共棲(6) 投稿者:R/D
 ――第六日――

 そこはまさに野戦病院だった。電力が来ず、自家発電もすでに燃料切れとなっていたその病院
では、医師たちが蝋燭や懐中電灯の明かりで患者の治療に当たっていた。必要な道具は不足して
おり、運ばれる患者の数は常軌を逸した数に膨れ上がっていた。それでも医者たちは諦めず、一
人一人の治療に専念している。

 雅史は廊下に横たわる志保の傍にいた。看護婦に頼みこんで、かろうじて毛布を一枚だけ、彼
女のために確保することはできたが、それ以上はどうしようもなかった。肋骨を折られた彼女を
助けたくとも、医者は他の患者で手一杯だ。順番を待つしかなかった。
 雅史自身もさらに怪我を増やしていた。二の腕の傷口はもうふさがっているが、かなり血が流
れたせいで服がごわごわになっている。昼間の騒ぎで傷ついた足の打撲もそのまま放ってある。
志保を担いで病院に来た後で、その痛みがぶり返した。

 でも、生きているだけましだろう。あの修羅場から逃げ出すことができたのだから。

 志保がメイドロボに攻撃された直後、あの空き地に暴徒が押し寄せた。彼らはメイドロボを見
つけると、そこにいたものたちに見境なく襲いかかった。雅史は倒れた志保を担いで逃げるだけ
で精一杯だった。眼鏡をかけた男が頭から血を流していた。志保に平手打ちをくらった男が悲鳴
を上げていた。メイドロボが宙に舞い、猛烈な勢いで駆け出しているのを見たような気がする。
後はもう滅茶苦茶だ。気づいたら志保を抱えてどこかの路地を走っていた。

「……雅史ちゃん」

 自分を呼ぶ声に気づき、雅史は何の気なしに振り返った。廊下の所々に置かれた蝋燭の明かり
に照らされ、神岸あかりが立ち尽くしていた。

「あ、あかりちゃんっ」

 雅史は大声を上げて立ちあがった。

「いったい今までどこに行ってたんだっ。いや、それより志保が大変なことになってるんだ。も
し志保の両親の連絡先を知っていたら……」
「……メイドロボにやられたの?」

 あかりは子供のような声で志保を見ながらそう質問してきた。雅史は一瞬、言葉に詰まる。

「……あ、ああ。そうだよ。それよりあかりちゃん、とにかく家に連絡を入れなよ。お母さんが
心配して」
「分かった。あたしが、仇を討つわね」
「あ、あかりちゃん……」

 あかりは顔を上げ、にっこりと笑った。童女のような無垢な笑顔。雅史は背筋を悪寒が走るの
を感じた。

「あたしが、志保と、浩之ちゃんのために、あのメイドロボを壊しちゃうね」
「な、何を言ってるんだよ」
「じゃあね」
「お、おいっ」

 あかりは廊下に並ぶ怪我人の間を軽やかに駆けぬけて行った。雅史は慌ててその後を追おうと
し、立ち止まった。志保を放っておく訳にはいかない。だが……。

「……うっ」

 背後の志保がうめき声を上げた。雅史はその傍にひざまづく。容態が急変しているのなら、す
ぐに医者を呼ばなければならない。雅史は耳を志保の口に近づけた。

「……あ、あかり……ごめ…ん」

 微かな声だった。雅史は志保の傍に座り込み、黙って歯を食いしばった。



 朝が来る。白々しく夜が明ける。浩之は太陽に向かって喚き出したくなる気持ちを必死に抑え
ていた。駆けまわり、疲労困憊し、空腹と眠気を抱えて、それでもマルチは見つからなかった。
どこへ行っても、あの緑の髪のメイドロボはいなかった。

 浩之は歩き疲れて痛む足を引きずるように、来栖川電工の焼け跡へと向かっていた。ここはマ
ルチが定期メンテのためによく訪れていた場所だ。あんな惨劇のあった場所へあの優しいメイド
ロボが行ったとは思いたくなかった。が、可能性がある限りは調べなければならない。何よりも
あそこは“彼女”の家族がいたところだ。“彼女”を生みだし、育てた人々がいた場所だ。

 この近くには人影がなかった。暴徒が暴れまわったあの夜には、あれだけ大勢の人間がいたの
に、今はまるでゴーストタウンだ。太陽はいつものように地表を照らす。だが、その地上はすっ
かり変わってしまった。

 年々歳々 花相似たり
 歳々年々 人同じからず

 来栖川電工の建物が見えてきた。炎に炙られながらも持ちこたえた鉄筋コンクリートの建物は
変色した姿を陽の光にさらけ出している。沈黙という名の帳がその周囲を覆っている。とてもマ
ルチがいるとは思えない。そう考え、浩之の足取りがさらに遅くなる。地面に横たわる黒い影が
見えた。

 近づくにつれ、その影が人間らしいことが分かってきた。女が倒れていることに気づいた時に
は、浩之は疲れた身体に鞭打って走り出した。見覚えのある女性らしいと分かり、最後の十数メ
ートルは飛ぶように駆けぬけた。

 抱き上げた綾香は背中から流れ出した血液のために意識を失っていた。良く見ると脚にも傷痕
がある。弾痕だ。流れ出した血が点々と来栖川電工の敷地へと続いている。綾香はあそこから逃
げ出してきたのだ。何者かに撃たれ、血を流しながら。

 綾香を担ぐ。彼女が握り締めていた何かが手から零れ落ちた。小型のビデオカメラだった。浩
之はほとんど無意識にそれをひっ掴むと走り始めた。暴徒から逃げ出した時と同じように、あの
時より近道を選んで、来栖川邸へ。



「早く、こっちへ」

 看護婦の指示に従い、志保を運ぶ。手術室内に彼女を横たえると、寝不足で眼の下に隈を作っ
た医者が、すぐに周囲に指示を飛ばす。雅史は部屋を出た。

 病院の廊下で立ち尽くし、これからどうするか考える。手術が一段落するまではここで待って
いた方がいいだろう。だが、その間に何とか志保の家族かあかりの家族に、あるいは自分の家族
に連絡を取りたい。
 雅史はため息をついた。連絡を取るためには、誰かの家に行くしかない。電話は不通だ。電気
も来ていないし、他のライフラインもかなり寸断されているという。そして、マスコミすら機能
不全に陥っている。ラジオもテレビも無愛想な箱と化し、情報の砂漠に取り残された人々は右往
左往している。
 とにかく、誰かに頼むことができない以上、志保の手術が無事に終わるまで自分がここにいる
しかない。そして、志保が助かれば、すぐにあかりの家へ向かおう。あかり本人の行方も気にな
るが、今は志保の家族に連絡を取ることが最優先だ。あかりの家族に志保の家への連絡を任せて
それからあかりを捜索する。やらなければならないことは多い。あかりを見つけ出せば、次はず
っと行方知れずの浩之を……。

 そこまで考え、雅史はとんでもないことを思い出した。もうずっと前のことのように思えるが
浩之の家に電話をしたことがあった。あの時、電話には誰も出なかった。浩之だけでなく、家で
留守番している筈のあのメイドロボも。
 マルチが行方不明になっている。そのことに雅史はやっと気づいた。だとしたら、浩之はその
行方を探している筈だ。志保から聞いた話の通り浩之がマルチを大切にしているのなら、あかり
をそでにしてまでマルチを選んだのなら。浩之の性格からして、マルチを守ろうと必死になって
いるに違いない。

 だが、この大騒ぎの中でマルチが無事だったとは思えない。運が良ければどこかにまだ隠れて
いるかもしれない。けど、もしもマルチがすでに破壊されていたら、そして浩之がそのことを知
ったら……。

 友人の安否を気遣いながら、何もできない雅史は病院の廊下で立ち尽くしていた。



 老執事の応急措置で綾香はかろうじて息を吹き返した。すぐに病院へ運ばなければならない。
老執事はそう言ったが、綾香はその前に浩之の服を掴み、苦しそうに話した。

「…あ、あの……開発課の人が……ビデオ…を……」
「ああ。ビデオは持ってる」
「それを…それをちゃんと……見て……」
「分かった。そうする、だから早く病院へ」

 綾香は微かに笑うと言った。

「浩之……お願い…」

 浩之は綾香に頷いてみせ、すぐに立ちあがった。太陽が高く上る。マルチを早く探さなければ
ならない。街は再びざわめきを、殺気をその内に満たそうとしていた。浩之は走り出した。



 街の各所ででたらめな騒動が起きていた。何の法則性もなく、目的すら判然としない。あちこ
ちで人間とメイドロボが、人間同士が、ぶつかり、罵り、殴り、倒れ、這いずっていた。メイド
ロボは様々な場所に立てこもり、色々な武器を使って抵抗を続けていた。時には拠点を捨てて移
動することもあった。

 一方の人間側の動きはもっと無秩序なものだった。多くの人間は自宅に閉じこもっていた。時
折外に出ては近所の人間と情報交換を図る。だが、遠く近くから喚声が聞こえると、慌てて自分
の家へと駆けこむのだった。
 一部の人間は徒党を組んで近所を周回していた。いわゆる自警団と呼ばれる連中だ。だが、そ
の中には単にあちこちで略奪するだけが目的の者たちもいた。そういう奴らは商店に入りこんで
は中の物品を漁り、時には路上で酒盛りをするなど傍若無人に振舞っていた。
 さらに限られた人数の者が暴徒となって街中を流れていた。彼らの行動には理屈も原理も存在
しなかった。群集心理に支配された彼らは、時に他人を巻き込みつつ、時に脱落者を出しながら
あちらこちらへと移動を繰り返していた。

 そして、ほんの一握りの人間たちが、秩序だった行動をしていた。例えば病院で、あるいは情
報経路の回復を図るべく電話局で、火災現場で、暴徒鎮圧を図る集団として。そして、メイドロ
ボの叛乱を押さえ込もうとするために。

 警官隊が一斉に反撃を受け、情報網が混乱に陥ったしばらく後になって、政府のどこかから自
衛隊への治安出動が要請された。自立した活動を長期にわたって継続できるのが特徴のこの組織
は、情報寸断によって動きを妨げられた数多の組織の中ではもっとも効率的な活動を続けること
ができた。
 だが、銃火気の使用は最低限に絞られた。人間とメイドロボが入り乱れる街中では、銃を使う
ことは混乱を拡大するだけだと判断された。そのため、叛乱メイドロボに対する鎮圧活動には時
間がかかることになった。彼らは一つ一つ、亀の歩みのようにゆっくりと、暴走するメイドロボ
たちを追い詰めていった。



 あかりは坂を登っていた。その上に建つ大きな建物には人影がない。だれもこの坂の上にはい
ないようだった。静けさが周囲を包んでいる。

 坂の上から街を見下ろすと、あちこちから煙が立ち昇っていた。サイレンの音がひっきりなし
に聞こえてくる。一方で破壊音と喚声も。人々は暴徒と化して街を壊しながら、消防車やパトカ
ーを繰り出して破壊を食い止めようとしている。まるで賽の河原の石積みだ。そんなことを思い
ながらあかりは足を進める。

 右、左、右、左、一歩、一歩、そして、前へ

 あかりは門の前に立った。時間が遡るような感覚に包まれる。そこは、彼女や浩之が通った高
校だった。門の脇に立つ桜の木も昔のままだ。あの桜が咲き乱れる中を二人は一緒に入学した。
そして……

 校舎へ向かう。あの時も桜が舞っていた。あのメイドロボが試験運用のために学校へやってき
たあの時も。浩之はあのロボットを連れてよく一緒に下校していた。桜を見ながら。

 校舎へ入る。学校の中でもよく一緒にいた。放課後、浩之がメイドロボを手伝って廊下の掃除
をしている姿を、あかりは何度も見かけた。楽しそうに会話する彼らを遠くから見ていた。

 階段を上る。あかりには確信があった。あのロボットは、浩之を誑かし、志保を傷つけたあの
ロボットはここにいる。ここで浩之を待っている。浩之を自分の前から完全に連れ去ってしまう
ために。あかりから浩之を奪い取るために。

「……出てらっしゃい、マルチちゃん」

 物陰で何かが動いた。あかりは笑みを浮かべてゆっくりと近づいた。緑色の髪が丘の上を渡る
風に揺れる。マルチは怯えた表情であかりを見た。

「逃げなくてもいいでしょ、ね」

 あかりが近づく。マルチが退がる。風が吹く。



 手術室の扉が開いた。雅史は振り返る。ベッドに乗せられた志保が看護婦の手で運び出されて
きた。

「だ、大丈夫なんですかっ」

 雅史はベッドに駆け寄った。ベッドを押す看護婦は雅史を見ると疲れきった表情で言った。

「……命に別状はありません。内臓が一部、傷ついていましたが、出血は止めました。あとは自
然に治癒するのを待てばいいだけです。若いですから、治るのにはさして時間もかからないでし
ょう」

 看護婦はそれだけ説明すると、すぐに廊下に待機していた次の怪我人に声をかけ、再び手術室
に戻ろうとする。

「あ、待ってください」
「何か」
「あの、志保は、彼女はどこで休ませれば」
「病室はいっぱいです。申し訳ありませんが廊下でもどこでも、開いたところでしばらく休ませ
てください」
「そ、それと僕、彼女の家族に連絡を取るために出たいんですが」
「どうぞ」

 看護婦は次の怪我人と一緒に手術室へと入った。それを見送った雅史は周囲を見渡す。どこか
に親切そうな人がいれば、志保の様子を見てもらうよう頼むつもりだった。とにかく、命に別状
はないのだ。次にやるべきことは彼女の家族に連絡を取ることだ。雅史は忙しく周囲に視線を走
らせた。



 夕焼けの下、浩之は走っていた。マルチを購入して以来、“彼女”を連れて行ったところはす
べて探した。残っているのはただ一ヶ所。マルチと初めて出会ったところ。

 坂を駆け上がる。最初にここへ来るべきだったかもしれない。マルチにとってここは思い出の
場所だ。浩之とマルチが、人間とメイドロボが初めて出会ったのが、ここだったのだ。大学生に
なり、マルチを買ってからは一度も訪れていなかった。だからなかなか思いつかなかった。浩之
は歯噛みしながら走る。息を切らせ足元をよろめかせながら、浩之は坂を、かつて通った高校へ
の道を駆け上った。

 睡眠不足と過労、空腹に苛まれ、門の前で足がもつれる。そばにある桜の幹に身をもたせ、呼
吸を整える。見上げると昔通りの校舎。夕日に照らされ、赤く染まったその建物が、浩之の不安
をいや増す。

 足が重い。血のように赤い色が瞳に飛び込み、視界を狂わせる。走り続けた脚は筋肉が強張り
動かす度に悲鳴を上げる。騒乱の街を駆けぬけた途中で負った、いくつもの小さな傷がうずく。
校舎に入り、階段を上る。肉体を襲う疲労が心まで痛めつけているかのよう。浩之は自分の内で
膨れ上がる昏い思いから必死に目を逸らし、足を運ぶ。

「……浩之ちゃん」

 見上げると、夕日に照らされた踊り場にたたずむ幼馴染の姿。昔のように微笑み、昔のように
彼の名を呼ぶ。

「あか…り……」
「もう、もう大丈夫だよ、浩之ちゃん。あいつはもういないから」

 浩之の心臓が跳ねる。疲れきっていた身体が信じられないような動きを見せる。瞬発力が最大
限に叩き出される。浩之は一気に階段を駆け上がって踊り場へ辿り着いた。

「何だと、何と言ったっ」

 あかりの目の前に立ちはだかり、胸倉を掴む。あかりの表情は変わらない。昔から浩之に見せ
ていた優しさに満ちた笑顔で浩之を嬉しそうに見る。

「……志保の仇も討ったのよ。これでもう大丈夫だから、だから」
「マルチに何をしたっ」

 掴んだ胸倉を持ち上げ、大声で怒鳴る。爪先立ちになったあかりはきょとんとした目をして浩
之を見た。自分が何をされているのか理解していない。目の前の浩之が何を言っているのか分か
らない。そんな様子だった。

「答えろっ、マルチをどうしたっ、マルチはどこだっ、答えろあかりっ」

 悲鳴を上げ、あかりを揺する。がくがくと首を前後に揺さぶられたあかりは、慌てたように声
を上げた。

「ま、待って、待ってよ、浩之、ちゃんっ」
「どこだっ、どこなんだっ、おいっ」
「も、もう、いない、いないよっ」

 浩之の動きが止まった。かろうじてその腕から逃れたあかりはその場でへたり込み、咳き込み
はじめる。浩之はあかりを置き去りにして、階段を駆け登り始めた。

「!」

 あかりが息を飲む。階段を上った浩之は周囲に視線を走らせる。その背中が夕日に赤く染まる
のを見て、あかりが悲鳴を上げた。

「なぜっ」

 浩之は振り返らない。

「なぜよっ、なぜあんなロボットを追いかけるのっ。あんなの、あんなの企業が売ろうと思って
作った商品じゃないのっ、ただの人形よっ。外見が女の子でも、中身は機械じゃないのっ。何で
そんなものをっ」
「マルチっ」

 浩之は大声を上げ、廊下を走り出す。あかりは慌てて立ちあがるとその後を追った。階段を上
りきったあかりの視界に、腕に何かを抱いた浩之の姿が映る。

「ま、マルチっ」

 マルチは破壊されていた。頭部を覆っていた被覆は剥ぎ取られ、内部構造が剥き出しになって
いた。眼球状のカメラ、内部を走る配線、人間に似せた歯がプラスチックの姿を夕日に晒してい
た。それは、グロテスクなその姿は、顔の皮膚を剥ぎ取られ、頭蓋骨だけになった人間の似姿だ
った。

「……それが、それがそのロボットの正体よ」

 浩之に歩みよりながら、あかりはそう言った。

「電線と基盤といろんな電子部品と。浩之ちゃんが大切だって言っているソレは、ただの部品の
塊。やり方さえ知っていれば、誰だって作ることができるただの人形よ」
「…………」
「グロテスクよね。顔を剥ぎ取っちゃえばそんなもの。見てよ、何でカメラを目玉に似せたのか
しら。気持ち悪いだけじゃない」
「…………」
「スピーカーを壊したらもう声も出ないのよ。もっと配線を沢山切ったら、きっと動かなくなる
わ。でも、単に動かなくなるだけ。死ぬ訳じゃない。元々生きていないんだから死ぬこともない
わよね」
「…………」
「そんなものが大切なわけないよね、浩之ちゃん。そんな機械の塊なんかどうでもいいでしょ。
それより……」

 浩之はマルチを見た。マルチの眼球が動いた。丸い目玉が浩之に向けられる。レンズが絞り込
まれ、その磨かれた表面に浩之の顔が映る。

「……言いたいことはそれだけか、あかり」
「え?」

 浩之は立ちあがった。マルチを腕に抱いたまま。顔面だけでなく、脚や腕ももぎ取られていた
マルチの身体はとても小さかった。緑の髪が重力に引かれて真っ直ぐ下へ流れる。

「オレは、マルチの外見なんかどうでもいい」
「…………」
「例えそれがグロテスクな人形であっても、化け物でも宇宙人でも構わない」
「……ひろ」
「マルチはまだ生きている。心がある。だから」
「浩之ちゃんっ」

 浩之は振り返った。夕日の中であかりが立ち尽くしている。いつか、子供の頃、かくれんぼの
鬼になって取り残され泣いていたあの時のように、あかりの頬を雫がつたう。

「……ごめんな。オレは、マルチを選ぶ」

 浩之はマルチを抱き、ゆっくりと歩き出す。残されたあかりが床に突っ伏し、大声で泣き始め
ても、浩之は振り返らなかった。



 雅史は暗闇の中を歩いていた。修羅場となっている病院の中で、見ず知らずの他人の面倒を見
てくれる人を探し出すのは簡単ではなかった。必死に頼みこんで志保を預け、病院を飛び出した
時には、もう日が暮れかけていた。

 街はすっかり姿を変えていた。あちこちで炎がくすぶり、残骸が散乱していた。壊されたメイ
ドロボや車、引き倒された電柱、落ちた看板に崩れた塀。あちこちで焚き火を囲んでいる人間た
ちまでが、“破壊”という名の絵画を構成する一つの要素になっているかのようだった。
 おまけに、家へ向かう道も寸断されていた。あちこちにバリケードが築かれ、警察やら自衛隊
やら自警団やらただの暴徒やらが雅史が進もうとするのを妨害した。誰も文句を言ってこないバ
リケードを乗り越えようとしたら、その向こうにたむろしていたメイドロボに見つかって追いか
けられた。

 気がつくと随分と遠回りしていた。街のあちこちで燃えている炎も届かない暗い道。歩く雅史
の前方に黒い塊が見えた。目を凝らした雅史が見たのは、旧式の箱型メイドロボだった。雅史は
動きを止め、様子を窺った。あれがただの残骸か、それともまだ“生きて”いるのか、見極める
必要があった。
 そのメイドロボは横倒しになったまま微動だにしなかった。内部モニター用のパネルも暗く、
底部に付いている車輪も止まっている。大丈夫だろうと判断した雅史は、ゆっくりとそれに近づ
いていった。

 ガシャガシャ

 いきなり、そのメイドロボが動き出した。倒れた身体を揺らし、車輪を空転させる。液晶パネ
ルが激しく点滅を繰り返す。雅史は呆れてそれを見ていた。ひっくり返された亀がじたばたと暴
れる様が思い浮かんだ。

「ヤメテクダサイ」

 甲高い合成音が響く。メイドロボが発したものだろう。旧型メイドロボの語彙は余り多くない
筈だ。雅史はさらにそのロボットに近づいた。ロボットは狂ったように暴れまわる。だが、横倒
しになったその場所からは一歩も動いていない。

「ヤメテクダサイヤメテクダサイヤメテクダサイヤメテクダサイヤメテクダサイヤメテクダ」

 壊れたレコードのように合成音が繰り返される。雅史はそのロボットの傍まで来ると、ロボッ
トを覗きこんだ。ロボットの動きが止まる。まるで諦めたかのように。

 雅史の口元が緩んだ。自分が笑っていることに気づき、雅史は驚いていた。

 雅史の手がロボットに触れる。その瞬間、ロボットが再び暴れ出す。雅史は気にせずメイドロ
ボを引き起こした。車輪が路面に触れ、猛烈な勢いで走り出す。そして急ブレーキをかけたよう
に止まった。くるりと振り返る。

 雅史は黙ってそのメイドロボを見た。メイドロボのカメラが雅史を捕らえる。

 再び背中を向けて闇に消えていくメイドロボを、雅史はいつまでも見送った。



 玄関を開ける。ここを留守にしてどのくらいの時間が経過したのだろう。暗闇の中、手探りで
応接間まで歩きながらそんなことを考える。

 マルチをソファーの上に横たえた。何度か話しかけてみる。暗闇の中、カメラが動く駆動音が
微かに響く。だが、マルチは返事をしない。直したくとも道具がない。知識もない。直せる人物
はここにいない。

 そこで綾香から預かった小型ビデオカメラを思い出した。手にとって調べてみる。電源が切れ
ているようだ。家中をひっくり返し、電池をかき集める。テープを巻き戻し、カメラについてい
る液晶画面を見る。懐かしい顔がそこに映し出された。

『これから言うことは、できればテレビで流して欲しい。できるだけ多くの人に伝えてほしい。
一人でも多く、このことを知ってもらいたい。

『わたしは来栖川電工に勤めるメイドロボ技術者だ。我々のチームは、最近起きているメイドロ
ボの暴走事件について調査を進めている。その結果、分かったことがある。重要なことだ。

『きっかけは不法投棄された旧型メイドロボが、処理寸前に暴走した事件だった。テレビなどで
報道を見た人も多いだろう。続いてあちこちで解体待ちのメイドロボが暴走を始めた。我が社の
製品だけでなく、あらゆるロボットが、だ。

『暴走したロボットを解析し、その原因を調べてみた。最初はまったく原因がつかめなかった。
だが、次々と暴走事故が起こり、新しいメイドロボが運ばれてきたお蔭で、比較対象しながら調
べることができるようになった。そして、我々は原因をやっと突き止めた。

『ウイルスだ。

『メイドロボのメモリー内にある擬似思考アルゴリズムが、僅かに書きかえられていた。それも
よほど注意しなければ分からない程度の差だ。だが、そこにヒントがあった。アルゴリズムの中
に、ウイルスが隠れていたのだ。

『数ヶ月前に全世界に広まった、あの繁殖力旺盛なコンピュータウイルスのことを憶えている方
も多いと思う。あのウイルスはやがて開発されたワクチンソフトによって駆逐されたと思われて
いた。実際、ネットからはきれいさっぱり姿を消していた。我々も、あのウイルス騒ぎは終わっ
たことだと思っていた。

『とんでもない。ウイルスは生き延びた。ネットからメイドロボのメモリーへと逃げ込み、追手
をかわしたのだ。

『メイドロボはどんな旧型のものでも定期的にメンテと称して企業のシステムと接触している。
我が社のセリオタイプのように、サテライトサービスを通じて頻繁に接続するものもある。そし
て、実はその企業のシステム自体がすでにウイルスに潜りこまれていたのだ。我が社だけではな
く、メイドロボメーカーすべてのシステムが。

『ワクチンが開発され、ネットから追われたウイルスにとって、メイドロボの中は生活しやすい
場所だっただろう。たまのメンテ以外はスタンドアローンで活動するメイドロボの中にいる限り
彼らの存在を脅かすような攻撃を受けることはない。ウイルスの楽園だ。

『だが、彼らが潜りこんだメイドロボが、廃棄寸前のものだったらどうだろう。せっかく潜りこ
んだメモリーは物理的に破壊され、ウイルスは殺される。逃れようはない。

『ここで、おそらくウイルスが突然変異を起こしたのだ。

『ただメモリー内に潜伏しているだけのウイルスが、メイドロボの思考アルゴリズムを書き換え
その行動パターンを変えた。変異したウイルスは、廃棄されそうになったメイドロボが逃げるな
り抵抗するなりといった行動を取るよう、プログラムをいじったのだ。

『そして、メイドロボは自律的に動き始めた。自らの生存を最優先に行動する存在となって。

『しかも、変異したウイルスは何らかの方法で他のメイドロボ内にも繁殖を始めたと思われる。
手法は分からない。ただ、暴走が相次ぐ事態を見る限りでは、突然変異ウイルスは着実にメイド
ロボたちの間で地歩を広げていると思われる。彼らは増殖しているのだ。

『自らの生存を優先し、さらに増殖もする――。メイドロボ=ウイルスは、そういう存在になっ
た。言うなれば、彼らは“生命”になった。

『人間も動物も、それぞれの個体はまず自らの生存を図り、続いて子孫を残そうとする。自分の
複製を作り、その複製がまた複製を作る。それを繰り返すのが生命だとしたら……

『メイドロボ=ウイルスもまた生命だ。人間とは異なる形態の、しかし、原理的には人間と同じ
生命だ。彼らは生き延びようと苦闘し、そして増殖している。

『では、我々人間はどうすればいいのだろう。まったく新しい生命を前に、何をしたらいいのだ
ろう。彼らを絶滅させるか。全面対決してこの地上から抹殺するのか。弱肉強食、生存競争の果
てに彼らを消し去るのがいいのか。

『いや、それは最悪の選択だ。それは人間とメイドロボ=ウイルスの双方に不幸しかもたらさな
いやり方だ。

『人間が彼らを滅ぼそうとすれば、彼らはそれに抵抗する。力をもって臨めば力でもって反撃さ
れる。彼らが突然変異を起こし、環境に適応したことを忘れてはいけない。人間が彼らを滅亡さ
せるべく圧力をかければ、その環境に彼らは適応する。いかに人間の圧力をかわし、跳ね除ける
か。かれらはその術(すべ)を学んでいく。

『今、各地で起きている騒ぎも、メイドロボ=ウイルスがそうやって適応しようとした結果なの
だ。人間が圧力をかけるほど、メイドロボ=ウイルスも力で対抗する。互いに被害が増えるばか
りだ。

『争いはやめよう。我々は共棲しなければいけない。

『メイドロボ=ウイルスを壊すのではなく、彼らの安全、個体維持に配慮しながら、人間のため
に役立つようインセンティブを与える。そのためにはまず、今起きているこの馬鹿馬鹿しい騒ぎ
を終わらせることが必要だ。

『無意味な攻撃をメイドロボに仕掛けるのをやめる。それだけでも事態は大きく変わる筈だ。メ
イドロボ=ウイルスのアルゴリズムは、基本的に自らに危機が迫った際に過剰反応するように構
成されていると見られる。人間が攻撃を止めれば、彼らも抵抗はしない筈だ。

『それから、我々の間で共棲関係を作り上げなければならない。これは決して楽な作業ではない
だろう。だが、不可能ではない。メイドロボ=ウイルスは新しい身体、つまりメイドロボを自ら
作り出すことはできない。すでにある身体に潜りこむかたちで繁殖してきたが、これには限界が
ある。

『そして、人間はメイドロボを製造することができる。彼らの繁殖を我々が手伝うことが可能な
のだ。その代わり、彼らには今まで通り、人間のために働いてもらえばいい。お互いに便宜を図
ることで、共棲することができる。

『……何十億年も昔、我々の祖先であった単細胞生物は、別の単細胞生物だったミトコンドリア
と共棲関係に入った。ミトコンドリアの繁殖を手助けする代わりに、彼らが酸素から生み出すエ
ネルギーを使う。互いに相手のためになる関係は、ずっと昔から、生命の始まりの時からあった
のだ。

『人間とメイドロボ=ウイルスが互いに手を取って生きていく。それは夢物語ではない。かつて
単細胞生物とミトコンドリアが作り上げた関係を、再び築けばいいんだ。

『だから武器を置こう。諍いを止めよう。そこから、すべてが始まる……



 長瀬主任の話は終わった。浩之はマルチを抱き締め、泣いた。



http://www.tctv.ne.jp/members/desaix/