからかうように言う。矢島は胸の痛みを隠すように苦笑してみせる。

「そんないいもんじゃないさ。それより明日も早いんだから適当に引き上げるんだぞ」
「へいへい」

 署を後にした矢島の顔が歪む。すり減った靴を引きずり、家路を歩きながらあの時のことを思
い出した。あれは何年前だったか。あの日以来、自分を取り巻く世界はその相貌を全く変えてし
まった。警官としての仕事は変わらない。いや、前より熱心に取り組んでいるだけ、周囲の評価
が上がるという変化は生じた。だが、それは矢島にとって微々たる違いに過ぎない。

「…ただいま」

 かすれた声でそう言う。外灯に照らされた玄関は空虚に沈黙していた。妻は出てこない。最近
はずっとそうだ。それでも、妻がまだ起きている気配は伝わってきた。寝る訳がない。毎年、こ
の日は眠ろうと思っても眠れないのだ。思い出してしまうから。



『これで3度目ですね。どうやら…』



 居間では妻が机にもたれ、宙の一転に視線を据えていた。その瞳に現実は何も映っていない。
失われた過去を見ているだけに違いない。矢島は小さくため息をつくと、台所へ行き、コップに
水を汲んだ。
 揺れる水面を見つめる。コップの中の嵐という言葉が浮かんだ。世間から見れば工場団地で見
つかった惨殺事件こそが暴風で、その捜査に携わる自分の家庭の事情はどうでもいいことに違い
ない。例えその原因が全ての人間にとって普遍的な問題であっても、多くの人は日々の忙しさの
中でそんなことは見過ごしてしまうものだ。

 コップの中身を一気に空ける。浄水機を通った水は何の味もしない。

 振り向くと妻が矢島を見ていた。口元が動く。

「…帰ってたの」
「ああ」
「何か作りましょうか」

 そう言って妻は億劫そうに椅子から立ちあがった。できるだけ変わらぬ風を装って、矢島と入
れ替わりに台所へ入る。すれ違う瞬間、その唇が震えるのが見えた。微かな嗚咽が耳を打つ。自
分の顔を見てまた思い出してしまったに違いない。

「軽いものでいい。無理するな」
「ええ、分かったわ」

 気づかぬふりをしながら普段通りの声で話しかける。向こうも同じことをしてくる。あの時か
ら夫婦の会話はこんな感じになってしまった。特に今日はそうだ。何年前だったかは覚えていな
いが、日付だけははっきり記憶している。やはり今日のように暑い日だった。



『話しておくべきでしょう。あなたにも、奥さんにも』



「詳しく調べた結果、判明したことですが、2種類の刃物の痕跡が観察されますね」

 司法解剖を担当した医者が矢島の前でそう言った。手に持った書類に視線を落とし、一言一言
確認するように話す。警察を前にした時のくせなのだろうか、それとも普段からこういう喋り方
なのか。

「一つは鉈のようなものでしてね。ほとんどの傷痕はこれによるものです。ですが、よく調べる
とそれ以外にもっと小型で鋭利な刃物の痕がいくつも残っているんですよ」
「その痕は皮膚についているんですか」
「皮膚にも、内臓にも」

 後輩の質問に医者は短く答え、眼鏡に触れた。外の光を反射したレンズが煌く。

「…色々なところにありますね。あと、麻酔が使われていた可能性があります」
「何ですって」
「麻酔。多分、局部麻酔じゃないですかね」

 矢島は後輩と顔を見合わせた。人を殺す際に麻酔を使う殺人犯など聞いたことがない。

「…いったいどういうことなんでしょう」
「それを考えるのが警察のお仕事だと思いますが。私の仕事は解剖の結果、判明した事実をお伝
えすることです」

 医者はそう言って手に持った書類を机の上に放り出した。紙がめくれあがり、しどけなく乱れ
る。

「参考までにあなたのお考えをお伺いできたらと思うのですが」
「単純に考えれば、局部麻酔をかけ、2種類の刃物で被害者を切り裂いたということになります
か。傷痕の具合から見ると、最初に小型の鋭利な刃物を使い、後から大型の鉈のようなもので何
度も切りつけたのでしょう」
「小型の鋭利な刃物…」
「例えばこんなものでしょうね」

 医者は手元にあったメスを取り上げ、かざしてみせる。後輩が興奮した様子で口を開いた。

「麻酔にメス。まるで医者ですね。もしかしたら治療ミスが発生してそれを隠そうとしたとか」
「そんなことがあるかな」
「病院を当たってみましょうか」
「可能性が高いのはむしろモグリでやっている連中だろうな」
「じゃあ」

 勢い込んで立ちあがる後輩を醒めた目で見たまま、司法解剖を行った医者が言う。

「専門家として言わせていただければ、これをやったのが医者ならとんでもない藪ですね。小型
の刃物の痕だけ見ても必要以上にあちこち傷つけている」

 矢島は医者を見た。

「はっきり言って、これは素人のやったことです。普通の医者なら、もっと上手く切り刻みます
よ」

 医者の口元には嘲笑が浮かんでいた。



『…は亡くなりました』



 捜査は組織として行うものだ。医者の情報をどう活用し、どう動くかも個人で判断するべきこ
とではない。
 それでもモグリの医者を当たることにしたのは、捜査が行き詰まりの様相を見せ始めていたか
らだろう。被害者の周辺は、極めて狭い世界しかなかった。バイト先以外に必ず顔を見せていた
のは住んでいたアパート近くのコンビニのみ。同じアパートの住人は隣人の行動に全く興味を持
っていないようだった。
 日中はバイト先で働き、夕方にはコンビニで買い物を済ませ、後は部屋に閉じこもる。休日は
どこに行くのか、これまで探り当てた知人たちは誰も知らなかった。家族から聞き出した昔の友
人たちも、最近の彼女については何も知らなかった。

「どこにも居場所がなかったのか」
「居場所はあったんでしょ。ホームレスじゃないし、仕事だって」
「そういう意味じゃない」

 コンビニで購入した新しいハンカチの入った紙袋の封を切る。仕事に追われ、帰宅できなくな
ってこれで何日だろう。古い汚れたハンカチを街角にあるゴミ処理ロボットに向かって放り投げ
る。ロボットが動き出し、ハンカチを回収した。ベンチの隣に座る後輩はアルミの水筒を引っ張
り出し、喉を潤している。
 相変わらず暑い。

「確かにそこにいた。そこに住んでそこで働いて。なのにほとんど他人とかかわりを持っていな
い。免許証の写真を見る限りではそんなブスでもないし、この年なら恋人の一人くらいいてもお
かしくないだろうに」
「そうですね」
「なのにそんな奴が見つからない。親しい女友達も見当たらない。他人との関係がない。まるで
宙に浮いているようだ」

 埃っぽい地面を睨んで矢島は呟く。過去のある医療関係者などを一通り回った疲労感で下半身
が鉛が入ったように重くなっている。後輩もそうなのだろう。矢島の呟きにも反応せず、ぼんや
りとベンチの向かいにある商店街を見つめている。

「ねえ、いいだろ。これ買ってよ」
「――携帯情報機器の購入にはご主人様か奥様の許可が必要です」
「いいじゃんか、もう持ってる友達がほとんどなんだから」
「――私の一存では判断しかねます」

 正面にある携帯電話ショップの店頭で子供がメイドロボにねだっている。無表情なメイドロボ
相手ではいくら駄々をこねても無駄だろうに。矢島はその子の両親に思いを馳せ、思わず頬を緩
めた。可愛い子供のおねだりを目の前にした時、彼らは果たしてあのロボのようにしっかりと拒
絶することができるだろうか。



『あの服を買ってあげたいわ、あの子に』



 胸が痛んだ。

「…矢島さん」
「…………」
「矢島さん、ちょっと」

 緊迫した後輩の言葉に、矢島は慌てて顔を上げる。後輩は正面のショップを睨んだまま唇を噛
み締めていた。

「やっぱおかしいですよ、あのガイ者」
「何が」
「今時、携帯を持っていない若者なんていますか」
「それは…」
「彼女のアパートには電話も引いてなかったそうでしょ。最近は全部携帯で用を済ませるから自
宅に電話を引かない奴も多い。でも、携帯すら持ってないなんてことがありますかね」

 矢島は立ちあがると、近くにあった公衆電話に向かって走り始めた。懐からカードを取り出し
緑の機械にそれを押しこむ。呼び出し音の後で、彼女のバイト先が出た。

「お忙しいところすみません、××署のものです。この間の事件の件で教えて欲しいんですが」

 受話器の向こうから眠そうな男の声が聞こえてきた。男は、彼女との連絡はすべて携帯電話で
行っていたと明言した。



『矢島さん、電話です。何か病院から奥さんの件で…』



 電話会社に押しかけた矢島たちは、やがて彼女の携帯からかけられた電話の一覧を入手するこ
とができた。所轄署に設けられた本部は久しぶりの事態の進展に色めきたった。早速、電話をか
けた先に次々と刑事が送りこまれる。それまで分からなかった被害者の動きがやがて浮かび上が
ってきた。

 仕事関連の連絡はそんなに多くはなかった。昔の友人たちとの連絡も皆無に等しい。最近の電
話は、コンピュータのパーツ屋や各種マシンを手がける小さな工作所、ソフトウェア会社や大学
の研究員など、およそ女性が必要に応じてかけたとは思われないところばかりだった。
 電話を受けた先の大半は彼女との取引があったことを認めた。取引がなくとも、彼女からの問
い合わせなどに応じていた。彼女は様々なデータや情報、部品をあちこちでかき集めていた。そ
れはすべてロボット製作に必要なものばかりだった。

「メイドロボの改造、あるいは組み立て。そういう客を相手にしてるよ」
「…そんなことができるのか」
「簡単な改造くらいなら誰でもできるさ。メーカー品をちょっと加工する程度ならね」
「彼女もそうだったのか」
「いんや、もっと本格的だったみたいだよ。相談受けてそう思ったけどさ、ほとんど一から組み
上げようとしていたんじゃないかな」

 スキンヘッドでレンチを振り回す若い男はそう言ってニヤニヤと笑ってみせた。男のいる古い
倉庫を改造した工場の中にはロボットのパーツらしいものがあちこちに散乱している。矢島は解
体されたマネキン工場のようなそこで男の説明を必死にメモした。後輩は工場へ入ろうとしなか
った。内部に散乱している様々な合成物質原料の部品を見て、入ることを拒否した。

「メイドロボおたくは男が多いと思ったが」
「そりゃそうさ。でも女がいない訳じゃない」
「何かトラブルを抱えていた様子はあるか」
「そりゃトラブルだらけさ。メーカー品じゃないんだから、問題が起きれば全部自分の責任。相
談は四六時中だったぜ」
「いや、ロボットじゃなくて、他人とのトラブルだよ」
「さあて、どうかな」

 他人と聞いたとたん、若い男の瞳が濁った。話に興味を失ったらしい。手元にあった基盤を弄
び、矢島から視線を外す。

「俺が相談受けたのはロボだけだから。後は知らないよ」



『そんな、そんなことを相談されたって…』



「ガイ者がメイドロボの組み立てをしていたのはほぼ間違いないと思われます。彼女が集めたパ
ーツをメーカーの技術者に見てもらったところ、十分にメイドロボを組み立てられるとのことで
した」
「よくそんな金があったな」
「バイトの金をほぼそれにつぎ込んでいたようですね」

 捜査本部の会議が開かれたのは日付が変わろうかという時間だった。狭い会議室の中で目を血
走らせた刑事たちが報告に耳を傾ける。

「女で、そこそこ綺麗な顔していて、何でそんな生活をしようと思うのかねぇ」
「まったくの趣味なのか、何か他に理由があったのか、その辺は分かりませんが」
「それに組み立てたロボットはいったいどこにあるんだ。ガイ者のアパートにそんなのはなかっ
たぞ」
「それが問題です。ガイ者がロボットを組み立てていたのが事実なのに、そんなものは見つかっ
ていない。どこかで組み立てていたのは間違いないが、我々はまだその場所を掴んでいないんで
す」

 矢島はそう言うと一同を見渡した。肉体は疲労困憊しながらも目だけぎらつかせている刑事た
ちを見て、矢島は飢えた獣の中に放り出されたような気がした。

「ロボットの組み立てにはある程度のスペースが必要です。ガイ者の住んでいた狭いアパートで
は無理でしょう。どこかに必ず、ロボット工房があったはずです。となれば、その工房の持ち主
も当然、ガイ者と知り合いということになります」
「そいつが重要参考人になる可能性は高い、か」
「もう一度、彼女の電話連絡先を調べるしかないだろう。改めて話を聞いてくれ。特に彼女がど
こでロボットを組み立てていたか、それについて知っているかどうかを最優先でな」

 そこで会議は一段落した。疲れきった刑事たちが立ちあがり、三々五々会議室を去っていく。
矢島は手元のメモを集め、席を立った。これから報告をまとめなければならない。仕事が終わっ
て帰っても、着替える時間しかあるまい。明日も朝からまた聞き込みだ。

 矢島の傍を通った誰かが呟いた。

「まさか、ロボットに殺されたなんてことはないよな」



『そうよ、殺されたのよっ』



 埃が舞う。遮るものとてない太陽の光が容赦なく照りつける。矢島の傍を防塵マスクをした子
供たちが駆け抜けて行く。自分が子供のころはあんなものはなかった。それに、当時に比べると
今は都会でも大気は遥かにきれいだ。厳しい排ガス制限で最も大気を汚していた自動車の排ガス
が随分と減り、それ以外にも危険な物質、危険と思われる物質の使用は制限された。高性能焼却
炉が陸続と作られ、ダイオキシンの発生も大幅に少なくなっている。
 それでも子供たちは用心に用心を重ねている。子供だけでなく大人もそうだ。我関せずとばか
りに昔ながらの有害物質を使い続けている年配者もいるが、それもごく僅かだ。

 だが、メイドロボおたくの間ではそういった物質に対する無頓着さが目立った。彼らは平気で
環境ホルモン源となる合成物質原料のパーツを使い、それに嫌というほど触れ、作り上げたメイ
ドロボを愛撫する。

「少しは気を使おうとは思わないのか」
「別にぃ」

 長い髪をかきあげながら、分厚い眼鏡をした男がぼそぼそと呟く。この世界では有名な人間ら
しいが、さして広くない車庫で機械と取っ組んでいる様子を見る限りではそんな大層な人物には
見えない。

「しかし、こういった合成物質原料はメーカー品ではもう使われていないだろうに」
「だからいいんだよ。安く放出品が出てくるし」
「他人の迷惑になるだろうが」
「そんなことないさ。僕は僕の作品を外に出したりしないからね。僕のメイドロボは全部、屋内
でしか使わない。外に出したら汚れるしね」

 男はそう言って矢島を見た。粘ついた視線が絡む。

「大体ね、合成物質原料は違法じゃないだろ。メーカーが勝手に自主規制してるだけでさ。そも
そも最近よく出まわっているドラッグの方がよっぽど人間の身体に悪いと思うけど」
「ドラッグは違法だ」
「の割にはよく有名人が持ち歩いているようだけどね」

 男は嫌らしい笑い声を上げた。矢島の脳裏にあの男の顔が浮かぶ。



『…人間とどこが違うんだ』



 震える拳をきつく握って胸の中で膨れるどす黒い感情を押さえる。コップの中の嵐。こいつに
とってはそうなのだ。だが、それは間違いだ。人間はその嵐に自分が巻き込まれないと分からな
い。本当に理解することができない。

「とにかくさ、僕は相談を受けていただけ。どこで作ってたかなんて知らないよ」
「…地名とか、駅の名前とか、何かそういったことも言ってなかったか」
「言ってないよ」

 無愛想に男は言うと、矢島に背中を向け、作業を始めた。メイドロボの頭部が大きな机の上に
定置されている。男は工具を取り上げ、その顔面で細かい加工を行っている。瞳を閉じた人形に
絵柄を描き込んで行く人形師のように、その手つきは繊細だった。
 矢島はため息をついて口を開いた。

「他に、何か思い当たることはないか」
「全然」
「場所でなくてもいい。どんなメイドロボを作るとか、誰と作るとか、そういったことでも…」
「そう言えば」

 男が手を止め、振り返った。

「さっきの話じゃないけどさ、彼女、部品の原料にもこだわってたね。僕が余ったパーツを上げ
るって言ったらさ、合成物質原料はいらないって」
「なぜ」
「さあ。とにかく環境ホルモン源みたいなのは使わないんだってさ。あんたと同じように潔癖症
だったのかもね」
「そう…か」

 矢島は背を向けて車庫を出て行った。