漂流 投稿者:R/D
「ねぇ、どうしたの?」

 声がした。俺はゆっくりと顔を上げた。奇抜な格好の女がいた。

 カラフルに染め分けた髪。それを子供の様に2房に束ねて下ろしている。革製のジャケットを
羽織りその下にピンクのタンクトップ。もうかなり涼しくなったのに、タンクトップの裾を絞っ
てへそを出している。下は迷彩の入ったパンツ。アーミーブーツ。服のあちこちに、腕に、ひか
りものを飾り立てている。
 放っといてくれ。そう答えようとした俺の目に飛び込んできたのは女が肩に背負った荷物。ギ
ターケース。黒い革に包まれた楽器の形。あのマンションでよく見たもの。貴之。

 ゆっくりと立ち上がる。膝の力が抜けそうになるのを堪える。女は妙な目で俺を見ている。ギ
ターケースが揺れる。無理に笑みを浮かべて見せる。

「何でもない。気にしないでくれ」

 女に背中を向けて歩こうとする。目眩がする。膝が崩れる。

「ちょ、ちょっと、大丈夫っ」

 女の声。身体に手が回される。首筋に息がかかる。俺を支えようとした女の顔が、目の前に迫
る。思ったよりも幼い、張りのある肌。女の目が俺の視線を捉える。気づいた。まだこれは少女
だ。
 絶妙のタイミングで俺の腹の虫が鳴った。俺を見ていた少女が吹き出した。



 奴の追跡はなんとか躱した。あの工場地帯から逃げ出した俺は、すぐにあの町を離れた。奴か
らできるだけ遠ざかりたかった。追ってくる気配はなかった。同族の気配。鬼の気配。町から十
分離れたところで、俺は大きなため息をついた。また生き延びた。

 俺の中の狩猟者は、人間である俺の感傷など気にも留めなかった。貴之。俺が見殺しにした。
貴之がいない。なのに生き延びてどうする。そう思っていた。だが、狩猟者は許さなかった。決
して俺が諦めるのを見逃してはくれなかった。何としてでも生き延びようとしていた。

 逃ゲロ――

 あの水門での戦い以来、俺は鬼の姿になることはなかった。奴に見つかった時を除けば、鬼の
力を発動することも控えていた。俺の中の狩猟者がそうしていた。うっかり力を使い、奴にそれ
を察知されれば、ろくでもないことになる。鬼は俺を嘲ることもしなくなっていた。理性の檻か
ら逃げ出そうと暴れることもなかった。そう、精神的には暫くぶりの平安がもたらされていた。

 隠レロ、逃ゲ延ビロ――

 だが、肉体的には事態は最悪になっていた。逃亡生活に加え、鬼の力が使えなくなったことで
疲労が蓄積した。怪我はほとんど治っていたが、体力は擦り減っていた。何より、金が尽きた。
俺は空腹に苛まれていた。

「ほらほら、そんなに慌てて食べなくても食い物は逃げやしないって」

 少女が笑う。束ねた髪が揺れる。街中のファーストフード。セットメニューを2つ、小さなテ
ーブルに置き、貪った。久しぶりのまともな食事だった。何処に行っても変わらないメニュー。
どの店でも似たような味。普段であればすぐに飽きる味。今は最高の美味に思えた。年下に奢っ
てもらうことも気にならなかった。プライドより食事だ。

 プライド? 俺を頼っていた、守ろうと思っていた者を見捨てた男にプライドだと? お笑い
種だ。

 食事が片付いた。少女はテーブルに肘をつき、両掌で顔を支えながら、下から覗き込むように
俺の目を見た。腕の飾りが音を立てる。

「……俺の顔に何かついてるか」

 少女の目が見開かれる。次に少女は弾けるように笑い出した。

「すごいすごい。そんなありがちな台詞、本当に言う人がいるとは思わなかった」

 一通り笑った後で少女はそう言った。両手をテーブルに乗せ、身を乗り出すように俺の方を見
ている。口元にはいかにも楽しそうな笑みを浮かべ、俺を見る目には好奇心という文字が浮かび
上がっているかのよう。その瞳には俺の薄汚れた姿が映っている。
 無精ひげもかなり伸びた。髪も脂じみている。服装も奴から逃げ出したあの町で着替えて以来
着の身着のままだ。道端に座り込んでいた姿は、そろそろホームレスに見られても仕方がない。

「ねえ、何であんなとこにいたの?」

 少女が俺の目を覗き込む。堪え切れないかのような微笑が口元に浮かんでいる。他人に、人間
に対する興味を抑えきれない、そんな様子。知ることが時として反作用を招き入れることに気づ
いていない幸せな存在。無防備な人間。

「……ねね、何であんなとこで座り込んでたの?」
「腹が減ったからだ」

 少女の目が大きく見開かれる。分かりやすい表情。コロコロと変わる表情。わざとらしいほど
大げさに頬を膨らませる。

「……ちょっとーっ。そういうことじゃないでしょ」
「…………」

 腕を組んだ少女が俺を睨む。表情を消して少女を見る。

「……ふーん。黙秘するの。そ、れ、じゃ」

 少女は顔の横で指を一本立て、俺にウインクをした。

「食事代、ちゃんと払ってもらおっかなー」

 そんな仕草をする人間が現実世界にいるとは思ってもみなかった俺は、虚を突かれて思わず
声を上げた。

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 自分でも情けない声だと思った。少女の顔に急速に笑みが広がる。笑いが跳ねる。

「嘘、嘘。やっだなー、本気にしないでよ」

 笑い転げる少女。俺の頭の中に疑問が浮かぶ。何故、こいつは俺に声をかけたんだ?

「……それはギターか?」

 心の中で思っていることとは違うことを口にする。昔からそうだった。父親がなく、母の手だ
けで育てられた子供時代から。俺を嘲る近所のガキから身を守るため。表立っては普通に接しな
がら裏では母の悪口を楽しそうに話す隣人を騙すため。警察に入って、この能力に磨きがかけら
れた。

「これ? 違うよ、これはベース」
「ベース?」
「そう」

 少女の顔が輝く。自分が興味を持つことを話せる、その喜びが伝わってくる。正直なやつだ。
他人にすぐ心を読まれるタイプの人間。俺とは正反対の人間。隠し、ごまかし、偽り。そうした
ものに縁のない人間。

「バンドやってるんだ。ヘビメタだよ。ね、メタルは好き?」
「……すまん。あまり聞いたことはない」
「あ、じゃあさ、ちょっと聞いてみてよ。ほらこれ」

 少女は鞄を探り、MDプレーヤーを取り出す。中のテープを確認すると、手を伸ばして自ら俺
にヘッドホンを被せた。

「うちのバンドのデモなんだ。今度、ライブでこれやるんだよ」

 スイッチが入る。耳元で下手くそな音ががなり始める。一応、スタジオで録ったのだろう、音
質はいい。それだけに演奏の荒さが目立つ。少女は目を輝かせて俺を見ている。そうすれば俺と
一緒に音楽が聞けるとでも思っているかのよう。その目を見て、思い出した。

 貴之の目。ギターを弾いてみせた時、俺に見せたあいつの目。

 俺は思わず目を逸らした。窓の外。店に入ろうとする人の影。



 俺の目はその人物に釘付けになった。頭が目まぐるしく動く。何故、ここに彼女が。



 思わず席を立った俺を見て、少女が首を傾げる。

「ねぇ、どうしたの?」

 少女を見る。俺の動きに驚いた顔。疑問。好奇心。何を考えているかすぐ分かる顔。

「あ、ああ。ちょっとトイレに行きたいんだが」
「あははは。なら最初からそう言えばいいのに」

 ヘッドホンを外し少女に渡す。後でまた聞いてねという声を背中に、階段へ向かう。トイレに
行くふりをして階下を伺う。カウンターの前に窓から見た女がいることを確認する。注文した商
品が来るのを待っている。ここで食べるつもりらしい。俺はトイレに入った。

 柏木梓。俺が見つけた女の名前。鶴来屋前社長の死去に当たって調べた柏木家の関係者の中に
あった名前。会長になった女の妹で、確か高校3年生だった。前社長死去によって利益を得る人
間とは思われていなかったし、警察の捜査対象からは早々に外れた筈だ。だが、簡単なプロフィ
ールは記憶にある。この街とは縁もゆかりもない。なのに何故ここに現れた……。



 個室に入り、懐に手を入れる。一文無しになった最大の原因を取り出す。睡眠薬。かなり強力
なものだ。これの為に大枚を失った。だが、俺には必要なものだった。

 俺の中の鬼が静かになってから、色々と考えた。奴のこと、貴之のこと、俺のこと、狩猟者の
こと、人間のこと。俺の中にいる鬼は自分を狩猟者だと言っていた。狩猟者として獲物を狩れと
俺を嗾けた。奴を前にすると態度が変わった。敵わない、勝ち目はない、逃げろ。それまでは獲
物を前にした肉食獣のように振る舞っていた。奴に出会った後、俺の中の鬼はただ逃げ惑う哀れ
な生き物と化した。
 そう、ただの動物ならそれもいい。いや、相手の力量を見抜き、勝てないなら逃げようとする
のは動物にとっては不可欠の能力だ。だが人間は違う。勝てない相手に対しては策を弄しようと
する。逆に、勝てないと分かって敢えて戦い、自殺することもある。そう、人間なら。
 奴には勝てない、まともにやっても。なら、まともでないやり方をするしかない。勝つために
工夫するしかない。俺は人間だ。ただの動物、ただの狩猟者ではない。それを確かめるために、
俺の中にいる鬼にそのことを思い知らせるために、俺は奴を倒さなくてはいけない。諦めて殺さ
れるのを待っていても、俺の中の鬼はそれを許してはくれない。だけど俺の中の鬼には奴を倒す
力はない。ならば人間である俺が奴を倒すしかない。俺が貴之の仇を討つしかない。

 柏木梓。奴の従姉妹。あの女がここに来た理由は? 旅行ではない。受験生がこの時期にのん
びり旅行をするとは思えない。知り合いを訪ねてきたのか。この街に知り合いはいない筈だ。少
なくとも俺が警察であの件を調べていた時にはいなかった。ならば何故? そう、その後になっ
てこの街に知り合いができたのだ。知り合いがこの街に来たのだ。それも、彼女が受験勉強を放
り出しても会いに来たいと思うほどの知り合いが。

 そうだ。柏木耕一。奴は、この街にいる。

 トイレから出る。席をうかがう。いた。隅のカウンター席に腰掛けている。一心不乱に食い物
を咽喉に流し込んでいる。ここで待ち合わせではなさそうだ。単に空腹を満たすためだけに入っ
たのだろう。ならばいい。俺はできるだけさりげなく少女の席に戻った。柏木梓がこちらを見る
様子はない。たとえ見ても他人の影に隠れることはできそうだ。

「ね、どうしたの? なんだか恐い顔して」

 少女の声が響く。妙に大きな声。心臓が跳ねる。柏木梓は……気づいていない。

「いや、何でもないさ」
「そう。じゃ、も一回最初から聞いてね」

 少女がヘッドホンを差し出す。俺はその手を掴む。少女が驚いた顔で俺の手を見る。これから
が重要だ。あの女に気づかれないよう、この少女を説得しなくては。

「実は、頼みがあるんだ」
「え?」
「大事な頼みだ。本当はこんなことを民間人に頼むのはいけないんだが、事態が切迫している。
無理は承知でお願いしたい」
「え、え、え」

 少女は目を白黒させている。掴まれた手をぼんやりと眺めている。もう一度呼びかけた。少女
の目が俺の方を向く。目に微かな怯えが浮かぶ。疑われてはいけない、警戒されてはいけない。
俺は精一杯の笑みを浮かべ、少女の手を両手で包み込んだ。少女が息をのむ。

「俺は、ある男を追っている。と言うより、泳がせていると言った方がいいか。本来ならすぐに
捕まえても構わないんだが、色々と事情があってね」
「…………」
「その男は特異体質でね。一定時間ごとにある薬物を飲ませないとまずいことになる。ただ、そ
のことは本人には知られてはいけない。その体質があるからこそ、我々はその男を泳がせている
んだ」

 畳み掛ける。内容は出鱈目だが、問題はそんなことじゃない。こういうものは話す側の雰囲気
次第でいくらでも相手を信用させることは可能だ。そう、ガキの頃からやってきたように。心に
もない言葉を並べ、相手を油断させ、信用させる。与しやすいと思わせ、その後で遠慮なく叩き
のめす。俺の生まれを蔑んだ奴等を、俺はそうやって這いつくばらせてきた。

「ただ、今はちょっとまずいことになっている。薬物をその男に飲ませる担当の男がトラブルに
巻き込まれてしまったんだ。俺がなんとかしなきゃならないんだが、俺はその男に顔を知られて
いる。その男に警戒されることは間違いない」
「あ、あの」
「何とかして薬を奴に投与しなくちゃならない。そうしないと人命に関わるんだ」
「じ、人命……って」

 ごまかせ、丸め込め。今までそうやってきたように。
 少女の目を正面から見る。必死になっている様子が伝わるように。俺の視線に射すくめられ、
少女の頬が染まる。

「君に、手伝ってもらいたい」
「…………」
「やり方は俺が教える。彼に会って、何とか薬を飲ませてほしいんだ。無茶な願いだっているの
は承知している。断りたければそう言ってくれ。でも、俺には他に頼れる人がいないんだ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、そんなこといきなり言われたって……」

 少女の手を握る手に力を入れる。少女は俺の手を見る。瞳が僅かに潤む。その目が俺の目に向
けられる。かすかに開いた口からなにかが漏れる。色とりどりの髪、ちゃらちゃらと音をたてる
服。俺はわざとらしくため息をつく。

「……そう、だな。無茶を言った。忘れてくれ」
「え、そ、その」

 少女の目が揺らぐ。唇を噛む。うつむいてテーブルを見つめる。トレイの上に乗った残骸。く
しゃくしゃの紙、氷が残るコップ。重要なタイミング。横目で柏木梓を見る。そろそろ食事が終
わりそうだ。

「自分で何とかするしかないな。悪かった、飯まで奢ってもらったうえに変なことを言って」
「あ、あの、別に手伝わないって訳じゃ……」
「いいんだ。それじゃ。飯、旨かったよ。と言ってもこんなファーストフードじゃ……」
「待って」

 少女は俺の目を見た。その瞳に決意が宿る。

「……やり方を、教えて」

 あっけない。実に簡単だった。正直すぎる、素直すぎる、他人をあまりにも疑わなさすぎる。
こんなにあっさり誑かせるとは。

 貴之の顔が浮かんだ。



 柏木梓は繁華街を歩いていた。俺が追けていることには気づいていない。俺の後ろには暫く離
れて少女が付いてきている。少女には俺を尾行しろと言った。素人に他人を尾行させる訳にはい
かない。気づかれればそれまでだ。何としても柏木耕一にたどり着かなくてはならない。そうし
なくては、これまでの準備が水の泡になる。危険は犯せない。

 柏木梓はゆっくりと歩いている。時間の調整をするかのような動き。夜の繁華街。人々で賑わ
う道。時折足を止めて、近くの店を冷やかす。若い女性が帰宅する前によく見せる行動。だが、
時間が経つにつれ柏木梓の顔が厳しさを増してくる。何かしら思いつめた表情。間違いない。女
は必ず奴と会う。何処かで必ず奴と待ち合わせている。

 繁華街を抜けて駅前へ。時間はそろそろ午後8時。駅ビルの入り口にたどり着くと、柏木梓は
周囲を見回した。ここだ。ここに奴が現れる。俺は合図を送った。少女がゆっくりと俺に近づい
てくる。遠くから見ても顔が強張っている。まずい。駅ビルから見えないところに少女を誘導す
る。歩き方までぎこちない。

「緊張しているのか?」
「あ、え?」

 声が裏返っていた。正直すぎる、素直すぎる、考えていることが表に出すぎる。人選を間違え
た。だが、やり直している暇はない。何とかしてこの娘を使えるようにしなくてはいけない。柏
木梓の様子を伺う。ビルの壁に凭れ、周囲にぼんやりと視線をやっている。まだ多少なら時間は
ありそうだ。少女を見る。

「……もう一度、聞かせてくれないか」
「えっ?」
「君たちの曲さ。もう一度聞かせてくれ」

 少女は慌てた様子で鞄を探る。取りだそうとしたMDプレーヤーが引っかかる。手を貸した。
ヘッドホンが姿を現す。耳に付ける。片方だけ。もう一方は少女に手渡す。少女が困ったような
顔で俺を見る。俺はもう一度それを手に取り、少女の耳にあてがう。

 曲が再生される。相変わらず下手くそな音楽が響く。俺は少女と一緒にその音に耳を傾ける。
自然と身を寄せ合う格好になる。少女がゆっくりと息を吸う、息を吐く。夜の中にくすんだ髪の
毛が俺の視界で揺れる。束ねた髪の片方が俺の顔に触れる。音楽は鳴り続ける。少女が俺の横顔
を見る。曲の終わりが近づく。少女は視線を外さない。かすかに身につけた装飾品が鳴る。

 少女が鞄から何かを取り出した。写真。視線を落とし、口元を引き締める。写真に写っている
のは一組の男女。幼いころの少女と、どこか少女に似た青年と。

 曲が終わる。少女を見る。間近にある顔を。貴之の顔が浮かぶ。少女が写真に目を落とし、呟
く。

「私の兄さん。もう何年も前に事故で死んじゃったけど」

 少女が写真から目を上げる。俺を見る。写真を見ていたのと同じ目で。写真に向けた視線とは
違う、ある想いを込めた目で。

 視界の隅で柏木梓が壁から身を起こす。俺はゆっくりと少女を促し、物陰に隠れる。改札から
奴が出てくる。

 柏木耕一。鬼。貴之の仇。



 夜の駅前。家路を急ぐ人、これから騒ごうという若者、塾帰りの子供。人々の波の中で一組の
男女が話をしていた。女が問い質し、男が答える。納得していないのか、女の方が詰め寄る。男
は黙って話を聞く。女の長広舌。暫く沈黙していた男が口を挟む。女が一瞬、黙り込む。見る見
る柳眉を逆立て、さらに男を問い詰めようとする女。さらに男が一言。空気が変わる。その一角
だけ殺気が満ちる。女を一言で黙らせた男の目が、何故か赤く見える。女は唇を噛み締める。視
線を落とす。男は何も言わない。女はやがてバッグを開け、封筒を男に手渡す。男は黙って受け
取り、懐に入れる。女が俯いたまま何か話す。男は短く答える。女がはっとしたように顔を上げ
る。瞳から涙が溢れそうになっている。男は再び短く話す。先ほどと同じ唇の動き。女の表情が
歪む。男は何も言わない。女が叫ぶ。走り出す。街灯の光が女の目から落ちた雫を輝かせる。男
は女の方を振り向きもしない。女は駅へと駆け込んだ。

 ありがちな修羅場。だが、これで条件が整った。奴は一人だ。俺は少女を見た。唇を噛み締め
ている。今、あの場を去った女のように。少女の肩を抱く。頷きかける。少女は俺の目を見る。
あの女が、奴を見たのと同じ目で。貴之。少女が歩き出す。鞄とギターケースは俺が預かってい
る。色とりどりに染め分けた髪、革のジャケット、絞ったタンクトップ、迷彩のパンツ。いささ
か問題の多い格好。今更どうしようもないが、できれば何とかしたかった。後は奴がうまく騙さ
れてくれるよう、祈るしかない。奴を倒すために。

 そう、奴を倒すには策を用いるしかない。気づかれないように近づき、油断しているところを
襲う。口で言うのは簡単だが、実際にはとてつもなく難しい。同族の気配を消せば、俺の中にい
る鬼が黙り続けていれば、近づくことはできるかもしれない。だが、奴を襲う時には鬼になるし
かない。一瞬にして殺せばいい。だが、それは不可能だ。こちらが鬼を発動して奴を襲えば、奴
も鬼になる。逆襲を受ける。勝ち目はない。
 奴が逆襲できないようにする。それしか手はない。そのうえで奴を倒す。そのための睡眠薬。
奴にこれを飲ませることができれば、奴の動きを止められる。そうすれば勝ち目も出てくる。

 少女が男に話し掛ける。片手には何やらサンプル用といった小瓶を持ち、片手にメモとボール
ペンをぶら下げて。俺は少女に言った。健康飲料のアンケートをしている。ついてはこれを飲ん
で感想を聞かせてもらえないか。そう言ってこの男に薬を飲ませろ。話を適当に聞いたらそれで
終わり。礼を言って立ち去ればいい。難しくはない。
 あんな奇妙な格好をした調査員がいる筈がない。奴がそう思えば失敗だ。だが、アルバイトだ
ろうとでも判断してくれれば、飲むかもしれない。俺は固唾を飲んで様子を見た。貴之。

 奴が小瓶を受け取った。中身を空けた。少女がメモを取っている。男の身体が揺らいだ。

 俺は男の背後から近づいた。貴之。祈ってくれ。



 奴が膝をつく。少女が吃驚した顔で俺を見る。奴までの距離を目で測る。貴之。守ってくれ。

「………っ」

 少女が何か俺に向かって叫ぶ。奴が意にならない身体で振り向こうとする。俺の爪が伸びる。
鬼の力が漲る。あと少し。俺は右手を振り上げる。

「………っ」

 少女が俺を見る。貴之。何かを訴えるように。幼い顔が必死に何かを伝えようとしている。ペ
ンもメモも取り落としている。少女が手を伸ばす。俺に向かって。貴之。

「………っ」

 奴の背中。貴之の仇。少女の声。爪が狙いを定める。何故か、人のざわめきが耳に入る。腕を
振り下ろす。奴の背中。消えた。

「駄目ぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ」

 激痛が走る。脇腹。俺の中の鬼が悲鳴を上げる。視界の隅に奴が立つ。右腕が俺と同様に鬼化
している。先ほどまでの様子からは信じられないほど俊敏な動き。脇腹の痛みが強まる。

 逃ゲロ――

 鬼が叫ぶ。奴が叫ぶ。間合いを詰められる。奴の口元に浮かぶ残忍な笑み。俺は策を弄した。
そして多分、策に溺れた。俺の中の鬼は麻薬によるダメージを一切受けなかった。奴も俺の同族
だ。たかが睡眠薬程度で動きを抑えられる筈がない。

 奴の爪が俺を狙って伸びてくる。貴之。俺は動けなかった。人間としての俺の戦いは、あっけ
なく終わろうとしていた。

「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 奴の爪は、俺のもとまで届かなかった。奴の爪は、少女の身体を抉っていた。



 貴之、貴之、俺を許してくれ、俺を蔑んでくれ。俺は嘘吐きだ。そうだ、昔からそうだった。
お前を守ると言いながら、お前を見捨てた。あのヤクザにやられた時も、あの夜明けも、そして
今も。

 少女の身体が傾いていく。俺は必死に彼女に抱きつく。悲鳴と怒号。人の集まる駅前での殺人
劇。少女の身体が俺の腕に吸い込まれる。幼い顔が俺を見る。ギターを弾いてみせた、デモテー
プを聞かせてみせた、その時、得意そうに輝いた目が、俺を見た。

 奴の爪が唸った。楽器の砕ける音がした。ベース。少女の自慢の宝物。弦が弾ける。

 染めた髪、束ねた髪、革ジャケット、タンクトップ、パンツ、ブーツ。

 赤く、朱く、紅く染まった少女の顔。

 た・か・ゆ・き

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「カーラ。おれのために歌ってくれ」     ――馳星周『漂流街』

                                    R/D