殺戮 投稿者:R/D
 馬鹿な私。

 お父様を失い、お母様を失い、叔父様を失い、貴方まで失って、

 それでどうするつもりだったのかしら。



 大都会。首都。聳える摩天楼。晩秋の風が冷たい。オフィス街の人影は失せ、残った人も足早
に駅へと向かう。人が溢れるプラットホーム。賑わいを増していく繁華街。一方には灯かりが消
えていくオフィスビル。物寂しい車道。そして、暗闇へと沈んでいくオフィス街の公園。だが、
ここには人がまだいる。

 ゆっくりと園内を歩く。女性であれば近づかない方がいい時間帯。男でも臆病な奴なら、慎重
な性格なら避けるであろう場所。暗がりに隠れるように点在するホームレスの拠点と、頼りない
街灯の間を縫うように歩く。密やかな息遣い。俺を物陰から見る視線。この地の住人は他所者を
恐れている。浮浪者狩りと称してやってくるガキ、彼らから何か巻き上げようと隙をうかがうチ
ンピラ、彼らを追い出そうとする警官。

「おい、お前」

 振り返る。どうやらガキだ。人数は4人。こいつらは決して1人では来ない。必ず何人かでつ
るむ。数が多い方が有利だから。相手によるが。

「へへへへ。いい服着てるじゃねぇかよ」

 1人は金属バット、1人は何やら鉄パイプらしきもの。さらに1人がナイフを取り出す。もう
1人も何か獲物を持っている筈だ。無力なホームレスを襲うためだけではない。ある噂を聞いた
から。最近になって住み着いた凶暴なホームレス。ガキをまとめて病院送りにし、チンピラを半
殺しの目にあわせた。このガキどもの耳にも入っている筈。昨日、叩きのめした連中から俺が聞
いたように。あそこにとんでもない奴がいる。あれは鬼だ。

「おう、何とか言えよ」

 情けないことにこいつらは皆、腰が引けている。俺の格好を見れば俺がホームレスでないこと
はすぐ分かる筈だ。俺が噂の男でないことも。それでも何処か怯えた様子は拭えない。それは本
能。誰が危険な存在か、どいつには近寄らない方がいいか。動物が生き延びるために発達させた
智恵が、こいつらの頭の中で危険信号を鳴らしている。
 残念ながら、こいつらは本能を使いこなすには、余りにも人間の社会に、つまらないプライド
に浸りすぎている。俺の正体を本能で察知しながら、噂と風体が異なるという事実だけでそれを
否定しようとしている。愚かな存在。

「おい、答えねぇかっ」

 1人目が痺れを切らせ、鉄パイプを手に近づく。俺は無造作に歩く。そいつは足を止める。も
う遅い。一瞬後にそいつとの間合いを詰めた俺は軽く爪先を踏んだ。醜い悲鳴が上がった。足を
外すと、そいつは鉄パイプを投げ捨てて足を掴んだ。間違いなく骨が折れている。

「てっ、てめえっ」

 2人がまとめて動く。金属バットが頭に振り下ろされる。ナイフが煌く。俺はナイフを掴み、
握り潰した。バットは頭に当たった。捻じ曲がった。

「ひ、ひぃっ」

 2人とも獲物を放り出した。1人の腕を掴む。嫌な音がしてそいつの骨も折れる。もう1人は
そいつを無視して逃げようとする。背後から蹴る。倒れ、蹲ってそいつは吐血する。残ったのは
1人。俺の視線を浴びると奴は手の中にあったものを放り出す。ブラックジャック。ものも言わ
ずに逃げ出す。どうやら本能に従うことにしたらしい。

 倒れ伏す3人のうち、話ができそうな奴を捜そうと振り返る。こいつらが何か知っているとも
思えないが、少しでも手がかりになるなら……。

「ど、どけぇっ」

 背後で声。人間を殴る音。走り去る足音に何かが地面に叩き付けられる音。そして悲鳴。もう
一度悲鳴。二度目は、この世のものとは思われないような。

 狩レ――

 頭の中で喚き声がする。振り返る。倒れたホームレス、その向こうで地面にへたり込んでいる
ガキ。そいつが見上げる先には、街灯の明かりを背景にしたシルエットだけの男の姿。水銀灯の
下、ぬめぬめとした色彩を放つ男の爪が、俺の目を射る。巨大な、赤く染まった爪。腰を抜かし
たガキが腹部を押さえているのが見える。指の間から赤い液体が流れ出してくる。

 狩レ、殺セ――

 声が命じる。全身の血液が沸騰する。骨格が変わる。筋肉が肥大化する。爪が伸びる、牙が生
える、角が聳える。服が裂け、身体中が熱くなる。頭の芯が凍る。

 復讐ヲ、復讐ヲ――

 シルエットの男がこちらを見る。血走った目が俺の姿を捉える。鬼として覚醒しようとしてい
るこの俺を。男は驚愕の表情を浮かべる。

 見ツケタ、獲物ヲ、仇ヲ――

 男は身を翻す。俺は一気に加速する。立ち上がろうとしていたホームレスを弾き飛ばし、腹を
押さえていたガキを蹴り倒し、障害物を壊し、追った。奴を。

 同族を。復讐の相手を。



 あの時、あの駅前で奴に襲われた時、俺の中の鬼が急速に覚醒した。あれほど急激に自分が変
わるのは初めてのことだった。自分にすら予想のできなかった事態。奴はまったく反応できなか
った。終わる筈だった。あそこで俺の復讐が遂げられる筈だった。あの少女が、奴ですら動きが
取れなかったタイミングで紛れ込んでさえ来なければ……。
 だが、その後もチャンスはあった。奴は少女を抱いて何か叫んでいた。周囲の連中は何が起き
たか把握するのに時間がかかっていた。あの瞬間なら、奴を倒せた。殺せた。仇を討てた。

 できなかった。少女の眼が俺を見た。マンションで殺した若い男の眼が、路上で首を刎ねた男
の眼が。何かが俺の中で動いた。麻痺から醒めた。駅前の人間たちが悲鳴を上げ始めた。警察を
呼ぶ声、助けを求める声、人殺しと俺を責める声。

 ひとごろし

 自分を取り戻したのは、路上を流れる赤い血を見た時だった。サイレンの音、動くなという警
告。顔を上げた。警官がいた。逃げた。誰も俺を追ってこれなかった。赤い血。少女が流した。
中年男が流した。若い男が流した。あの女性が、血に塗れ、俺の腕の中で息を。

 復讐ヲ、復讐ヲ――

 奴は姿を見せなくなった。今までよりさらに用心深くなった。必死に捜した。あらゆる場所で
あらゆる人に聞いて回った。この男を知らないか。この男を見たことはないか。誰も頷かなかっ
た。誰も肯定しなかった。奴は消えた。
 噂を集めた。鬼のように強い奴の噂を。そいつらを見て回った。全部別人だった。怒りを抑え
られなかった。その連中を叩きのめした。血塗れにした。ヤクザ、力自慢、狂人、皆最後は俺に
這いつくばって許しを請うた。虚しくなった。力が抜けそうになった。すると、必ず俺の眼に赤
い血の色が飛び込んできた。

 狩レ、殺セ――

 頭の中に声が響く。五月蝿い。俺が叫ぶ。やがて、俺を見るだけで逃げ出す奴等が現れた。何
時の間にか、俺自身が噂の対象になっていた。鬼。鬼のように強く、無慈悲で、恐ろしい男。時
間だけが経過した。秋は終わろうとしていた。そして

 そして、やっと奴を見つけた。



 奴は公園を抜け、比較的広い通りに出た。何処で手に入れたのか、古いトレンチコートを翻し
て走る。足元はスニーカー。俺も走った。奴の背中だけに狙いを定めて。何度も取り逃がしてき
たこの機会を、今度こそは逃さぬ様に。男が振り返る。街灯に照らされ、男の顔がはっきりと見
える。無精ひげに覆われ、髪が長く伸びた男の顔。眼鏡はなく、写真より痩せこけている。初め
て見たなら写真とは別人と思うかもしれない。だが、俺には分かる。同族の臭い。同族の気配。
今まで何度も、俺の前から逃げ出した男。恐怖と、死にもの狂いな何かに取りつかれた眼。

 奴が歩道橋を駆け上がる。足元に力を入れる。跳躍。階段をすべて飛ばし、一気に奴の背後に
辿り着く。奴が肩越しに俺を見る。手を伸ばす。逃げられはしない。奴の肩を捉える。これで終
わらせる。

 奴の身体が跳ねた。俺が捕まえた肩を軸に奴の身体が回転する。俺の腕が奴の体重で捻じられ
る。手が緩む。奴が片手で俺の手を外す。奴の身体が宙に舞う。下は車道。逃げられる。怒りの
声をあげ、俺も跳躍する。車道へと着地。背後から轟音が響く。振り返ると、高速で走る大型ト
レーラーが俺に真っ直ぐ突っ込んできた。運転手の顔が歪む。俺は腰を落とした。

 爆発。炎上。

 殺ス、殺ス、殺ス――

 頭の中で声が喚き続ける。赤い、朱い、紅い炎が俺の眼を射る。あの女性の死に顔に纏わり着
いていた赤。腹の底からどす黒い何かが沸き上がる。頭が冷え冷えとしてくる。俺は雄叫びを上
げる。

 グオオオオオオオオオオオオオオオオオ

 炎上するトレーラーに照らされ、辺りは昼のように明るい。巻き込まれた車両がさらに爆発す
る。俺は奴の気配を探る。あそこだ。あの高層ビル。奴はあの中に入った。歩き出す。トレーラ
ーと接触した際に折れた腕の骨が治り始める。傷口が塞がる。鬼の治癒力。俺を殺すことなど誰
にもできない。

 そう、今の俺はこの世界で最強の生物だ。



 1階のロビー。最上階まで続く広大な吹き抜け。遥か頭上に巨大なオブジェがぶら下がる。奴
は何処だ。周囲を見回す。このフロアではない。もっと上。吹き抜けを見上げ、気配を探る。臭
いを追跡する。
 見つけた。10階。誰かが階段を上っている。腰を落とし、脚部に力を貯める。鬼の筋力、い
かなる動物も敵わないその力を集め……解放する。俺の身体は宙に舞い上がり、吹き抜けに面し
た10階の廊下に音もなく着地する。周囲をうかがう。左手にはエレベーターホール。正面には
いくつものオフィス。右手に、階段。気配がそこから正面の部屋へと動いてくる。俺はゆっくり
とそちらへ歩く。

 壁。その向こうにどこかの企業のオフィス。誰もいない筈の時間。なのに人の臭い。
 壁。壁の向こうに人。立ち止まり、辺りの様子を見ている。壁からの距離は短い。
 壁。その向こうに存在する者。俺は右手を後ろに引く。そして
 壁をぶち抜き、その向こうにいる人間をぶち抜く。

 音にならない悲鳴。おかしい。俺は右手を引き戻す。崩壊する壁と一緒に警備員の制服を着た
男が、男の死体が廊下に飛び出した。血に塗れた帽子が黒々と俺の眼に映る。俺の爪は男の胸を
貫いていた。違う。奴ではない。あいつはいまだに鬼の力を抑制している。俺に捉まらないため
に。そうなると他の人間と気配の区別がつき難い。

 追エ、狩レ、逃ガスナ――

 再び耳を澄ます。呼吸を抑える。全身の神経を研ぎ澄ます。身体の熱を下げようとする。激し
く全身を巡る血流を静める。冷え冷えとした頭の中で、五感から取り込む情報を分析する。外で
未だに炎上する車両。崩壊した壁の残響。このフロアへ駆けつけようとする警備員。何かを引っ
かく音。消防車両、警察車両のサイレン。
 もう一度吹き抜けに面した廊下に出る。ここならビル全域の気配を集め易い。全神経を集中し
て奴を捜す。

「い、いたぞーっ。あれだっ」

 見上げると4階ほど上に警備員が鈴なりになっている。俺を指差し、喚いている。

「警察を呼べっ」
「う、動くな。そこで動くんじゃないぞっ」

 再び跳躍。奴等の目の前に姿を現す。手すりの上に立ちはだかるその姿に、警備員たちが怯え
て後退する。鬼の姿。人の原初的な恐怖を呼び起こす形。本能を信じる者ならすぐ逃げ出すこと
を考える。だが、人は違う。本能が歪められた生物である人は、もっとつまらない判断を下す。

「ち、畜生っ」

 一人が警棒を振り上げた。俺は無造作に振り上げた腕を落とす。警備員の頭が熟した果実の様
に砕けて割れる。残りの連中は声もなく立ち尽くす。首から上がなくなった男は、しばらく絶妙
なバランスを保った後、ゆっくりと前のめりに倒れる。べしゃっという音を立てて男の体が横た
わった瞬間、周囲にいた警備員たちが悲鳴を上げ、逃げようとした。

 狩レ、獲物ヲ、狩リ尽クセ――



 赤。赤い血。あの女性の腹部から流れていた血。あの女性の顔を彩っていた血。

「ばかな……わたし……」

 赤。あの女性の命が失われていく印。生命の炎が揺らぎ、消えようとする証。

「おとうさまを……うしない……おかあさまを……うしない……おじさまを……うしない……あ
なたまで……うしなって……」

 赤。俺の手についた血。俺の身体についた血。あの女性を抱いた俺についた血。

「それで……どうする……つもりだったの……かしら……」

 赤。命が消える。あの女性が俺を見る。その眼が、血の赤に塗りつぶされていく。

「こういち……さん……」

 赤。俺は赤一色に染まった廊下に立ち尽くしていた。周囲には死体、死体、死体。廊下は血に
染まっていた。

 復讐ヲ――

 サイレンの音が響く。警察車両がこのビルを取り囲んでいる。中で何かが起きていることに、
ようやく気づいたらしい。1階ロビーから複数の人間が出す物音が響いてくる。

 奴ヲ追エ、奴ヲ狩レ、奴ヲ追イ詰メロ――

 吹き抜けを見上げる。かすかな音。正面上、2階ほど上のフロアの吹き抜けに面した廊下。そ
こで物音がした。僅かだが、確かに。

 俺は再度跳躍した。刹那、上から殺気が襲ってきた。

 見上げる俺の視界を、吹き抜けの最上部にあったオブジェが覆い尽くしていった。



 轟音。俺は1階の床に叩き付けられた。上からオブジェがのしかかる。巨大な質量がビルを揺
する。全身に衝撃が走る。腕が、脚が、胴体が、頭部が、重量に押しつぶされる。悲鳴。叫喚。

 奴は、最初からこれを狙っていた。あのオブジェを俺に叩き付ける。そのために警備員を囮に
使い、自分は最上階まで行って機会をうかがっていた。途中で俺の耳に入った何かを引っかく音
は、奴がオブジェを切り落とす準備をしていた音に違いない。そして、俺をオブジェの下におび
き寄せた。吹き抜け越しに跳躍を繰り返していた俺は、奴の策略に好んで乗っかったようなもの
だ。

 誰かの声がする。警官。やつらはオブジェ崩落に巻き込まれた人間を助けようとしている。他
にも救急車両の音、悲鳴、野次馬の声、呟き……

 呟き?

「……これで終わる……かゆき、これで……奴もきっと……」

 あの男の、同族の、仇の声。遥か最上階から届く声。赤い。目の前が赤い。

 狩レ、殺セ――

 俺の身体が瞬時に治癒した。俺の肉体は巨大なオブジェを一瞬の内に跳ね除けた。俺の脚は刹
那に俺を最上階へと導いた。

 遥か下で再び悲鳴が起こる。俺が跳ね飛ばしたオブジェが再度落下し、また誰かが巻き込まれ
たのだろう。だが、俺にはどうでも良かった。俺にとっては目の前にいる男の方が大事だった。

 男は逃げ出した。同族の悲鳴が聞こえた。恐怖の撒き散らす臭いがした。俺は奴を追った。ゆ
っくりと。ゆっくりと。



 屋上。奴は追い詰められていた。仇。あの女性の仇。俺が追い続けてきた男。

 殺セ――

 近づいた。奴の眼が恐怖に見開いた。少女の眼、中年男の眼、若い男の眼。思い出した。思い
出しただけだった。俺の中の何かは、麻痺したままだった。死体の眼を見るたびに呼び覚まされ
てきた俺の良心は、冷え冷えとした頭の中で凍りついていた。ただ、声だけは続いていた。

 殺セ――

 奴は金網を背にしていた。俺は奴に向かった。奴は歯を食いしばった。一歩一歩接近した。奴
が金網に手をかけた。

 殺セ――

 笑みが自然と浮かんだ。逃げられはしない。奴はもう俺の手の内だ。俺の獲物だ。誰にも渡し
はしない。逃がしはしない。目の前が赤く染まる。

 殺セ――

 奴が金網を乗り越えた。そのまま宙に飛び出そうとする。遅い。俺の右手が金網を突き破り、
奴の左腕を捕まえた。奴が慌てて俺を見上げた。逃がしはしない。お前を殺すのは俺だ。復讐す
るのは、仇を討つのは俺だ。赤い血に塗れ、生命の炎を最後に輝かす。俺はそれを見届ける。

 殺セ――

 奴が右手の爪を出した。そうだ、それでいい。お前に残された道はそれだけだ。最後に俺と戦
う。それしかない。そうすれば最後の炎もさらに美しく燃えるだろう。

 狩リヲ、狩猟ヲ――

 奴は右手を構えると



 自らの左腕を切り落とした。



 残された左腕を掴んだまま、俺は風に晒されていた。
 信じられなかった。奴のしたことが。自分がまた失敗したことが。
 頭の中が凍りついていく。身体が熱くなる。目の前が赤くなる。

 俺は叫んだ。闇の中に消えていった奴に。俺が殺した奴等に。あの女性に。人間どもに。

 復讐ヲ、狩リヲ――

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 お気づきでしょうが、「逃走」「追跡」「漂流」に続く作品です。つまり連作ですね。

 もう暫く続く予定です。

                                    R/D