邂逅(2) 投稿者:R/D
 耕平は食堂で腰を下ろしていた。食堂の中央に置かれた大きな食卓は叔父の趣味らしくごてご
てとした飾り付けがなされている。椅子もそうだ。壁面を飾る装飾も無駄に多い。一番目立つの
は、カレンダーの隣にある巨大な振り子時計だろう。部屋の四隅には、如何にも高価そうな像が
ある。像の傍にはソファもある。そこに少女は横たわっていた。

 紺色をベースにした上着とスカート。紅のスカーフを巻いたその服装は水兵のようだ。長めに
伸ばされた髪の毛は後頭部で一まとめにされ、そこから重力に引かれて下に流れている。白い肌
はあれだけの惨劇の場にいたにもかかわらず汚れがない。閉じられた睫毛は微かに震え、僅かに
開いた口元からは少しずつ息が漏れる。通った鼻筋や控えめな口からは儚い印象を受けるが、目
元には強い意思が感じられた。

「この女が犯人だ。決まっている」

 叔父の叫び声が耕平の耳に届いた。振り返った耕平の視界で顔を真っ赤に染めた叔父が床を踏
み破りそうな勢いで部屋に入ってきた。普段、感情を窺わせないその瞳に、はっきりとした怒り
が浮かんでいる。

「なぜこの娘さんが犯人と言えるんだ?」

 叔父の横で椅子に腰掛けている父は、いつも以上に沈鬱な空気をまとっている。そしていつも
以上に理性的になっているようだ。

「決まっている。あそこは内側から閂が掛かっていたんだぞ。だから中にいた奴が犯人だ。間違
いない」
「窓は開いていた」
「バカ言え。確かに窓は開いていたが、あの窓は外から入れる場所にはない。あっちの外壁には
ほとんど何の手がかりもないんだ。窓まで身体を引き上げるのは無理に決まっているだろうが」
「そうと決まった訳でもあるまい」
「黙れっ、ここは俺の家だ。俺が判断する。その女が犯人だ」
「だったらどうするんだ」
「始末すればいいっ」

 耕平は立ち上がり、叔父の顔を見た。叔父の表情が変わった。それまで見たことの無い何かが
その目に浮かんだ。耕平は静かに話し始めた。

「叔母さんは首を引き千切られていました」
「だ、だからどうしたっ」
「この娘にどうやってそんな真似ができるんですか? とてもそんな力持ちには見えませんよ」
「道具でも使ったんだろう」
「どんな道具を?」
「知るかっ、そいつに聞け」
「それより先に警察を呼んだらいかがです。あれが人殺しなのは間違いないし、この娘が犯人な
のかどうかも警察に調べてもらえば……」
「警察だとっ!」

 叔父は大声を上げ、食卓に拳を叩きつけた。大音響をたてて大きな食卓が揺らぐ。娘の様子を
見ていた女中と運転手が竦みあがった。

「駄目だっ、警察だけは絶対にいかんっ!」
「何故ですか。これは殺人事件なんですよ」
「とにかく駄目だ。警察に俺の家を嗅ぎ回らせる訳にはいかんっ」
「しかし……」
「そいつが犯人に違いない。いちいち警察の手を煩わせる必要は……」
「だからと言って始末するなどと……」
「言葉の綾だ。そいつを犯人として突き出せばいいじゃないか」
「警察がそれで納得する訳がないでしょう。通報すべきです」
「駄目だと言ったら駄目だ」

 叔父は大またで耕平に近づくと、その襟首を掴んで噛みつくように叫んだ。

「いいか、ここでは俺の言うことに従え。とにかく警察は呼ぶな」
「ではどうしろと言うんですか」
「考えろっ」

 叔父は耕平の身体を揺すりながら喚き続ける。耕平の頭の中が次第に熱くなってくる。

「いいか、考えるんだ。警察を呼ばずに済ませる方法を。そいつが犯人に間違いないのだからお
前がその証拠を見つければいい。警察にごたごた言わせないだけの証拠を」

 理不尽な物言いに耕平の感情が火をつけられる。耕平は襟首を掴んでいた叔父の腕を跳ね上げ
た。衝撃で叔父の巨体が二、三歩よろめく。その口が呆気に取られたように開かれ、その目にあ
る種の感情が宿る。耕平は叔父を睨みつけて言った。

「できる訳がないでしょう、そんなことが」

 なぜ自分はこんなに荒い息遣いをしているのだろう。なぜ叔父は後ろへ退がるのだろう。あの
使用人たちはなぜ自分をあんな目で見ているのだろう。

 耕平は熱くなっていた頭を冷やすように一回深呼吸をした。

「……犯人を捕らえたいなら警察を呼ぶ。もしそれが嫌なら」
「い、嫌なら……」
「叔母さんの遺体をあのままにしておく訳にはいきません。ひとまず……」
「あっ」

 女中の声で耕平は振り返った。少女が目を開けていた。瞳が驚いたように丸くなってこちらを
見ていた。耕平の頭の中で荒れ狂っていた熱気が収まる。少女の口元が微かに動く。耕平はそれ
に惹かれるようにソファへ向かって足を運ぶ。少女の顔が耕平の視界の中で次第に大きくなって
くる。少女が声を……

「き、貴様あっ」

 耕平を突き飛ばすように前に出てきた叔父が、ソファに横たわっていた少女の胸倉を掴み上げ
る。いきなり大柄な男に迫られた少女は悲鳴を上げた。

「い、嫌っ、誰かっ」
「あそこで何をしていたっ。何故あいつはあそこにいたんだっ」
「叔父さんっ」
「何か見なかったのかっ、あそこで何かっ」

 耕平は慌てて叔父と少女の間に割って入った。叔父を無理やり引きはがす。叔父の腕から逃れ
た少女はソファにすとんと腰を落とした。耕平は少女に背を向け、叔父の前に立ちはだかった。

「どけっ、耕平っ。この女を問い詰めれば……」
「警察を呼びますか」
「なっ」
「どうしてもこの娘を問い質したいなら、いっそ警察を呼びましょうか」
「くっ……」

 叔父は耕平の前で拳を振るわせる。耕平は気にした風も見せず、叔父の目を見続けた。少女の
傍にいた女中と運転手は雇い主の怒気を恐れたのか、彼らから離れ遠巻きに見ている。沈黙が落
ちた。叔父が唸り声と伴に一歩踏み出す。

「お父様っ」

 若い女の声が食堂を貫いた。慌てて叔父が振り返る。従妹が食堂の入り口にいた。蒼白な顔に
緊張を湛え、室内にいる者たちを見つめている。母の無残な遺体を見た直後に気を失った彼女の
面倒をみていたもう一人の女中が、従妹の傍でおろおろしている。従妹は食堂へと足を踏み入れ
た。思ったより足元はしっかりしている。

「お父様、どうして警察を呼ばないのですか」
「そ、それは」
「お母様は殺されたのですよ。あんな、あんな酷い……」
「…………」
「警察を呼びましょう。呼んで犯人を捕まえてもらわなくては。そうしなくてはお母様が浮かば
れませんわっ」
「……だ、駄目だ」
「何故ですっ、何故駄目なのですっ」
「駄目だと言ったら駄目だ。柏木家の名誉を守るためにも、警察を入れる訳にはいかんっ」
「どうしてっ」
「どうしてもだ」
「……お父様にその気がないなら私が」
「待てっ」

 叔父の意向に反し、彼女が部屋を飛び出そうとした時だった。それまで沈黙を守っていた耕平
の父が唐突に食卓を叩いた。大きな音が反響し食堂内に木霊する。一同は父に視線を集めた。

「……この家の当主が警察を入れてはならないと言っているのだ。従うほかあるまい」
「あ、兄貴」
「だが、あの遺体をそのままにしておく訳にもいかん。耕平、取りあえず遺体をどこかに安置し
よう」
「……はい」
「それと」

 父は耕平の目を見た。それは耕平が東京から戻ってきて、初めて父親と目を合わせた瞬間だっ
た。その目には……何も浮かんでいなかった。

「いずれにせよ何があったかを調べる必要はある。耕平。お前が調査しろ」
「え……」
「お前が調べるんだ。何があの物置で起こったのか、そこの娘が何者か、誰が……殺したのか」
「……何故、私が」
「お前なら冷静に見られるだろう」

 父はそう言って視線を外した。冷静というならこの中で一番冷静なのは間違いなく父だろう。
死体を見た時も、その後も、父はまったく取り乱した様子を見せなかった。

「……とにかく、遺体をきちんと安置しよう。あのままでは可哀想だ」
「うっ」

 従妹の目に涙が浮かぶ。それは堰を切ったように溢れだし、頬を伝った。彼女は両手で顔を覆
い、よろめいた身体を壁にもたせかける。嗚咽が切れ切れに喉元から流れ出した。その姿を前に
戸惑っていた耕平の横を、紺色の服に身を包んだ影が通り過ぎ、素早く従妹の方へ移動した。先
ほどまでソファに横たわっていた少女は従妹の肩をいきなり抱いた。

「……っ」
「しっかり。その、あなたのお母さんに何があったのかは分からないけど……」

 少女の声は低く、力強かった。その腕に抱きすくめられた従妹は呆気に取られたように少女を
見上げる。少女はその目を見ながら、一語一語噛み締めるように話した。

「でも、そちらのおじさんの言う通りよ。あなたがしっかりしなかったら、きっとお母さんは悲
しむわ。きっと」
「…………」
「だから落ち着いて。いいわね。ゆっくり深呼吸しなさい」

 従妹は微かに頷いた。少女はそれを見て笑みを浮かべる。どこか照れたような、それでいて安
堵感を呼び起こすような微笑。耕平の脳裏に、西洋の絵画に描かれる聖母の姿が思い浮かんだ。

「あの、耕平、さん」

 少女に呼びかけられ、耕平は心臓が跳ねあがりそうになった。少女がこちらを見ている。その
瞳に強い意思を漲らせて。

「この人は私が様子を見ています。ですから……お願いします」
「は、はい。では」

 耕平はバカみたいに頷くと近くにいた運転手に合図した。そのまま食堂を出る。少女は従妹を
ソファへと連れて行ったようだ。叔父は毒気を抜かれたような顔で立ち尽し、父はすでに普段通
りの様子に戻って椅子に腰掛け俯いている。どうやら二人きりで叔母の遺体を動かさなければな
らないようだ。運転手を引き連れて階段を上りながら、耕平は遺体をどこに移動させようか考え
ていた。考えはまとまらなかった。ただ、あの少女の寝姿と、耕平に呼びかけた時の顔が交互に
浮かんでは消えた。




 血の臭いはいよいよ濃くなっていた。耕平は胸を押さえる。湧き上がる違和感を宥めるかのよ
うに。そして顔を上げ、物置の中を今一度見渡した。

 部屋の大きさは畳三畳ほどか。壊された入り口の扉を見ると、大きな木製の閂がぽっきりと折
れている。扉の廊下側には普通の鍵がついていた。内側には閂以外見当たらない。
 部屋を見渡した。左の隅に使われていない布団が積み上げられ、その横に生首を乗せた小型の
机がある。正面には小さな窓。右にはもう一つの扉があった。それを開くとそこは窓すらないさ
らに狭い小部屋だった。壁に造り付けの棚があり様々な物品が置いてある。行李、大工道具、何
かのシート、ロープ、壷や皿などの陶器。ほとんどが埃にまみれている。
 最初の部屋に戻り、正面の小さな窓に近づく。窓ガラスを開けると、冷たい風が吹き込んで血
の臭いを和らげた。窓は十分に人が出入りできるだけの大きさがある。鍵もかかっていない。だ
が……。
 窓から外を覗く。陽はすでに落ちているが、敷地内はいくつかの外灯で照らし出されている。
窓から見るとその周囲は一面の白い壁だった。外壁には見事なまでに何の手がかりもなかった。
天井の高い洋風の館だけに地面までの距離は相当ある。何の道具もなしに降りることは無理だ。
上を見上げると屋根までの距離は地面よりは近い。だが、ここも手がかりはない。登ることもで
きそうにない。

「あの、耕平様」

 背後から運転手が呼びかけてきた。耕平は窓ガラスを閉じると振り返って叔母の遺体を見た。

「いかがいたしましょうか」
「遺体を安置するのに適当な場所はあるかい?」
「奥様の部屋が一番でしょうか」
「そうか……」

 耕平は腰を降ろし、死体を見た。首は引き千切られたように皮膚や筋繊維がささくれ立ってい
る。見て気持ちのいいものではない。耕平は振り返って机の上の首を見た。歪んだ顔が視界に飛
び込んできたため、すぐに視線を逸らした。机の脚は流れ落ちた血で真っ赤に染まっている。
 耕平は胸に再び手を当てた。違和感が膨らみそうな、そんな気がしたからだ。大丈夫だった。
耕平は一つため息をつくと顔を上げ、運転手を見た。

「このまま部屋へ移すと血で相当汚れてしまうな」
「はあ。何かでご遺体を包むしかないかと」
「分かった」

 耕平は立ち上がり、隣の小部屋へ移動した。棚のロープを動かし、その後ろにあったシートを
引っ張りだす。激しく埃が舞った。何度かシートを叩いて埃を弾く。そしてシートを遺体の傍に
広げた。

 遺体を動かす作業は苦痛だった。耕平も年配の運転手も出来るだけ何も考えないようにしなが
ら遺体と首とをシートで包んだ。二人がかりでそのシートを持ち上げ、廊下へと出た。館は異常
なほどの静けさに覆われていた。二人はやっとの思いでシートを叔母の部屋に運び、そこのベッ
ドの上に置いた。
 これ以上は何もできない。耕平はベッドの上の薄汚れたシートを見ながら唇を噛んだ。寒い季
節だとはいえ、長時間放っておけばいずれ腐ってくるだろう。その前に決着をつけなくてはなら
ない。
 決着? いったいどんな決着をつければいいのだ。父は耕平に調査をしろと言った。だが、専
門家でもない耕平が調べて何が分かるだろう。あの物置で何があったのか、誰が叔母を殺したの
か、そして……

 あの少女は何者なのか。




 食堂へ戻ると、そこには少女と従妹しかいなかった。耕平は呆れて入り口に立ち尽した。気配
に気づいた少女が振り返り、耕平の埃にまみれた顔を見て微笑んだ。ソファに腰を下ろしていた
従妹は目だけ動かし、耕平と視線を合わせる。

「……叔父さんと父さんは」
「あの二人は部屋に戻ったわ」

 従妹に問い掛けたつもりだったが、返事をしたのはあの少女だった。落ち着いた表情を浮かべ
た彼女の瞳には力強い何かがあった。それを見て耕平の中で何かが疼いた。

「二人とも用があるって。女中さんには下がってもらったわよ。何だか二人とも怪我していたみ
たいだったから」
「……そうか」

 耕平はゆっくりとソファに近づいた。従妹が顔を上げて耕平を下から覗きこむ。その目には混
乱が浮かんでいる。無理もない。母親が無残な殺され方をしたうえに、父親が何故かそれを隠そ
うとしているのだ。正直、耕平にもなぜ叔父があそこまで警察を忌避するのか、その理由が分か
らなかった。

「心配するな。叔父さんも色々気にかけることがあるんだろう。忙しい人だからな」
「……お母様が殺されたのに、他に何を気にするというの」
「それは……」
「お父様は変ですわ。普通ならあんなことは言いません。それに、どうしてお母様が殺されなけ
ればならないのです。いったい誰があんなことを。お母様は他人に恨まれるような人ではありま
せんわ。とても優しくて、そして……」

 従妹の声が涙に滲む。彼女の隣に座っていた少女があやすように従妹の肩を抱き、耳元に囁き
かけた。耕平は妙な気分で二人を見ていた。悲しみに暮れる従妹を一番気にかけているのはこの
正体不明の少女ではあるまいか。叔父も父も、母親を失った従妹のことを心配している様子はな
い。彼らはどこか感情が欠落している。人として何かが足りないような、そんな気がする。

「もう遅い時間でしょう? そろそろ休んだ方がいいわよ」

 少女の声で自分の考えに沈んでいた耕平は顔を上げた。食堂の壁際に掛けられた大きな振り子
時計を見る。確かに、かなり遅い時間になっている。とにかく従妹は休ませた方がいいだろう。
そう言おうとしてソファに目を遣った耕平は、従妹の隣にいる少女を見て驚いた。

 少女は目を丸くして時計の方を見ていた。口元がわなわなと震えている。信じられないものを
見た時、人はこんな顔をするのだろう。隣で涙を拭っている従妹も、正面に立つ耕平も、彼女の
意識から消え去っているかのようだった。

「……どうした」
「…………」
「おい、どうしたんだ」

 少女は答えない。多分、聞こえていない。耕平は彼女の肩を掴んだ。

「おい」
「はっ」

 肩を掴まれた彼女は身を縮めた。何かから身を守るように両腕で身体を抱き締める。その目が
耕平に向けられる。先ほどまでの強さと優しさを兼ね備えた瞳の光は失せ、そこにははっきりと
した恐怖の感情が浮かび上がっている。その変わりように耕平は唖然とした。何があったのだ。
この少女は何故こんなに怯えている?


 ……セ――


 とたんに、胸の中で疼きが広がった。死体を見た時に湧き上がった違和感と似た何かが、耕平
の体内で急速に膨れ上がる。少女を見ている耕平の視界が揺らぎ、ぼやけ、次第に紅く染まって
いく。

「……お従兄様」

 従妹の声が遠くから響く。胸の中の疼きが薄れる。耕平は力ずくで違和感を押さえこもうとし
た。少女に吸い付けられていた視線を無理やり引き剥がし、瞼を閉じる。ゆっくりと呼吸。そう
だ。落ち着け。こんな感覚になったのはこれが初めてじゃない。最近はよくある。
 遺体を見た時もこの感覚が押し寄せてきた。帰省の車内で騒ぎ立てる乗客を見た時も違和感が
湧き上がった。あの老人が、自分の前に座っていたあの男が言っていた。怖い目をしている。胸
の中を違和感が満たそうとする時は大概そんな目をしているらしい。目の前で話をしていた人間
が、己の変貌ぶりに怯えて逃げ出すこともあった。だがそんな感情は一瞬のものだ。落ち着け。
そうすれば元に戻る。

「お従兄様、私……」

 胸の中の疼きが、違和感が去っていく。耕平は従妹を見た。ソファに蹲るように座る彼女は歳
よりも幼く見えた。

「部屋で休んだ方がいいな。歩けるか?」
「嫌です。私、二階には上がりたくありませんっ」
「しかし……」
「もう行きたくありません。あんな、あんなことのあった部屋の近くへは……」

 従妹は叫ぶように言うと再び顔を手に埋め、嗚咽を漏らし始めた。耕平はため息をついた。

「分かった。では私の部屋で休んでくれ。客室は一階にあるからそれならいいだろう。私はここ
のソファでいいから」

 耕平の声に、従妹は微かに頷いた。

「すみませんが、できればこの娘の傍に……」

 紺色の服をまとった少女に話しかけようとした耕平は言葉を途中で切った。少女は耕平の声を
聞いていなかった。彼女はいまだに驚愕の中にあった。時計の方に向けられた視線はまったく動
いていなかった。

「……どうしました?」
「あ、え?」

 少女が耕平を見る。怯え、恐怖、心細さ、不安と焦燥。少女の瞳はそんな感情を映し出してい
る。何をそんなに驚いているのか。耕平がそう問いかけようとした時だった。

「おい、お前っ」

 大音声がその場にいた者全員を貫いた。見ると入り口近くに叔父が立ちはだかっている。憔悴
していた。普段は活動的で精力が漲っているあの叔父の顔が、今はやつれて見えた。ただ、目だ
けが異様な光を放ちこちらを睨んでいる。いや、こちらではない。叔父は殺人現場にいた少女を
見ていた。少女が喉の奥で悲鳴を上げる。

「お前、あそこで何かを見ただろうっ」

 叔父は大またでこちらへ歩いてきた。少女は慌てて立ち上がり叔父から逃げるように動いた。
叔父が足を早め、耕平の前を通り過ぎる。

「何かを持ち出しただろう。そうだろ、そうなんだなっ」

 叔父が走り出す。少女が逃げる。振り子時計の傍で振り返る。迫る叔父を見て、少女は悲鳴を
上げ身をかわした。叔父が時計にぶつかる。耕平は叔父に向かって突進した。

「返せっ。貴様が取ったものを俺に返すんだっ」

 叔父に追いついた耕平は背後から彼を羽交い締めにした。叔父はその膂力を振り絞って耕平を
振りほどこうとした。体格は明らかに叔父の方が勝っている。だが、それでも耕平は叔父の動き
を封じていた。自分にこれほどの力があるとは思わなかった。それほどあっさりと耕平は叔父を
組み伏せていた。

「は、離せっ。耕平、離さんかっ」
「落ち着いてください、叔父さん」

 もみ合いはどのくらい続いたのか。それは唐突に鳴り響いた異音で中断された。

 ぎしり

 その場にいた者たちの動きが止まる。次の瞬間、振り子時計が時を鳴らし始めた。しかし、そ
の音はすぐに乱れ、消えた。耕平は時計を見上げた。振り子が動きを止めていた。時計の針は時
を刻まなくなっていた。

「無理をすれば歪みが溜まる」

 入り口からそんな声がした。一同が振り返ると、そこには父が立っていた。彼は口を開き言葉
を続けた。

「歪みはいずれ元に戻ろうとする。あるべき姿に帰ろうとする」

 父は時計を見ていた。その目はこれまで見たことのない何かを湛えていた。口元が笑みを浮か
べる形に歪んでいる。父が視線を動かし、叔父を見る。

「……お前のことだ。気に入らないことがあるとその時計に八つ当たりをしていたのだろう。だ
からこうなった。ムチャな力を加えたから歪みが生じ、歪みが元に戻ろうとして結局時計が壊れ
たのだ」

 父の姿はそれまで見たことがないほど堂々としていた。背筋を伸ばした彼は、もみ合って床に
倒れた叔父を傲然と見下ろしていた。その瞳には喜悦が浮かんでいた。耕平は父の姿に悪寒を覚
えた。




 食堂のソファに寝転びながら耕平は高い天井を眺めていた。

 父の登場はその場にいた者たちの感情を骨抜きにしたようだった。叔父は怯えるようにその場
を去り、正体の分からない驚きに囚われていた紺色の少女は落ち着きを取り戻し、従妹を連れて
客室へ向かった。父はすぐに何もかもに興味をなくしたかのように食堂を去った。耕平だけが残
った。

「明日は皆に事情を聞いたらどうだ」

 父は最後にそう言い残した。引き続き、耕平に調査をやれと言っているのだ。叔母が殺された
件を耕平に調べさせようとしている。確かに、探偵小説なら関係者に話を聞き、その不在証明な
どを調べるのがよくある手順だ。もっとも、身内どうしでそんなことをして意味があるとも思え
ないが。
 大体、耕平にはほとんど何も分かっていない。そもそも何の用で叔母はあの部屋に行ったのだ
ろう。普段使われない部屋だと叔父は言っていた。今日に限って叔母が物置に用事があったとは
思えない。接客に必要なものを取りに行ったのかもしれないが、それらしきものは見当たらなか
った。
 あの殺し方も尋常じゃない。首を力ずくで捻じ切ったとしか思えないうえに、その首だけ机の
上に置くなど常人のやることではない。いや、そもそも人間にできることとは思えない。叔父は
道具を使ったのだと指摘していたが、どんな道具を使えばあんなことができるのか想像もつかな
い。
 おまけにあの部屋には内側から閂がかかっていた。窓はあったが、足がかりがない壁面を守宮
のように上り下りできない限りそこから脱出できるとは思えない。つまり、探偵小説風に言えば
密室だ。となれば、室内にいたあの少女こそが犯人ということになる。
 だが、それも信じられない。あの少女にあんな殺し方ができるとは思えない。よほど力のある
男か、でなければ人間ではない化け物の仕業ではないか。

 耕平は寝返りをうった。壊れた時計は時を紡がない。振り子の音がしない食堂内は異様なほど
静かだった。

 それにしてもあの少女はいったい何者なのだ。犯人というには無理があるが、ではなぜあの物
置にいたのか。従妹の様子に気を取られてその辺を問い質していなかったが、明日にはきちんと
聞く必要があるだろう。そう、何故時計を見てあんなに驚いたのかも。
 壊れた時計か。叔父が壊したと言われれば納得がいく。感情に任せて突っ走る人だけに、時計
くらい破壊しても不思議はない。いや、あれだけ感情の起伏が激しい人間なら、もしかしたら何
かのきっかけで他人を殺すこともあるかもしれない。少なくとも、それだけの力は持っている。
 それに、先ほどの叔父の変な様子は一体何だったのだろう。なぜあんなに憔悴していたのか。
あの少女を問い詰めて何をしようとしていたのか。『取ったものを返せ』と言っていたが、一体
何を返せと迫っていたのだろうか。
 疑問だらけだ。耕平はそう呟き、目を閉じた。叔父が警察に通報しない理由も分からない。そ
れを咎めることもなく自分に探偵の真似事をさせる父の考えも読めない。父は本当に息子に真相
を探り当てる力があると思っているのだろうか。もし真相を解明したとしても、その後自分は何
をすればいいのか。

「……あの」

 食堂の扉が開き、声がした。耕平はゆっくりと身を起こす。入り口に紺色の姿が見えた。

「すみません。その、お礼を言いたくて……」

 少女はそう言うとゆっくりと食堂に入ってきた。耕平は床に足を降ろし、隣に座るよう彼女を
促した。

「お礼って」
「さっき、あの人に追いかけられた時に止めてくれたでしょ」
「ああ。別に気にしなくてもいいけど」
「ううん、やっぱきちんとお礼言わなくちゃね。ありがとう」

 耕平の隣で少女は笑みを浮かべた。耕平は今になって気づいた。この少女はとても感情が豊か
なのだ。少なくとも父や叔父のように無機質な目はしていない。彼女の目には安堵感が浮かんで
いる。耕平に本当に感謝しているのだろう。

 急に気恥ずかしくなった耕平は慌てて視線を逸らした。

「そ、その。叔父さんも別に君を脅かそうとしていた訳じゃないと思うよ。あの人はちょっと、
感情の押さえが効かない人だから」
「そう……なのかな。でも、あなたがあの人に飛び掛って止めてくれた時は、本当にほっとした
わ」
「そ、そうかい」
「うん。追いかけられている最中はとても怖かったもん」

 少女の声が小さくなる。耕平も何を話していいのか分からずに黙り込んでしまう。暫く食堂の
中は静けさに覆われた。

「……あの、耕平、さん?」
「え?」
「その……」
「うん」
「あの……あの娘のお母さん、何で、殺された…の」

 耕平は彼女の顔を見た。少女は沈鬱な表情で俯いている。

「あの娘さっきまでずっと泣いていて。疲れてやっと眠ったんだけど、とても悲しそうな顔をし
ていて」
「…………」
「あのおじさん、どうして警察を呼ばないのかな。そりゃ警察が来たからってお母さんが生き返
る訳じゃないけど、このままだとあの娘が可哀想だよ。ちゃんと犯人を見つけて、それで……」
「犯人はこの家にいる人間かもしれないよ」
「え?」

 耕平の指摘に彼女は目を丸くした。犯人は君かもしれない。耕平は心の中でそう呟く。客観的
に見れば君が一番怪しいんだ。警察を呼べば、殺人犯として捕らえられるのは君かもしれないん
だ。だが、耕平は別のことを口にした。

「……叔父さんには何か理由があるんだと思う。警察を呼びたくない理由が」
「どんな理由が」
「君は知らないかい?」
「へ?」

 耕平は少女の目を見る。少女は呆気に取られた様子だ。耕平は感情を抑えるよう努めながらゆ
っくりと話し始めた。

「さっき叔父さんが君を追い掛け回したときに言ってただろう。取ったものを返せって」
「え、ええ」
「もしかしたら叔父さんは何かを探しているんじゃないのか。それが見つかるまでは警察を呼び
たくないのかもしれない」
「あっ」
「そして、叔父さんは君がその何かを持っていると思ってる」

 少女が顔に困惑を浮かべた。演技には見えない。いや、そう思うのは耕平の贔屓目か。自分が
この少女の魅力に囚われそうになっていることに耕平は気づいた。彼女の感情豊かな瞳に、くる
くると変わる表情に、その芯の強さに。

「何か…って」
「心当たりは?」
「な、ないわ。私は別にあのおじさんのものを取ったりなんかしてないし」
「あの部屋で何か拾わなかったかい」
「……あの、部屋って?」

 少女が不思議そうな顔で耕平を見つめる。耕平は一瞬黙り込んだ。彼女は何を言ってるんだ。

「だから、叔母さんが殺されていた部屋だよ。君がいた……」
「……!」

 扉がきしんだ。顔を上げると入り口に従妹がいた。柱にかけた手がわなわなと震えている。彼
女は目を見開いてこちらを見ている。

「お従兄様、今何と……」
「ど、どうしたんだ」

 訳がわからなくなった耕平は立ちあがって従妹に近づこうとした。彼女は数歩後ずさる。怯え
ている。憤っている。感情が従妹の体内で荒れ狂っている。その目はソファの方角を見続けてい
る。耕平はソファを振り返った。

「…………」

 そこでは少女がやはり身体を震わせていた。恐怖と不安に満ちた目が縋るように耕平を見てい
る。

「お母様の殺された部屋に、この女がいたのですねっ」
「……ま、待って」

 耕平は不意に理解した。従妹はあの部屋に彼女がいたのに気づいていなかったのだ。そういえ
ば扉を破った直後に悲鳴が聞こえていた。あの無残な死体を見た瞬間に気を失っていたのに違い
ない。そして、この少女も自分があそこにいたことを知らなかったのだ。耕平が見つけた時、少
女は気を失って床に倒れていた。気づいた時は食堂にいた。少女が知っているのは、食堂で目を
覚ました後のことだけなのだ。

「おい……」
「人殺しっ!」

 耕平が話しかける声も聞かず、従妹は悲鳴を上げた。紺をまとった少女の表情が曇る。

「人殺しっ。お母様を、よくもお母様をっ」
「待って。違うわ。それは違う」
「違わないわ。あの部屋にいたのでしょう、あなたがお母様を殺したのでしょうっ」
「違う、私は殺してなんか……」
「お従兄様っ。早くこいつを捕まえて警察に」
「落ち着け」
「何をしているのですか。早く……」
「落ち着けと言っているっ」

 耕平の大声を聞いた従妹は、信じられないものを見るような表情で耕平に向き直った。耕平は
高ぶりそうになる声を抑えるよう努めながら口を開いた。

「いいか。彼女がやったとは限らない。お前も見ただろう、あの遺体を。あれはとても普通の人
間にできる仕業だとは……」
「……何を言っているのですか、お従兄様」
「だから、彼女が犯人だとは」
「どうして捕まえないのです。何故その女を警察に突き出さないのですか、お従兄様っ」
「彼女が犯人と決まった訳ではないからだっ」

 耕平の台詞を聞いた従妹の顔から血の気が失せた。口元が歪み、その顔が変わる。愛らしかっ
た彼女の顔は今や般若のようになっていた。そして、歪んだ口から嗄れた声が出てきた。

「……裏切り者」
「な、何だって」
「裏切り者っ。殺人犯を庇うのですか、お母様を殺したその女の味方をするのですかっ」
「何を言うっ」
「許せない、許せないわ」

 そう呟くと従妹はソファへ向かって走り出した。慌てて耕平は従妹を抱きとめる。

「よせ、何をするつもりだっ」
「離してっ。私があの女を懲らしめますっ」
「止めるんだ、彼女が犯人と決まった訳ではないと言ってるだろう」
「嫌っ、離してっ」
「聞き分けのない事を言うなっ」

 耕平は従妹の顔を自分の方に向けると、その頬を平手で打った。乾いた音が室内に響く。従妹
は打たれた頬を手で押さえ、俯いた。呼吸が荒い。耕平はその肩を掴み話しかけた。

「よく聞け。誰が犯人かなんてまだ分かっていないんだ。何があったのかでさえ」
「…………」
「本当に彼女が犯人なら、その時は俺が警察へ突き出す。だが、そうだという証拠はない。だか
ら……」
「裏切り者」

 低い声が耕平の耳朶を打った。頬を押さえたまま、従妹は肩を動かして耕平の手を振り解く。
そしてすぐ廊下へと駆け出していった。耕平はその後ろ姿をぼんやりと見送った。再び食堂に静
けさが戻る。だが、起きてしまったことは変えられない。時は戻らない。

 裏切り者。そうかもしれない。自分が故郷へ戻ってきたのは、あの従妹との婚約話のためだ。
なのに自分は今、この奇妙な事件の中で出会った一人の少女の方に惹かれている。紺色の服をま
とった少女にどうしようもなく心を奪われている。胸の奥で疼きが広がる。違和感がじわじわと
心を侵食する。

「耕平さん」

 かすれた声に振り返った。少女が縋りつくような目で耕平を見ている。彼女もやっと自分の立
場を知ったのだ。極めて危険な状態にあることに気づいたのだ。

「わ、私は誰も殺してなんかいません」
「…………」
「本当ですっ。絶対に人殺しなんかしてませんっ。信じてくださいっ」
「…………」
「お、お願いです。信じて、信じてください。私は、本当に……」
「……信じてるよ」

 耕平の声に涙をこぼしていた少女が顔を上げる。耕平は少女の目の前に立ち、彼女を見下ろし
て微笑んで見せた。不安そうに胸の前で組まれていた少女の手をそっと握る。

「信じるよ。君のことを。君は人殺しなどする人じゃない」
「……耕平、さん」
「今夜はそこのソファで休めばいい。私は起きてるから」
「で、でも」
「いいから休んで。疲れただろう」

 少女はしばらく俯いていた。その顔が何かを決心したかのように引き締められる。少女は顔を
上げて口を開いた。

「あの、私……」
「明日」
「……え?」
「話は明日聞くよ。今日はとにかく休むこと。いいね」
「……はい」

 少女は大人しく頷くとソファに腰をかけた。耕平はソファから離れた椅子に座り、食卓に肘を
ついた。沈黙が漂う。少女が身体を横たえる気配が伝わってきた。耕平は闇を睨んだ。時が静か
に過ぎて行く。

「……耕平さん」
「何だい」
「……ありがとう、ございます」




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