回帰 投稿者:R/D
「この男を知らないか?」

 冬の街。慌ただしく通り過ぎる人。耳に喧しいクリスマス・ソング。冷たい風。俺が呼び止め
た若い男は不貞腐れた表情で俺をねめつける。

「うっせーな、何の用だてめえ」
「この男だ。知らんか?」

 男の反応を無視して写真を突きつける。何万回も繰り返した動作。手垢に塗れ、色褪せくたび
れきった写真。そこに写る男。俺が追う男。同族。仇。

「……知らねーよ、こんな奴は」
「どこかで見た記憶はないか。思い出せるなら……」
「知らねぇっつってんだろうがっ」

 男はろくに写真を見ないで俺に食って掛かった。男の手が俺の襟を掴む。男の顔の前に写真を
かざす。

「よく見てくれ。本当に知らないのか?」
「……俺の言うことが信用できねぇってのかてめぇはっ」

 無駄だ。こいつからは何の情報も得られない。俺は襟を掴んだ男の手を外すと背中を向けた。

「ば、馬鹿にしやがってっ」

 いきなり男が背後から殴り掛かってきた。首筋に衝撃が走る。頭の中で声がした。身体が熱く
なる。頭の芯が冷える。目の前が赤くなる。ゆっくりと振り返る。

「この野郎っ」

 男の拳が迫る。左手で掴む。周囲を見回す。ちょうど人通りが途絶えたところ。頭の中の声が
命じる。

 狩レ――

 愚かな生物。本能を見失い、つまらぬことに囚われ、相手の実力を量るという基本的な能力を
失った動物。こいつも愚か者の一人。

 狩レ――

 思い知らせてやらねば。お前たちが何者なのか。俺が何者なのか。お前は獲物。生き延びたけ
れば逃げ惑うほかない哀れな生物。俺は狩猟者。この世界で最強の生物。食物連鎖の頂点に聳え
る孤高の存在。

 狩レ――

 拳を掴む左手に力を入れる。若い男の目が恐怖に見開かれる。目の前が赤く染まる。



 眼。俺を睨んでいる。恐怖に染まった眼。虚無を覗いた眼。マンションで見た虚ろな眼をした
若者。死後も虚ろなままの眼で俺を睨んだ。俺をカモにしようとした中年男。死ぬとあいつの狐
の眼も俺を睨んだ。少女の眼。何かを訴えるかのような眼。俺を睨んだ。

 やめてくれ

 死んだ眼。炎に焼かれたトレーラーの運転手が燃え盛る運転席から俺を睨んだ。血の海に沈ん
だ警備員たちが揃って俺を睨んだ。眼。眼。

 やめてくれ

 眼は消えなかった。俺を見ていた。俺を睨んでいた。

「やめてくれっ」

 蹲る。砂利道に膝をつく。眼はまだ俺を睨んでいる。若い男。俺が写真を見せて奴の行方を聞
いた男。俺に殴り掛かってきた男。死んだ。死んで俺を睨んでいる。男の死体が砂利道に横たわ
っている。男の眼は俺を非難している。

 ひとごろし

 警備員の眼が叫んだ。人殺し。運転手の眼が吠えた。人殺し。少女の眼が泣いた。人殺し。中
年男の目が喚いた。人殺し。若い男の目が訴えた。人殺し。

「うああああああああああああああああああ」

 目を閉じた。奴等は俺を睨んでいた。心が軋んだ。悲鳴を上げていた。ずっとずっと凍り付い
ていた何かが目醒め、俺を苛んだ。良心。ずっと麻痺していた。何故? 何故俺はこんなに人を
殺してしまったんだ? 無関係な人たちをこんなに沢山。何故?

 俺ガ狩猟者ダカラダ――

 違う。俺は人間だ。狩猟者じゃない。鬼じゃない。

 復讐ノタメダ――

 違う。復讐したい相手は彼らじゃない。

 邪魔ダッタカラダ――

 だからと言って殺していい訳はない。

 黙ラセルタメダ――

 言い訳にはならない。

 狩リノタメダ、仇討チノタメダ――

 違う、違う、違う。

 俺は死体の傍から逃げ出した。道路脇の森に駆け込む。下生えに手をつき、吐いた。胃の中の
ものをすべてもどした。それでも吐き気は治まらなかった。胃液を吐いた。えずいた。眼が思い
浮かんだ。もう一度もどそうとした。何も出てこなかった。自分が恐ろしかった。冷え切った頭
の中で、無感動に人を殺し続けた自分が恐かった。鬼を制御している筈なのに、鬼と同じような
行動を取る自分に怖気を感じた。

 その時、人の気配が近づいた。俺は慌てて道路の方をうかがった。

 奴だった。



 山の中。急な山道を奴が上ってくる。いつの間にか街中から移動していたことにやっと気づい
た。多分、俺自身が死体を運んで人気のない所へ移動したのだろう。俺の中の鬼が。
 奴は死体を見つけた。呆然と立ち尽くした。俺がずっと追ってきた男。あの女性の仇。俺が犯
してきた数多の殺人の目撃者。奴はやがてゆっくりと死体の傍に蹲ると、調べ始めた。

 おかしい。

 何故、奴は俺に気づかない? こんなに傍にいるのに、何故逃げ出さない? これまで俺は奴
に近づくのに苦労してきた。俺が近づくと奴は逃げた。捕まえようとするとすり抜けた。奴に引
きずり回され、奴に届かなかった。

 奴は死体の懐から何かを取り出した。死体の持っていた鞄を肩にかけた。立ち上がると、道を
戻っていった。二度を死体を振り返らなかった。

 俺は奴を追った。

 奴は人里へ降りた。公園の公衆トイレに入った。出てきた時には髭を剃っていた。死体の鞄の
中に髭剃りがあったのだろう。服も着替えていた。そして奴は駅に向かった。駅の近く、丘の上
にあるビジネスホテルに入った。ずっと俺には気づかなかった。

 ホテルの前で、俺は考えた。何故だ。どうしてこうもあっさりと近づけるんだ。今まで奴に近
づくのは大変だった。近づいてもすぐ逃げられた。なのに何故。これまでこんなことがあっただ
ろうか。首を捻った。何かが思い浮かんだ。ざわめき、人の波、夜、駅の喧騒。
 あの時、駅前で奴と戦った時、俺は奴がすぐ傍に来るまで気づかなかった。俺の中の鬼が覚醒
したのは、奴が爪を出した時だった。そう、奴は直前まで鬼の力を隠して俺に近づいた。だから
俺は気づかなかった。俺の中の鬼が同族の存在を察知するまで、俺は無防備だった。

 そう、鬼の力を抑えれば、簡単には気づかれない。鬼を覚醒させずに近づけば、チャンスが生
まれる。

 これで、奴を捕まえられる。そう思ったとたん、俺の中で鬼が覚醒しようとした。

 狩レ、殺セ、復讐ヲ、仇ヲ――

 まずい。ここで鬼が発動すればホテルにいる奴が気づく。俺は慌ててその場を離れた。理性を
総動員した。身体が熱くなる、血流が早まる。駄目だ。必死に足を動かす。ホテルから離れなけ
れば。どこかで落ち着かせなければならない。俺の頭の中で叫ぶ声を静めなければ。

 俺は走るようにその場を去った。



 街中。喫茶店。注文を取りに来たウェートレスは怯えた顔で俺から逃げるように去った。よほ
ど恐ろしい顔をしていたのだろう。自分でも分かるほどだ。頭の中で喚く声を押え込むのに、俺
は全神経を集中していた。

 狩レ、殺セ――

 落ち着け。今行っても逃げられる。奴に近づく方法を見つけたのだ。焦るな。

 復讐ヲ、仇ヲ――

 分かっている。そのためにもおとなしくしろ。そうすれば出来る。復讐が、仇討ちが。

 今スグ奴ヲ――

 駄目だ。同族の気配を消す。完全に。それができなければ奴は殺れない。お前が出てきたら失
敗する。

 狩リヲ、生命ノ炎ヲ――

 黙れ。奴は俺が殺る。お前は黙っていろ。

 運ばれてきたコーヒーを睨み、俺は頭の中で響く声を必死に抑えていた。そうだ、奴を倒すに
は鬼の力だけでは駄目だ。狩猟者の能力だけでは足りない。資材置き場で逃げられた時を思い出
せ。駅前で襲われた時を思い出せ。高層ビルで逆襲を受けた時を思い出せ。奴は鬼の力をほとん
ど使わずに、俺から逃げ延びた。人間の力を、策略を、頭を使って、俺を出し抜いた。

 奴を倒すには、俺の理性が必要なのだ。

 身体の熱が下がってくる。血流が静まってくる。だが、頭の芯は凍りついたままだ。声は小さ
くなった。狩猟者の血は人間の血に隠れた。そうだ。この状態だ。この状態で奴に近づく。奴を
捕まえる。決して逃がさぬように。それからだ。それからが本当の復讐だ。

 俺はぬるくなったコーヒーを一気に呷った。



 日は暮れようとしていた。丘の上にあるホテルは、どんよりとした雲の下で灰色にくすんでい
た。俺は物陰で空を眺めていた。あの夜を、水門の夜を思い出していた。

 俺の腕の中で冷たくなっていったあの女性。腹部を貫かれ、そこから赤い血を流していた。俺
は彼女を抱いて泣いた。涙を流していた。そういえば、最後に泣いたのは何時だったろう。
 あの女性は俺に謝っていた。俺の名を呼んだ。俺に微笑みかけた。傍にいてと言った。馬鹿な
私、と言った。貴方まで失ってそれでどうするつもりだったのかしら、と言った。これで何も失
わなくて済む、と言った。その後、最後に何か言った。思い出せない。死に顔は、あの女性の顔
は、思い出せない。ただ、血の赤だけが。

 目の前を何かが舞った。灰色の欠片。雪。気がつくと俺の周りは雪に囲まれていた。ホテルか
ら街へ続く下り坂を見た。街は灯かりに彩られていた。舞い下りる雪のヴェールの向こうで、い
くつもの灯かりが瞬いた。灯かりを背にしたシルエットが坂の途中で立ち尽くしていた。

 奴だった。

 俺はゆっくりと歩き始めた。奴は凍りついたように立って、街を見ていた。背中が大きくなっ
てくる。頭の芯は冷えたまま。身体も血流も変化はない。風が吹く。腕の入っていない男の左袖
が揺れる。あと10歩。足元から冷えた空気が立ち上る。雪が巻く。あと5歩。奴の背中は微動
だにしない。あと3歩。雪の向こうの背中が震える。2歩。1歩。

 狩レ――

 瞬時に爪を出す。駅前でやった時のように、刹那の内に鬼を発動する。爪が奴の背中に潜り込
む。腹を貫き、先端が向こう側に飛び出す。奴が身体を捻じって振り返る。食い込んだ爪が奴の
内臓を傷つける。奴が俺の目を見る。

 奴は、涙を流していた。



 狩レ、殺セ、倒セ――

 声が叫ぶ。俺に命じる。言われるまでもない。食い込んだ爪が離れないように注意しながら鬼
を発動させる。骨格が変わり、筋肉が肥大化する。服が弾ける。牙が生え、角が聳える。奴の身
体を貫いた爪を蠢かす。奴の内臓を掻き回す。奴の肋骨を切り裂く。奴の口元から血飛沫が飛び
散る。赤い雫が路面に落ちる。

 腹部に痛み。

 奴の残された腕が鬼化する。その爪が俺の腹に刺さる。最後の抵抗。そうだ。それでいい。戦
え。狩猟者なら、同族なら戦え。儚く美しい生命の炎を煌かせろ。消えゆく炎を思い切り燃やし
尽くせ。俺は左手で奴の首を掴んだ。

 殺セ、殺セ、殺セ――

 首を掴む手に力を込める。奴の顔が紅潮する。互いの爪が互いの内臓を傷つける。少しでも力
を削ごうと動き回る。奴の生命の炎が美しく輝く。俺の生命の炎が赤く燃える。左手にさらに力
を加える。奴の頚椎が軋む。俺は勃起していた。

 狩レ、狩レ、狩レ――

 血が滾る。身体が熱く、熱くなる。血流が早くなる。心臓が鼓動を強める。頭が、脳の中が冷
え冷えと凍る。奴の身体が悲鳴を上げる。俺の身体が歓喜を叫ぶ。腸を、膵臓を、肝臓を、腎臓
を、胃袋を、肺を、俺の爪が掻き混ぜる。奴の爪が掻き混ぜる。

 奴の頚椎が、音を立てて砕けた。



 地面に横たわる死体。首を折られ、内臓を吐き出した死体。その上に雪が降りる。融ける。

「…………っ」

 腹の怪我。鬼の力をもってすれば、すぐ治る。俺の姿はすでに人間に戻っている。あんな格好
を長い時間しているべきではない。目立っていいことなど何もない。

「……いちっ」

 もっとも、今の俺の格好だって十分に目立つものだ。全裸の自分を見下ろし、苦笑する。

「…ういちっ」

 何処かで服を手に入れなければいけない。それから

「耕一っ、聞こえてるの、耕一っ」

 誰かが俺の肩に手をかけ、揺する。振り返る。女。ショートカットにカチューシャを付けた若
い女。同族の臭い。思い出した。俺の従姉妹。

「耕一、あ、あんた……」

 そういえばこの従姉妹を利用したこともあった。奴を追っているうちに金が尽きてしまい、こ
いつを呼び出したことが。

「あんた、人を、人を……」

 なんでこいつは泣いているのだろう。なんで怯えているのだろう。

「人を、殺したのか……」

 そんなことか。それがどうした。俺は狩猟者。こいつは獲物。それだけだ。

「こ、耕一、何故、何故殺したのっ」

 五月蝿い、お前に命令される筋合いはない。

(妹たちを、お願いします)

 五月蝿イ、オ前ニ命令サレル筋合イハナイ――

「答えて、答えてよっ」

 黙れ、静かにしろ。

(いもうと……たちを……)

 黙レ、静カニシロ――

「耕一っ」
(こういち……さん……)

 喧しい。
 喧シイ――



 こコいイつツをヲ黙ダマらラせセろロ――



 身体が熱くなっていく。頭の芯が冷えていく。

 目の前が赤く、朱く、紅く染まっていく――

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「逃走」「追跡」「漂流」「殺戮」「鎮魂」そして今回の「回帰」で終わりです。

 思いっきり趣味に走りました。好き放題やりました。思い残すことはありません。

                                    R/D