逃走 投稿者:R/D
(……たかゆき……)

 遠くに気配がある。

(……たかゆき……)

 かすかな遠吠えが届く。鬼の遠吠えが。

(……たかゆきは、もう……)

 森の中を蠢く獣の音。激しい息遣い、踏みにじられる樹木。

(……もう、この世に……)

 再び轟く獣の咆哮。前より近づいている。

(……この世に、いない……)

 一瞬の沈黙。そして、以前より激しい動き。

(……もう……)

 鬼の足音が響く。それは……。

(……たかゆ……き……)

 ……それは一直線にこちらへ向かってきた。



 蹲っていた巨木の根元から跳ね起きると、俺は下生えが体を叩くのを無視して疾走した。
 奴は俺に気づいている。気配を殺している意味はない。とにかく動かなければ。

 逃ゲロ――

 人間の限界を超えた速度。闇に包まれた周囲の木々が恐ろしい速さで後方へ流れていく。降り
始めた雨粒が顔面を叩く。その痛みが恐怖を募らせる。

(……なぜ……)

 奴がこちらを捕捉した。樹木をなぎ倒し、地面を抉りながら俺を追ってくる。気配が近づく。
手負いの俺と力を解放した奴とでは、差がありすぎる。いずれ追いつかれる。そうすれば勝ち目
はない。奴の手で殺されてしまう。

(……なぜ、こんな……)

 奴の動きが早まった。明らかに俺を視界に捕らえたのだ。獣の唸りが、息遣いが、臭いが俺に
迫ってくる。砕かれ、地面に叩き落とされる木の幹の音がボリュームを増してくる。かすかな音
から雑音、そして騒音に。

(……もう、たかゆきはいないのに……)

 風が走る。空気を切る唸りが耳朶を叩く。奴が腕を振り回した音。その腕の先には、鋭い爪が
獲物の生命の炎を燃やすべく尖っている。

(……いないのになぜこんな……)

 殺気が背後から迫った。刹那、俺は横へ跳んだ。一瞬の間を置いて爪が、どんな獣も持たない
凶悪な爪が寸前まで俺の居た所を薙ぐ。
 俺は地面に転がり、近くの木に体をぶつけた。折れた枝が腕を突き刺す。俺は急いで体勢を立
て直し、幹を背に正面を見据える。そこに、奴はいた。

(……なぜこんなことをしているのだろう……)



 それは、俺の前に立ちはだかって俺を見下ろすそれは、鬼だった。
 鋭く伸びた牙、頭部から周囲を威圧するように生える角、そして、指の先にある鉈のように巨
大な爪。異臭を放つ体毛は長々と伸び、その体を守るように覆っている。
 そしてその眼。赤く、鋭く、裂けた眼。
 獲物を求める狩猟者の眼。
 エルクゥの眼。

(……もう、いいじゃないか……)

 奴は俺を見る。人間の体を。ひ弱な肉体を。狩りの対象を。獲物を。
 その眼が喜悦に震える。
 奴の眼には、俺の命の炎が見えている。潰える時、刹那の煌きを発し狩猟者の魂を揺さぶるあ
の炎が。そう、奴は俺の命の炎が消える瞬間を求めている。

(……そうだ、たかゆきはもういないのだから……)

 奴の右手がゆっくりと振り上げられる。人に近い形を持ち、獣を上回る力を秘めた腕が、勢い
を増してきた雨に逆らうように持ち上がっていく。腕の先端、鈍く、重量感に溢れるその爪が秋
雨に濡れ、揺れる。
 奴の口から唸りが届く。肉食獣のような、それでいてはっきりとした意思が感じられる声が漏
れる。獲物を前にし、燃え尽きる寸前の生命の炎を見る喜びに、堪えきれず喉の奥から溢れ出し
た歓喜の歌が。

(……だから、疲れることはやめて……)

 歯をむき出し、うなじの毛を逆立て、高々と掲げた腕に力を込める。腕の、肩の、上半身の筋
肉が、指先に全身の力を伝えるべく収縮する。巨大な爪が、木の根元に腰を落としている獲物に
狙いを定める。激しさを増す雨が頬を打つ。時が止まる。

(……すべてを終わりに……)

 時が動く。遥かな高みから凶器が恐ろしい速度で振り下ろされる。空気を切る音、雨が樹木を
叩く音、奴の唸り、俺の荒い息づかい。一斉に音が飛び込んでくる。
 次の瞬間、俺の視界を何かが舞った。雨を弾き、何処からか届く光を映したそれは、下から見
上げた木の枝に吸い込まれるように小さくなっていく。視界から消える前に、その形が俺の目に
焼き付く。歪み、ひび割れた眼鏡が。

 俺は鬼の一撃を、僅かに身を沈めることで躱していた。眼鏡を犠牲にして。



 逃ゲロ――

 俺の身体が弾かれたように飛び出す。幹に深く突き刺さった爪の下を脱し、筋肉が盛り上がっ
た腕を翳め、巨大な自重を支えている脚の間をくぐり抜ける。奴の背後に出た俺は、その勢いを
保ったまま森の中へ飛び込む。

 グオオオオオオオオオオオオオオオオオ

 鬼の雄叫びが俺の背中を打つ。俺の身体は俺の意思に反して激しく動く。

(もういい)
(もうやめよう)
(逃げてどうする)
(生き延びてどうする)
(貴之はいない)
(貴之は殺された)
(あの鬼が貴之を殺した)
(俺は貴之を助けなかった)
(あの鬼を恐れ、貴之を見殺しにした)
(そうだ、俺が貴之を殺した)
(なのに何故逃げる)
(生きている意味などないのに)
(貴之はもう、いないのに)

 逃ゲロ――

 降り注ぐ雨に濡れ、生い茂る草に叩かれ、岩や根に足を取られ、それでも俺の身体は走り続け
る。俺の意思に反して。俺ではない俺の声に導かれて。俺の中の、鬼の声に従って。

 逃ゲロ。勝チ目ハナイ。コイツニハ勝テナイ――

 背後から強烈な意思が近づいてくる。奴が、鬼が、自由を取り戻し、再び俺を追い詰めようと
している。狩猟者が獲物に迫る。俺よりも、俺の中の鬼よりも、数段強い鬼が。

 死ニタクナイ――

 完全に覚醒した狩猟者は、相手の力量を量ることができる。自らの力と敵の力を比べられなけ
れば、獲物を追うことなど出来ない。自らの実力を超えた敵に向かうのは無知な者だけだ。
 俺の中にいる狩猟者は完全に目醒めている。自分の実力と、俺を追うあの鬼の実力を的確に見
抜くことができる。

 殺サレタクナイ――

 だから、俺の鬼は貴之を見捨てた。あの時、水中から必死の思いで脱出した俺は、傷を癒やす
ため自宅マンションへ向かった。そこで休めばいい。時間があれば傷は治る。そう思っていた。
だが、そうは行かなかった。

 ダカラ――

 夜明け。奴はすぐ俺を追ってきた。俺の意識を捕まえ、同族の臭いを追跡して。傷ついていた
俺より早く、奴はマンションへとたどり着いた。俺は焦った。せめて貴之だけでも助けたいと思
った。マンションへ足を向けようとした。できなかった。俺の中の鬼が叫んでいた。

 逃ゲロ――

 俺の身体は、俺の鬼は、俺の意思を裏切って逃げ出した。あの時も、今も。



 殺気が急激に膨れ上がる。鬼の爪が俺の脚を捕らえる。俺の身体は一瞬宙に浮かび、もんどり
うってぬかるんだ地面にのめり込む。腕に刺さったままの枝が深く肉をえぐる。激痛が走る。呻
き声が響く。鬼の赤い、朱い、紅い眼が俺の視線を捕らえる。

『殺ス――』

 咆哮と同時に鬼がその意思を叩きつけてくる。

『殺ス、狩ル――』

 体勢を立て直そうとする俺に一撃を加えながら、鬼は叫び続ける。

『復讐ヲ、仇ヲ――』

 身体が人形のように弾かれる。泥濘と化した地面に足を取られる。もがく。足掻く。

『アノ女性ノ、仇ヲ――』

 痛みに気が遠くなった俺の脳裏に、同族の女の姿が浮かぶ。覚醒した直後、殺戮を始めた時に
俺を止めようと戦いを挑んできたあの女。鶴来屋の会長。前社長殺害の容疑者と警察に疑われて
いた者。俺の姪。

『貴様ヲ――』

 この鬼の従姉妹。今、俺を殺そうとしている奴の親類。俺が初めて奴と出会った際、奴の傍に
いた女。

『殺ス――』

 この鬼が、俺の甥が、柏木耕一という男が、おそらく愛していた女性。
 俺が雨月山の水門で殺した女。



 鬼の一撃が俺の頭部をしたたかに打ち据えた。泥まみれの身体が横倒しになった。枝が刺さっ
た腕の感覚はなくなった。何度も打撃を受けた腹部は悲鳴を上げていた。胃液が逆流した。内蔵
が痛んだ。視界はぼやけていた。耳鳴りがした。鼻の奥に鉄の味がした。口腔内には血と胃液と
泥が溢れていた。

 逃ゲロ――

 声だけは、俺の身体に命令する声だけは止まなかった。俺の身体は条件反射のようにその声に
従った。腕も脚も思うように動かなかった。俺は芋虫のように這った。雨混じりの泥が口に入っ
た。えずいた。また這った。目の前に草があった。それを掴んだ。何本か動かない指があった。
鬼がまた吠えた。

 逃ゲロ――

 五月蝿い。叫んだつもりだったが音にならなかった。身体は相変わらず声に従おうと苦闘して
いた。背後に再び気配が迫った。空を切る音がした。爪が迫った。

 ニ ゲ ロ ――



 身体が宙に浮いた。風が下から吹き付ける。鬼の気配が急激に遠ざかる。雨の音が耳に響く。
自分の周囲の空間が変わる。あの時のことを思い出す。女を殺した後、同族に胸を貫かれ、水門
から足を踏み外した時のことを。

 落下していることに気付いたのは、雨で増水した急流に叩きつけられる直前だった。

 濁った水から浮かび上がった。激しい流れは痛めつけられた俺の身体を遠慮なく運んでいく。
苦痛の中、俺は鬼から逃げ出せたことを悟った。奴に追い詰められたあの場所は、どうやら崖の
すぐ傍だったらしい。悪天候と深い森のため、周囲の状況がほとんど分からなかったことが幸い
した。崖から落ちただけだが、奴には俺の姿が一瞬で消えたように見えたのだろう。俺の中の鬼
を覚醒させていなかったことも良かった。鬼が目醒めていれば、たとえ姿が失せてもその気配を
察知されただろう。

 ……――

 あの声が止まった。俺の中の狩猟者が声を潜めた。声に追われ、声に迫られて動き続けていた
身体も動きを止めた。薄れゆく意識の中、流れる川岸の風景を見ながら、俺は思った。

(生き延びた……)

 貴之の顔が浮かんだ。

(生き延びてしまった……)

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「恥も外聞もなく逃げる柳川を格好良く描いてみよう」

 失敗だな、こりゃ(笑)。

                                    R/D