邂逅(6) 投稿者:R/D
 煙が空にゆっくりと舞い上がっていった。穏やかな陽射しの下、耕平は実家の庭で燃えさかる
焚き火の傍に立ち、揺らめく炎を見ていた。小鳥の鳴き声、暖かな風。春が来ていた。

 脇に積み上げたノートを持ち、一つ一つ火にくべる。表紙が熱気でめくれ上がり、右肩上がり
の特徴ある文字が赤い火炎に飲み込まれていくのが見える。耕平は父親が書き残した膨大なノー
トを処分しながら、ここ暫くの間にこの国を襲った激動を思い出していた。

 3月14日、憲政会内閣の片岡蔵相が失言をした。東京渡辺銀行の経営が破綻したと議会で口
を滑らせたのだ。実際には同行はその日の資金繰りをつけていたのだが、この発言でそれも無意
味になった。そして金融恐慌が始まった。
 いくつもの銀行が休業に追い込まれ、いくつもの場所で取り付け騒ぎが起きた。日本の金融機
関の足腰は極めて脆弱だった。衰えきった銀行にはこの衝撃を乗り切る力は無かった。叔父の銀
行も、破綻した。
 金融恐慌の波は一度では収まらなかった。鈴木商店や台湾銀行の苦境が明らかになる中で再び
取り付け騒ぎが発生し、恐慌の第二波が日本中を襲った。内閣が倒れた。野党が政権に就き、新
蔵相は矢継ぎ早に対策を打ち出した。日本銀行は裏が真っ白な紙幣を刷り、それを銀行の店頭に
積み上げた。政府が支援に乗り出した。混乱は収まった。

 叔父の銀行は大手銀行に吸収されることが決まった。その前に損失を処理する必要があり、叔
父の私財がそれに使われることになった。叔父の犯した犯罪は本人が行方不明になったために有
耶無耶にされ、あの館は人手に渡った。柏木の本家もいずれ失う。耕平は振り返った。古い和風
の建物が静かに佇んでいた。幼いころの思い出が残るこの家も、父が長い間一人で暮らしたこの
建物も、これから他人のものになるのだ。

 炎が跳ねた。

 ノートの欠片が熱気に舞う。父が書き残した文字が空気に溶ける。父は柏木の歴史を書いてい
た。自分の祖先がどのようにして鬼の血に飲み込まれていったのか。狂気に捕らわれ肉体が変貌
し、化け物となった者たちがどんな惨劇を巻き起こしたのか。それを調べ、ひたすらに書き記し
続けた。己の将来を占うかのように。
 父は書いていた。自分は親殺しだと。鬼と化し殺戮を行おうとした自分の父を自らの手で葬っ
た。踏みつけた足の下で、親の身体が冷たくなるのを感じていた。父は書いていた。悲劇は繰り
返されねばならない。自分の息子もまた親殺しにならなければいけない。そして息子もまた、そ
の子によって……。

 そうはならない。耕平は炎の中に次々と消えるノートを見ながら胸の中で呟いた。なぜなら俺
は鬼の血を克服したからだ。

 父が残した柏木家の歴史には、鬼の血に飲まれなかった者たちの存在も指摘されていた。ごく
まれに男性でありながら狂気に陥ることなく、鬼の力を制御できる者が現れる。自分がそうだ。
父と叔父を殺したあの晩から、耕平はそのことに気付いていた。自分が化け物の力を自在に使い
こなせることに。自らを操ろうとしたあの声を、鬼の血を克服したことに。

 最後のノートを焚き火に放り込む。これで遺品の整理は終わりだ。後は不動産屋にこの敷地と
建物を譲り渡せばいい。なに、問題はない。手放した物はまた買い直せばいいだけだ。俺は必ず
ここへ戻ってくる。彼女との約束を守るために……。


『待ってるから』


 彼女はそう言った。今から四十年以上後に雨月山の神社で待つと。だから自分は生き延びなけ
ればならない。何もかも失ったからと言って、諦める訳にはいかない。ゼロからやり直す。彼女
との約束のために。再び彼女と邂逅するために……。

 空はどこまでも澄み切っていた。地べたを這い回る人間たちの営みなど関係なく。耕平は晴れ
やかな笑顔を浮かべ、その空を見上げた。




 昭和4×年3月、雨月山の神社――

 風が吹いた。
 風に木々が揺れた。
 微かに暖かさを滲ませた春の風が杜を渡る。
 柔らかな陽射しが境内に降り注いだ。
 その陽射しが、地面に横たわった少女の身体を照らす。
 春の風が少女の髪を揺らす。
 影が近づいてくる。
 少女は閉じた目を動かした。
 影が落ちる。
 少女の目が開いた。
 影は少女の身体に投げかけられている。
 少女の瞳が動く。
 少女の瞳孔が影の正体を映し出す。
 少女の口元が綻び……

                                    邂逅 終