刈薦(上) 投稿者:R/D
 宇流波斯都 佐泥斯佐泥弖婆 加理許母能 美陀禮婆美陀禮 佐泥斯佐泥弖婆
『愛(うるは)しと さ寢しさ寢てば 刈薦(かりこも)の 亂れば亂れ さ寢しさ寢てば』
                              ――古事記下卷 允恭天皇条

 暗い部屋の中で独り。僕は木製の古いベッドに腰を掛け、膝を抱きかかえていた。密閉され、
誰も入ることができない空間。外からの侵入者に怯える必要のない場所。なのに、僕は恐怖を抑
えることができなかった。僕の周囲にある空間は僕を傷つけようと身構え、絶えず僕の様子を窺
っている。辺りの闇は牙を剥き出し、僕を襲う機会を求めている。油断はできない。気を引き締
めなくては。僕は膝を抱く腕に力を込め、全身の筋肉を堅く強張らせる。
 僕は独り。ここで時がたつのを待っている。闇が終わり、孤独が去るまで。誰かがこの部屋を
訪れるのを待ちわびて。
 誰か? いや、知らない誰かじゃない。ここを訪れるのは、僕のもとへ姿を現すのは、僕がよ
く知っている人だ。その人は必ず来る。待ち続ける僕のために。僕だけのために。

「よう、優等生」
 傍若無人な声が静寂を尊ぶ図書館の中に響き渡る。声の主は髪の毛を派手な原色に染めた男子
高校生。彼の周囲には同様に目立つ格好をした者たちが立ち、席に座る一人の男子生徒を取り囲
んでいる。不良に絡まれる真面目な学生といった構図。その男子生徒は読んでいた本を閉じて顔
を上げた。本の表題には「古事記」とある。
「休み時間も惜しんで勉強かい」
「放課後は生徒会が忙しいってか。だから昼休みにお勉強をしている、と」
「さすがに優等生は違うねぇ」
 男たちの大声を注意する者はいない。図書館にいる他の人間はみな顔を伏せ、気づかないふり
を続けている。男子生徒はゆっくりと立ち上がり、真っ先に絡んできた原色髪の不良生徒の方を
向いた。男子生徒の細い目はそれまでと変わった様子もなく、落ち着いた表情を形作っている。
「別に勉強をしていた訳じゃないよ。単に読書していただけだ」
 取り囲む不良生徒の一人が本を掴み、表紙を見る。
「へーえ、頭のいい奴は違うね。古事記を読むのがただの読書かい」
「おうおう、俺にも見せろよ」
 本は不良生徒たちの間を転々とする。それを見ていた真面目そうな生徒は淡々とした口調で話
しかける。
「そろそろ返してくれないかな。借りた本だから返却したいんだ」
「何だと」
 不良生徒の一人が凄みを効かせる。
「月島、お前いつからそんなに偉くなったんだよ」
「俺たちには本も貸せねえってかぁ」
 月島と呼ばれた生徒は冷静さを保ちながら答えた。
「そんなことはない。読みたいならいいよ。それじゃ僕の代わりに返却をよろしく」
 それだけ言うと月島は振り返りもせずにその場を歩み去った。後に残された不良生徒たちの間
から呪詛の声が漏れる。月島の姿はすぐにそこから消えた。


 男淺津間若子宿禰命、坐遠飛鳥宮、治天下也。
『男淺津間若子宿禰命(おあさづまわくごのすくねのみこと=允恭天皇)、遠飛鳥宮(とほつあ
すかのみや)に坐しまして、天の下治らしめしき』
                              ――古事記下卷 允恭天皇条

 蹲る僕の傍らに、本が一冊。僕はそれを手に取った。暗闇の中でなぜか題名が見える。表紙に
は『古事記』とあった。
 僕は暗がりで笑みを浮かべる。これは何度も読んだ本だ。繰り返し繰り返し、何度も何度も。
表紙がすり切れ、手垢で汚れ、文章を暗記してしまうほどに。
 初めてこの本に出会ったのはいつのことだったか。そんなに昔ではない。誰かに勧められたん
だっけ。それとも勉強のうえで必要だったから読んだのかな。まあ、いい。きっかけは何であっ
ても、僕がこの本と出会ったことには変わりないのだから。
 ゆっくりと頁を捲る。薄い紙に置かれたインクの跡が、言葉として、美しい旋律として僕の脳
裏に鮮やかな印象を刻みつける。僕は自分の周囲を取り囲む敵意ある空間すら無視して、その世
界に酔った。その瞬間だけ、この暗い部屋は僕に幸せをもたらしてくれた。
 開かれた頁の文字をなぞるように読む。古い古い言葉で昔々のことを記したその書物を、抱き
しめるように読む。そこに描かれた物語は、美しく、哀しく、切ない。僕はその事件を記録した
頁へ自分の意識を飛び込ませる。物語の中へ。

「おお、月島。いいところで会った。ちょっと頼まれてくれんか」
 月島と呼ばれた男子生徒が振り返る。そこには手に書類袋を下げた中年男がいた。
「何ですか、先生」
「ちょっと生徒会室に運んでほしいものがあるんだ。職員室にあるんだが」
 教師は少しためらい
「……一人じゃちと大変だな。先に生徒会室に行ってもう一人連れてきてくれ。俺は職員室で待
っているから」
「分かりました」
 月島は愛想良くそう答えると、生徒会室へ向かおうとする。そこに横から声が掛けられた。
「月島先輩」
 ボブカットにした活発そうな女子生徒が小走りに近づいてくる。
「やあ、太田君」
「先輩、今日はこれから何かあります? もし暇だったら……」
「生徒会の仕事があるよ」
 答える月島の声色はどこか冷たい。だが、太田はそれに気づいた様子もなく話し続ける。
「あ、それならあたし手伝います」
「いや、生徒会の役員でもない人に仕事を押しつける訳にはいかないよ」
「役員でなくても生徒なら全員生徒会のメンバーです。手伝いをするのは当然でしょ?」
 月島の前で小首をかしげてにっこりと笑ってみせる女子生徒。月島が何か言おうと口を開いた
時、背後からまた声がした。
「月島君」
 振り返った月島は、そこにいた男子生徒に会釈をする。
「あ、会長」
「何をしているんだい。そろそろ会議の時間だ。今日もいろいろとやってもらいたいことがある
から早く来てほしいんだけどね」
「先生から頼まれごとをしていますんで、それが終わったらすぐに」
「分かった。じゃ、急いでくれよ」
 男子生徒は慌しくその場を去り、生徒会室へ向かう。月島は太田に向かって
「それじゃ、お言葉に甘えることにするよ。職員室から運びたいものがあるんだ。手伝ってくれ
るかい?」
「はい、喜んで」
 嬉しそうな顔で返事をする太田。先に立って職員室へ向かう月島の顔に浮かんだ憂いの表情に
は気づいていない。


 此天皇、娶意富本杼王之妹、忍坂之大中津比賣命、生御子、木梨之輕王。
(中略)次輕大郎女、亦名衣通郎女。御名所以負衣通王者、其身之光自衣通出也。
『この天皇(=允恭天皇)、意富本杼王(おほどのおほきみ)の妹、忍坂之大中津比賣命(おさ
かのおほなかつひめのみこと)を娶(めと)して、生みませる御子、木梨之輕王(きなしのかる
のおほきみ)。
(中略)次に輕大郎女(かるのおほいらつめ)、亦の名は衣通郎女(そとほしのいらつめ)。御
名を衣通王と負はせる所以は、その身の光、衣より通り出づればなり』
                              ――古事記下卷 允恭天皇条

 五世紀のことだった。大陸の大国が南北に別れて争い、遥か西方では人々が豊かな居住地を求
めて大移動をしていたころ。この列島では一つの王家が支配地域を拡大していた。彼らは列島各
地の住民を支配するだけでなく、時には大陸にも兵を出した。次第に一つの国家が姿を現そうと
していた。
 王家の者たちは、外に対してだけでなく仲間うちでも相争うことが多かった。権力を巡って、
支配者である大王(おおきみ)の地位を奪い合って。そのためには互いに殺し合うことさえ厭わ
なかった。
 いつの時代も権力者はこんなものなのだろう。この本にもそうした内訌の歴史がいくつも書か
れている。僕はそれを否定するつもりはない。彼らは欲しい物を手に入れようと必死になっただ
けだ。僕に彼らを笑う資格はない。
 政治闘争の中では、時に思わぬ人物が権力を握ることもある。時の大王位に就いたオアサヅマ
ワクゴノスクネと呼ばれる人も、いわば成り行きでその地位に座った人らしい。権力争いに勝っ
て王位を襲った前王があっけなく死に、急遽その後を継ぐ人物が必要になって担ぎ出された。ピ
ンチヒッターのような立場にあったようだ。
 後に允恭天皇と呼ばれることになるこの大王には、合わせて九人の子供がいたと伝えられてい
る。そして、その中に木梨軽皇子と軽大郎女という兄妹がいた。

 その女子生徒は校門に背中をもたせかけるようにしていた。肩の上で切りそろえた細い髪が風
になびく。少し伏せた睫毛の影から、かすかに揺らぐ瞳が見える。見るからにたおやかで物静か
な風情を漂わせるその少女は、どこか寂しそうな表情で立っていた。
 周囲を通り過ぎる下校途中の生徒も少なくなった。陽が傾き、影が長く伸びる。少女が俯いて
ため息をついたその時
「瑠璃子」
 彼女を呼ぶ声がした。少女の顔が一面の笑みに塗り替えられる。同時に彼女を取り巻く空気も
変わる。まるで明るい光を放つかのように。少女の美しさが、優しさが、魅力が、彼女の身体か
ら衣服を通して周りに発散されているようだった。
 少なくとも、彼女に声をかけた月島にはそう思えた。
「お兄ちゃん」
「待ったかい?」
「ううん」
 彼女は首を左右に振った。細い髪が首の動きに合わせて揺れる。繊細なその動きはこの世の物
とも思われない。それは月の光から紡いだ糸のよう。揺れるとさらさらと音を立て、はかなく消
え去ってしまいそう。月島は目を細めてそんな妹の様子に魅入っていた。
「そんなに待たなかったよ、お兄ちゃん」
 少女の声は鈴を転がすように響き、月島の耳へと届いた。彼はゆっくりと少女に近づき、その
手を握る。この世でもっとも大切な宝物に触れる時、人はこのような態度を取るのだろうか。月
島の態度は女神に触れる信者のようだった。
 握られた手を少女が見つめる。月島は両手に握りこんだちいさな白い指から、少女の大きな目
へと視線を移す。
「こんなに手が冷たくなっているじゃないか。随分待ったんだろう」
 少女の頬にかすかに朱がさす。
「生徒会の仕事で遅くなるから待たなくていいと言ったじゃないか」
「でも」
 少女は上目遣いに月島の顔を見る。睫毛の奥から覗く瞳孔には僅かな媚が含まれている。注意
して見なければ気づかないだろう。だが、月島はそれを見たかのように息をのむ。
「……でも、お兄ちゃんと帰りたかったから」
 月島は握っていた少女の手を離し、慌てて視線を逸らした。咳払いをして、大声を上げる。
「ったく、仕方がないな。帰るぞ」
 少女の顔を見ないようにしながら歩き出す月島。その後を少女が追う。長く伸びた二人の影が
重なるように動いていく。
 仲睦まじい兄妹の下校風景を、少し離れた場所から一群の人間が見ていた。図書館で月島に絡
んだ不良生徒たちが。

                                        続