邂逅(5) 投稿者:R/D
 部屋に飛び込んだ耕平の視界に映し出されたのは、無残に引き裂かれた死体だった。従妹。彼
女の幼さを残した肢体は引き裂かれ、散らばっていた。室内はまるでシュールレアリズムの実験
場だった。壁も天井も床もあちこちが血で染められ、その中に臓物が散乱していた。四肢が奇妙
に捻じ曲がっていた。従妹の愛らしい顔が胴体から切り離され、ベッドの中央に飾られていた。

 そして部屋の中心に、鬼がいた。

 巨大な体躯を体毛で包み、頭部から角を生やしたそれはまさしく鬼だった。鬼は耕平を見ると
鉈のような爪に真っ赤な舌を這わせた。爪も真っ赤に染まっていた。血だった。鬼は耕平と視線
を合わせ……

 笑った。

 血が騒いだ。いつもの違和感が募ってきた。だが、声はしなかった。荒れ狂い、耕平を狂乱さ
せるあの声は聞こえてこなかった。ただ肉体が、筋肉が、拳が、肘が脚が爪が歯が、力を溢れさ
せ、膨れ上がっていった。身体の奥から獣じみた唸りが湧き上がる。
 耕平は理解した。目の前にいる奴が叔母を殺したのだ。首を引き千切り、それをあの小さな机
の上に置いたのだ。そして今また、叔母を殺したその腕で従妹の命を絶ったのだ。
 感覚が研ぎ澄まされる。己の肉体を、筋肉の繊維一つ一つまで感じ取る。自分の姿が人間とは
似ても似つかないものに変化していることが分かる。自分の身体の奥底に眠っていた力が目覚め
ている。力が湧き上がっている。体格が変わる。

 そうだ。俺は鬼だ。

 耕平の変化に合わせるように、目の前の鬼が高らかに吼えた。空気を震わせ、人を狂わせる響
きが。それは喜悦。それは恍惚。鬼は歓びの唄を歌っていた。奴が叫んだ。


 狩リヲ――!


 鬼が飛び掛ってきた。耕平はそれをかわした。自分が強大な力を持っていることが分かる。人
を超えた化け物の力。その力を目の前の鬼に叩きつける。鬼はさらに反撃してくる。並みの人間
なら一撃で肉体が砕けてしまうような衝撃が互いを襲う。

 刃物と化した爪を紙一重でかわす。血が飛ぶ。脈動が早くなる。呼吸が荒くなる。鼓動が勢い
を増す。右の爪で一撃。跳んだ。身を沈める。頭上を奴の丸太のような腕が通りすぎる。脚にし
がみつく。背中に肘打ち。背骨が軋む。足首を掴み、捻る。頭部に打撃。手を離す。蹴り。仰け
反る。背後に一回転。体勢を立て直す。顔面に爪が迫る。頬が裂ける。腕を振り回す。当たらな
い。腹部に膝蹴り。壁に背中を叩きつけられる。頭に衝撃。眩暈。眼球に爪が迫る。身体を沈め
る。爪が角をかすめる。壁にめり込む。敵の動きが一瞬、止まる。

 そして、耕平の爪が鬼の体を貫いた。

 鬼はゆっくりと身体を傾けた。鬼の胸を貫いていた耕平の腕がずるりと音をたててはずれる。
血みどろの部屋の中に横たわる鬼は、次第にその姿を変じてきた。大きな身体が縮み、爪や角や
牙が抜け落ちる。そして最後に残されたのは、父親の姿だった。耕平は呆然とその姿を見下ろし
た。胸に大きな穴をあけた父親は普段よりさらに小さく、弱く見えた。

「……と、父さん」

 人ならざる自分の声が喉から漏れる。それを聞いた父親はこの世のすべてを嘲笑するかのよう
に笑った。

「そう…だ。これでお前にも…事件の真相が分かっただろう。私が殺ったんだよ……私が」
「何故だ。何故父さんが叔母さんを……」
「それが、鬼…だからだ。柏木の家に流れている、鬼の血のせいだ」
「鬼の……血」

 父は話した。柏木家の先祖が鬼の娘を娶ったこと。以来、柏木の家は鬼の血を受け継いでいる
こと。そして男は多くの場合、成長するに連れてその血に意識を飲まれ、文字通りの鬼になって
しまうこと。その惨劇を避けた例がほとんどないこと。

「だから、だから私は…お前に真相を探り当ててもらおうとした……」
「何故だっ」
「分かるだろう。鬼に意識を飲まれてしまえば……そいつはもう人間ではなくなる。見境なく殺
戮を行う存在と化す……」
「父さん……」
「鬼の力は絶大…だ。普通の人間では届かないような…高いところまで簡単に跳躍できる。あの
物置の窓まで飛び上がり、そこから飛び降りることなど…造作もない」
「でも、でも父さんは正気を保っていたじゃないかっ。なのに何故っ」
「ずっと正気だった訳ではない。昨晩も私は、狂気に飲みこまれて…鬼と化した。つい先ほども
だ。この娘にも、義妹にも…悪いことをした。正気を維持できていればこんなことはせずに…す
んだのだろう。だが…」

 父は耕平の目を見た。

「それが柏木家の男の…宿命だ。いずれは鬼に支配される。若いうちは…ともかく、歳を重ねる
に連れて正気を保てなくなる…。歪みは溜まれば…元に戻ろうとするんだ」
「…………」
「弟は…お前の叔父はまだ血が薄かったのだろう……。凶暴だが鬼になることなく…今まで生き
てきたようだ。……もっとも、奴の破滅も近そうだがな」
「ど、どういう意味……」
「奴はな、奴の銀行は破綻している…。あいつは銀行の金を私的に流用…していたんだよ。その
証拠書類を…義妹に預けていたようだ。義妹を殺した時に私が…手に入れた…」
「なっ」
「あいつが必死に探していたのは…そんなつまらん紙切れさ……。それに奴も柏木家の宿命から
は逃げられん。だから…もう、くだらないことに煩わされずに済むよう……あいつも、お前が殺
すんだ」
「そ、そんな、そんなっ」
「さあ、早くとどめを刺せ。この忌まわしい力が……私の身体を治癒しないうちに…」
「と、父さんっ」
「早くしろっ。私も若い時に父親を殺したの…だ。今度はお前があっ」
「け、けどっ」

 父は笑った。哄笑を上げた。

「殺せっ。私を殺せっ。それが…それがこの柏木の血に対する私の復讐だっ」
「…………」
「私が親にしたように……私を殺せっ」

 耕平はゆっくりと腕を持ち上げた。その下で父は身じろぎもせずに耕平を見た。

「歪みを……元に戻して…くれ」

 爪が振り下ろされた。血飛沫が舞った。




 夜を走る。春まだ浅いこの時期の冷たい空気を切って走る。目的地は分かっている。同族の臭
いを追えばいい。同族は怯えている。己より遥かに強い存在に追われていると知って浮き足立っ
ている。耕平は力強く、軽やかに叔父を追う。

 父に止めを刺し庭に戻ると、叔父はあの少女を連れて逃げ出していた。人質にするつもりなの
だろう。くだらない策だ。狩猟者にあるまじき下賎な手段だ。それで逃げ切れると思っているの
なら、とんでもない愚か者だ。

 耕平の巨躯が宙を舞い、森の中に静かに着地する。ここは雨月山。代々、柏木家が所有してき
た由緒ある土地。そこに叔父は逃げ込んでいた。少女の手を引いて。だが、それは無駄だった。
目の前に立つ巨大な鬼の姿を見て、叔父は力なくへたり込んだ。片手に下げたトランクが地面に
落ち、開く。中から書類がこぼれ出した。有価証券や現金、手形、様々な書類。叔父はどこまで
も俗物だった。

「あなたは……耕平…」

 叔父に無理やり引っ張ってこられた少女は、鬼を見てそう呟いた。鬼はゆっくりと頷いてみせ
る。叔父は悲鳴を上げ、散らばった書類をかき集める。

「ま、待てっ。これは俺のだっ、俺のなんだっ。だから見逃してくれ、頼むっ」
「殺すつもりは…ない」

 耕平はゆっくりとしゃべった。異形の者が人の言葉を話す。それはまるで神話の世界の出来事
のようだった。

「あんたは戻って今まで通り銀行の経営をやっていればいい。あんたは誰も殺しちゃいない。鬼
は俺が退治した。もう……誰も死ぬ必要はない」
「け…けいえい?」
「そうだ」

 呆然と鬼を見ていた叔父はやがて痙攣しているような笑いの発作に襲われた。途切れ途切れに
響く奇矯な笑い声が静かな山中の空気を乱す。

「……む、無理だ。もう無理だっ」
「無理ではない。今まで通りにやっていさえすれば……」
「もう今まで通りにはいかないんだっ!」

 叔父はそう叫ぶと立ちあがった。腕に抱えた書類がはらはらと足元に舞う。

「知らないだろう。お前は知らないんだろうっ。蔵相がな、銀行が潰れたと言ったんだよっ。ま
だ営業している銀行が潰れたってなっ。明日になれば、朝になれば取りつけだ。窓口に客が押し
寄せてくる。駄目なんだよもうっ。資金繰りはつかないんだ、休業するしかない、それしかない
んだっ」

 叔父は泣いていた。涙を流し、唾を飛ばして喚いていた。

「だから逃げるんだっ。金さえ持っていればなんとかなる。そうだ、大陸にでも行けばもう一旗
上げることだって」

 叔父は再び少女の腕を掴んだ。少女が悲鳴を上げる。

「こ、この女は俺がもらっていくぞ。何もかもなくしたんだ、この女くらいは……」
「止めろ、もう」

 耕平は静かな声でそう言った。喚き続けていた叔父の顔が強張る。その口元が歪み、しゃっく
りのような声が漏れてきた。

「そっ、そうかっ。俺の邪魔をする気だなっ。畜生、畜生畜生畜生っ。させん、そんなことは絶
対にさせんっ」

 叔父は少女の喉元に腕をあてた。その爪が次第に伸びてくる。少女の顔が恐怖に青褪める。

「ひ、ひひひひひひ。見ろ、この爪を見ろぉ。俺だって、俺だって鬼なんだあっ。貴様と変わら
ないぞ、貴様と同じだ、同じなんだ。俺だって、俺だって、俺だって俺だって俺だって俺だ」

 壊れたレコードのようにしゃべり続ける男の言葉は唐突に途切れた。その背中から巨大な爪が
生えていた。男の生命の炎が揺らめき、消えた。耕平は刹那に男の生命を奪っていた。血も涙も
ない鬼らしく、何の躊躇いもなく……。




 意識を取り戻した少女が見たのは、全裸の耕平だった。彼は人の姿に戻っていた。

「…大丈夫か」

 ゆっくりと上半身を起こす少女。彼女の視界に目をむいて息絶えた男の姿が飛び込む。少女は
微かな悲鳴を上げて男から逃げるように退がった。月に照らされた男の顔は歪み、口元から一筋
の血がこぼれていた。

「怯えることはない。もう…心配ない」

 耕平の声が遠くから聞こえる。少女は彼を見た。耕平は静かに佇んでいた。その目は月の光を
反射し、冷たく輝いていた。耕平が少女に歩み寄る。少女は身を守るかのように自分の身体を抱
いた。耕平は足を止め、少女を見つめた。

「…怖いか、俺が」
「い、いえっ。そうじゃない、そうじゃないわ」

 慌てて声を上げる少女を見ながら、耕平は少し離れた所で腰を下ろした。春の息吹を微かに含
んだ風が二人の間を渡る。耕平は月を見た。冴え冴えと照るその衛星を見ながら、耕平は自分の
身体を満たしていた力がゆっくりと引いていくのを感じた。騒いでいた血が収まり、兇器と化し
ていた肉体が元に戻る。歪みが消え、あるべき姿に帰る。

「あ、あのっ」

 沈黙する耕平の隣にいるのに耐えられなかったのか、少女が小さな声で話しかけてくる。耕平
は月を見ながら口を開いた。

「俺は、鬼の子孫だったらしい」
「…おに?」
「ああ、鬼だ。御伽噺に出てくるあの鬼さ。君の言っていた二重人格説は少し違ったようだな」
「…………」
「御伽噺の鬼は人間を襲い、人間に害を与える。最後は英雄に殺される人間の敵だ」

 耕平はゆっくりと少女の方に顔を向けた。少女は黙ってその目を見つめる。

「……俺が怖いか」

 少女は静かに首を横に振った。そして月を見上げた。青白い光が少女の横顔を映し出す。耕平
も再び月に視線を戻す。

「……まだ、話してなかったね。私の正体」
「…………」

 少女の声が心地良く耳に響く。柔らかな空気に包まれ、耕平は目を閉じた。少女の声だけに集
中するため。

「ウェルズって作家のこと、知ってる? イギリスの小説家なんだけど」
「……名前を聞いたことはあるよ」
「良かった。その人の作品で……」

 耕平は黙って少女の言葉を待った。少女は沈黙していた。息を呑む気配がする。瞼を開き、視
線を動かす。光があった。

 少女の身体が輝いていた。あちこちから光を放っていた。

「そ、そんな……私、帰る……帰れる…」

 自分の身体を呆然と見つめていた少女が顔を上げる。驚愕。焦燥。惑乱。少女の瞳が耕平を捕
らえる。

「や…いやそんなっ……私、耕平と……」

 光に覆われる場所が少しずつ広がっている。


『無理をすれば歪みが溜まる』


「たす……助けてっ、耕平助け……」

 少女が手を伸ばす。耕平は慌てて立ちあがり、少女に向かって手を差し伸べる。

「何故っ。どうして今更またタイムスリ……」

 遠かった。目の前にいる少女が遠かった。耕平は少女を追った。近づけなかった。思いきり腕
を伸ばした。届かなかった。光り輝く少女は目の前にいるのに、耕平から遠く去っていこうとし
ていた。


『歪みはいずれ元に戻ろうとする』


「耕平、約束してっ」

 少女が叫ぶ。溢れる涙を拭うこともせず、少女は叫ぶ。全霊を振り絞るように、耕平に思いの
丈をぶつけるように、少女が高らかに声を上げる。

「昭和4×年の3月、雨月山の神社っ」

 その声は酷く遠く、酷くはっきりと聞こえた。

「耕平、約束してっ。その時その場所に、私を迎えに来るって……。待っている……私、待って
いるからっ……」

 少女の身体はそのほとんどが発光していた。光の隙間から見える少女の顔が柔らかな笑みを浮
かべる。


『あるべき姿に帰ろうとする』


「私……私嬉しかったよ…あなたに、耕平に会うことができて…」
「待て、待ってくれっ」

 耕平は叫んだ。喉の奥から声を絞り出した。

「耕平、コウ…ヘ…イ……」
「嫌だ、行くなっ。行くんじゃないっ。俺はまだ、まだ君の名も聞いちゃいないっ」
「……ユウコ」

 少女が笑った。楽しそうに笑った。彼女の一番の顔だった。

「ヤナガワ…ユウコ……」

 少女が光に包まれた。その光は辺りを照らし、一際明るく輝き、そして消えて行った。

 後には何も残っていなかった。


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