追跡 投稿者:R/D
 夜が明けるまで、俺はあの女性の死体を抱きしめていた。腹部を貫かれ、大量に出血していた
彼女が息を引き取ったのは何時だったか。ただ、その呼吸が途絶え、心臓が血液を送り出すのを
止めてからも、俺は長いこと彼女を抱いていた。

 一生懸命話しかけたのは憶えている。内容は記憶にない。

 ひたすら謝ったことは確かだ。何を詫びていたのかは忘れた。

 死に顔に纏わりつく血の紅は脳裏に今も鮮やかだ。だが、その顔ははっきりとしない。



 田舎町。隆山と変わらぬ町並み。温泉がなく、土産物屋が見当たらず、騒がしい観光客がいな
いことを除けば、ほとんど区別がつかない。都会では貴重な広々とした空間。見上げる空を遮る
建築物はない。遠方まで視界が届く。その中に俺が追う男の姿はない。
 のどかな空気。気持ちのいい秋晴れの午後。多分、どこにでもある風景。軒並み俗化が進む観
光地ほどでなくても、その地域独特の臭いを残す場所は、この国からは姿を消しつつある。何処
へ行っても似たような建物。何処へ行っても同じ標識。何処へ行っても変わらぬ人々。同じテレ
ビ番組の話をし、同じ事件を話題に乗せ、誰もが景気が悪いという。同じ世界、同じ世間、同じ
関心、同じ言葉、同じ感想、同じ結論。

 他人と変わらない、安心できる世界。俺が最早入り込むことができない世界。

 道路脇のバス停に人が蝟集している。ベンチに深く腰を下ろした老人、姦しく話す女子高生、
熱心に漫画を読む子供。屋根付きのベンチに集まった人々の様子には、何処か現実感が感じられ
なかった。
 ゆっくりと近づく俺に、ちょうど漫画雑誌を閉じて顔を上げた子供が気付いた。物珍しげな、
少し怯えた表情で俺の目を見る。気に留めないようにしながらその子供に声を掛ける。

「ちょっと、いいかな」

 明らかな警戒の色が目に浮かぶ。俺の心が一瞬怯んだ。こんな子供に聞いても分からないかも
しれない。他の奴にした方がいい。言い訳だ。子供に警戒されるような雰囲気を自分が纏ってい
ることを認めたくないから、他人を脅かすような目をしていることを否定したいから。自分の心
の中にあるどす黒い何かが、溢れ出して他人の目に触れるのではないかと恐れているから。
 子供であっても情報は持っているかもしれない。無視はできない。

「人を捜しているんだ。この人なんだけど」

 笑みを浮かべ懐から写真を取り出す。子供の相手は苦手じゃなかった筈だ。自分にそう言い聞
かせるが、効果は薄い。目の前の少年は警戒を解かない。
 子供の前に写真を示す。あのマンションで手に入れた写真。あの朝、夜明けとともに奴を追い
かけ、見つけ出したマンションにあった男のスナップ写真。写真の男が奴であることは、山の中
で奴を見つけた時に確認している。奴。俺の同族。

 胡散臭そうに写真に目を遣った子供は、知らないと不愛想に答え、すぐに漫画を開いた。ため
息。子供の横にいる女子高生を見る。彼女らは何故か俺を見ながら嬌声を上げる。頭の中で何か
が囁く。それはすぐに消える。深く考えるな。頭の中の声が何か、理解できたところで何の役に
も立たない。それよりも、俺にはやるべき仕事がある。

「なぁ、君たち……」
「ねぇねぇねぇ、お兄さんってさ、刑事さんなの?」

 違う。俺が追う男が刑事だ。そう、同族の臭いがするマンションでこの写真を手に入れ、すぐ
に気づいた。従姉妹の家の玄関で出会った若い刑事。俺が追跡している男。

「……ま、そんなものかな。どう? 見たことない?」

 えーっ、どうかなー、ちょっとちょっとあたしにも、ねねねねけっこういい男じゃん
 女子高生の間を次々と渡っていく写真。やたらと賑やかなのはいいが、俺が期待しているよう
な反応はない。やがて、人の輪を一巡りした肖像は俺の手に戻った。男を見たという声はない。

 諦めて懐に入れようとした写真を、肩越しに伸びてきた手がかっさらった。振り返ると前髪を
下ろしサングラスをかけたにやけた男が、右手に持った写真を俺に振って見せた。身長は俺より
高い。体重も多いだろう。ただ、服装が若作りの割に顔には皺が目立つ。そこそこ年を取ってい
るのは間違いない。

「ふーん。真面目そうな男やな」

 独特のアクセント。関西の住人か、それとも単に真似しているだけか。男は妙に勿体ぶってサ
ングラスを外す。細い目の周りに笑い皺が寄っている。人懐こい雰囲気を漂わせる口元と合わせ
ると、他人の警戒感を取り除くのにちょうどいい顔の作りをしている。ベンチの老人、互いに囁
く女子高生、その場にいた者が皆こちらに注目している。

「……もしかしたら、見かけたことがありますか」
「んー? この男か?」

 顔の前に写真をかざす。刹那、男の眼が俺の様子を伺う。写真で隠しているつもり。だが、見
える。狐の眼。

「……すまんけど、見たことはあらへんな」
「……そうですか」

 写真に手を伸ばす。男は写真を取り戻されないように右手を引っ込めた。時が一瞬、凍る。男
の眼が再び変わる。狐の眼。俺の頭の中に声が響く。俺の伸ばした腕の先に、写真を持つ男の右
手首。その横には男の首がある。若い頃に比べ、少々贅肉が増えてきたといった様子の首が。

「まあまあ、焦るもんやないで、兄ちゃん」
「…………」
「確かに、わいは見たことはない。けどな……」
「……けど?」
「けど、見たことあるかもしれん奴には、心当たりがあるで」

 音がする。頭の中のどこかで。男は相変わらずにやけたまま写真をひらひらと揺らす。印画紙
の中で取り澄ました奴が蠢く。男は満面に笑みを浮かべる。目がさらに細くなる。身体の中が熱
くなる。血流が早まる。
 落ち着け。自分に言い聞かせる。落ち着け。まずこの男に話をさせろ。男が何を求めているの
か、何を握っているのか。それが先だ。それからでも遅くはない。

「……どや、兄ちゃん。興味あるか?」



 田舎町。バスの背後に流れていく。あの山の下流に当たる町。
 奴を取り逃がしたのは雨の夜だった。山の中、奴は俺を振り切った。奴が川伝いに逃げたのに
気づいたときには遅かった。奴の気配は消えていた。俺は山を降り、里に入った。川の上流から
順番に下流へ向かった。この男を見たことはないか。写真の男に心当たりはないか。全部、空振
りだった。無駄な作業。時間をかけている間に奴は回復する。川沿いを離れて逃亡する。簡単に
は見つからなくなる。それでも順番に聞くしかない。人を捜している。もしかしたら知っている
かい。虚しさに駆られる。だが、他に方法がない。奴は完全に鬼を抑えている。同族の気配を探
る方法も効かない。

 一週間が経った。そして、この男と出会った。

 バスの隣に座る男は鞄から取り出した旧式のウォークマンに耳を傾けている。微かにヘッドホ
ンから漏れるベースとドラムの音が、エンジンの音に重なる。男は指で調子を取っている。バス
が揺れ、俺の身体が跳ねる。

「こんな田舎にいつまでも他所者がおる訳ないやろ」

 男は前を見たまま、唐突に話し始めた。

「兄ちゃんが捜しとる男は、この辺の人間やないな」
「……何故そう思うんですか」

 男はフンと鼻を鳴らした。

「その写真は桜田門で撮ったもんやろ。いかにも世間知らずの若きキャリア警官って顔や。田舎
町の出身者でそこまで出世した奴やったら、誰かしら知っとる筈や。兄ちゃんが何日もかけて捜
して見つからんのやから、ここの人間やない」
「何日もって……」
「必死に捜すのはええけどな、服くらい着替えや」

 着替え。暫く着替えていない。いや、最後に屋根のあるところで寝たのは、あの女性がまだ生
きていた時だ。あの最後の晩以来、俺は外を徘徊し続けている。奴を追って。

「ま、何にせよ、もっと大きな町へ行くことや。そういうとこなら他所者が入り込む余地もある
しな。勿論、人が多いほど人捜しは大変になるけどな」
「…………」
「けどな、大変な仕事ほど、金になるっちゅうのも事実や。需要あるところに供給あり。捜して
ほしい人がいれば、必ず捜すのが得意な人もいる筈やで」
「……ちょっと待ってください」
「何や」
「いる筈、ですって? 具体的に誰か心当たりがあるんじゃなかったんですか?」
「焦るな言うてるやろ、兄ちゃん。心配せんでもええ」

 男は黙り込んだ。それ以降は俺が何を問い掛けてもにやにや笑うだけだった。頭の中に声が沸
き上がる。あまりにも胡散臭い。何故俺はこんな男についていこうとしているんだ? 止めろ。
こいつは当てにならない。

 だが、他に当てになるものは何もない。

「……んで、兄ちゃんは何でその男を捜しとるんや?」

 男の質問。答えは復讐。あの女性の仇。口に出して言えることではない。俺は黙ったまま男を
見た。

 男は俺を見ていた。サングラスを外して。



 大きな町。この辺りでは人の多い町。都会とは言えない、地方都市。それでも、他所者が紛れ
込むことくらいはできる町。

 男は俺の前を歩いている。飄々とした様子。ウォークマンは外している。男に引っ張られるよ
うに町の中へ踏み込んでいく。人通りの多くない商店街。文房具店、婦人服店、書店、喫茶店、
銀行、シャッターの降りた店、青果店、しけたスーパー、またシャッターの降りた店。アーケー
ドを外れる。古い民家、小さなアパート、空き地、駐車場、民家、民家。
 狭い路地に入る。トタン屋根の民家、安アパート、町工場、町工場、草の生えた空き地、プレ
ハブ。男が足を止める。目の前にあるのは正体不明の建物。築何年になるのか、時を経たモルタ
ルの壁は皹が縦横に走り、元の色が分からないほど薄汚れている。ベニヤ板のような入り口は陽
射しで色褪せ、反り返っている。男は振り返り、俺を見た。

「一つ、確認しときたいんやが」
「何ですか」

 男は声をひそめ、顔を近づけてくる。

「兄ちゃんが捜しとる男な、もしかしたら兄ちゃんから逃げとるんちゃうか」
「…………」
「なあ、どうなんや」
「……だとしたら」
「うん?」
「だとしたら、どうするんです?」

 身体が強ばる。少し腰を落とす。男はまた、あの笑みを浮かべる。あの眼をする。

「……もしそうやったら、わいが手伝ったるわ」
「手伝う?」
「そうや。逃げられんようにな」
「…………」
「ええか、他所者かて食うてかなあかん。よほど金持って逃げてるんやったらともかく、そうで
なかったら食うために働く必要があるんや。兄ちゃんが追いかけとる奴は金は持っとるんか?」
「……あまり持っていないと思います」
「そうかそうか、そら好都合や。さて、他所者が食っていこうと思うても、そう簡単に仕事が見
つかるとは限らん。この程度の地方都市じゃ、そうそう仕事が余っとる訳やない。まして、今は
不景気やさかいにな」
「そうなんですか」
「そうや。仕事を探そうと思うたら伝手がいる。手配師を捜して、そいつに仕事を紹介してもら
うんが一番手っ取り早いんや。そして……」
「……そして?」
「わいは、この町の手配師を知っとる、ちゅう訳や」

 男が胸を張る。俺は男の眼を見ながら口を開いた。

「……つまり、この町にあいつがいれば、その手配師から探り出せる、と」
「そうや」
「で、あなたがあいつに会い、俺のところまで連れてくる、という手順ですね」
「よう分かったな、兄ちゃん」

 男が歯茎をむき出して笑った。急に下卑た顔つきになる。おそらく、こちらがこの男の本性だ
ろう。いままでの人の良さそうな顔は作ったものだ。

「……けどな、一つ問題があるんや」
「どうやって、手配師から情報を取るか」
「…………」
「そのために媚薬を嗅がせる必要がある、と」
「兄ちゃん。あんた、思ったより頭の回転が速いな」
「……はっきり言ったらどうです?」
「ほな、そうさしてもらおうか。金がいる。10万や」
「…………」
「おっと、それにわいにも仲介料がいるな。こっちは5万にまけとこか」

 男の眼が俺をうかがう。狐の眼。やっと分かった。こいつの眼はカモを捜す眼だ。頭の中で再
び声がする。首を振る。この男が当てになるかどうか。考えるまでもない。俺の金を取ってそれ
を呑めばいいだけだ。手配師にわざわざ当たる必要もない。奴を探し出すから待っていろ、と言
って15万を持ってすぐに逃げ出す。はした金だが一日の儲けとしては悪くない。

 捜セ――

 だが、それでも試してみる価値はある。奴が見つかるなら。

「……仲介料は後払いだ」

 男は肩を竦めて見せた。

「ええやろ」
「それに今は持ち合わせがない。銀行に行けばおろせるが」
「そうか、ほな一度繁華街に戻るしかないな」

 同じ道。男も俺も黙って歩く。商店街の中に、一つだけ都銀の支店があった。キャッシュコー
ナーに入る。人は少ない。現金預払機にキャッシュカードを入れる。1万円札が10枚、機械か
ら吐き出される。カードを取り、残高を確認して利用明細をごみ箱に捨てる。

「ええか。なら行こうか」

 すぐ背後で男の声がする。俺は振り返り、男に頷く。そしてまた同じ道。またあの建物の前。
男が俺に手を出す。俺は10万円の入った銀行の封筒を手渡す。

「ほな、待っとき。写真の色男を連れてきたるさかいにな」

 男はサングラスを掛け直すと、建物の中に入った。



 1時間が経った。俺は自分を呪っていた。何のことはない、この建物はただのボロアパートだ
った。裏口付きの。手配師などという奴が住んでいないことは、住人に聞けばすぐに分かった。
あの男は建物に入り、すぐ裏口から出ていったと、アパートに済む老婆は言った。
 10万円の無駄遣い。何時まで奴を追い続ければいいのか見当もつかないだけに、痛い出費だ
った。何より、分かっていて騙されたのが腹立たしかった。

 俺ヲ虚仮ニシヤガッテ――

 建物を出た。あの男をこれから捜す余裕はない。だが、ここまで来たなら、せめて奴を、仇を
見つけたい。奴がこの町にいるかどうかは分からない。いたとしても何処を捜せばいいか。それ
でも、何もしないではいられない。俺はとにかくこの近辺を歩いてみることにした。

 工場地帯。資材置き場や廃工場。人も車も少ない。経済活動の停滞。景気の低迷。企業収益の
悪化に倒産の増大。日が傾いた。使われない資材が長い影を落とす。落日の中に足を進める。手
入れされていない空き地。コンクリート管が重なり、歪み錆びた鉄筋が彩りを添える。高く伸び
た薄が秋の風に揺れる。眼に入る光景。その中に奴は……

 衝撃。頭部が前につんのめる。視界の中で何かが動く。黒い影。夕日の中の影。人の形をした
影。蹈鞴を踏む。崩れたバランスを立て直す。影が立ち上がる。その顔が夕日に照らされる。あ
いつの、写真の男の、同族の顔が眼に飛び込む。

 狩レ――

 同族が、奴が動く。人間にはできない動き。一気に加速し、空き地から脱出しようとする。奴
の姿を追う。俺の足が動こうとする。またも衝撃。今度は腹部に。視線を下ろす。脇腹に鉄パイ
プが食い込んでいる。視線を動かす。パイプを持った手。太り気味の腕、贅肉の付いた首、サン
グラスを入れたポケット、細い目を見開いた男。にやけた笑みを始終浮かべていたその口が、信
じられないものを見た驚きに大きく開かれている。

「あ、あ、あ」

 鉄パイプを掴む。片手で捻じ曲げる。男の手から毟り取り、放り投げる。

 追エ、狩レ――

 男は悲鳴を上げ、空き地から逃げだす。俺から10万を騙し取った男。放っておくつもりはな
い。だが、今はそれより重要なことがある。奴を、同族を。

 仇ヲ、復讐ヲ――

 声がする。切羽詰まった思いに駆られる。身体中が熱くなってくる。血流が早くなる。心臓が
激しく動く。呼吸が荒く弾む。だが、頭の芯は冷たく凍り始める。

 追エ――

 爪先が地面を強く蹴る。身体が浮く。慣性に逆らい、全身が一方向へと加速し始める。周囲の
風景が滲む。夕日の中、空と草と地面とが溶け合う。奴の気配が感じられる。俺から逃げるため
に奴は鬼の力を解放している。同族の臭いが俺を駆り立てる。風が耳元で唸る。
 奴はあそこだ。あのちょっとした林の中だ。逃がさない。決して逃がさない。必ず捕える。そ
して……

 狩ル――

 林の前で足を止める。奴はこちらを伺っている。奴の気配を全身で捕捉する。
 目の前に逃げそびれたあの男がいる。腰を抜かし、路面にへたり込んでいる。俺を見るその眼
は、愛想のいい中年でも、カモを見る狐でもない。怯えた獲物の眼。

「ま、待ってや、な。はな、話せば分かる」

 奴はまだ林の中だ。いつでも動けるようタイミングを計っている。

「あ、あんたを騙すつもりはなかったんや。ほんまや。も、もし騙すんやったら、い、今ごろと
うに逃げ出しとるで、そやろ? な、信じてぇな」

 ゆっくりと腰を落とす。奴の動きに対処できるよう、全身のばねに力を込める。

「ほ、ほら、預かった10万や。な、返す、返すから、頼む、見逃してくれや。わ、わいはまだ
死にとうない、死にとうないんや」

 奴の呼吸が静まってくる。身体が熱い。全身が熱い。血が滾る。唸り声が漏れる。

「ひぃっ」

 男は頭を抱えた。

「ゆ、許してくれぇっ。あ、あんたを襲ったのは出来心やっ。け、結構預金を持っとるから、そ
れを盗ろうと、一瞬、一瞬だけ思うたんやっ。本気やないっ。だ、だからっ」

 奴が、動いた。

 狩レ――

 身体が飛び出す。奴の動きに合わせて。奴は

 狩レ――

 奴は真っ正面から突っ込んできた。

 狩レ――

 爪が伸びる。腕が鬼と化す。振り上げる。こちらの方が早い。振り下ろす。

 狩レ――

 爪の先に、障害物があった。



「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」

 男は付け根から切断された己の腕を見つめ、呆けたようにうめいていた。

「わ、わいの、わいの腕が、腕が」

 地面を這って男は腕に近づく。残された手で腕を掴み、切断面を見る。覚束ない手つきで切ら
れた断面に腕を当てる。そうしていればくっ付くとでも言わんばかりに。

「う、腕、腕が、腕が、腕が腕が腕が腕が腕が腕が」



 奴は俺の一撃を躱していた。障害物のため軌道が逸れた俺の爪は奴に届かなかった。
 もう一度。俺は奴に向かって振り向いた。

 狩レ――

 奴の方が早かった。いや、奴の方が予め戦略をきちんと考えていた。振り向いた俺の前に影が
飛び込んできた。奴が投げつけてきたモノ。怒りに任せて俺は爪でそれを切り裂いた。奴は逃げ
ようとしている。俺に背中を向けている。

 追エ、狩レ――

 進みだそうとした俺の目の前にモノが落ちてきた。俺の視界に、眼が飛び込んできた。真ん丸
に見開かれた眼。恐怖に染め上げられた眼。理不尽な事態に追いつめられ、憤りに満ちた眼。

 死んだ眼。

 死んだ顔。死んだ首。死んだ男。切断され、刎ねられ、胴体と泣き別れた首。

 死体。

 俺の頭の中でそれまで麻痺していた何かが目覚めた。あの時、水門であの女性の死体を抱きし
めた時から凍りついていたものが動き出した。

 死体。俺が殺した。

 思い出した。夜明け、奴のマンションを襲った時、そこに若い男がいた。虚ろな眼をした、長
髪の男。俺が問い詰めても何も答えなかった男。

 死体。俺が首を刎ねた。

 思い出した。奴の正体を知りたいのに、何も答えようとしなかったあの男。誰かの名前を呟き
続けていたあの若い男。脅しても反応しなかった男。

 死体。首が転がる。

 思い出した。何を聞いても黙ったままの若い男を見て、頭の中の声が大きくなった。狩れ、殺
せ。俺は声に従った。若者を殺した。

 ひ・と・ご・ろ・し



 耳障りな音があたりに響き渡った。俺の悲鳴だった。それを聞いて駆けつけた通行人の悲鳴だ
った。無残に切り刻まれた男の死体がもたらした悲鳴だった。

「ひ、人殺しぃーっ」

 通行人が悲鳴をあげ逃げ出した。恐怖に歪んだその眼が俺を脅かした。転がった首が俺を睨ん
だ。耐えられなかった。思い出した。俺は人を殺した。無関係の人を殺した。マンションで。こ
の路上で。

 逃げろ、逃げろ、逃げろ。

 俺は走り出した。奴は何処かに消えていた。死体の眼が俺を追ってきた。若い男の眼が俺に付
きまとってきた。逃げた。息が切れた。いつまでも悲鳴を上げ続けていた。涙が流れた。どうし
ても止まらなかった。



 闇の中、蹲っていた。抱えていた頭を僅かに上げた。右手が目に入った。染まっていた

 赤い、朱い、紅い血。

 女の死に顔に纏わりつく血。あの水門の夜。

 頭の中で声がし始めた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 えらく長くなってしもうた。

 読んで分かると思いますが、「逃走」の関連作品です。

                                    R/D