邂逅(1) 投稿者:R/D
 風が吹いた。
 風に木々が揺れた。
 微かに暖かさを滲ませた春の風が杜を渡る。
 柔らかな陽射しが境内に降り注いだ。
 その陽射しが、地面に横たわった少女の身体を照らす。
 春の風が少女の髪を揺らす。
 影が近づいてくる。
 少女は閉じた目を動かした。
 影が落ちる。
 少女の目が開いた。
 影は少女の身体に投げかけられている。
 少女の瞳が動く。
 少女の瞳孔が影の正体を映し出す。
 少女の口元が綻び……




 汽車が駅へと滑り込んだ。周囲の人々がさんざめきながら立ち上がり、荷物を抱えなおしてい
る。耕平は高等学校の徽章がついた帽子を目深に被り、網棚に置いた風呂敷包みを手に持った。
向かい合わせに座っていた老人がゆっくりと顔を上げて耕平を見る。ずっと眠っていると思って
いたが、どうやら起きていたらしい。老人は視線を合わせたままゆっくりと口を開いた。

「ここで降りなさるのかね」
「ええ」

 短く答える。老人は和服に身を包み、汚れた杖で頭を支えるようにしていた。皺の中から覗く
瞳が鈍い光を放った。

「……なぜそんなに怖い目をなさる」
「…………」
「汽車に乗ってこられてからずっと見ていたが、学生さん、あんたの目は妙じゃ。何というかそ
の……」
「…………」
「獲物を探す獣のような目をしておる。そんな目で車内を見回しとる」
「……あなたには関係のないことだと思いますが」

 耕平の低く抑えた声を聞いて老人はこもった唸り声を上げた。いや、それは唸りではなく、笑
いだった。老人は嗄れた喉を震わせて笑っている。耕平は老人に背を向けて通路へ足を踏み出し
た。

「いやいや、これは失敬。年を取ると若いもんを見るのが楽しくての。不躾とは知りながらつい
あんたの様子を窺ってしもうた」

 老人は笑いながら耕平の後ろ姿に声をかけた。耕平は足を止め、振り返る。

「若いもんはいい。目がいい。何というか、生気に溢れておる。落ち着きなく目を動かす奴や、
妙に上目遣いで睨むような奴もいるが、ほとんどは生きる力に満ちた目をしとる。そういう力が
目から噴き出しとる」
「…………」
「……学生さん。あんたは見たところ裕福そうだし、将来も期待されとるんだろう。そういう若
者は普通、わしが言ったような目をしておるもんじゃ。けど……」

 老人の満面に浮かんでいた笑みが消える。

「……なぜかあんたの目にはその力がない。生命の力が感じられん。ただ、疑り深い飢えた獣が
油断無く辺りを窺っているような、そんな……」

 耕平はそれ以上老人の声に耳を貸さなかった。通路をデッキへ向かい、プラットフォームへ足
をおろす。そろそろ春になるとは思えないような冷気が外套を覆い染み透ってくる。寒気に遮ら
れるように老人の声が途切れた。耕平の愛想の無い態度に呆れ果てたのだろう。耕平は雪の残る
線路を跨ぎ、改札を通った。

「お帰りなさいまし」

 改札の外には実家が送りつけた運転手が待ち構えていた。背後に止めてある自動車が冷気の中
で微かに湯気を上げている。耕平は卑屈さが滲む運転手の目を見ないようにしながら車内へと身
体を滑り込ませた。扉を閉めた運転手が急いで運転席に戻り、車を発進させる。

「お父様がお待ちでいらっしゃいましたよ。そうそう、本家のお嬢様もお会いしたいとのことで
した」

 運転手がご機嫌を伺うように話しかけてきたのを無視し、耕平は自動車の床を見つめた。唇が
噛み締められ、握り合わされた手に力がこもる。目が見開かれ、瞼が震えた。ただならぬ様子を
察知したのか、運転手のよく回る口が動きを止める。耕平はひたすら下を向いていた。

 昭和2年3月。東京の高等学校に通っていた柏木耕平は久しぶりに故郷へと戻ってきた。




 広大な敷地を持つ柏木家の前で車は止まった。豪勢な門の前で車を降りる。扉を開けた姿のま
ま畏まっていた運転手が声をかけてくる。

「私はここでしばらくお待ちいたします。旦那様が到着次第来ていただきたいとのことでしたの
で」
「叔父さんが?」
「ええ。お父様とご一緒に、とのことでした」
「……分かった」

 そう言うと耕平は風呂敷包みを右手にぶら提げ、門をくぐった。広い庭は荒廃した空気に覆わ
れている。手入れせずに放置している訳ではない。時折、庭師を呼んでいる筈だ。にもかかわら
ず、辺りには澱んだ雰囲気が立ちこめている。立派な建物ですら廃屋のような印象を受ける。
 無理もない。玄関を開け、屋内へ足を踏み入れながら耕平は僅かにため息をついた。この家は
自分が住んでいた幼い頃とは随分と変わってしまった。母はすでになく、隠居同然の生活を送っ
ている父が一人で暮らしているだけ。広すぎる家にたった一人だ。家が荒れてくるのも仕方はあ
るまい。

 黙って書斎の扉を開ける。中にいる人間はその無作法を咎めるつもりもないらしい。父は振り
返ることもなく声を出した。

「……着いたのか」
「はい。たった今」
「分かった」

 窓際のテーブルに向かって座り書きものをしていた父親が立ちあがる。皺の寄ったシャツに灰
色のスラックスを着た父親は自分の右手についた青いインクにちらりと目をやると耕平に向かっ
て歩き出した。

「……あいつが呼んでいるのだろう?」
「叔父さんは私に何の用があるのでしょうか」
「分かっているだろう」
「しかしその件は」
「あいつはそう簡単には諦めんよ」

 父親は耕平の横を通り過ぎ、扉を開いた。

「……私は上着を持ってこなけりゃならん。先に行ってなさい」

 一度もまともに目を合わせないまま父親はその場を去った。耕平は仕方なく風呂敷包みを下げ
たまま再び玄関を通って門の前に待つ自動車のところへ行った。運転手が軽く頭を下げる。先に
車内に入った耕平は頭の中で父の手についていたインクの青い色をぼんやりと思い浮かべた。
 目を合わせずに済んだのは幸いかもしれない。無気力な父親を見るのは嫌だった。澱んだ瞳に
こちらの顔を覗きこまれると恐怖が湧き上がった。母が死んでから仕事もほとんどせず、子供す
ら放り出して閉じこもっていた父親。そんな男と広い家で二人きりで住むことに耐え切れず、東
京の高等学校へ行った。帰省もせず、あの賑やかな都会で過ごし続けた。今もまた父親とまとも
に会話せずに済んだことでほっとしている……。


 ……ヲ――


 耕平は両手で顔を押さえた。身体が小刻みに震える。まただ。また、何かが頭の中で呟いてい
る。囁いている。歯を食いしばりながら耕平は必死で喉から漏れそうになる唸りを堪えた。自動
車の扉が開かれる。

「どうぞ」

 運転手の声が遠くに聞こえた。耕平の隣に上着だけで外套すら着用していない父親が腰を下ろ
した。耕平はゆっくりと手を顔から離した。父親は彼の様子を見ていなかったようだ。黙って前
を見つめるその横顔には何の感情も浮かんでいなかった。

 自動車はゆっくりと動き出した。




 いくつもの企業や地元の銀行を経営している叔父の家は、周囲を森に囲まれた中に建つ洋風の
館だった。正面入り口に車がつくと、待ち構えていたかのように屋内から十代半ばの少女が一人
駆け出してきた。

「お従兄様」

 少女が自動車から出てきた耕平の元に駆け寄る。紺袴に大きなリボンをしたいかにも女学生と
いった衣装の少女は、お下げの髪を揺らしながら耕平の傍で足を止めた。大きく見開かれた目が
ひたと耕平に据えられる。耕平は彼女に向かって微笑んでみせた。

「やあ、久しぶりだな」
「本当にそうですわ。東京の高等学校に行ってから一度もこちらにお戻りにならないで」

 少女がむくれてみせる。耕平が東京へ行く前はもっと子供子供していたこの従妹も、随分と女
らしくなっていた。頬を膨らませた表情にも昔にはない媚が見える。耕平は苦笑いしながら言っ
た。

「そう怒るなよ。忙しかったのさ、色々と」
「そうかしら」

 拗ねてみせる従妹の顔を見ながら耕平は胸の奥に残る違和感を無理やり押さえこんだ。玄関に
叔母が姿を見せる。

「お久しぶりですね、耕平さん」
「ご無沙汰いたしました」
「お従兄様。今日はうちにお泊まりになるのでしょう?」
「え?」
「主人からもそう聞いておりますわ。お部屋も用意しておきました」

 耕平は叔母と従妹の話を聞き、慌てて振り返った。自動車から出てきた父は今の話に何の関心
もないかのように玄関に入ろうとしている。

「父さん」

 父が足を止めて耕平を見た。その目は相変わらず何の感情も映していない。

「……今日はこちらに泊まるのかい?」

 あの人嫌いで親戚さえ余り近づけない父は、耕平の言葉に黙ったまま頷いた。その姿を見て耕
平は気づいた。今まで東京に行ったっきり帰ってこなかった息子を父が急に呼び寄せたのは、自
分が用事があったからではないのだ。耕平に用があるのは叔父に相違ない。父はあくまでその希
望を息子に伝言したに過ぎないのだ。

「お部屋にご案内しなさい」
「お従兄様は私が案内いたしますわ」

 叔母に命じられた女中が父の前に立って廊下を歩き始める。一方、耕平の右腕はすでにしっか
りと従妹に握られている。若い女はそのまま耕平の腕を引っ張った。

「こちらですわ。さ、早く早く」
「あ、ああ。分かったからそんなに引っ張らないでくれよ」

 すでにかなり奥へと歩み入った父の後ろ姿を見ながら、耕平は考える。本当はあの男はここに
泊まりたくはないのだろう。血を分けた息子の顔すら見ずに過ごしてきた男だ。弟一家に厄介に
なることなど望んでいないに違いない。にもかかわらずこの家に泊まるのは、ぜひそうして欲し
いと叔父に頼まれたからだろう。叔父が父を自分と一緒に宿泊させようとした理由、それは……

「こっちこっち。こっちよ、お従兄様っ」

 自分の隣を歩く少女の横顔を瞳に映し、耕平は憂いを浮かべた。




 一階にある客室で一通り従妹の相手をさせられた後、女中の案内に従って食堂へ向かった。叔
父の家では家族の部屋を二階に、食堂などの共用部分や客室は一階と分けている。この洋館が建
てられたのは最近だ。屋内を歩いていても微かに漆喰の匂いがする。密閉性の高い洋館は、湿度
の高いこの国では住み易い建物ではない。まして建築間もないこの家で、おまけに湿度の高い季
節となればなおさらだ。まるでこの国の先行きと同様にすっきりしない空気に満ちた家の中を、
耕平は食堂へと歩いた。

「やあ、元気か。随分と大きくなったじゃないか」

 食堂の扉を開けたとたん、耕平に大きな声がかけられた。上座の席から今まさに立ちあがった
のは叔父だった。巨体を勢い良く動かしながら耕平の方へと歩み寄り、その手を無理やり握る。

「水臭いぞ。何だってこっちへ帰ってこなかったんだ、ええ?」

 叔父の掌は微かに湿っていた。握り締める手の握力は相当強い。腕の動きに合わせて盛り上が
った肩の筋肉も激しく動く。その体格に合わせるように、豪放な笑い声を上げる。いつもの叔父
だ。周囲の人間からはいかにも大物と見られる叔父。陰気で他人と目を合わせようとしない父よ
り遥かに社交的に見える叔父。
 だが、それは叔父の本当の姿ではない。まったく笑みを浮かべていないその目を見ながら耕平
はそんなことを考えた。この目だ。これが柏木家の男だ。父も、叔父も、根っこは一緒なのだ。
猜疑心に溢れ、耐えず油断無く周囲を窺うその目つきが……


『なぜそんなに怖い目をなさる』


「さあさあ、座りたまえ。東京にいるとなかなか豪華なものは食えんだろう」
「ありがとうございます」

 席に腰を下ろし周囲を見回す。どうやら食堂についたのは自分が最後だったらしい。さっきま
で耕平の部屋で何やかやと騒いでいた従妹もすでに着替え、大人しく席についている。父も視線
を落としたいつもの姿でいる。叔母も物静かに自分の席に控えている。ここで声を発しているの
は叔父だけだった。

「どうだ、東京の様子は。私もしばらく行ってないが」

 次々と運ばれてくる料理を片付けながら叔父が耕平に声をかけてきた。ここで一番の健啖家は
叔父だった。かなりの早さで皿を次々と平らげて行く。しかも、食べるだけでなく話す。彼の口
はこの建物の中でおそらく最も過酷な労働を強いられていた。

「そう、ですね。どうと言われても……」
「震災からはもう何年になるのかな」
「3年以上たちましたね。私の見る限り、もうその後遺症のようなものはほとんどないと思いま
すが」
「ふむ。そうかね」
「まあ、敢えて言えば震災手形の問題が一番の後遺症ですか。議会ではもっぱらそればかり審議
しているようですが」
「ふん」

 叔父の顔が不愉快さを漂わせた。耕平はその顔を見ているうちにこの叔父を挑発してみたくな
った。叔父が自分を呼び寄せた用件を話し始める前にこちらからちょっかいを出す。そうすれば
用件も有耶無耶になるかもしれない。耕平は口を開いた。

「庶民は不満を持っているようですよ」
「何にだ?」
「政党のお偉いさんに口利きをしてもらって助けてもらっている会社があると」
「…………」
「茂木商店や久原商事などが自分たちの放漫経営のツケを政府に回して穴埋めをしてもらってい
る。それだけじゃ飽き足らず、政党はさらに他の会社も助けようとしていると……」
「……貴様っ」

 叔父は唐突に席を蹴って立ち上がると給仕をしていた女中を殴りつけた。激しい音とともに女
中の身体が床に崩れ落ちる。傍にいたもう一人の女中が喉の奥で悲鳴を上げた。それを聞いた叔
父はすぐその女中に歩み寄り、そちらも殴り倒した。

「貴様らっ。俺はきちんと給仕をしろと言った筈だっ。貴様らのやり方はなっとらん」

 叔父は大声を上げた。殴られた二人の女中は慌てて床に蹲り、引き裂かれるような声で謝罪を
始めた。急いで駆けつけた運転手が叔父をとりなそうとするかのようにその傍に立って口を開閉
させる。叔父はしばらく使用人たちを睨みつけていたが、やがてゆっくりと自分の席へ戻った。

 騒ぎの間、叔母は食卓を見つめたまま動こうとしなかった。食器を掴んだその手は白くなって
いる。いつもは賑やかな従妹も口元を引き攣らせ、他人と視線を合わせないように自分の膝を睨
んでいた。彼女は叔父を恐れている。そういえば食堂に入ってからというもの、あの賑やかな娘
がほとんど口をきいていない。叔父を怒らせないようにしているのか。
 耕平は父を見た。父はまったく普段と変わりないかのように振舞っていた。叔父の怒鳴り声な
どなかったように食器を動かし、食事を口に運んでいた。

 ため息をついた耕平が顔を上げると、立ち上がった女中の姿が目に飛び込んできた。口元を拭
っている。腕の隙間から赤いものが見えた。口を切ったのだろう。血だ。


 ……ヲ――


 視界が赤く染まった。口元が、腕が、全身が次第に震えてくる。頭の中に何かが湧き起こり、
それが脳髄を揺さぶり始める。耳元で大きな衝撃音が何度も何度も鳴り響く。目の前はどんどん
紅くなる。胸の奥にあった違和感が急激に広がり、それが身体中を覆い尽くす。

 そして、声が聞こえてくる。


 …リヲ――


「……い、おい、耕平」
「……え、あ」

 唐突に紅いものが消えた。そこは叔父の家の食堂だった。耕平は声がした方向に顔を向ける。
父が席から立ちあがっていた。

「私は一足先に失礼する。お前はゆっくり食べていなさい」

 一方的にそう宣言すると父は残された一同を振り返ることもなく食堂を去った。叔父はその姿
を気にした様子もなく耕平に話しかけてきた。

「まだデザートがあるからな。ゆっくり食べてくれよ、耕平君。それで……」

 叔父は先ほど、自分が引き起こした騒ぎなどなかったかのように賑やかな声を上げる。だが、
その場の空気はすでに完全に壊れていた。叔母は硬い沈黙の中に閉じこもり、従妹は未だに恐怖
が残っているのか、微かに震えている。
 耕平は改めて自分の身体を見回した。震えもないし、妙な力が入っているところもない。一瞬
自分を襲ったあの違和感もどこかに消えている。
 いや、消えてはいない。それはまだ胸の奥で疼いている。

「今日来てもらったのは他でもないのだがな。耕平君、君はそろそろ大学だったよな」
「……ええ」
「どうする。やっぱり東京で帝大に行くのか」
「そう決めた訳ではないのですが」
「いやいや。行くなと言うつもりじゃない」

 叔父はにこやかに手を振ってみせる。その目は相変わらず豪も笑っていない。

「学問は大切だ。だがな、同時に君は柏木家のことも考えなくてはならんぞ」
「柏木家、ですか」
「そうだ。今は私がこうやって色々事業をしているが、柏木の家自体はあくまで兄貴が、君の父
親が継いだんだ。当然、君もいずれ柏木家を継ぐ。嫡子なのだからな」
「…………」

 叔父の話が何処へ向かうのか、その関心から耕平は少し口を噤んだ。

「だがな、学問だけでは家は続かん。金もいるし後継ぎも作らにゃならん。そうだろう。こう言
ったらなんだが、兄貴はまともに仕事もしとらんし柏木家の財産をどの程度きちんと管理してい
るかもよく分からん。そんなことではいかん、いかんのだ」
「…………」
「本家の財産をきちんと管理し、柏木家をこれからも盛り立てていくことが必要だ。そう思うだ
ろう?」
「ええ」

 そろそろ話がまずい方向へ向かいそうだ。そう思う耕平だったが、席を立つきっかけが掴めな
いまま叔父の話を謹聴することになっていた。

「私が手伝えることは何でもしたいし、するつもりだ。私だけじゃないぞ。幸いに私には娘もい
る。逆に言えばだ、私にはちゃんとした後継ぎがいない。つまり……」
「お、お父様」

 従妹が立ちあがった。顔が赤く染まっているのは恥ずかしさからか、それとも恐怖のせいか。

「わ、私、女中の様子を見て参ります」
「何をくだらぬことを言っているんだ。そんなことをする必要はない」

 叔父の様子が再び不機嫌になった。そろそろ潮時だろう。耕平はゆっくりと立ちあがって口を
開いた。

「叔父さん、実はこちらに来てまだ荷を解いていないのです。泊まるとなればそれなりの用意を
しなければなりません。いったん失礼させていただきます」
「お、おい。ちょっと待て」
「では」

 叔父の声を背後に聞き流し、耕平は食堂を出た。叔父の目的は思った通り、自分とあの従妹と
の結婚話だった。
 いずれ出てくるだろうと思っていた話だ。だが、こんなに早いとは思っていなかった。自分が
大学を出た後なら彼女ももっと大人になっている。それからこういう話が持ちかけられるなら分
かる。だが叔父は急いでいる。それとなくまだ早いというこちらの意思は伝えておいた筈だが、
叔父はそれを無視しようとしている。焦っているのだ。何らかの理由で。




 応接室を覗くと、父がちょうど部屋を出ようとしている時だった。見ると右手に紙を持ってい
る。

「私の部屋にある紙が切れていたのでな」
「何か書きものでも?」
「ああ」

 それだけ答えると父は目を合わせないように部屋を出ていった。その後ろ姿を見送る。彼はい
つもこうだ。自宅でもその他の場所でも何か書きとめ続けている。何を書いているのかは分から
ない。ただひたすら世の中に背を向けてペンを走らせている。

「あ、お従兄様」

 開きっぱなしだった扉から従妹が顔を覗かせた。耕平の顔を見て頬を染める。

「あの、ここで何をしていらっしゃるのかしら」
「いや。誰かいたら少し話でもしようかと思ってね」

 叔父以外の誰かと、という言葉を付け加えるのは止めた。叔父に会えばまたあの話を蒸し返さ
れるだろう。だが、叔父以外ならまともな話が出来るかと言うと、それもまた難しい。父とは到
底無理だ。叔母も昔よりよそよそしくなっている。そして従妹は……

「あ、あの。今から女中に言ってお茶を運ばせますわ」
「ありがとう」

 耕平の礼に従妹は顔をさらに赤くしながらパタパタと走り去った。すぐに盆の上に茶器を乗せ
て現れる。湯気を上げる英国風の器を揺らさぬよう、どことなく緊張した面持ちで彼女は応接室
に入ってきた。その緊張は単に茶をこぼさぬためのものだけではない筈だ。耕平の視線を意識し
ているのに間違いない。

「お、お茶が入りました」
「うん」
「…………」

 盆を机の上に置いた彼女は、その場で立ったまま両手を握り締めた。耕平は机の傍にある椅子
を指して言った。

「一緒に飲もうか」
「は、はい」

 少女は嬉しそうにそう言うと腰を下ろす。だが、すぐに再び視線を逸らし、器に入った液体と
睨めっこを始めた。その様子を見ながら耕平は口を開いた。

「……あの女中は大丈夫だったかい?」
「へ?」
「叔父さんに殴られた彼女さ。様子を見てきたんだろう?」
「え、ええ」

 従妹の瞳が悲しみと恐れに曇る。叔父は確かに昔から些細なことでよく暴力を振るっていた。
それは小さい頃の記憶にも鮮明に残っている。自分がこの叔父を好きになれなかったのはそれが
理由だ。理性的な父に対して感情的で押さえのきかない叔父。しかし、昔はもっと暴力を振るう
きっかけがはっきりしていたような気がする。些細であっても理由はあった。

「酷く顔が腫れていましたわ。暫くお休みした方がよろしいと……」
「そうか」

 最近はほとんど何の理由もなしに暴力を振るうらしい。今日のようなことも日常茶飯事なのだ
ろう。従妹の悲しげな表情がそれを裏付けている。優しかった叔母があそこまで無感情な雰囲気
をまとうようになったのもそれが理由かもしれない。

「最近のお父様は何だか怖いです。今度も随分と急にお従兄様を呼ぼうと言い出して……」
「…………」

 こんな話ならしない方が良かったかもしれない。そう思いながら耕平が器を持ち上げた時だっ
た。

「……!」

 耕平は立ちあがった。傍にいた従妹も慌てて天井を見上げている。

「今、上で何か声がしたなっ」
「え、ええ。何だか悲鳴のようでしたわ」

 耕平は器を机の上に置くとすぐに走り出した。階段を二段飛ばしで駆け上がり廊下を見渡す。
すぐ後に続いて年配の運転手が上がってきた。

「どこだ、何か声がしたなっ」
「叔父さん」

 叔父が二階の廊下に面した自分の書斎から顔を出した。運転手が廊下の一角を指差す。

「あの辺りではないかと思うのですが」

 そこには薄汚い扉があった。他の部屋とは明らかに違う場所であることが分かる。耕平は駆け
寄ると薄汚れたその扉の取っ手を掴み、ガタガタと動かした。

「……鍵がかかっている」
「何だって」
「内側に閂があります。もしかして……」

 運転手が慌てたようにそう話す。従妹と父が階段を上ってきた。

「お父様、いったい何が」
「分からん。とにかくお前は部屋にいなさい。ここにいたら危険かもしれん」
「でも……」
「静かにっ」

 扉に耳を当てていた耕平が低い声で叫んだ。一同の目が彼に集まる。一階へ続く階段からは、
女中たちが顔を覗かせている。

「中に誰かいる。うめき声が聞こえるんだ」
「何だと、誰がこんなところにいると言うんだ」
「ここは何に使われているんですか」

 扉に耳を当てたまま耕平が叔父に問いただす。叔父は渋い顔で言った。

「ただの物置だ。普段はほとんど使っとらん」
「とにかく、人がいるのは間違いなさそうです。叔父さん、いいですね?」

 そう言うと耕平はその扉に体当たりを始めた。すぐに叔父も並んでぶつかる。やがて何かの砕
ける音とともに扉が部屋の中へ押しこまれる。勢いがついたまま耕平は室内へ飛び込んだ。

「!」
「い、いやあああああああああああっ」

 そこは血臭に溢れていた。そこは鮮血に塗れていた。

 黒々とした血に塗りこめられ、何かが床に横たわっていた。それはかつて叔母だったものの一
部だった。不完全な人形のようなそれを見て、耕平は口元を押さえた。首がなかった。首は捻じ
切られ、室内にただ一つあった小さい机の上に乗っていた。歪んで泣き顔のようになった叔母の
首がそこから一同を睨んでいた。

「な、何だ、何だこれはっ」
「…………」


 ……ヲ――


 血の臭いが脳を直撃する。血の色が脳を攪拌する。叔母の首が胴体が胸をむかつかせる。違和
感が広がる。耳鳴りが轟く。

 声が、あの声が頭の中で響き渡る。


 …リヲ――


 全身を震わせていた耕平の視界に、もう一つのものが入り込んでくる。くすんだ色の中に鮮や
かな紅。そして白いなにかと黒くつややかな……

 髪の毛
 白い肌
 紺色の服
 紅のスカーフ
 赤い唇
 女

 耕平は黙って床を見つめた。そこには叔母の死体と、もう一人の人間が転がっていた。

 美しい見知らぬ少女が。




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