刈薦(下) 投稿者:R/D
 故、其輕太子者、流於伊余湯也
『故、その輕太子は、伊余の湯に流しき』
                              ――古事記下卷 允恭天皇条

 暗い部屋の中で独り。僕は開いていた本を閉じ、再び膝を抱いた。遥か古代から時を隔て、越
えられぬ冷たい壁のこちらへ、僕はこの敵意に満ちた空間へと舞い戻る。邪悪なるものが僕を脅
かすこの部屋へ。
 本を握りしめる。僕の頭の中を占めるのは、伊予に流された軽皇子が残した歌。
『愛(うるは)しと さ寢しさ寢てば 刈薦(かりこも)の 亂れば亂れ さ寢しさ寢てば』
 あなたが愛しいからあなたと寝てしまったならば離ればなれになっても構わない。そういう意
味だそうだ。想いを遂げられるならば、その後でどうなろうと気にしない、たとえどの様な代償
を支払うことになっても。彼は妹にそう言った。
 嘘だ。嘘だ、大嘘だ。
 一度だけ想いを遂げればそれでいいだなんて、後は別れ別れになっても構わないだなんて。そ
んな風に言える程度の想いなら、死にそうになるほど悩むことなどなかった筈だ。あれほど追い
詰められていた軽皇子がもしも本当にこう歌ったのなら、彼は自分自身の気持ちを見誤っていた
んだ。
 そう、自分自身の心を読み違えたんだ。僕のように。

 月島はすっかり暗くなった道を駅へと向かった。帰宅を急ぐ人々の波に追い越されながら、彼
は俯き加減に歩く。蒸し暑い季節。夜が更けてもアスファルトから立ち上る熱気が身体を取り巻
くようだった。
 ふと立ち止まった月島は、空を見上げた。街の明かりを反射した夜空は鈍く光り、沈黙してい
た。星も月も見えない。月島はその見通せない空を見続けた。身動きもせずに。
「お兄ちゃん」
 唐突な声に月島が身を竦ませる。哀れなほどに狼狽した彼は、脅えた表情で辺りを見渡した。
その視界に柔らかな髪が飛び込んでくる。
「る、瑠璃子」
 月島の声はまるで老人のように嗄れていた。目の前に立つ少女が面白そうに笑う。いつも兄の
心を和ませるその笑みが、今は月島の心に突き刺さる。
「変な声」
 一通り気持ちよさそうに笑うと、少女は上目遣いに月島を見て言った。薄着のため露出してい
る肌に、月島の目が吸い寄せられる。
「驚かせちゃったね、お兄ちゃん」
「……こんな時間に何をしているんだい」
 どうにか心を静めた月島が妹に問う。必死で浮かべる笑みはどこか引きつっており、その声も
かすかに震えている。心臓が激しく鼓動し、こめかみが脈打つ。月島は脇に抱えていた書類入れ
を隠すように持ち直した。
「図書館で本を読んでいたら遅くなっちゃったの」
 兄に似て読書好きな妹だった。学校でも文学少女と言われている。本に熱中してつい遅くなっ
たのだろう。そう思いながらも、月島の心は騒ぎ続ける。
「駄目じゃないか、こんな時間まで」
「うん」
 素直に頷く少女。だが、月島にも妹の気持ちは分かった。家に帰りたくないのだ。彼らを邪魔
者扱いしている親戚の家に。少女の顔に浮かんだ寂しさを見て、月島は自らを責めた。
 唇を噛み締める。自分の中に沸き上がってきた衝動を抑えるように。月島は妹から視線を外し
口を開いた。
「さ、帰るぞ」
 ぶっきらぼうにそう言うと、彼女の姿も見ずに駅へと歩き始めた。
「あ、待ってよ」
 心細いのだろう。悲しげな声が月島の背後から聞こえてきた。月島の拳が強く握られる。その
目には満たされない執念が燃えさかっている。月島の顔は歪んでいた。今にも泣き出しそうに見
えた。
 その表情が瞬時に変わったのは、彼の視界に男たちの姿が飛び込んできたからだった。月島と
その妹を見ていたのは、あの不良生徒たちだった。彼らの口元に浮かんだ卑猥な笑みを見て、月
島の目は昏く沈んでいった。


 故、後亦不堪戀慕而、追往時、歌曰
 岐美賀由岐 氣那賀久那理奴 夜麻多豆能 牟加閇袁由加牟 麻都爾波麻多士
『故、後また戀ひ慕ひ堪(あ)へずて、追ひ往きし時、歌ひたまひしく、
 君が往き け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ』
                              ――古事記下卷 允恭天皇条

 僕は昏く沈む部屋の中で両腕を強く抱いていた。二の腕に爪を立て、食い込ませて。その痛み
を感じようとした。触覚に神経を集中した。そうしないと後悔に押しつぶされそうだった。
 僕は彼女を失った。自分のしたことが、僕から彼女を遠ざけることになった。あれほど望み、
求めていたことが実現しても、それは僕の心を満たしはしなかった。苦い喪失感だけが僕を襲っ
た。
 軽皇子も同じ思いに取りつかれた筈だ。流されることが決まった後になって、彼は妹の軽郎女
に向けた多くの歌を残した。募る想いを伝え、必ず戻るという決意を示したいくつもの歌が古事
記に記録されている。
 王位を失ったことには我慢できたかもしれない。周囲の期待を裏切り、罪人になったことも覚
悟のうえだったのだろう。でも、軽郎女から、妹から引き離されることだけは耐えられなかった
筈だ。「亂れば亂れ」。そんな風に開き直ることはできなかった。できる訳がなかった。軽皇子
はひたすらに祈った。再び妹と出会えることを。
 そして、その祈りはかなった。軽郎女は兄を恋し、慕って、そして追ってきた。軽皇子は再び
最愛の人とまみえることができた。

 風は止まっていた。西日が残した熱気と湿気は地表近くにまとわりつき、決して離れようとは
しなかった。
 生徒会室には憔悴しきった月島がいた。しつこく残っていた太田を先に帰したのは数時間前。
それから今に至るまで、月島は何もせずに椅子に座り込んでいた。その目は虚ろで、どんよりと
濁っている。彼は虚空を見つめたまま、動かずにいた。
 ノックの音がして、扉が開く。用務員が中を覗いて驚いたような声を上げた。
「ありゃ、まだいたのか」
 月島はのろのろと顔を上げた。
「何をしてるんだね? 早く帰りなさい」
「……はい」
 小さな声で答えた生徒は鞄を掴むと、ふらふらと生徒会室を出た。その心ここにあらずといっ
た様子を見た用務員は、丸められた背中に思わず声をかけた。
「おい、大丈夫かね」
 生徒の動きが止まる。ゆっくりと振り返ったその顔を見て、用務員は慌てて目を瞬いた。まる
で魂のない人形のように見えたからだ。
「……大丈夫です」
 その声にも生気が感じられなかった。生徒はゆっくりと玄関へと向かって行く。
 下駄箱を通り過ぎた月島の前に影が現れた。あの原色髪が歯を剥き出して笑っている。
「相変わらず遅いな、会長さんよ」
 その顔を見た月島の表情には何の動きも現れなかった。月島は何かを呟くとそのまま不良生徒
を避けて歩こうとした。原色髪はそれを遮るように動く。
「おいおい、何を急いでいるんだよ。また妹のお迎えに行くのかぁ」
 妹という言葉に、月島は傍目にもはっきりと分かるほど反応した。俯いたままの顔が強張り、
その身体が不規則に震える。
「お前の妹も結構な遊び人じゃねぇかよ」
 声は背後からした。いつの間にか月島の背後に原色髪の仲間が集まっている。いつかのように
逃げられないための用心だろう。月島の周りを慎重に囲む。
「あんな時間に外をうろついているとはなぁ」
「どーこで遊んでいたんだろうね」
「いけない火遊びでもしていたんじゃねえの?」
「へへへへ。そりゃ羨ましい」
「ぜひ、俺たちのお相手もして欲しいもんだよなぁ」
 原色髪がそう言い放ったとたん、鈍い音がその頬から聞こえた。原色髪の身体が傾く。
 あたりを一瞬の沈黙が覆った。不良生徒たちの真ん中にいる月島の荒い呼吸音だけが響く。彼
は原色髪を殴った腕を突き出したまま唸りを上げた。その目は大きく見開かれ、血走っている。
剥き出した歯の間からは泣き声のような音が漏れた。
「……て、てめえっ」
 かろうじて倒れずにすんだ原色髪が大声を上げる。月島は吼えた。大声で喚いた。滅茶苦茶に
腕を振り回し始めた。周囲の不良生徒たちが一斉に彼に襲いかかった。
「やめんかっ」
 月島の様子に不審を覚え、彼の後を追ってきた用務員の声があたりに響く。悲鳴、怒号。混乱
は続いた。


 如此歌、即共自死
『かく歌ひて、すなはち共に自ら死にたまひき』
                              ――古事記下卷 允恭天皇条

 僕は暗い部屋の中で呟いた。許して。僕を許して。
 誰かの声が聞こえる。駄目だ。お前なんか壊れてしまえ。
 僕は泣いた。目を瞑った。耳を塞いだ。恐怖は消えなかった。敵意が僕の周りにいて、僕を脅
かし続けた。
 無防備なまま部屋に置き去りにされた僕は祈った。誰か来て。僕を独りにしないで。
 抱き締めた本が囁く。大丈夫だ。彼女は来る。僕がよく知っている、僕が一番大切に思ってい
るあの人が、必ずやって来る。僕を追って、僕のもとへ。
 軽郎女は兄を追って伊予まで行った。軽皇子は流刑先で妹を待った。二人は再び巡り会い、そ
して永遠に一つになった。
 そうだ、軽皇子は最後に最愛の人と出会えた。だから僕も待つんだ。彼女は僕を追っている。
僕の行方を捜している。いつか、いつの日にか、僕の本当の想いが彼女に伝わる。
 僕は待った。待ち続けた。
 瑠璃子、愛してる。瑠璃子、愛してる。ルリコ、アイシテル。ルリコアイシテルルリコ……

 暑い日だった。月島は階段を上り、彼女の部屋へと向かっていた。思いつめたような表情で、
この世ならざるものを見つめた瞳で。
「ウ・ル・ハ・シ・ト…」
 彼女の、妹の部屋へ入る。簡素なインテリアに囲まれた部屋。本棚にある多くの書物が持ち主
の嗜好を窺わせる。
「サ・ネ・シ・サ・ネ・テ・バ…」
 たんすに近づき、引出しを引っ張り出す。乱暴に中身を掻き回す。きれいに畳まれていた衣服
が乱れ、歪む。
「カ・リ・コ・モ・ノ…」
 次々と引出しを引く。周囲に服が散らばる。月島の額に汗が滲む。噛み締めた口元からとめど
なく呟きが流れる。
「ミ・ダ・レ・バ・ミ・ダ・レ…」
 散らばった下着をかき集める。まるで夢の中でもがいているような動き。取り憑かれたように
下着に顔を埋める。慌しくベルトを緩める。
「サ・ネ・シ・サ・ネ・テ・バ…」
 部屋の持ち主が帰ってきた時、月島は下半身を露出したまま、部屋の真ん中で立ち尽くしてい
た。ねっとりとした目で彼は妹を見た。狂気の笑みを浮かべながら。
 …………
 涙の雫が落ちた。押し殺したような嗚咽が流れる部屋で、月島は囁き続けた。
「瑠璃子、愛してる。瑠璃子、愛してる。ルリコ、アイシテル。ルリコアイシテルルリコ……」


 是時、太子行暴虐、淫于婦女。國人謗之。群臣不從。悉隷穴穗皇子。
(中略)由是、太子自死于大前宿禰之家。
『是の時に、太子(=木梨輕皇子)、暴虐(あらくさかしまなるわざ)行て、婦女(をみな)に
淫(たは)けたまふ。國人(ひと)謗りまつる。群臣(まへつきみたち)從へまつらず。悉(ふ
つく)に穴穗皇子に隷(つ)きぬ。
(中略)是に由りて、太子、自ら大前宿禰の家に死(う)せましぬ』
                                ――日本書紀 卷第十三

 暗い部屋の中で独り。僕は時がたつのを待っている。闇が終わり、孤独が去るまで。
 僕は彼女が、瑠璃子がこの部屋を訪れるのを待っている。いつまでも、いつまでも。

 小さなビルの中で、再び市民講座が開かれていた。講師は狭い部屋の中に集まった人々を前に
口を開く。
「前回の続きですが。そう、軽皇子とその妹の話でしたね。古事記では近親相姦の罪を犯した軽
皇子が伊予に流され、妹がその後を追います。そして最後に二人は心中します」
 聴講生たちは相変わらず熱心にノートを取っている。
「でも、これが日本書紀になると話が違うんですね。書紀では伊予に流罪となるのは妹の方なん
です。一方の兄は、允恭天皇が死んだ後の権力闘争に敗れ、自殺します」
 部屋を埋める人々の中に、月島の姿はない。
「軽皇子の死後、妹がどうなったのかは分かりません。ただ、はっきりしているのは軽皇子が独
りで死んだ、ということだけです。二度と妹に会うことも叶わず、たった独りで……」

                                     刈薦 終

参考文献

 古事記      岩波文庫
 日本書紀(二)  岩波文庫