鬼葬 投稿者:R/D
 追放されし者の乗る船は、長き漂流の末に異郷へと辿り着いた。



 ソレは息を潜め、周囲の様子を窺っていた。盛り上がった筋肉に全身を覆われ、厚い表皮と長
い体毛を鎧としたその生物は、暗闇の中で赤く輝く目をゆっくりと動かす。微かに漏れ出る呼気
が、よどんだ蒸し暑い空気をかき混ぜた。
 ソレの瞳に灯が映る。森の向こう、切り開かれた場所にゆらめく篝火の炎が頼りなく輝く。ソ
レは鼻に皺を寄せ、音もなく笑った。臭いがする。獲物がいる。篝火の中に映し出される複数の
影がゆっくりと動く。ソレの肉体が狩りへの期待で震える。頭部に突き出した角が揺れ、口元で
牙が白く光る。
 動き出した。木々の下を、生い茂る草を縫ってソレが、豪勢な家屋を取り囲む篝火へと近づい
ていく。その周りに数多見かける人影は、いずれも近づいてくるものに気づいた様子もなく立ち
つくしている。その手にもった武器も、音もなく迫るソレに対して構えられる気配はない。ソレ
は最後の距離を跳躍し、人影の前にたちはだかった。ソレの腕が動く。血が飛ぶ。最初の犠牲者
の首が地面に落ちるより前に、次の血飛沫が舞い上がる。ソレは無駄のない動きで次々と獲物を
しとめていった。
 ソレは狩猟者だった。ソレはエルクゥと呼ばれる者だった。

 五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時、斬除朝倉社木、而作此宮之故、神忿壞殿。
 亦見宮中鬼火。由是、大舍人及諸近侍、病死者衆。
『五月(さつき)の乙未(きのとひつじ)の朔癸卯(ついたちみづのとのうのひ)に、天皇(す
めらみこと)、朝倉橘廣庭宮(あさくらのたちばなのひろにはのみや)に遷りて居(おはし)ま
す。是の時に、朝倉の社(やしろ)の木を斬り除(はら)ひて、此の宮を作る故(ゆゑ)に、神
忿(いか)りて殿(おほとの)を壞(こほ)つ。亦、宮の中(うち)に鬼火見(あらはれ)ぬ。
是に由りて、大舍人(とねり)及び諸(もろもろ)の近侍(ちかくはべるひと)、病みて死(ま
か)れる者衆(おほ)し』
                               ――日本書紀 卷第二十六

 さして大きくない部屋の中に、一人の老女が横たわっている。寝具に包まれたその姿は明らか
に病み衰えていた。時折、かすれた咳がその喉から漏れる。力なく吐き出される息は屋内の空気
を僅かに揺らすものの、やがて静寂へと飲み込まれていく。暑い大気の中で、その部屋だけはど
こか冷たかった。「死」を連想させる冷たさが漂っていた。
 空気が動いた。血臭を含んだ風が流れる。夢現をさまよっていた老女の瞳がはっきりと見開か
れる。老女の視界に巨大な影が入り込んだ。その体躯は返り血で赤く染まっている。
 老女はその影を見上げ、口を開いた。
「何者か」
 思ったよりしっかりとした声がした。老女を見下ろすモノが面白そうに顔面の筋肉を動かす。
消えかけていた炎が意外と強い光を放つことに気づいたソレは、牙についた血を舌で舐め取ると
老女に話しかけた。
 ――俺は狩猟者だ
 凄絶な笑みがソレの顔を彩る。血痕で化粧されたその顔は生気に溢れていた。
 それは好一対と言うべきだろうか。死をまとい土気色をした老女と、生命力が横溢する赤一色
のモノ。にもかかわらず、老女は毅然とした物言いをやめようとしなかった。
「…狩猟者? 『とう』か『しんら』の者ではないのか。誰の許しを得てここへ入ったのじゃ」
 相手を叱責する強い調子を含んだその台詞を聞き、狩猟者は声を出さずに笑った。
 ――許しなどいらぬ。俺が望んだから、俺はここへ来た
 ソレの腕が動く。手に握っていたものが床の上に投げ出された。それは生首だった。驚愕の余
り目を見開いたまま胴と泣き別れた頭部が、老女の目の前で転がった。老女の顔に初めて驚きの
感情が浮かぶ。生首が誰なのか、老女には心当たりがあるのだろう。
 ――こいつは俺を邪魔しようとした。だから狩った
「…なぜ、ここへ来ることを望んだのじゃ」
 ――獲物を捜しに
 ソレは腰を下ろし、老女の枕元に座った。いかにもくつろいでいるかのように老女を見下ろす。
アルカイックに吊り上げられた口元からは緩やかに息が漏れる。
「…………」
 老女は動かぬ身体のまま、首だけをソレに向けて睨み据えた。命が尽きかけているとは思えな
いほど、強い眼光がソレを射貫こうとする。
 ――この家の周囲には武装した獲物が大勢いた。狩猟者たる俺にとって相応しい獲物が
 ソレは老女の視線を気にも留めず、手の先にある鉈のような爪に舌を這わせた。固まりかけて
いた血液が唾液に溶け、ソレの口腔内に吸い込まれて行く。
「…………」
 生首に手をかけ、弄ぶように転がす。
 ――獲物たちは何かを護っていた。逃げようとせず、抵抗した。彼らには命を賭けて護るべき
   ものがあったのだろう
 ソレが目を細め、老女を見る。辺りの空気が急激に冷え込んだと思わせるほど激しい気が充満
した。だが、老女は顔色を変えることもなく、ソレを睨み続けた。
 ――こいつらが護ろうとしたものが何か、興味をそそられた。それこそ最高の獲物ではないの
   か。だから俺はここへ来た。素晴らしい炎を持つ獲物を求めて
 ソレが右腕を振り上げ、刹那に下ろす。老女の顔のすぐ傍に、鉈のような爪が突き刺さる。老
女は瞬きすらしなかった。
 ――なのにこれは何だ! この死にかけた何の力も持たぬ存在が俺の求めるものなのかっ!
 ソレは吼えた。その声は雷鳴のように部屋を震わせ、家屋から周囲の空間へと広がっていった。
聞く者の心胆を凍らせるようなその音を間近に聞きながら、それでも老女の表情は静けさを保っ
ていた。
 ――答えろ! 貴様は何者だ! なぜこいつらは貴様を護ろうとしたのだ!
 静かな視線がソレを貫く。顔のすぐ横で鈍く光る爪に、老女の土気色の影が映る。
「…吾は王じゃ」
 低くよく通る声が老女の口元から漏れた。沈黙が落ちる。巨躯の持ち主は突き立てた爪をゆっ
くりと引き抜く。
 ――王、だと
 その目に昏い情念が宿る。ソレは敏捷に立ち上がると、老女を見下ろして声を張り上げた。
 ――貴様が王だと? 病み衰え、立つことも叶わぬ貴様が王だとっ
 老女がいきなり笑った。かすれ、歪んだ嘲笑が屋内に響く。巨体を震わせていたソレは、老女
の思わぬ反応に虚を突かれたように動きを止めていた。
「そうか、吾が王であることを知らなんだか。どうやら本当に『とう』や『しんら』の密偵では
なさそうじゃな」
 老女は気持ちよさそうに言い捨てると、改めてソレの全身をじっくりと見た。人ならざる異形
が老女の視界の中でゆっくりと蠢き、姿を大きくしていく。老女に覆いかぶさるような格好をし
たソレは、赤く光る瞳に奇妙な表情を浮かべて言った。
 ――貴様、俺が怖くないのか
「恐ろしいとも」
 老女は転がっていた生首に目を遣った。
「…その男は吾が衛士の中でも最強と言われておった。それをいともたやすく殺したそなたが普
通の人だとは思えぬ。いずれ怪力乱神の類であろう。恐ろしくない訳がない」
 老女の顔が曇った。年齢相応の疲れ切った表情が浮かぶ。
「じゃが、吾は今この場で死ぬる訳にはいかぬ。たとえそなたが人外の魔物であろうと、今は死
ねぬ」
 老女の瞳が焦燥に彩られる。黙って老女の言を聞いていたソレは、再び腰を下ろすと静かに口
を開いた。
 ――なぜだ? 俺が手を下さずとも、貴様はすでに死にかけているではないか。
 老女が絞り出すように話す。
「戦(いくさ)が近い」
 ――いくさ?
「そうじゃ。いずれ軍(みいくさ)を『ひゃくさい』の地へ送らねばならぬ。そのためにこそ吾
はこの地まで来たのじゃ」
 老女は歯を食いしばり、虚空を睨んだ。
「数多の軍(みいくさ)を集めた。軍船も作り上げた。かの地へ赴く用意は調った。後は戦に勝
つだけじゃ。それまで大王たる吾が死ぬことはできぬ。この国のためにも、戦まで生き延びねば
ならぬ」
 激しい声でそう言った後、老女は咳こんだ。それが収まると同時に、異形のものが口を開いた。
 ――なるほど。弱い獲物同士では数を悖んで狩りをする、という訳か。
 ソレの口元が嘲るような笑みを形作る。
 ――哀れな獲物にふさわしいやり方だな。誇りも何もない
「誇りがないじゃと」
 老女が大声を上げた。その目は爛々と輝き、枕元の巨躯を睨み据える。ソレは老女の様子を見
ながら笑みを広げていく。
 ――そうであろうが。頭数を揃えて何とかしようという発想だ。勝ちさえすればいいと
「それだけではないっ。この戦はこの国の誇りを賭けたものじゃ。この国を『とう』や『しんら』
にも負けぬ国にするために避けられぬ戦なのじゃ」
 老女はソレに掴みかからんばかりの勢いで話した。ソレは何かに気づいたかのように目を細め
る。
 ――いくさとやらのために、力ずくで数を集めたようだな。嫌がるものや逃げだそうとするも
   のまで。それすらも誇りと言うか
「無論じゃ。この国を一人前にするためには軍(みいくさ)の力を示さねばならぬ。そのためな
ら吾は…」
 老女は激しく咳こんだ。身体をくの字に折り曲げ、微かに残った生命にしがみつくようにのた
うつ。異形のものはそれを冷たい視線で見下ろす。
 ――貴様の言う『誇り』というものが、俺には理解できぬ
 息を切らせながら老女はソレを見上げた。
 ――俺は狩猟者だ。狩猟者の『誇り』とは自らの力だけで狩ることだ。それ以上でもそれ以下
   でもない。徒党を組んでしまえば、それは狩猟者ではない
 ソレがゆっくりと立ち上がる。
 ――だが、まあよい。貴様らは狩猟者ではなく獲物なのだからな
 ソレは老女に背中を向けた。老女がかすれた、弱々しい声を上げる。
「…吾を殺さぬのか?」
 巨体が一瞬、動きを止める。
 ――貴様は俺にふさわしい獲物ではない。
 風が舞った。赤く染まった異形の姿は老女の前から姿を消した。ただ、血臭だけを残して。

 秋七月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮。
『秋七月(あきふみづき)の甲午(きのえうま)の朔丁巳(ついたちひのとのみのひ)に、天皇、
朝倉宮に崩(かむあが)りましぬ』
                               ――日本書紀 卷第二十六

 華やかで、どこか寂寞とした葬列だった。多くの人がつき従い、贅を尽くした装具に彩られて
いるにもかかわらず、どこか落ち着かない慌ただしさに包まれていた。
 大王の葬儀としては例外的なものだった。大王の故地から遠く離れ、葬儀が営まれる宮も仮の
ものだった。何より、参列者の誰もが葬儀以外のことに気を取られていた。
 ソレは粛々と進む葬列を山の上から見ていた。その巨躯は空を背にして山の稜線に浮かび上が
り、原住民から奪った笠の鋭角的なシルエットがソレを一層目立つものにしていた。
 葬列からざわめきが起こり、乱れが生じた。何人かが山を指さしている。自分の存在が騒ぎを
引き起こしていることを気にも留めず、ソレは葬列を見下ろし続けた。
『この戦は誇りを賭けたものじゃ』
 追悼される立場となったあの老女の言葉がソレの脳裏に浮かぶ。ソレは凄絶な笑みを浮かべた。
 ――ならば見せてもらおう。貴様たちの『誇り』がどの様なものかを
 ソレは視線をさらに遠くへ飛ばす。彼方の海には数え切れぬほどの軍船と、それに乗り込むべ
く蝟集している兵士たちの姿があった。

 八月甲子朔、皇太子奉徙天皇喪、還至磐瀬宮。
 是夕、於朝倉山上、有鬼、着大笠、臨視喪儀。衆皆嗟怪。
『八月(はつき)の甲子(きのえね)の朔(ついたちのひ)に、皇太子(ひつぎのみこ)、天皇
の喪(みも)を奉徙(ゐまつ)りて、還りて磐瀬宮(いはせのみや)に至る。是の夕(よひ)に、
朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほひ)を臨み視る。衆(ひとびと)皆嗟怪
(あやし)ぶ』
                               ――日本書紀 卷第二十六

 それからおよそ二年後。倭の水軍は朝鮮半島を流れる白江の河口で唐水軍と遭遇、四度戦い四
度とも破れた。倭水軍の船四百艘が焼き払われ、その煙が天を覆った。倭兵の流した血で海水は
真っ赤に染まったという。

                                     鬼葬 終

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