鎮魂 投稿者:R/D
 その男の死体は、山道の途中に放り出されていた。

 それは俺の心に何の感傷も引き起こさなかった。死体そのものより、そいつの持ち物の方が気
になった。昔は戦の後、必ず死体から物品を剥ぎ取る奴がいたそうだ。ハイエナの様な奴等。俺
もその仲間入りだ。別に構わない。このままだと生きていけない。金がいる。衣服もだ。目の前
にいる奴は俺にとってそれだけの意味しかない。

 俺は死体から金と持ち物を手に入れた。持ち物の中には衣服もあった。



 公園の公衆トイレで髭を剃った。伸びた髪はどうしようもない。だが、一応これで格好はつい
た筈だ。トイレを出る。公園をゆっくりと歩く。葉をすべて落とした樹木が寒々しい。ベンチに
座っているのは老人と数人の母親。子供が何人かぶらんこで騒いでいる。公園の入り口に手書き
のポスターがあった。

『クリスマスバザール 24日昼から』

 俺は公園を去り、駅へ向かって歩いた。そちらにいけばどこかにホテルがあるだろう。ぼさぼ
さに伸ばした長髪で片腕の男でも、それなりに身奇麗な格好で金を見せれば泊めてくれるかもし
れない。

 ホテルにチェックインできた。住所は出鱈目を書いた。名前は昔の上司の名を借りた。部屋に
入った。フロントからは胡散臭そうな目で見られたが、入ってしまえばこちらのものだ。シング
ルの部屋。すぐ中から鍵を掛ける。この北の街に奴がいるかどうかは分からない。だが、用心に
越したことはない。いつも片腕で済むとは限らない。
 ユニットバス。湯をはる。服を脱ぐ。左腕の付け根を見る。傷口はすでに塞がっている。皮膚
が引きつったようになっている痕。だが、いくら鬼の回復力をもってしても無くした腕は戻って
はこない。

 あの夜。あの高層ビルの夜。自らの左腕を犠牲にして奴から逃れた。屋上から地上まで。落下
の衝撃は相当なものだった。ある程度、鬼の力を解放していても、無傷とはいかなかった。それ
だけの高度差があった。そうでなければ、奴からは逃れられなかっただろう。簡単に飛び降りる
ことができる程度の高さだったら、奴はすぐ追ってきた筈だ。
 落下。俺は意識を失った。樹木の上に落ちたのが不幸中の幸いだった。コンクリートに叩きつ
けられていたら、多分、身動きが取れなかっただろう。意識を失っていた時間はごく短かった。
すぐ気づき、全身を襲う痛みを堪え、現場から遠ざかろうとした。のんびりしてはいられない。
駅へ向かった。途中にあった公衆トイレに駆け込んだ。血だけは洗い流した。目立ってはいけな
い。人の波に隠れろ。あいつから遠ざかれ。

 逃ゲロ――

 ユニットバスに身体を浸す。湯が全身を覆う。筋肉がきしむ。骨が唸る。これだけのんびりと
湯に浸かったのは何時以来だろうか。体内の疲労が一気に吹き出すような気がする。頭を湯船の
縁に預ける。目を閉じる。自らの全身を感じるようにする。
 胸。奴に貫かれた。最初に戦った水門で。その後、水に落ちた。水中で息を吹きかえし、鬼の
力で傷を塞いだ。内臓もやられていた。まともに戦うことはできそうもなかった。だから逃げよ
うとした。その時、気づいた。俺が使った鬼の力に奴が気づき、俺を追ってきたことに。俺の中
の鬼が悲鳴を上げた。必死に気配を隠した。奴は俺の力を見失った。だが、奴は俺の臭いに、同
族の臭いに気づいていた。それを追って、奴はあのマンションへいった。
 右手の指。山の中で奴に追われた時に折れた。動かぬ指で草を掴み、這った。落下と急流。下
流のどこかで岸に打ちあげられた。濡れねずみのまま夜明けの街をさまよった。隠れた。食い物
を盗んだ。次に奴に見つかるまで、そんな風にして逃げていた。
 脇腹。あの少女。奇抜なファッション。ベース。デモテープ。一緒に音楽を聞いた。あの駅前
で。俺を見ていた。貴之のような目で。いや、もっと何か別の思いを込めた目で。気づかなかっ
た。あの娘が殺されるまで。俺はあの少女を利用した。俺は策に溺れた。奴を倒しそこねた。あ
の少女は俺を命懸けで助けた。俺は少女を抱きしめた。奴は何故か動かなかった。少女
は最後に言った。逃げて。
 左腕。少女を置いて逃げた俺はホームレスの間に紛れ込んだ。不況でホームレスの数は増えて
いた。新参者は珍しくなかった。彼らの流儀をまねて、食料を手に入れた。寝床を手に入れた。
闇に紛れたかった。できなかった。貴之が俺を苛んだ。少女の顔が俺を見ていた。俺を問い詰め
てきた。耐えられなかった。気が狂いそうになった。時折、姿を現すチンピラを叩いた。そうす
れば貴之も少女も俺の前から消えると思った。そうはいかなかった。貴之が、少女が交代で俺の
頭の中に現れた。何故、私を見殺しにしたの? 何故?

 全身に溜まった垢を落とす。そう、今でも貴之は、少女は俺を非難している。何故、見殺しに
した? 何故、利用した? 俺が殺した同族の女が言う。あなたは誇り高い狩猟者じゃない。た
だの薄汚い卑怯者だと。俺を追う奴が言う。殺してやる。狩ってやる。

 汚れた湯を捨てる。シャワーを浴びる。身体の汚れは落ちる。心の汚泥は溜まる。昔の俺はこ
んな風に考えることはなかった。平気で嘘をついた。俺を馬鹿にする近所の連中に仕返しをする
ために。奴等を利用しても平気だった。利用した奴等が俺の頭の中に居着くことなどなかった。
ただ、人を殺すことには抵抗があった。臆病だった。その箍が外れたのは、鬼が覚醒した時だっ
た。それからは楽しみのためだけに殺戮をした。興奮を味わうため、同族の女を追った。それが
命取りだった。

 全身の水を拭う。鏡の前に立つ。俺の顔。3ヶ月の逃亡生活ですっかり変わった貌。目は怯え
た小動物のよう。頬はこけ、伸び放題の髪は顔の上半分を覆っている。奴に胸を貫かれ、逃げ出
した時から、俺のすべてが変わった。変わり続けた。俺の中にいる鬼はもうほとんど姿を現そう
としない。殺戮の衝動は、生命の炎を見たいという欲望は消えた。それ以前の俺が持っていた性
質も消えようとしている。すべてに警戒し、猜疑心を持ち、他人を利用することに何のためらい
もなかった俺。父無し子として身につけた性格。貴之の前ではそういう俺が姿を消していた。あ
の少女が殺された後になって、俺は自分のそうした性格を呪った。もう一度彼女に会えるなら、
自分のそうした部分を消してしまおうと思った。

 今や貴之は、少女は、いつでも俺の前にいる。

 髪を後ろで束ねる。まとめた髪をゴムで留める。片手でやり遂げる。服を身につける。ホテル
代を支払ったため、死んだ男から入手した金は残り僅かになっている。それでも食事くらいはで
きるだろう。俺は1階へおり、フロントに鍵を預け、外へ出た。



 空気が冷たい。12月の午後の風。足早にホテルのある丘を下りる。下には商店街。手近な店
に入り、食事を注文する。誰も俺に注目していない。少し前なら、風呂で身体を洗う前なら必ず
嫌そうな顔をする奴がいた。身ぎれいになり、目立たなくなった。人の波に紛れやすくなった。
とはいえ、この薄着はつらい。逃げ回るにはもっと服が必要だ。食事をしながらどうやって服を
入手するか考えた。残金はほとんどない。盗むか。
 食事を終え、壁に張っている酒のポスターを見ているうちに思い出した。さっきの公園で見掛
けたポスター。たしかバザールの宣伝。衣料が安く手に入るかもしれない。俺は立ち上がった。

 公園でポスターを確認し、バザールへ向かう。近くの教会が主催するクリスマスバザール。辿
り着くとそこは主婦と子供で溢れていた。ゆっくりと見回す。教会の敷地にテーブルを広げ、お
そらく信徒から集めたものを並べている。古本、手作りの人形、お菓子、様々な手芸品、衣類。
あった。男物の上着があることを期待して近づく。

「いらっしゃい」

 店番は年配の女性だった。肩からショールをかけ、小さな折畳式の椅子にちょこんと腰掛けて
いる。その前には色とりどりの服が並べてある。俺はうつむいたままいくつか服を手にとってみ
た。やはり子供用のものが多い。こういうところには使わなくなった子供着がよく出てくる。当
然だろう。

「お子さんの服を探してらっしゃるの?」

 声に顔を上げた。年配の女性がにこにこと笑いながら俺を見ている。何の警戒感も猜疑心もな
い顔。純粋な善意だけの顔。俺のすべてを反転させて顔を作れば、こんな風になるのかもしれな
い。
 俺はむりやり笑みを浮かべて答えた。

「私に子供はいませんよ」

 うまく笑えたかどうか分からない。店番の女性はちょっと驚いた様子を見せた。

「あら、ごめんなさいね。でも、何だかやさしそうな目で子供着を見ていたから」
「……え?」
「きっと子供が好きなのね」

 女性はまた笑った。俺は聞いた言葉が信じられず、女性の顔を呆然と見ていた。やさしそうな
目? 何故? 俺は子供着を見ていた時に何を考えていた? 色とりどりの服。小さな服。飾り
の多い服。シンプルな服。

 貴之はいつもシンプルな格好をしていた。夏はTシャツとジーパン。ギターを弾くのにふさわ
しいファッションはこれだと言っていた。あの少女。アクセサリーだらけだった。貴之とは逆。
でも少女もバンドをやっていた。何故、貴之とは正反対だったのだろうか。聞いてみたかった。
彼女も、あの格好がベースを弾くのにふさわしいと思っていたのか。

「じゃあ、貴方の服を探しているのかしら」

 女性が俺に話し掛ける。

「……ええ、そうです」
「……そうね、その格好じゃ冷えるでしょう。ちょっと待っててね、上着がある筈だから」

 女性が立ち上がり、テーブルの上に並べてある服を調べ始めた。やがて、黒いコートが何処か
らか出てきた。男物。大き目の服。

「どうかしら、これは。ちょっと着てみてちょうだい」

 そのままじゃ風邪ひくわよ、ちょっとこれを着て。母の声が何故か浮かんだ。あれは何時のこ
とだったか。それとも、毎年冬になると繰り返された光景だったか。薄着で飛び出そうとする俺
を捕まえ、上着を渡した。俺はそれが嫌だった。周りのガキに馬鹿にされないため、いつも意地
を張っていた。薄着でも寒くない。その程度の意地でも張り通そうとした。それを台無しにしよ
うとする母に腹が立った。いつも喧嘩をした。我が侭を言った。母は悲しそうな目で俺を見た。

「さあ」
「……ありがとう」

 コートを羽織る。問題無い。年配の女性は満足そうに頷いた。金を払ってコートを買った。残
金はほぼ尽きた。

 教会から遠ざかりながら、俺は考えた。母は何故俺を生んだのだろう。



 夕刻。気温は急激に下がっていた。コートのおかげで寒くはない。あの店番の女性の顔が浮か
んだ。ホテルのある丘への坂道。ゆっくりと登り始めた。

 目の前を何かがよぎった。顔を上げた。上空を見る。重く、暗く垂れ込めた雲から、灰色のも
のが降りてきた。それは俺の前を通り過ぎ、頭上を舞い、下に落ち、地面で融けた。雪だった。
母の顔が浮かんだ。母の声が浮かんだ。

 振り返った。登ってきた坂道の向こう。街が広がっていた。黄昏の中、街のあちこちに灯かり
がついていた。その灯かりが街を彩っていた。その彩りが降り始めた雪のなかで滲んだ。

 貴之がいた。俺の前でギターを弾いてみせた。俺に笑いかけた。少女がいた。俺の隣で俺と一
緒に音楽を聴いていた。俺の横顔を見つめていた。母がいた。食事の支度をしていた。まとわり
つく俺に困ったような、それでいて嬉しそうな顔を見せた。

 涙が溢れた。雫が落ちた。俺は泣いた。いつまでも涙を流し続けた。



 腹部に激痛が走った。



 下を見る。腹から数本の尖ったモノが飛び出していた。爪だった。
 振り返る。背後に男がいた。そいつが笑った。そいつの身体が急激に変わっていった。鬼に。
 血が流れる。赤い、朱い、紅い雫が落ちる。

 貴之、俺を許してくれ。

 済まない、名も知らない娘よ。

 母さん……

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 次で終わりの予定です。

                                    R/D