邂逅(4) 投稿者:R/D
 光が戻ってきた。目の前の景色が水底から浮き上がってくるように輪郭を描き、形を定めてい
く。最初に黒い塊が見えた。髪の毛だった。紺色の服、紅のスカーフ。彼女だった。あの少女が
誰かのうえに覆い被さるようにしていた。
 少女が覗きこんでいたのは従妹だった。床に横たわり、目を閉じている。その姿はまるで人形
のようだった。生きている人には見えなかった。少女が振り返った。その瞳が耕平を捕らえ、か
すかに和らいだ。形のいい唇が動き、言葉が紡ぎ出された。

「だ、大丈夫。気を失っている…だけ」

 それだけ言うと彼女は瞼を閉じ、ゆっくりと倒れていった。誰かの悲鳴が聞こえる。床に落ち
た少女のわき腹から紅い液体が流れ出している。耕平は慌てて少女の身体に取りすがった。悲鳴
がうるさくなった。それが自分の悲鳴であることに耕平は気づいた。

「どうしました」

 耕平は凄まじい勢いで振り返った。すぐ近くにいた女中が仰け反る。入り口付近で様子を見て
いたもう一人の女中が叫んだ。

「け、怪我ですかっ。大変、医者をっ」
「やめろっ」

 耕平は大声をあげ、少女を抱いた。紅い血が衣服につく。

「駄目だっ。この娘は誰にも渡さんっ」
「な、何と」
「落ち着いて」
「どけ。そこをどけっ」

 耕平の怒鳴り声に押されたように女中たちが退がる。耕平は少女を抱き上げ、彼女らの動きを
警戒しながら食堂を出た。そのまま少女に割り当てられた部屋へ走る。中に飛び込むと耕平はす
ぐに扉を閉めた。扉は中から鍵をかけることはできない。耕平は少女をベッドに横たえた後、小
型の箪笥を動かして扉を塞いだ。

 廊下から数人の声が聞こえる。だが、耕平はそんなことは気にしていなかった。彼はベッドに
近づくと、注意深く少女のまとっている服を捲り上げた。

 わき腹の傷から流れる血はほとんど止まっていた。耕平の注意深い目が傷の様子を調べる。彼
は舌を伸ばし、傷口の血を拭った。


 大シタ傷デハナイ。人間ハコノ程度デハ死ナナイ――


 ベッドのシーツを引き裂く。それを少女の身体に巻きつけ、止血を図る。服が邪魔だった。耕
平は躊躇なく服を破り捨てた。幾重にも巻いたシーツに腹部を圧迫され、少女はうめき声を上げ
た。耕平は気にした様子もなく作業を続ける。大げさすぎるほどの手当てが一段落し、耕平はベ
ッドに横たわった少女の顔を覗きこんだ。

 美しかった。

 痛みも収まってきたのか、少女の表情は安らいでいた。呼吸も安定している。耕平は黙ってそ
の顔を見続けた。血が止まったためか、白い肌に次第に赤みが戻ってくるような気がした。薔薇
色の唇が微かに動き、長い睫毛が震える。

 唐突に少女が目を開いた。

「……耕平、さん」

 耕平は黙って少女を見ていた。至近距離から見つめられた少女の頬がさらに赤くなる。慌てた
ように少女は手をぱたぱたと動かした。

「あ、あの。もしかしたら耕平さんが運んでくれたんですか、その」
「…………」
「ごめんなさい。その、ご迷惑をおかけして」

 耕平から視線を逸らし、そこで少女は初めて服を着ていないことに気づいた。下着だけになっ
ている自分の身体を見下ろして一瞬目を見張ると、次には裏返った声で叫んだ。

「あ、あのちょっと耕平さん。すみません、ちょっとどいて」
「…………」
「お願い、お願いだから耕平さんっ。その、あたしその」

 耕平の視線から逃れようと暴れる少女の身体を耕平は両腕で押さえ込んだ。

「動くな。傷が開く」
「え、で、でも」
「いいから動くな。お前を死なせたくはない」

 ぶっきらぼうな物言いに驚いたように少女が動きを止める。それでも耕平は少女から手を離さ
なかった。男に押さえこまれたまま、彼女は耕平の目を覗きこんだ。脳の奥まで見透かされそう
な視線を浴びながら、耕平もまた視線を動かすことができなかった。

「……怖かった」
「え?」
「さっき、食堂であなたが大声を上げているのを聞いて」

 少女の瞳が潤む。少女の瞳が揺らぐ。

「でも、助けたかった。あなたに助けられたから、今度は私がって、そう思って。そしたら、あ
の娘がナイフを持って」
「…………」

 少女を掴む耕平の腕に力がこもる。

「あなたを助けたかったから、だから私があなたの前に出たの。お腹が熱くなって、一瞬気が遠
くなって。そしたら……あなたがあの娘の首を締めていた」

 少女の瞳に映る耕平の姿が歪む。

「とても怖い顔で、とても怖い声を出して」
「…………」
「止めなきゃいけないって思った。だから大きな声を出して。あなたは私を見たわ。とても、と
ても悲しそうな顔で……」

 少女を掴んだ腕が震える。胸の中で疼きが広がる。膨れ上がり続けている違和感がさらに強ま
る。少女の声が耳元で響く。少女の息が気管に詰まる。

「だから私、だから……」

 血が騒ぐ。心の中から何かが頭を擡げる。胸の中が何かでいっぱいになる。理性が消え去る。
叫びが、原初の生命の息吹が、喉の奥から吹き零れる。

 痙攣を続ける耕平の身体が少女の腕に抱かれた。


 …カセ――


 声が響く。耕平の頭の中で、心の中で、胸の中で、脳の中で、血の中で。理性という名の檻に
閉じ込め続けていたモノが殻を破り、皮膚を破り、戒めを解き、溢れ出す。それはケダモノ。そ
れは狂気。それは耕平というちっぽけな存在を消し去るほどの勢いで荒れ狂う。声が命じる。声
が。


 犯カセ――!


 耕平は少女の身体にむしゃぶりついた。僅かに残った下着を引き千切る。その小ぶりな胸に顔
を埋め、舌を這わせ、乳房の頂点を責めた。両手で小さな身体をかき抱き、髪の毛を乱れさせ、
己の体重で組み敷いた。

「……耕平っ」

 少女の叫びが耳元で響く。脳裏にはあの声が吹き荒れる。まるで嵐のように。声に導かれるよ
うに耕平は少女の身体を蹂躙する。もみくちゃにする。翻弄する。少女の悲鳴を聞き、その身体
を感じ、その白い肌を見て。

「……耕平っ」

 身にまとう余分なものを剥ぎ取るように捨てる。さらに少女を近くに感じられるよう。僅かな
隙間すら存在しなくなるように。声が荒れ狂う。少女の脚を割る。自らを少女の中に深く、深く
沈めていく。息が詰まる。気が遠くなる。

「こうへいっ」

 少女の声が頭の中の声と混ざり合う。二つの声が攪拌される。その渦に耕平は飲み込まれて行
く。忘我。記憶の中を気絶した従妹の顔が通り過ぎる。電話を握った叔父の低い声が。新聞を見
る父の姿が。食堂で身を縮めていた叔母が。車内で出会ったあの老人が。東京で見た人々が。遠
い日の、母の笑顔が……。

「こ・う・へ・いっ」

 精を放った。頭で、脳で、胸で、心で荒れ狂っていた声が消えて行った。混ざり合った声は記
憶と伴に体外へと流れ出していった。耕平はゆっくりと意識の深い闇へ沈んでいった。




 目を開けると、すでに日は暮れていた。耕平の顔を覗きこんでいた少女が悪戯っぽく笑う。

「ふふ。起きた」
「……ああ」
「とても可愛いのね、耕平の寝顔って」

 耕平はぼんやりと少女の顔を見た。すぐに気づいて上半身を起こす。その勢いで耕平を覗いて
いた少女の上半身がベッドに倒れる。

「も、もうっ。何すんのよっ」
「おい、怪我は大丈夫なのかっ」
「へ?」
「怪我だ怪我っ。傷口が開いたりはしてないかっ」

 少女は少し唖然としていたが、すぐににんまりと子猫のように笑った。

「何よ。傷口が開くほど激しくしたのはだあれ?」
「いや、だからそれは……」

 狼狽する耕平を見て少女は楽しそうに笑った。その顔には耕平が初めて見る表情が浮かんでい
た。心の底から浮かべる笑顔。これまで耕平が見てきた彼女の表情の中で、今が一番魅力的だっ
た。

「大丈夫大丈夫。開いたかもしんないけど、大したことないから。痛みもないし」
「ほ、本当だな」
「うん。だってちゃんとあなたが治療してくれたんでしょ」

 そう言って少女は耕平に身を摺り寄せてきた。耕平の頭に血が上ってきた。急いで視線を逸ら
す。少女はさらに身体を密着させてきた。

「あ、その……傷が大したことがないならそれでいい。うん」
「あれ、もしかして、照れてんの」
「な、何を言っているんだっ」
「あー耳まで真っ赤。やっぱ照れてるんだぁ」
「こ、こらっ」

 少女は人差し指で耕平の頬を突ついた。

「ふふふ。でも本当、さっきとは別人みたいね」
「さっき?」
「うん。食堂にいた時」
「……ああ、あれね」

 耕平は起こしていた上半身をベッドに倒し、頭の後ろで両手を組んだ。高い天井が視界に入っ
てくる。少女は彼の腕を枕にするような位置へ移動してきた。

「最近、よくあんな風になるんだ」
「あんな、って?」
「周りの連中からはとても怖い顔をしているって言われる。いや、単に怖い顔だけじゃなくて、
時折本当に恐ろしいことをやらかしそうになるらしい」


『なぜそんなに怖い目をなさる』


「自分でも分かるよ。ああなっている時には歯止めが効かない。それこそ人殺しでも何でもやっ
てしまいそうな気がする」

 少女が身体を寄せてきた。気温が下がってきたのか、互いの肌が次第に冷えてきている。

「自分の中に、自分じゃない自分がいるみたいな感じがするんだ。その自分でない自分が声を上
げている。その声に従わなくちゃならない。そんな気分になる」
「……まるで二重人格ね」
「二重……ああ、ジキル博士とハイド氏みたいな」
「うん」
「そう、なんだろうか。よくは分からないけど」

 少女は上半身を起こし、耕平を覗きこんだ。

「でも、私は今の耕平の方が好きだよ」
「え?」
「二重人格かどうか知らないけど、食堂のあなたは好きじゃない。私は今のあなたの方がいい。
だから……」

 そのまま唇を寄せ、軽く口づけする。

「……だから、もうあんな風にならないでね」
「……分かった」
「おいっ」

 その時、扉がガタガタと揺すられた。その向こうから聞こえる声は叔父のものだろう。その声
を聞いた少女は耕平の顔を見てちろりと舌を出して見せた。

「開けろ、おいっ。鍵をかけているのかっ」
「えへへ。少し居ないふりでもしよっか」

 少女が小声で囁く。耕平は苦笑するしかなかった。

「ここは中から鍵がかけられたのか」
「さ、さて。普段この部屋は使わないものですから、私にもちょっと……」

 叔父と運転手の話を聞きながら少女がまた子猫のように笑う。

「あの人、管理人としては失格よねぇ。ここが内側から鍵をかけられるかどうかも知らないなん
て」
「それは仕方ないだろう。本来は運転手であって、屋内の管理はついでの仕事……」

 そこまで話し、耕平は突然黙り込んだ。少女が戸惑った顔で問いかける。

「……どったの」
「まさかっ」

 耕平はいきなりベッドから飛び起きた。弾き飛ばされそうになった少女が慌てて枕にしがみつ
く。それを気にした様子もなく耕平は床に飛び降り、散乱していた衣服を慌てて身にまとい始め
た。

「ちょ、ちょっと耕平っ」
「なんだ、やっぱりいるんだなっ。耕平、早く開けろっ」
「待ってください叔父さん。今開けますっ」
「え、ええっ。待ってよ耕平っ、あたし服がっ」




 耕平は殺人現場となった物置にいた。窓枠を睨みつける彼の後ろには叔父と運転手、それに女
中から服を借りた少女が立っている。

「いったい何を調べるというんだ今更。遺体も動かしてしまったのだし、何も出てきやせんだろ
う」
「いいえ。出てきますよ。例えばこれ」

 そういって耕平が見せたのは藁くずのようなものだった。それを覗きこんだ叔父が呆れた声を
あげる。

「何だこのゴミは」
「おそらくロープの繊維です。この窓枠に引っかかってましたよ」

 その声を聞き、部屋の中で微かに身を震わせる者がいた。

「そしてこの布団です」

 耕平は布団を軽く撫でた。さらにぱんぱんと叩いてみせる。一同は不審な目をして彼の行動を
見守った。耕平はそれを気にした様子もなく、脇の小部屋へ通じる扉を開けた。

「そしてこの中。ここにロープがあります」

 埃だらけの棚に置かれたロープを引っ張り出す耕平。彼はそれを窓のある部屋に置いた。ロー
プの一端を小部屋の棚を支える柱にくくりつける。そしてそのロープを伸ばし、もう一方の端を
窓から外へ放り出した。

「さて、下に行ってみましょうか」
「おい待てっ。それが何の意味があるというんだ」
「動機です」
「な、何っ」
「降りましょう。このロープがきちんと地面まで届いていれば、多分この事件の動機が分かりま
す」

 そう言うと耕平は物置を出た。その後に叔父と少女が続く。

「さあさあ、急いで急いで。あ、そうだ」

 いきなり階段に駆け寄った耕平は、階下へ向かって大声を上げた。

「すいませーん。女中さんのどっちでもいいんですが、この物置の鍵を持ってきてはくれません
かー」

 鍵を受け取ると一同は館を出て建物の裏手に回りこんだ。朧な外灯の下、冷たい空気を割って
4人の影が進む。そこではロープの端が地面にとぐろをまいていた。ロープの反対側はジャック
が登った豆の木のように上空へと続いている。その先にあるのは、あの物置の小さな窓だ。ロー
プ以外には何の手がかりもない白い壁が4人の前にそびえている。

 ロープを掴んだ耕平はそれを2、3度引っ張った。さらにしがみついて少し登ってみる。ロー
プはしっかりと彼の体重を支えていた。耕平はロープから飛び降り、叔父の前に歩み寄った。

「犯人はあなたです。叔父さん」
「な……」

 叔父は耕平の指摘を受け、口をあんぐりと開けたまま立ち尽くしていた。隣の運転手も目を見
開いて耕平を見ている。少女は耕平の傍に寄りそうように立った。

「な、何を言い出すんだお前はっ。大体、この私に殺せる訳がないってことはお前だって知って
いるだろうがっ」
「いえ、叔父さんなら可能です。というより叔父さん以外には不可能です」
「何だとっ」
「あの晩、食事が終わった後のことですが……」

 耕平はそう言いながら二階を見上げた。

「叔母さんと叔父さんは二階に上がり、自分の部屋へ行きました」

 耕平はさらに二階の一角を指差す。そこでは従妹が休んでいる筈だ。食堂の騒ぎの後、彼女は
自分の部屋に運び込まれた。まだ意識は戻っていないようだが、単に気を失っているだけで命に
は別状ないという。

「……あの部屋で休んでいる従妹ですが、彼女は一度二階へ上がった後、すぐに一階へ降りてき
ました。そして、僕の部屋の前をずっとうろうろしていたそうです」
「おい」
「二人の女中は一階の厨房で後片付けをしていました。運転手は車庫や一階の戸締りを確認して
いたそうです。父は一階の客室、私も同じ。ずっと二階にいたのは、叔母さんと叔父さんだけで
す」
「だから私が殺したと言うのかっ。大体、一階にいたと証言していた連中の言うことは本当なの
かっ」
「本当です。私の部屋の前でうろついていたあなたの娘さんがそう言っていました。階段を上り
下りした者はいない、とね」
「…………」

 黙りこんだ叔父を見ながら耕平は言葉を続ける。

「一度、二階に上がった彼女もすぐ一階に下り、その後はずっと私の部屋の前にいました。悲鳴
が聞こえた時には私と一緒に応接室にいた。彼女にも犯行は無理だったと思います」
「待って」

 耕平の傍にいた少女が初めて口を開いた。

「本当にあの娘はずっと一階にいたの? そう言ってるのはあの娘だけだし、階段を通った者が
いないというのも彼女の証言以外に裏づけはないんでしょ。それを当てにするのは無理があると
思うけど」
「無理はない。悲鳴が上がった瞬間に二階にいられなかった者は、やっぱり犯人にはなり得ない
んだ」
「どうして」
「何故なら、あの悲鳴はトリックだからさ」
「な、何だとっ」

 叔父が悲鳴のような声を上げた。

「どういう意味だっ」
「犯行時間を誤魔化すためですよ。あの悲鳴は叔母さんのじゃない。悲鳴があった時に事件が起
きたように見せかけようとした何者かが上げた悲鳴です。実際、聞いていた私にとっても、あの
悲鳴が二階のどの部屋から聞こえてきたのかは良く分からなかった。そう、あの物置で悲鳴が上
がったとは限らないんですよ」
「何のためにそんなことを…」
「自分には犯行が不可能だったと見せかけるためです。閂を掛けることだけでは不充分かもしれ
ないと思った犯人が、念には念を入れて用意したトリックだったんです」

 叔父はもう声も出さず、黙ったまま耕平を睨んでいた。

「順を追って説明しましょう。犯人は自分の犯行を誤魔化すためにいくつもの準備をした。内側
から掛かった閂、あの悲鳴、そして室内で倒れていた女性」
「…………」
「叔父さん、あなたは叔母さんがあの物置に入った時を見計らって屋根裏部屋へ行った。そこか
ら天窓を通って屋根に登り、そこから垂らしたロープを伝ってあの窓へ行ったんです」
「屋根からって……ロープを窓から地面に垂らしたんじゃないのっ?」

 少女がそう叫んで建物の方に振り向く。そこでは窓から下がったロープが微かな風に揺れてい
る。

「違う。叔父さんは屋根から窓へ降りたんだ。窓から地上じゃなくてね。そして窓からあの部屋
に入った叔父さんは、怒りに任せてあの犯行に及んだ」
「…………」
「叔父さんはいったん、扉から廊下へ出て自分の部屋へ行く。血の跡を残さないよう、靴下は脱
いだのかもしれないな。そして自分の部屋にいた眠れる森の美女、つまり君を運び出した」

 耕平が少女を見る。少女は呆気に取られている。

「君は話したがらなかったようだけど、君の素性は大体想像がつくよ。この不景気だ。農村の方
は特に酷いらしいね。娘の身売り話もよくあると聞いている」
「あ、あのぉ」
「そういう女性を連れて来て、薬か何かで眠らせていたんでしょう。そして犯行の後に彼女をあ
の物置の中に運び込んだ。死体の傍に君を横たえ、扉の内側にある閂を掛ける。これで準備は万
全だ」
「…………」
「叔父さん。あなたはそれから再びロープを伝い、窓から屋根へ上がった。ロープはもともと天
窓のあたりにくくりつけられていたんでしょう。これなら回収するのに何の困難もない。そして
部屋へ戻り、返り血の始末が終わってからあのニセの悲鳴を上げた。こうして誰の目から見ても
この娘以外に犯人がいそうにない状況ができあがる」
「証拠はあるのかっ」

 叔父が吐き捨てるように言う。耕平は口元に笑みを浮かべた。

「ありますよ。少なくとも彼女が犯人でない証拠はね」

 耕平が手に持っていた布切れを持ち上げた。それは彼自身が破った少女の服だった。紺色のそ
の服は夜の中に溶け込んでいくかのようだった。

「これは知っての通り、発見された彼女が着ていた服です。少し調べれば分かることですが、こ
の服で血がついているのは背中だけ。彼女は仰向けになって、流れ出た血の上に横たわっていま
した。つまり、彼女があの部屋で横たわったのは叔母さんが殺された後になってからです」
「殺した時は立っていたんだろうっ。その後で横になれば」
「無理ですよ。あんな酷い死体です。絶対に返り血を浴びる。どうしてもそれを避けたければ殺
した後で着替えるしかないが、その場合、血のついた服を始末しなくちゃいけない。それは不可
能です。あの物置に血のついた服は残されていなかったし、窓から放り投げたところですぐに見
つかった筈です」
「だからその女は無実だと言うのかっ」
「そうです。あと犯行が可能なのは叔父さん、あなただけです。動機もあります」
「どんな動機だっ」
「これですよ」

 耕平はそう言って高い窓からぶら下がっているロープを手に持った。運転手の顔に陰が射す。

「このロープはあの物置にあったものです。ちょっと触ってみてください。なかなか手に馴染む
でしょう?」
「それがどうしたと言うのだっ。お前の言うことはさっぱり分からん」
「おかしな事にね、このロープには埃が積もっていなかったんですよ。思い出してください、あ
の物置って埃っぽかったでしょう。小部屋の棚に置かれていたものはほとんど埃まみれでした。
唯一の例外がこのロープです。つまり……」

 耕平が運転手の顔を見る。運転手は視線を下に落とした。

「このロープは最近よく使われていたんです。ちょうど、こんな具合にね」

 窓から下がったロープを引っ張る。ロープが夜の空気の中でゆらゆらと揺れる。

「そう考えれば他にもおかしいことは沢山ある。あの物置、使われていないという割に布団は綺
麗だった。これも埃がなかったですね。窓枠にロープの繊維が残っていた理由はもう説明するま
でもないですか。そして何より運転手さん。私はあなたの言葉にとても疑問を感じてるんだよ」
「ぎ、疑問って……」
「事件の時、あなたはあの物置の前で内側に閂があるとはっきり言った。でも、後で尋問した時
にはあの物置には入ったこともほとんどないと話していた」
「そ、それは……たまたま入った時のことを憶えていただけで……」
「そうかい? でもあなたは今日、普段あまり使わない客室の前で、そこが内側から鍵をかけら
れるかどうか分からないと言ったね。掃除もしない物置と、使わないとはいえ手入れは必要な客
室。普通なら客室の扉の方に詳しくなる筈じゃないか」
「ですから、それはたまたまだと」
「いや、たまたまではない。あなたはあの物置をよく使っていた。だから知っていた」
「う……」

 運転手の顔面は蒼白になっていた。耕平は語気を強めた。

「何よりあなたの発言にははっきりとした矛盾がある。あなたは私にはっきりと言った。夕食後
は叔母には会わなかったとね。鍵を管理しているあなたに会わずに、叔母はどうやってあの部屋
に入ったんだ?」
「えっ」

 運転手の手が震える。それに合わせるようにロープが揺らめく。耕平が懐から鍵を取り出し、
運転手に見せた。

「この鍵は先ほど女中さんに持ってきてもらったものだ。普段、鍵を管理している場所に置いて
あったそうだよ。さて、ではこの鍵なしでどうやって叔母はあの部屋に入ることができたのか。
鍵がかかっていた筈のあの部屋に……。説明してあげようか」
「…………」
「鍵なしで入ることなどできない。叔母は鍵を持ってあの部屋へ向かったのさ。鍵を渡したのは
もちろん、あなただ。あなたとの密会のために、叔母はあの部屋へ向かったんだ」
「んなっ」

 叔父が絞め殺されるような声を上げた。運転手は黙ってうなだれている

「あなたは何度も叔母と密会していた筈だ。叔母が鍵を使って物置に入り、そこからロープを下
ろす。あなたがそれを伝って物置に行く。相当前からの関係だろう。だからロープも布団も埃が
積もっていなかった」
「…………」
「昨晩、あなたが悲鳴を聞いただけで事件のあった場所を見事に指摘したのもそれが理由だ。叔
母と密会する筈だったのに、あの部屋からロープが降りてこなかったんだ。だから物置で何かが
起こったことを知った。他の誰にも分からなかった、分かる訳のなかった悲鳴の場所をあなただ
けが指摘できたのは、それが理由だ」
「き、貴様っ、貴様っ」
「当然、鍵は叔母が持っていた筈だ。あなたは多分、遺体を動かした際に鍵を回収してもとの管
理場所に戻しておいたんだろう。自分がしていたことがばれるのを恐れて。けどそれは余計なこ
とだった。叔母の遺体がこの鍵を持っていれば、誰だってそれを使って部屋に入ったと思う。な
のにこの鍵は普段管理されているところに置いてあった。叔母が鍵を使わずにあの部屋に入った
としか思えない状況が出来上がってしまった。あなたの余計な作業で、世にも奇妙な現象が起き
たように見えてしまったんだ」
「貴様あああああっ」

 その時、叔父が大声で吼えながら運転手に殴りかかった。あっという間の出来事だった。慌て
て耕平が叔父にすがりついた時には、運転手にのしかかった叔父はすでに何度も運転手の顔を殴
りつけていた。

「よくも、よくもこの俺を騙しやがったなっ。殺してやるっ、ぶち殺してやるっ」
「お、叔父さん、駄目だ。落ち着いて、落ち着いてっ」

 無理やり叔父を引き剥がす。散々殴られた老運転手はぐったりと横たわっている。荒い息をし
ながら叔父は肩を震わせていた。その叔父を見ながら、耕平は嫌な予感が湧き上がるのを感じて
いた。

「叔父さん、まさか……まさか叔母さんの浮気のこと…」
「知るかっ。知っていたなら、とうの昔にこいつを叩きのめしていたっ」
「そんな、そんな……」
「貴様のたわ言が、まさか当たるとはなっ」
「だって、叔父さんは浮気が許せなくて叔母さんを……」
「それは違うよ、耕平」

 耕平が振りかえると、少女が悲しそうな目で耕平を見ていた。

「ち、違うって」
「耕平の推理。私は別に身売りされて連れてこられた訳じゃないよ。私が説明しなかったのがい
けないんだけど……」
「ふん。とんだ愚か者だな貴様はっ。偉そうに演説した挙句が浮気を指摘しただけか。俺はあい
つを殺してなぞいない」
「そんな、そんな筈は…」

 その時、悲鳴が館を貫いた。耕平は顔を上げた。声は館の二階から響いてきた。それは断末魔
の悲鳴だった。女の声が闇を貫き、耕平の心を直撃した。

「……なっ」
「ばかな、そんなばかなぁっ」

 耕平は次の瞬間に駆け出した。館に飛び込み、階段を駆け上がった。己の愚かさを呪いながら
耕平は足を動かし続けた。



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