稲城 投稿者:R/D
 沙本毘賣命之兄、沙本毘古王、問其伊呂妹曰、孰愛夫與兄歟
『沙本毘賣命の兄(いろせ)、沙本毘古王、その同母妹(いろも)に問ひて曰ひけらく、夫と兄
と孰(いず)れか愛(は)しき』
                              ――古事記中卷 垂仁天皇条



 ねえ、お話を聞かせてよ。

 どのお話?

 あの話。古い古い時代の、あの悲しい女性の話を。

 ええ、分かったわ。じゃあ話してあげる。


 4世紀ごろのことになるのだろうか。日本列島では大和盆地に発した勢力が次第に支配地域を
拡大していた。後に大和朝廷と呼ばれることになるこの勢力は主に大和盆地の南東部、三輪山の
西麓を発祥の地としていた。
 おそらく元々は豪族の連合体とも言うべき政権だったのだろう。朝廷の中心となった大王も、
最初から強い権勢を持っていた訳ではないようだ。例えば大和盆地の内部だけ見ても、朝廷に抵
抗した者たちがいたことが伝えられている。伝説の神倭伊波禮毘古命と戦った鳥見長髄彦は大和
盆地の北西部を本拠地としており、朝廷に皇后を送りこんでいた葛城氏は南西部にいた。そして
大和盆地北部にもまた、叛乱の記録が残っている。

 それは事実上の王朝創設者と見られている崇神天皇の後を継いだ大王(おおきみ)の時代に起
きた。伊久米伊理毘古伊佐知命、漢風諡号は垂仁天皇。古事記によれば彼は7人の女性を娶り、
合わせて16人の子供を産ませたという。女性の出身地は山城、丹波など大和の近隣地域にまた
がっており、かれの結婚が政略と深く関連していたことが窺える。
 彼が娶った女性の中に一人、大和盆地北部出身の女性がいた。女性の名前は沙本毘賣(さほび
め)。今の奈良市佐保の出自であろう。彼女には、兄がいた。


 ……お兄ちゃんがいたの?

 ええ、いたのよ。彼女の兄の名は沙本毘古(さほびこ)。沙本比古とも書くわ。

 名前が似てるのね。

 沙本毘古は「佐保彦」、沙本毘賣は「佐保姫」ね。佐保の地の有力者だったからこう呼ばれて
いたのよ。

 それも政略結婚かしら。

 多分そうね。大和盆地南東部を拠点としていた朝廷にとっては、盆地北部の有力者と手を結ぶ
ことは重要な意味を持っていたわ。大和盆地北部から山城の地に入れば、今度はそこから淀川を
伝って瀬戸内海まで移動できる。瀬戸内の先は筑紫から大陸まで繋がるわ。佐保の地を押さえる
理由はそこにあったと思う。

 だったら、沙本毘賣は自分の気持ちとは関係なく結婚させられたの?

 さあ? 話を続けるわよ。


 ある時、沙本毘古は沙本毘賣にこう聞いた。「お前は夫と兄のどちらを愛しているのか」と。
面と向かってそう問われ、気後れした沙本毘賣は「兄の方を愛しています」と答えた。沙本毘古
はそれを聞くと「本当に私の方を愛しているのなら、私とお前とでこの国を支配しよう」と持ち
かけてきた。そして鋭利な小刀を妹に渡し、「大王が寝ている時にこの小刀を使って刺し殺せ」
と言ったのだった。

 小刀を持った沙本毘賣にその機会が訪れた。何も知らない大王は彼女の膝を枕にのんびりと眠
っている。沙本毘賣は小刀を取りだし、その首を刺そうと刀を三度、振り上げた。だが、できな
かった。夫を殺すことは彼女には不可能だった。悲しみを堪えきれず、沙本毘賣の目から涙がこ
ぼれ落ちる。雫が顔に落ち、大王は目を覚ました。

 大王は沙本毘賣に奇妙な夢を見たと言った。沙本の方角から暴風雨がやってきて自分の顔に降
り注ぎ、さらに錦色の小さい蛇が自分の首にまとわりついたと。それを聞き、沙本毘賣はすべて
を明かすことにした。自分の兄が大王を殺し、取って代わろうとしたことを。そのために自分が
小刀を渡されたことを。殺そうとしたが、自分にはできなかったことを…。


 殺せなかったの。

 そうよ。彼女は夫を殺すことはできなかった。兄を愛すると言ったけど、王位簒奪を狙った兄
の思い通りには動かなかった。

 なぜ? 本当はやっぱりお兄ちゃんより夫の方を愛していたから?

 そう…だったら簡単なんだけどね。そう単純でもないの。続きを聞けば分かるわ。


 謀られたことを知った大王は、急ぎ軍勢を集めて沙本毘古を撃とうとした。沙本毘古は急遽、
稲を積んだ応急の城を作ってそこで大王の軍を待ち構えた。大王の軍が稲城を取り囲む。その時
事件は起きた。

 大王の子供を身ごもっていた沙本毘賣が、兄を思う余り、大王の軍勢から逃げ出したのだ。彼
女は大王側の陣地の背後から抜け出すと、兄が立て篭もる稲城へと入った。そして、そこから二
度と出てこようとはしなかった。


 …お兄ちゃんを、追ったのね。

 そう、夫を捨ててね。

 だったらなぜ最初からお兄ちゃんの言う通りにしなかったの? なぜ夫を助けたの? 彼女が
夫を倒せなかったから、だから彼女のお兄ちゃんは窮地に陥ったんでしょう? そうなってから
お兄ちゃんを追いかけるくらいなら最初から…。

 どうしてかしらね。どうして……。


 大王はなんとか彼女を取り返そうとした。「彼女の兄を恨んでいるが、それでも彼女のことは
愛しくてたまらない」。沙本毘賣が稲城の中で産んだ大王の子供を返そうと城の外に出てきたと
き、大王は彼女まで一緒に取り戻そうとした。それは失敗した。服の袖を破って追手から逃れた
彼女は、稲城の中へ、兄のところへ行った。

 子供だけを取り戻した大王は、燃え盛る稲城の中へ妻が消えて行くのを見送ることしかできな
かった。沙本毘賣は兄である沙本毘古と運命を伴にした。


 …………

 沙本毘賣はなぜ兄を追ったのかしら。夫と兄、二人の間で心が揺れていたの? それとも本当
は兄を愛していたけど、人殺しをする勇気がなかったのかしら? 逆に夫を愛していたのだけれ
ど、最後になって兄に同情したのかも。どう思う?

 …分からない。けど。

 けど?

 もしかしたら、お兄ちゃんを止めたかったのかもしれない。

 …なぜ?

 お兄ちゃんが酷いことをしようとしている。お兄ちゃんにそんなことをさせたくないから、だ
から夫に全部、話してしまったのかもしれない。夫がお兄ちゃんを止めてくれることを期待して
いたのかもしれないわ。

 ところが、夫は兄を止めるだけじゃなくて殺そうとした。それに気づいて慌てて兄の元に走っ
たということかしら?

 慌てて、じゃなくて、覚悟していたんだと思うわ。

 …………

 お兄ちゃんを止めるためにそこまでやったのだから、当然最後はお兄ちゃんについていくつも
りだったと思うの。ついていくことが、お兄ちゃんを陥れたことに対する罪滅ぼし…。

 そんな自分勝手な理屈なの?

 …え?

 それじゃ、夫である大王は彼女に利用されただけなのかしら。

 そ、それは…

 利用されて、沙本毘古の暴挙を止めるために使われて、用が済んだら捨てられたのね。沙本毘
賣のことをあんなに愛していたのに。

 そんなつもりじゃ…

 彼は命がけで兄の暴挙を止めたんでしょ? 彼がいなかったら、兄を止めることは彼女にもで
きなかったんでしょ?

 …………

 彼は誰のためにそこまでやったのよ。彼女の……いえ、あなたのためでしょ、瑠璃子っ。

 …ええ、そうよ。

 その彼を捨てて兄を追うの? 暴挙に走った兄の方を選んで、あなたのことだけ考えていた彼
は置き去りにされるのね。

 …すべてを得ることはできないわ。

 何ですって。

 どんなに望んでも、欲しいものを全部手に入れることはできない。いつか、何かを断念しなけ
ればならない。神でない存在が持つことができるものは、有限でしかないのよ。

 何を言ってるのかしらね。

 …それとも、あなたはすべてを手に入れられると思っているのかしら。お兄ちゃんと、彼…長
瀬ちゃんの両方を自分のものにできるとでも? どうなの……瑠璃子!

 そ…そんなことは。

 いえ、あなたはそう思っているの。全部自分のものにしたいと。お兄ちゃんも長瀬ちゃんも、
欲しいものは全部。

 ち、違うわ。違うわよっ。

 違わないわ。だって気づいているんでしょ? 沙本毘賣の本当の気持ち…。

 え?

 沙本毘賣は二人とも好きだったのよ。どっちも愛していたの。二人とも自分のものにしたかっ
た。自分だけのものに。

 そ、それは…。

 都合よすぎる考えよね。相手にしてみればたまったもんじゃないわ。だから沙本毘古は妹を問
い詰めたのよ。どっちを選ぶのか。どっちが好きなのか。なのに沙本毘賣はどっちも自分のもの
にしたいと思い続けた。だけど、そんなことはできない。どっちも自分のものにし続けるなんて
ことは許されない。だから最後に選んだの。夫を捨て、欲しいものを失って、お兄ちゃんを選択
したのよ。

 …さ、沙本毘賣はそうかもしれないけれど

 いえ、あなたも同じよ、瑠璃子。お兄ちゃんが欲しかった。だからお兄ちゃんが狂気に飲みこ
まれそうになっているのに、お兄ちゃんを刺激するような格好をして、誘惑していた。

 あ、あれは…

 夏だったから? 暑かったから? ウソよ。お兄ちゃんを自分のものにしたかった。それだけ
でしょ。

 そ、そうだとしても長瀬ちゃんは違うわ。

 違わない。確かにお兄ちゃんを止めるためだったんでしょうね。でも、あなたは言ったよね。
長瀬ちゃん、大好きだよ…って。

 それは

 お兄ちゃんの狂気を見て怖くなって、逃げ出して長瀬ちゃんに助けを求めた。それは長瀬ちゃ
んが好きだったから。長瀬ちゃんも欲しかったから。沙本毘賣と同じよ。兄を止めるために夫で
ある大王に頼って。二人はどう思ったかしらね、こんな自分勝手な女を見て。

 やめてっ

 自業自得よ。あなたは選ばなくちゃいけなくなった。両方欲しがっても、手に入るのは片方だ
け。しかも、片方を選んだ時には、もう片方を否応なく傷つけることになるわ。

 だったら選ばなくてもいいじゃないのっ。どうして片方を傷つけなくちゃいけないのよ。無理
に選ばなければ、そうすれば誰も傷つかずに……

 もう駄目。もう、遅いわ。だって、もうお兄ちゃんは帰ってこれなくなったんだもの。長瀬ち
ゃんの力で、二度と明けない夜に閉じ込められてしまったんだもの。私は選ばなくちゃいけない
の。お兄ちゃんか、長瀬ちゃんか……。

 嫌。嫌よそんなのっ。どっちを選んでも誰かが傷つくじゃないっ。

 それがあなたへの…私への罰よ。私が…あなたが犯した罪の償い。他人の心を傷つけ、その痛
みをずっと背負っていかなくちゃいけないの。

 私がどんな罪を犯したのよっ

 貪欲。二人の男性を同時に欲しがったから。相手の気持ちも考えずに。だから…

 いや、いや、いや

 私は選ぶ……お兄ちゃんを。

 いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ



 然遂殺其沙本比古王、其伊呂妹亦從也。
『然して遂にその沙本比古王を殺したまひしかば、その同母妹もまた從ひき』
                              ――古事記中卷 垂仁天皇条



「…ごめんね。長瀬ちゃん。…いまも…大好きだよ」

                                    稲城 終