刈薦(中) 投稿者:R/D
 廿三年春三月甲午朔庚子、立木梨輕皇子爲太子。容姿佳麗、見者自感。
 同母妹輕大娘皇女、亦艷妙也。
『廿三年の春三月(はるやよひ)の甲午(きのえうま)の朔庚子(ついたちかのえねのひ)に、
木梨輕皇子を立てて太子(ひつぎのみこ)とす。容姿(かほ)佳麗(きらぎら)し、見る者、自
づからに感(め)でぬ。
 同母妹(いろも)輕大娘皇女、亦(また)艷妙(かほよ)し』
                                ――日本書紀 卷第十三

 木梨軽皇子と軽大郎女。軽皇子は允恭天皇の長男であり、おそらくは最初の子供だった。軽郎
女は次女だが、生まれた順番は五番目だと思う。允恭天皇の子供には、彼の後に王位を襲った穴
穂命(あなほのみこと=安康天皇)や、各地から発見された当時の刀に名前が残る大長谷若建命
(おほはつせわかたけのみこと=雄略天皇)などがいる。けれど、最初に允恭天皇の後継ぎとさ
れていたのは、軽皇子だった。
 『木梨の輕太子、日繼知らしめすに定まれる』
 古事記にはそう記されている。今風に言えば、軽皇子は皇太子の立場にあったことになる。天
皇の長男だったことを考えれば当然のことだろう。
 恵まれた立場にあり、将来が約束された存在。周囲からはそういう目で見られていたのではな
いだろうか。いずれは父の後を継いで大王となり、国を治める。前途洋々な若きエリートだった
彼は、周りの期待をどんな思いで受け止めていたのだろうか。
 そして、「衣服を通して美しさが光り輝くよう」と言われていた妹の軽郎女。この本を読んで
初めて彼女の描写に触れた時、僕は衝撃に打ちのめされそうになった。その時から僕は、軽皇子
の苦悩が他人事だとは思えなくなった。期待という名のプレッシャー。傍らにいつもいる美しい
肉親。
 僕は暗い部屋の中でため息をついた。

「僕が、ですか」
 生徒会室で書類の整理をしていた月島は、大きな声を出しながら顔を上げた。彼の前には引退
を間近に控えた現生徒会長が立っている。どこか困ったような表情も、相手の目を見て話す様子
も普段と変わりはない。
「ああ。君ならみんなの信頼も厚いし、先生も頼りにしている。これまでの経験があるから何を
すればいいかも分かっているだろう。次期会長としては一番の適任だよ」
「ですが」
「立候補だけでもしてくれないかな。月島君ならできると思うよ」
 淡々と話し続ける現会長。月島の細い目には困惑が浮かんでいる。立候補だけ、などと言うも
のの、実際の生徒会選挙はほとんど信任投票となるのが実態だ。そして、落選することもほとん
どない。多くの生徒にとって、生徒会の仕事など自分たちには無関係なものであり、誰かに任せ
てしまうのが一番なのだ。
「そうね、月島君ならいいと思うけど」
「ま、頑張って」
 先輩たちが次々と月島に話しかける。月島はその勢いに呑まれるように頭を下げた。
「じゃあ、決まりだ」
 現会長が大きく頷く。月島は手に書類を持ったまま茫然としている。だが、周りの誰も彼の様
子に注意を払わない。
「他の役員も探さなくちゃね」
「月島君、誰か心当たりはあるかな」
「そうそう、いつも手伝ってくれる後輩の娘(こ)がいるじゃない。太田さん、だっけ? 彼女
にもやってもらったら」
「そうだな、それがいいだろうな。じゃあ、彼が立候補を決めたことを先生に伝えておくよ」
 そう言った現会長は月島の肩を叩くと
「しっかりやってくれよ、新会長候補」
 と話し、部屋を出ていった。
「選挙の準備もあるからいろいろ忙しくなるね」
「公約をちゃんと考えておいた方がいいよ」
 月島は周囲の声にも反応せずに、現会長が出ていった扉を見ていた。
「……何か不都合でもあるの?」
 役員の一人が発した声に月島は慌てて振り向く。
「いえ、そんなことはありません。ただ、僕なんかで大丈夫なのかどうか」
「大丈夫だって。月島のことは信頼しているから」
 月島を取り囲む顔には、安堵感を含んだ笑みが一様に浮かんでいた。かすかに羨望も。月島の
顔に陰が射す。だが、それは一瞬のことだった。すぐに月島は普段の悠然とした、それでいて親
しみやすい風貌を取り戻す。
「……分かりました。よろしくお願いします」
 立ち上がって頭を下げる月島の周りから、静かな拍手が沸き上がった。誰も、月島の脳裏に少
女の顔が浮かんだことには気づかなかった。


 太子念恆合大娘皇女。畏有罪而默之。然感情既盛、殆將至死。
 爰以爲、徒空死者、雖有刑、何得忍乎。遂竊通。
『太子、恆(つね)に大娘皇女と合(みあはし)せむと念(おもほ)す。罪有らむことを畏りて
默(もだ)あり。然るに感でたまふ情(みこころ)、既に盛(さかり)にして、殆(ほとほど)
に死(みう)するに至りまさむとす。
 爰(ここ)に以爲(おもほ)さく、徒(いたづら)に空しく死なむよりは、刑(つみ)有りと
雖(いふと)も、何ぞ忍ぶること得むとおもほす。遂に竊(ひそか)に通(たは)けぬ』
                                ――日本書紀 卷第十三

 いつから軽皇子は狂い始めたのだろう。何が彼の狂気を後押ししたのだろう。僕には分からな
い。本にも書いていない。それでも、はっきりしていることがある。軽皇子は人の倫(みち)を
踏み外した。
 古事記によると、それは軽皇子が即位をする前のこととある。允恭天皇が死去し、皇太子であ
った彼が新しい大王となる前。この微妙な時期に、彼は狂気の扉を開いた。
 彼は妹の軽郎女を自分のものにしようとした。彼女を抱こうとした。彼女とセックスしようと
した。そうできなければ死ぬとまで思い詰めた。そして遂に、妹とした。
 古事記に描かれているような古い時代には兄妹で結婚した例がない訳ではない。有名な聖徳太
子の両親も実は兄妹だ。ただ、彼らは父親は同じだったが、母は違った。腹違いの兄妹だった。
そうしたケースでは結婚することに何の問題もなかった。
 しかし、軽皇子と軽郎女の場合は、父も母も同じ本当の兄妹だった。それは当然、許されるこ
とではなかった。
 近親相姦の禁止は人類共通のタブーだ。男女関係がかなりルーズだった古代でも、軽皇子がし
たことは罪だった。そして彼はその咎めを受ける。

 校舎を出ようとしていた月島の前に、あの不良生徒たちが現れた。
「よお、生徒会長さん」
 間延びした声で月島の正面に立ったのは、図書館で彼に絡んだ原色髪だった。口元に締まりの
ない笑みを浮かべ、わざとらしく月島の肩を抱く。
「お忙しそうじゃねぇか。最近は妙に帰るのが遅いな」
 陽はとっぷりと暮れている。月島は脇に抱えた書類入れを持ち直しながら、彼らを無視するよ
うに歩き出した。
「おいおい、つれないな。親友だろぉ」
 不良生徒の一人が高い声でからかう。他の連中がドッと笑う中で、月島はゆっくりとその生徒
の方を見た。
「何か用かい」
「何か用かい、だってよ」
 下品な笑い声が再び響く。不良生徒たちは月島の周りを囲むようにしてその動きを遮る。月島
の顔に初めて苛立ちが浮かんだ。
「すまないが、用事があるんだ。用がないならどいてくれないか」
「ほお。偉くなったもんだね、生徒会長さんよ」
 原色髪が月島の全身をじろじろと見回しながら、わざとゆっくりと話す。
「その書類は生徒会のヤツかい? 真面目な人は違うねぇ。持ち帰ってまで仕事をやろうってん
だからなぁ」
 彼が書類入れに伸ばしてきた手を月島は身体を捻ってかわした。原色髪の顔がみるみる赤く染
まっていく。月島の表情はまったく変わらない。
「てめぇ、調子こいてんじゃねーぞ」
 原色髪が掴みかかろうとするのを後退してかわす月島。他の不良生徒たちも月島を追う。
「優等生がっ、生徒会長になってまで内申を上げたいのかよっ」
 さらに詰め寄る原色髪の眼前に月島はいきなり手のひらを向けた。一瞬、不良生徒たちの動き
が止まる。月島は上げた手を伸ばし、校門を指さした。
「あれは何だろう?」
 不良生徒たちの視線がそちらに振り向けられた瞬間、月島は走り出した。校舎の中へ。逃げる
とすれば外だと思い込んでいた不良生徒たちは逆を突かれ、とっさの反応ができない。
「この野郎っ」
 慌てて月島を追う彼らの足音が闇に包まれる校舎の中で響き渡る。だが遅すぎた。月島はまん
まと逃げ出していた。


 是以百官及天下人等、背輕太子而、歸穴穗御子
『ここをもちて百官(もものつかさ)また天の下の人等(ひとども)、輕太子に背きて、穴穗御
子(あなほのみこ)に歸(よ)りき』
                              ――古事記下卷 允恭天皇条

 自らが招いた事態によってすべての味方を失った軽皇子。弟の穴穂皇子が、さっそく反旗を翻
す。豪族たちも軽皇子を見捨てた。ついこの間まで皇太子としての輝かしい未来が待っていたの
に、今ではただの犯罪者になった。
 王位を狙っていたライバルたちにとってみれば、降ってわいたような幸運だろう。穴穂皇子が
はりきって兄の罪を告発している様子が目に浮かぶようだ。
 軽皇子は逃げ出した。豪族の一人、物部大前宿禰の家に飛び込み、彼に助けを求めた。しかし
この豪族も助けにはならなかった。大前宿禰は自分の家を取り囲んだ穴穂皇子の軍勢と話し合い
をして、軽皇子を差し出した。
 そして軽皇子は流刑となった。皇太子の位を失い、目の前にあった大王の椅子を取り逃がし、
おそらくは人々の尊敬も信頼も何もかも無くして。何より、あれほど手に入れたいと願っていた
最愛の妹とも離ればなれになって。

 小さな雑居ビルの中にある会議室に、人々が集まってくる。入り口には「市民歴史講座」と書
かれた張り紙。さして広くない部屋の中は老若男女とりまぜた聴講生たちで混みあっている。
 隅の席に月島が腰をかけていた。書類入れからプリントされたレジュメを取り出し、ボールペ
ンでなぞるように読んでいる。その時、講師が到着した。くたびれた背広をまとった貧相な中年
男性が、資料で重くなった鞄を肩から下げ、よたよたと会議室の中を歩く。室内に溢れていたざ
わめきが静まっていく。
 白板の前で一息入れた中年男は、顔に似合わぬ堂々とした声で話し始めた。
「えーどうも。今日はいわゆる『倭の五王』の時代について説明したいと思います。お配りして
あるレジュメを見てもらえますか」
 プリントを捲る音が会議室に満ちる。集まった聴講生たちはみな真面目だ。一人として私語も
しなければ、居眠りもしない。ある種の緊張感が漂う室内を講師の声が流れる。
「讃、珍、済、興、武。中国の南朝の歴史書に記されたこの五人の王が、古事記や日本書紀の誰
に当たるのか。色々な説が唱えられていますが、まあ、主に応神天皇から始まる応神王朝、別の
名を河内王朝とも言うんですけど、その大王たちに当てはめることが多いようですね」
 この講座に集まっている人々はいずれもかなりの歴史好きが多いのだろう。講師の話を一言も
聞き漏らすまいといった様子で熱心にノートを取る人がほとんどだ。その中でも月島はおそらく
一番若い参加者の一人だろう。周囲に比べるとゆっくりと鉛筆を走らせている。
 講義は淡々と続き、時は巡る。勤め人が仕事を終えてからやって来ても間に合う時間に始まっ
たため、随分と遅い時間になっている。
「……で、次の允恭天皇は多分、五王の三番目に当たる『済』なのではないかと思われます。当
然、その後を継いだ安康天皇が『興』ですね。もともと允恭天皇の世継ぎは安康ではなく木梨軽
皇子という人だったんですが、これがまた妹との間に近親相姦騒ぎを起こしたために、世継ぎの
地位を失ったんですよ」
 講師はちらりと腕時計を見て、再度口を開く。月島はこれまでにないほど真面目にペンを走ら
せている。
「元々、血縁を中心とした社会では、他人同士の夫婦より血の繋がった兄弟の方が重要な関係と
思われていたのでしょう。しかし、血縁だけでは子孫を残せません。そこで、古代の人は夫婦の
間に擬似的な血縁関係を持たせ、それによって夫婦関係を強固なものにしようとしたのではない
かと思われます」
 一息入れる講師。月島はその姿を食い入るように見つめている。
「その痕跡が色々な形で残っています。例えば、夫婦が互いにどう呼びかけるか。古代によく見
られる呼び名として、夫のことを『背(せ)』、妻のことを『妹(いも)』とする例が数多くあ
ります。『背』とは本来は男兄弟のこと、『妹』はもちろん、女兄弟のことです。英語のブラザ
ーとシスターと同じですね」
 白板に次々と文字を書き連ねる。聴講生たちは一生懸命それを書き写している。
「こういった習俗はこの国独特のものでもないようです。東南アジアでもこういう事例はあるそ
うですね。ただの夫婦だけど、互いの呼び方を変えることで血縁と同様の親密さを演出していた
とも言えます。最近の夫婦は妻のことを『お母さん』、夫を『お父さん』と呼んだりすることが
多いですよね。今の家庭は子供を中心に回っているから、こういう呼び方が広まっているんでし
ょう」
 講師は一同を見渡す。そろそろ締めに入ろうといった様子だ。
「しかし、いくら夫婦が妹背と呼び合う文化があっても、近親相姦はタブーです。だから古事記
によると、木梨軽皇子は皇太子の地位を失い愛媛の道後温泉に流されたことになっています。た
だ、日本書紀ではまた少し異なった話になっていまして……」
 その時、室内にベルの音が響いた。中年の聴講生が慌てて携帯電話を取りだし、部屋から出よ
うとする。それを見た講師は少し笑みを浮かべて言った。
「おや、また時間を超過してしまったようですね。それでは続きはまた次回ということで」
 静かだった室内に再び音が戻ってくる。その中で月島は一人微動だにせず俯いた姿勢のままだ
った。まるで、彼の周りだけ時が止まったかのように。

                                        続