邂逅(3) 投稿者:R/D
 女中が淹れたコーヒーを啜る。うまい訳がない。昨晩はほとんど眠らなかった。あんな事件が
あったからだ。無残な叔母の遺体が何度も脳裏に浮かんだ。叔父の不可解な行動や従妹の怒りも
気にかかっていた。だが、耕平から安らかな眠りを奪った最大の理由は、彼と同じ食堂で一夜を
明かした少女の存在だった。
 その少女は今、耕平と同じようにコーヒーを飲んでいる。両手で器を抱えるように持ち、肩を
竦めているその姿は、年齢相応の頼りなさを感じさせた。昨晩、最初に従妹を慰めていた時に見
せたあの芯の強そうな様子と比べると随分と印象が違う。
 いや、人間なんて一筋縄で理解できるものではない。どんなに強い人間でも不安を感じること
はあるだろうし、どんなに頼りなさそうな人でも時にはとても強くなることだってある。昨晩の
彼女も今朝の彼女も、どちらも彼女に相違ない。

 扉が開いた。父がゆっくりと食堂に足を踏み入れ、席に着く。手に持っていた新聞を広げた。
朝食が始まるまで新聞でも読んで時間を潰そうとしているのだろう。世間に背を向けて生きてい
るこの男が新聞に載っているようなことに真剣な興味を持つとは思えない。
 一面の話題は帝国議会だった。震災手形の整理を進めるための法案を巡り、与党憲政会と野党
政友会が激しく対立しているらしい。経済を人質に取った政権争いというのがその実態だろう。
叔父ならともかく、父にとってはどうでもいい話の筈だ。
 ふと見ると、それまで静かにコーヒーを飲んでいたあの少女が食い入るように新聞を見つめて
いた。耕平は妙に思った。父よりもさらに帝国議会とは関係なさそうな少女が、何故あんなに必
死に新聞を見ているのだろうか。今はそれどころではないだろうに。

「…………」

 黙ったまま入ってきたのは叔父だった。目が赤い。ほとんど眠っていないのだろう。いや、耕
平だって似たようなものだ。少女もしかり。普段と変わらないのは父くらいのものだ。

「……あいつは食べたくないそうだ。我々の分の朝食を持ってきてくれ」

 叔父はそう女中に命じた。従妹は閉じこもっているのだろう。叔父が呼びに言っても出てこな
かったのだ。その場にいたものに朝食が並べられる。叔父は少女の顔をじろりと睨み、それから
ゆっくりと咀嚼を始めた。紺色の服を着た少女はその視線に射すくめられたように大人しく座っ
ている。一応、食事は配られたものの、手をつけようとしない。陰鬱な朝食はそうして始まり、
陰鬱なまま終わった。

「さて、耕平。今日は関係者の尋問だな」

 食事を終えた父が無遠慮な口調でそう言う。そちらを睨んだ叔父が苛立たしげな声を上げた。

「もういいかげんにしようじゃないか、兄貴。その女を捕まえて突き出せばいいだけの話だ。こ
れ以上耕平に探偵の真似事をさせる必要などあるまい」
「そうか。ではすぐに警察を呼ぶか」
「……ま、待て」

 叔父の狼狽を横目で見ながら父は淡々と話を続ける。

「警察が呼べないなら続けるしかあるまい。探偵の真似事をな。言い出したのは私だから、今日
は私の尋問から始めるのはどうだ」
「…尋問はやむを得ないにしても、なぜ耕平がやるんだ」
「この家と一番疎遠だったのは耕平だ。利害関係が一番薄いだろう。そちらの……」

 父は顎であの少女を指す。

「そちらのお嬢さんは疎遠かどうか判断しかねるからな。冷静な判断ができるのは耕平しかいる
まい」
「それは、そうだが」
「さ。場所はここでいいだろう。順番に関係者の尋問をやればいい」
「しかし父さん」
「関係者以外は外してもらったほうがいいな」
「待ってください。何で父さんはそんなことを私にさせようとするんですか」

 父の目が耕平を向いた。その目はまた何も映さないただの硝子玉になっていた。

「順番に呼んで尋問だなんて、それこそ探偵小説の読みすぎですよ」
「真相は明かされなければならないんだよ」
「それは……」
「無理をすれば歪みが溜まる。歪みはいずれ元に戻ろうとする。あるべき姿に帰ろうとする」
「…………」
「これを見なさい」

 父が指差したのは先ほどまで広げられていた新聞だった。一面に踊る見出しが議会の混乱を伝
えている。

「震災手形の処理策にはそもそも無理があった。それを無理にもやろうとしたからこうなった。
手形を巡る問題は膨らみ、経済は停滞し、議会は揉めている。歪みだよ。いずれこの歪みは元に
戻ろうとするに違いない。その時には大きな混乱が起きる。あるべき姿に帰ろうとする時に溜ま
った歪みが弾ける」
「…………」
「今、この館で起きていることも歪みが原因だ。いずれこの歪みは元に戻る。その時の混乱を最
小限に抑えるためには……」

 父が顔を上げ、一同を見渡した。叔父は呆気に取られてその言葉を聞いている。耕平も驚きを
隠せなかった。父がこんなに饒舌に話すのはいつ以来だろうか。震災手形を巡る情勢について、
ここまで詳しいとは思ってもみなかった。

「そのためには真相を明かすのが一番だ。真相をはっきりさせることであるべき姿へと戻す。そ
うすれば混乱もほとんどないだろう」

 一同は沈黙した。叔父も耕平も少女も、給仕をしていた女中たちすらも。父は耕平に視線を戻
す。

「だからお前がしっかりしなくてはいけない。お前が真相を見抜けば、混乱は回避できる。大事
な役目だ」
「…………」
「さあ、尋問を進めよう。他の人は外してくれんかね」

 叔父は渋々といった様子で立ちあがった。女中たちも部屋を出る。ただ、紺をまとう少女だけ
は戸惑ったように席に座ったまま周囲を見回した。彼女は食堂を離れても行き場がない。それに
気づいた耕平は叔父に向かって言った。

「叔父さん。彼女に客間を用意してもらえませんか」
「何だと。何でこの女にそんなことを……」
「それが駄目なら尋問もできません。警察を呼ぶしかなくなります」
「……勝手にしろっ」

 叔父はそう言い捨てると足音高く食堂を去った。耕平は女中に頼んで彼女の部屋を用意しても
らった。女中の案内で食堂を出て行く時、彼女が振り返った。耕平はその顔に向かって微笑んで
見せた。彼女の目に微かな安堵感が映る。

 他に誰もいなくなった室内で、耕平は父親と向き合った。

「……で」
「私の昨晩の行動について説明しようか。と言っても大したことはしていない。夕食の後はずっ
と部屋で書きものをしていた。紙がなくなったので応接間に紙を取りに来てお前と出会った。そ
の後はいったん部屋へ戻ったが、屋内が騒がしいのに気づいて部屋を出て二階へ……」
「そうじゃありません」

 耕平は強い声で遮った。父は相変わらず視線を下に落としている。耕平は相手を睨みながら言
った。

「私が聞きたいのは父さんの本当の狙いです。何で私に探偵をさせるのか。何で叔父さんの言う
ことを聞き入れ、警察を呼ばないことにしたのか」
「理由はさっきも言った通りだ。あいつが嫌がるから警察は呼べない。だが、真相は明らかにさ
れなければならない」
「父さんは気づいているんじゃありませんか」
「何に?」
「真相に」
「…………」
「気づいていて、敢えてこんなことを私にさせているんじゃないですか。素人探偵が失敗するこ
とを見越して」
「……どういう意味だね」

 父は下を向いたままそう言う。耕平は語気を強めた。

「父さんは、本当は真相を隠そうとしているんじゃないですか」
「…………」
「警察を呼ばないのも、捜査能力を持たない私に捜査をさせているのも、結局証拠を隠して真相
を闇に葬るのが狙い。違いますか」
「何故そう思う?」
「叔父さんと同じ。柏木家の名誉を守るため……」

 沈黙が落ちる。俯いた父の姿勢は変わらない。耕平はその姿を見ながら言葉を紡ぎ続けた。

「叔母さんを殺したのは……叔父さんだ」
「…………」
「それに気づいたから父さんは事態を誤魔化そうとしている。柏木家といっても、事実上これを
支えているのは本家の父さんではなく、いくつもの会社を経営している叔父さんなのだから。父
さんだって叔父さんがいなければただの社会不適応者だ」
「…………」
「だから叔父さんを守るために手立てを尽くしている。警察は呼ばない。素人探偵に引っ掻き回
させて証拠を隠滅する。いざとなればあの娘を、殺人現場にいた彼女を人身御供で差し出せばい
い。そんな風に計算しているんでしょう」

 父の肩が震えていた。微かに、だが、はっきりと。父の喉から漏れる声を聞き、耕平は耳を疑
った。

 父は笑っていた。

「……何が可笑しいんですか」
「…………」
「何が可笑しいんですかっ」
「可笑しいのも当たり前だ。よくもそこまで突拍子もないことを思いつくものだな」

 口元をアルカイックに歪め、父は顔を上げた。その目が耕平を捕らえる。その瞳に浮かんでい
たのは、侮蔑だった。父は軽蔑しきった表情で耕平を見た。

「お前の言う通りだとしたら、いったいあいつはどうやって自分の伴侶を殺したんだ? お前が
現場に駆けつけた時に、ちょうどあいつは自分の部屋から顔を出したと言っていたな。つまり、
あいつは閂の掛かった部屋の外に、お前と一緒にいた訳だ」
「そ、それは……」
「殺した後で廊下に出て、そして部屋の内側の閂を掛けたというのか。そんなことができると思
うか?」
「た、例えば糸を使うとか……」
「お前こそくだらない探偵小説の読みすぎだ。あの閂の大きさを思い出せ。糸程度で引っ張って
どうにかなる大きさではない。物音がしてからお前が駆けつける間にそんな小細工をする時間の
余裕もない」

 父の指摘に耕平は黙り込んだ。もともと無理がある推理なのは分かっている。だが、それを言
えば叔父以外の誰が犯人であっても同じ問題にぶつかる。ただ一人の例外を除いて。

「それに、私が本当に柏木家の名誉にこだわっているなら、こんな回りくどいことはしない。と
っととあの娘を警察に差し出しているよ」
「…………」
「私の本音はさっきも言った通り。真相だ。真実をお前の手で明かすことだ」

 そう言うと父は席を立った。

「次は誰を呼ぼうか。この家の主人にでも話を聞いてみるかね」
「……いえ。取りあえず、女中を呼んでください」
「よかろう」

 父は食堂を横切り、入り口へと足を進める。耕平は黙って席に座っていた。食卓の上に放り出
された新聞が小さな音を立てた。

「震災手形の歪みは、酷いものらしいな」

 食堂の入り口で父は足を止め、そう呟いた。耕平はその背中を見る。

「こんな田舎でも、厳しい状況に追いこまれている者がいるそうだ……」

 父はそう言い残して去った。




 女中二人の話は似たようなものだった。昨晩は夕食後、死体が発見されるまで厨房で後片付け
に追われていた。奥様が何故あの物置に行ったのかは分からない。ご主人が何故警察を呼ばない
のか、その理由は想像もつかない。奥様に恨みを持ちそうな人間については知らない。あの少女
が何者か、まったく見当もつかない。

「叔父さんが何かを探しているらしいんだ。屋内の掃除をしていて、変なものを見つけたことは
あるかい」

 返答はいいえ、だった。あの物置は掃除すらしたことがないという。本当に使わない物だけ置
いてあったらしい。もちろん、内側にある閂を外から閉める方法など彼女たちは知らなかった。

 女中たちの口が固くなったのは、叔父の暴力について聞いた時だった。どうにか聞き出した話
によると、最近はずっとあんな調子だったらしい。機嫌が良さそうに見えていても、すぐに暴力
を振るう。怒られた方ですら何が相手の怒りを呼び起こしたのか分からないことがほとんどだっ
たそうだ。叔母も従妹も最近は四六時中怯えていたという。

 続いて食堂に来たのは年配の運転手だった。彼は家の中の細かい仕事もしており、家族の事情
にも通じている。叔父の様子については女中たちとほぼ同じ証言をした。叔父が警察を呼ばなか
った理由について聞くと首を横に振った。

「事件の夜はどうしていたんだ?」
「一階で色々と仕事をしておりました。食事の後は車庫へ行ったり屋内の戸締りを見て回ったり
しておりましたので」
「食事の後に誰かに会ったかい」
「戸締りの途中に女中たちと」

 それは女中の証言でも確認している。

「それ以外は誰にも会いませんでした」
「あの物置は本当に使われていなかったようだね」
「はあ。私もあそこに出入りした記憶はほとんどございません。普段は鍵をかけっぱなしにして
おりますし」
「鍵はどうしているのかな」
「他の鍵と一緒に私が管理しております。外から鍵をかけた状態でして。もっとも内側の閂は外
からどうこうできるものではありませんが」
「外からあの閂を掛けるのはやっぱり無理かな」
「それはいくら何でも」
「あの窓から出ることは可能なんだろうか」
「出たとしても地上へ降りることは叶いますまい。降りるのでなく落ちることになるのが関の山
かと」
「そうだよな。けどロープでも垂らせば何とかなりそうな気もするが」
「と、とんでもありませんっ」

 老運転手は大声で否定した。

「そう簡単にはまいりますまい。第一ロープで降りたなら、我々が踏みこんだときに窓からロー
プが垂れ下がっていなければおかしいではありませんか」
「それはそうなんだ。ロープを使って地面に降りたとしても、その後ロープを回収することがで
きない。脱出したならその証拠が残る筈なんだ」
「そうでございましょう。犯人が逃げ出したのだとは思えません」

 そう言って運転手は耕平を見た。運転手が言いたいことは分かっている。一番怪しいのはあの
娘ではないか。それは間違いない。耕平はため息をついた。




 不毛な尋問が終わるともう昼食時間だった。食堂に再び叔父が姿を現した。焦燥が一層濃くな
っている。叔父は何かに焦っている。その隣に座る父はまた新聞を開いていた。何度読めば気が
済むのだろう。従妹は変わらず部屋に閉じこもっているのだろう。
 あの少女も出てこない。耕平は彼女のことが気にかかった。こんな馬鹿げた探偵ごっこはすぐ
に止めて彼女の様子を見に行きたいと思った。従妹に人殺しと罵られた時の寂しげな顔が、今朝
方、コーヒーを抱えてぽつねんと座っていた時の儚げな様子が浮かんだ。
 耕平は首を横に振った。ここで探偵の真似事を止めれば結局犯人はあの少女になってしまう。
耕平は信じていた。あの娘は犯人ではない。犯人にはなり得ない。それを証明しなくては。それ
ができるのは自分しかいない。

 疼く胸を押さえる。この感覚が暫く消えない。最近よく自分を襲う違和感と似た、だがそれだ
けではない何かが心を蝕む。あの少女の顔を見る度に、あの少女の声を聞く度に、あの少女の目
を思い出す度に、遠くから、声が聞こえる。


 ……セ――


 耕平は気を取りなおすと顔を上げ、叔父に話しかけた。

「叔父さん。午後は最初に叔父さんから話を聞きたいんですが」
「私よりも先に聞くべき相手がいるだろうっ」

 叔父の声は最初から喧嘩腰だった。その目は仇を見るかのように耕平を睨みつけている。肩を
そびやかし、胸を張ったその姿は縄張り争いをする獣のようだった。耕平の目が細められる。そ
の周囲の気が僅かに変化する。父がばさりと音をたてて新聞を食卓に置いた。

「……わかりました。では最初にあの女性に話を聞きます。ですが叔父さん。その後には是非と
もきちんと話をしていただきますよ」
「ふん」

 叔父はそう言うと席を立った。他の人もすぐに食事を終えて去って行く。食堂は空になった。
あの少女を待ちながら耕平は考えた。彼女を救うためには何としても犯人を見つけ出す必要があ
る。そのためにもっとも重要な証言をしてくれそうなのは、あの少女本人だ。何しろ現場にいた
のだから、何か知っている可能性は高い。

「あの」

 小さな声がする。彼女が立っていた。耕平は彼女を見て座るよう合図する。身を小さくしたま
ま彼女が椅子に腰掛けた。その様子は怯えた子犬のようだった。耕平の胸がまた疼きだす。

「…………」
「……あの、耕平さん」
「あ、ああ」

 喉に何かが絡んだかのように声がもつれる。耕平は深呼吸をした。聞かなければならないこと
は多い。耕平は単刀直入に切り出すことにした。

「君は、何故あそこにいたんだ」
「…………」
「何故あの物置にいた。あそこで何をしていたんだ」
「…………」
「君はあそこで何を見た。誰が叔母を殺したんだ」
「…………」
「……何故黙っている」
「…………」

 少女は目を伏せたまま黙っていた。耕平の胸の疼きが急激に高まった。

「何か答えろっ!」

 耕平が上げた大声に驚いたように少女は身を竦めた。上目遣いに見るその瞳が、耕平の胸の中
で膨らんでいた何かを刺激した。心が侵食される。疼きが広がる。違和感がどうしようもなく高
まり、それが自分を飲みこもうとする。


 ……セ――


 声が聞こえてくる。目の前が紅く染まってくる。身体の奥底から、意識の奥底から、脳の奥底
から何かが湧き上がってくる。それが殻を突き破り、人間の皮を引き千切り、表へと現れようと
する。


 …カセ――


 耳鳴りが酷い。頭痛がする。身体が言うことをきかない。俺の腕が勝手に動く、俺の目が勝手
に見る、俺の口が勝手にしゃべる、俺の俺の俺の俺の……

「耕平さんっ」

 悲鳴がした。身体の中で、心の中で、精神の中で、脳の中で、胸の中でぼろぼろになっていた
何かが叫んだ。耕平は目を見張った。目の前で少女が悲鳴を上げていた。少女は耕平を真っ直ぐ
見ていた。その目が恐怖を湛えていた。耕平の腕は少女の身体を強く強く掴んでいた。少女は必
死に耕平に向かって叫んだ。

「止めてっ、止めて耕平さんっ」


 止メナクトモヨイ。己ノ成シタイ事ヲ成セ――


「助けてっ、耕平さん」

 耕平は慌てて手を離した。少女を掴んでいたその手は強張り、引き攣り、震えていた。耕平は
その手を持ち上げてみた。耕平の顔の前でそれは醜く歪み、踊り出す。耕平の手から逃れた少女
はがちがちと歯を鳴らしながら耕平を見つめた。

「……声が」
「え」
「声がした。声が、声が俺に」

 耕平は頭を抱えた。唇を血が出るほど強く噛み締めた。口からとめどなく唸りが漏れる。全身
が瘧にかかったように激しく震えた。

「こ、耕平さん……」
「俺に、俺に声が」
「耕平さん、大丈夫なのっ」
「声が、声が、声が声が声が声が声が」
「しっかり、しっかりしてっ。待って、誰か呼んでく……」

 その時、扉が急いで引き開けられた。入ってきたのは耕平の父だった。彼はつかつかと耕平に
歩み寄るとその胸倉を掴み、拳で殴りつけた。切れた口元から血が飛び散る。

「う、うぐ」
「正気に戻れ。貴様まで囚われてどうするんだっ」
「……と、父さん」

 父は腕を離した。放り出された耕平は床に崩れ落ちる。少女は慌ててその傍に跪いた。仰向け
になった耕平は暫く荒い呼吸を繰り返していた。頭の中で吹き荒れていた何かがやがて少しずつ
収まってくる。呼吸が平常に戻る。父親はそれを確認すると背を向けた。

「……父さん」
「尋問を続けろ。いくら美人と一緒だからと言って変な気を起こすんじゃない」

 そう言い残し、父は食堂を去った。耕平は呆然と父が出て行った後の扉を眺めた。いったい自
分に何が起きたのか。耕平には理解できなかった。父がまるで自分の異変を察知したかのように
食堂に現れた訳も分からなかった。分からないことだらけだった。

「耕平さん……」

 少女の声が遠くから聞こえるような気がした。




 彼女からは碌に話を聞くこともできなかった。自分自身を襲った突然の激情をどうにか抑えた
後、改めて尋問のやり直しを試みたのだが、それはまったくちぐはぐなものだった。彼女は耕平
の様子ばかり気にかけており、耕平の質問にまともに耳を傾けなかった。耕平は彼女と目を合わ
せることができず、いきおい質問も中途半端なものになった。

 結局、彼女はあの部屋の中のことは何も憶えていないようだった。気づいたら食堂のソファだ
った。それが唯一のまともな答えだった。物置の中では気を失っていたというなら、気絶する前
はどうしていたのか、そもそも何処から来たのか、何者なのか。

 何を聞いても少女の答えは「信じてもらえないわ」だった。

 少女が去り、一人残された食堂で耕平はため息をついた。先ほど自分を捕らえた激情が憎かっ
た。あんなことをしなければ彼女の信頼を得られただろうに。信じてもらえないわ、などと言わ
れずに済んだ筈なのに。
 去り際に少女は耕平の身体を気遣う言葉を残した。疲れているなら休んだ方がいいと。悲しか
った。自分の行為が少女にそんな台詞を言わせたことが辛かった。少女を守ろうと、助けようと
思っていたくせにあんなことをした自分が情けなかった。

「何時までこんなことをやるんだ」

 耕平が顔を上げると、そこには叔父がいた。椅子に腰掛けた叔父の表情は光の加減か、酷くや
つれて見えた。時間が経過するにつれ、叔父は病み衰えていくかのように見えた。その口調にも
勢いが感じられなかった。

「……一通り話を聞くまでは」
「じゃあさっさと済ませてくれ」

 耕平は唾を飲み込んだ。物理的にあのような殺し方が可能なのは、膂力があり体格のいいこの
叔父以外には考えられない。耕平はそう思っていた。ここは重要な局面だ。焦ってはいけない。
耕平は無理やり気力を振り絞ると質問を始めた。

「昨晩、食事の後は何をしていましたか」
「ずっと部屋にいた。仕事が残っていたのでな」
「どんな仕事です?」
「そんなことが関係あるのか、今回の事件と」
「分かりません。もしかしたら関係あるかもしれないし、そうでないかもしれない」
「銀行の仕事だ。これでいいだろう」

 叔父はいくつかの企業と、地元銀行のトップを務めている。不景気のこの時期はさぞや大変な
のだろう。

「ずっと部屋にいたことを証明する人は」
「いる訳ないだろう」
「叔母さんには会わなかったんですか」
「ちょっと用事があったから食後すぐにあいつの部屋を訪ねた。それ以降は会っていない」
「どんな用事ですか」
「家計のことだ」
「会ったのは何分くらい?」
「ほんの数分だな」
「叔父さんはあの物置に入ったことはありますか」
「ない。あそこに物置があることは知っているが、使ったこともないし使うつもりもなかった」
「何故叔母さんがあそこにいたか、その理由は」
「知る訳がないだろう。家のことはあいつに任せていたから、あの物置に何かを取りに行ったん
じゃないのか」
「騒ぎに気づいたのは」
「お前たちが二階に駆け上がってきてからだ」
「私たちはその前に誰かの悲鳴らしい声を聞いています」
「ああ、それは聞こえた。だがどこでしたものか分からんかったし、また女中が騒いだのかと思
っていたよ」
「私たちより前に二階に誰か来ましたか」
「それらしい様子はなかったな」

 そつのない受け答えだ。耕平はいよいよ本題に入ることにした。

「叔父さん。彼女に取られたものって何ですか」
「なに?」
「昨晩の食堂での騒ぎですよ。あの娘を追いかけながら言ってましたね。取ったものを返せと」
「…………」
「忘れたんですか。あそこで何かを持ち出しただろうと問い詰めていたじゃないですか。あそこ
ってのはあの物置ですよね。それ以外に考えられないでしょう」
「…………」
「一体何をあの物置に置いていたんですか? 彼女に取られたものって何ですか?」
「あの女に聞けばいいだろう」
「彼女は知らないそうです。もしかしたら気づかずに自分のものにしてしまったのかもしれませ
んよ。勘違いで叔父さんのものなのに自分のものと思ったのかも……」
「それはない。そんなことは」
「では勘違いするようなものではないのですね、叔父さんがなくしたものは」
「…………」
「叔父さんが警察を呼ばないのもそれが理由なんでしょう。よほど大事なもので、しかも警察に
は見られたくないようなもの……」
「黙れっ」

 叔父は一声怒鳴ると立ちあがった。

「まだ質問は終わって……」
「これ以上答えることなどない。お前はさっさとあの女を警察に突き出せばいいんだ」
「叔父さん」
「うるさい。とにかく……」

 その時、扉がノックされた。中から運転手が顔を出す。

「あの、旦那様に電話が入っておりますが」
「どこからだ」
「はあ、銀行の方からですが」
「分かった」

 叔父は大またで廊下に出ると電話のある場所へと歩いて行った。田舎とはいえ地元の名家であ
るこの館にはきちんと電話が引いてある。耕平は叔父の後についていった。

「何故ついてくる」
「まだ話は終わっていませんから」
「……勝手にしろ」

 叔父は耕平を無視するように受話器を取った。電話線の向こうから届く声に耳を傾け、横柄に
応答している。

「ふん……片岡……何っ」

 叔父の声がいきなり高くなった。

「それで…うむ……渡辺銀………そうか、休業か」

 落ち窪んでいた叔父の目がぎらぎらと輝きを増す。耕平に背を向けるようにして叔父は声を潜
めた。

「分かった、すぐに行く……うむ…そうしてくれ」

 受話器を置いた叔父は耕平を睨みつけて言った。

「残念だな。これ以上こんな茶番に付き合ってはいられない。仕事ができた」
「どんな仕事です」
「それこそお前には関係ない。お前が何と言おうと私は出かけなければならん。いいな」

 そう言い捨てると叔父は女中を大声で呼んだ。すぐ出るつもりなのだろう。耕平は食い下がっ
た。

「出かける前に一つだけ教えてください。叔父さんはいったい何をなくしたんですか」
「何もなくしてなどいない」
「なら昨晩のあの騒ぎは何ですか」
「お前たちがとっととあの女を警察に突き出さないから、私がやりやすくしてやろうと思っただ
けだ。あの女が何かを盗んだとなればこれは文句なしで警察に引き渡せるだろう」
「まさか、でっち上げで彼女を逮捕させようとしたんじゃ」
「うるさい。とにかく私はもう出かける。これ以上は何も答えないからなっ」

 そして叔父は足音高く館を去った。運転手も彼の後を追う。取り残された耕平はその後ろ姿を
黙って見送った。叔父は何かを隠している。それがこの事件を解く鍵になるのかもしれない。

 玄関の向こうに見える空は次第に光を失いつつあった。




 耕平の前に現れた従妹は一晩で随分と雰囲気が変わっていた。彼女は耕平をとげとげしい目つ
きで睨み、口元を歪めている。耕平は事務的な態度を装いながら従妹に声をかけた。

「昨晩のことだけど」
「私にそんなことを聞いても意味ありませんわ」
「全員に聞いているんだよ」
「無駄なことをしてますのね。もっと手っ取り早くやればよろしいですのに」
「…………」
「あの女を捕まえてしまえば、それで済むではありませんか」
「……昨晩、夕食の後だが」
「お従兄様っ、私は」
「夕食の後、私に会うまでどこで何をしていたんだい」
「何故私にそんなことを聞くのですかっ。あの悲鳴が聞こえた時、私はお従兄様と一緒にいたで
はありませんか」
「それは分かっている。私が知りたいのはその前だ。私に会うまで、どこで何をしていたのか」
「お従兄様の部屋の前にいました」
「……なに?」
「お従兄様の部屋の前にいました。一度は自分の部屋に戻りましたけど、どうしてももっとお話
がしたかったんです。だから部屋の前まで行きました、でもっ」

 従妹の視線が落ちる。唇を噛み締め、声が震えそうになるのを堪えている。

「お従兄様は夕食の時のお父様の話を迷惑そうに聞いていらしたし、その後で私が訪ねていって
も嫌な思いをされるかもしれないと……」
「…………」
「だから、だから部屋には入れなくて、でもそのまま去るのもつらくて……」

 少女の顔がさらに俯く。膝の上で握り締められた手に水滴が落ちる。彼女は泣いていた。耕平
は声を出すこともできず、従妹を見つめていた。

「ずっとお従兄様の部屋の前をうろうろしていたら、お従兄様が出てくる気配があって、慌てて
物陰に隠れました。そのままお従兄様を追いかけて、やっと応接間で声をかけることができたん
です」
「……分かった」
「楽しみにしていたのに。お従兄様が帰ってくると聞いて、久しぶりにお会いできると思ってと
ても楽しみにしていたのに」
「…………」
「なのに、お母様はあんな風になってしまって」
「……なあ」
「お父様も変。何だか別のことにばかり気を取られているようで」
「私の部屋の前にいた時に、誰か見かけたか」

 従妹が顔を上げた。口元を強く食いしばり、爛々と輝く目が耕平を睨みつけている

「誰か? 誰かって誰ですの。あの女を見かけたとでも言えばお従兄様は喜ばれるのですかっ」
「いや、そんなことはないが」
「見ていませんわ。私は誰も見ていませんっ」
「階段を上り下りした人もいなかったのか」
「おりません、そんな人など見ていませんっ」
「…………」

 彼女の顔が再び歪む。

「……これで満足されましたか、お従兄様。私の証言からどんな理屈を捏ね回すおつもり?」
「すまなかった。もういいよ」
「いい、ですって。何がいいんですかっ」

 彼女はゆっくりと立ちあがり、耕平の顔を上から見据えた。その瞳には辛そうな光が宿ってい
る。耕平はとうとう耐えきれなくなり視線を外した。

「きっとこれであの女を無実にしようとしているのでしょうね。私の証言を使って。でもね、そ
んなことはさせませんわ。絶対に、絶対にっ」
「……部屋に戻って休みなさい」
「あの女がお母様を殺したのよっ。あの女がっ。私は許さない。あの女を絶対に許さないっ」
「戻れっ」


 ……ヲ――


 まただ。また頭の中で声がする。胸の中に違和感が広がる。耳鳴りがする。何かが身体の奥か
ら、心の奥から湧き上がってくる。大きくなってくる。暴れ出す。やめろ、だめだ、いけない、
抑えろ、封じ込めろ、出てくるな、俺の中から出てくるなぁあああああああああああああぁっ。

「とっとと戻れと言っているっ」

 大音声。恐怖に塗りこめられた顔をしている女が数歩退がる。女はこちらを見ている。歯を剥
き出し、手は背後をまさぐっている。逃げ場を探しているのだ。自分の身体が一歩前へ動く。女
は締め上げられるような悲鳴を上げ、くるりと振り向いてあちらへ、出口へと走り始める。扉が
開く。そこから別の女が顔を出す。若い女が、紺色の服を着た少女が。

「耕平さん、どうしたんですかっ」

 その声に耕平は消えつつあった自分を取り戻した。勝手に動き出そうとしていた足が止まる。
持ち上げられていた腕を意識し、これを必死に下げる。口から唸り声が漏れ、身体ががくがくと
揺れる。食堂へ飛び込んできた少女は慌てた様子で耕平に駆け寄った。

「落ち着いてください、耕平さんっ」

 その悲鳴のような声が妙に遠くから聞こえる。耕平は死に物狂いで自分の腕を動かし、身体を
抱え込むようにした。膝が崩れる。床に膝をつく。耕平の身体が温かいものに包まれた。少女が
耕平を抱き締め、耳元で怒鳴った。

「耕平さん、耕平さんっ」

 二の腕に爪を立てる。それが皮膚を破り血液が溢れ出す。痛覚。腕の感覚が戻ってきている。
足も勝手に動き出す様子はない。自分が唸り続けていることに気づく。歯の根が合わない。全身
が痙攣している。それでも、自分の身体が自分のものになってくる。失われていた何かが戻って
くる。何者かに乗っ取られそうになっていた肉体の感覚が甦る。

「耕平さ……」
「大丈夫……だ」
「こ、耕平さんっ」
「もう…お、落ち着いた……から」

 歯をがたがたと鳴らしながら声を絞り出す。少女の顔を見て無理やり笑みを浮かべてみせる。
泣きそうになっていたその顔に安堵の笑みが戻る。それを見て、耕平は再び西洋の聖母を描いた
絵画を思い出した。慈愛と、その心を支える強さを併せ持った笑顔を。

「……どうして」

 低い声がした。耕平が顔を上げると、食堂の入り口近くに従妹が俯いて立っていた。彼女は逃
げ出さなかったのだ。狂乱状態に陥りそうになった耕平を見て怯えながらも、その場にとどまり
続けていた。

「どうしてその女が」

 その手元で何かが光った。従妹は手に果物ナイフを握っていた。食堂に置いてあったそのナイ
フを何時の間に手にしたのか。ナイフを持つ両手がゆっくりと上がる。

「その女がお従兄様のことを」

 従妹の顔が上げられた。その瞳は悲しみに満ちていた。そこから涙が流れた。その顔は、般若
の顔だった。嫉妬に狂った女の顔。鬼の顔だった。

「お従兄様のことを、勝手に名前でっ」

 般若が床を蹴った。腰だめに構えたナイフが光を映して煌く。紺をまとう少女が立ちあがり、
耕平を庇うように動いた。二人がもつれる。紅いものが耕平の視界をよぎった。


 …リヲ――


 声が頭の中で叫んだ。自分の肉体が何かの衝動に捕らわれる。血が床に落ちるのが見えた。果
物ナイフの煌きが鈍り、紺の服が紅く染まった。


 狩リヲ――!


 頭の中の声が全てを圧する。視界が紅一色に塗りつぶされる。

「耕平っ、駄目ぇええええええええええええええぇっ」




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