無力 投稿者:R/D
 ロビーにはほとんど人影がなかった。
 わずかにいる人たちはテレビの前のソファに腰を据え、画面をぼんやりと眺めている。
 夜のニュースが、東日本の大雨について伝えている。

 これできょうの仕事は終わりだ。わたしのするべきことはもう何もない。
 もちろん、普通のホテルの従業員であれば、この時間はまだ仕事の真っ最中の筈だ。実際、今
もフロントには数人の従業員が控えている。ここからは見えないところでは、もっと多くの人が
立ち働いている。厨房、宴会場、客室の係、警備、エトセトラ……。
 けど、わたしの仕事はもうない。いや、そもそもこのホテルでわたしがするべき仕事はほとん
どない。ここにいても、することはない。

「ちーちゃんは雑誌のインタビューでウチの宣伝をしてくれればいいんだよ」

 足立さんの言葉が頭に浮かぶ。きょうの夕方、この鶴来屋に現れた不意の訪問客を送り帰した
後、わたしの申し出に答えた台詞。なにかできることはないか。わたしで役立てることは。答え
は予想通り。自分でも分かっていた。わたしにできることはない。今もそうであるように。仕事
を終える際には、必ずロビーの様子を見てから帰ることにしている。そんなことをしても何の意
味もないけど。それで宿泊客が増え、鶴来屋の業績が良くなる訳ではないけど……。

 フロントに立つ社員に会釈をして、わたしは通用口へ向かおうとした。

「あちゃー、なんてこった」

 ソファに座った宿泊客の間から悲鳴のような声がする。足を止めてそちらを見ると、ニュース
の内容が変わっていた。

『……東京証券取引所では株価の下落が続き、12年半ぶりに平均株価が1万4000円を割り
込みました……』

「やれやれ、こんなになるとはな」
「やっぱ不景気なんやな」
「うちの会社は大丈夫なのかね」
「さぁ、どやろか。もしかしたら危ないんとちゃうか」
「こんなとこで遊んでいる暇はないってか」
「勘弁してほしいけどなぁ」

 ちょっと遅めの夏休み中の若手サラリーマンといった風情の宿泊客たちは、苦笑いを浮かべな
がらテレビを眺めている。口ではいろいろ言っているが、表情にはまだ余裕が伺える。少なくと
も、夕方の訪問客の追い詰められた顔よりは……。



 きょうの夕方、会長室に2人連れが来た。
 事前のアポはなかったが、どうしてもというので通したらしい。
 渡された名刺には「○○銀行隆山支店長」とあった。ついてきた若い男性はきっと彼の部下な
のだろう。
 足立社長と、古くから鶴来屋で仕事をしている経理部長、それにわたしが彼らの前に座る。

「いやしかし今年の夏は妙な天気ですな」

 支店長は首筋をハンカチで拭いながら愛想笑いを浮かべた。けど、その目は笑っていない。隣
にいる若い行員は神妙な格好をしているが、その顔にはどことなく安堵感が浮かんでいる。切羽
詰まっているのは支店長の方。何かを決意しようとして、なかなか言い出せない、そんな雰囲気
が伝わってくる。

「こう天候不順だと、よけい景気がおかしくなりそうで……」

 その時、気付いた。支店長と同じ目をしている人がほかにもいることに。年配の経理部長。そ
して、普段はわたしの前では落ち着いた表情しか見せない足立さん。どちらもいつもとは違う。
経理部長はせわしなく手を組んだりほどいたり、足立さんは口を一文字に結び支店長を睨むよう
に視線を定めている。追い詰められた人々が醸し出す空気の中で息が詰まりそうになる。

 足立さんが支店長の世間話を遮った。

「……ところで、きょうはいったいどんなお話で」
「……社長。単刀直入に申し上げます。来月に期限の来る御社への貸付金を、全額返済していた
だきたいのです」

 支店長の顔が歪んだ。高級そうなスーツに包んだ体を小さく見せようとしているのか、上半身
を前に屈め、肩を窮屈に縮めている。けど、その目は足立さんから離れない。正面から見据え、
何があっても退くつもりはないことをはっきりと示している。

「……いきなり、ですね」

 そう答える足立さん。だが表情に変化はない。

「急な申し出であることは承知しています」
「確か、最初は条件を変更したいということだった筈ですが」
「ええ、そのつもりで経理部長さんともご相談させていただいておりました」
「では、なぜです?」
「先月の、そちらの来客数を小耳に挟みまして、ね」

 何時の間にか支店長の上半身が起き上がっていく。両肩が次第に開き、正面のわたしたちを威
圧するかのように姿を大きく見せる。獲物を狙い、翼を広げようとしている鷲。

「……どういう意味、ですか」
「祭り、夏休み、例年なら来客数の多い先月の客室回転率が、前年より下がったそうじゃありま
せんか」
「下がった、と言っても誤差の範囲ですよ。それこそ天候不順でもありましたし……」
「普通の環境ならそうでしょうね。ですけど、以前からイベント関連部門が不調だとお伺いして
いただけに……」
「不調といっても」
「今期に入って宴会場の回転率は前年の半分に落ちているそうじゃないですか」
「…………」
「今月に入っても宿泊客の低迷が続いていると聞きます。ま、無理もないですがね。これだけ消
費が冷え込んでしまっては、なかなか観光客も増えないでしょう」
「……だから、返せとおっしゃるんですか」
「ええ。そうです」

 足立さんが支店長を見る。これまでわたしが見たこともないような顔で。怒り。憤り。いや、
憎しみといってもいいかもしれない。もし、わたしがこの顔で睨まれたら……。わたしには耐え
られないだろう。きっと目を逸らす。
 いや、もし、わたしの中の鬼を発動させていたら……。

 支店長はまったく表情を変えず、足立さんの視線を受け止めた。まるで世間話の続きであるか
のように話を再開する。

「とにかく、本部からの指示ですので、こちらも如何ともし難いのですよ。もしどうしても、と
いうことなら、追加で担保を差し入れていただいたうえで、再度条件を練り直すということにな
りますが」
「……毎日、たくさんのお金を扱う銀行さんにとってはそうでもないかもしれませんが、我々に
とって、そちらからお借りしている資金はかなりの大金なんですよ。それをいきなり返せと言わ
れても簡単には用意できません。追加の担保にしても……」
「残念ですが、御社の事情は関係ありません。私どもとしては期限返済をいただきたい、これだ
けです」
「待ってください。ウチはそちらの支店が開設して以来のお付き合いですよ。それこそウチの初
代の時からずっと借り入れてきたじゃありませんか。どうして借り換えができないんですか」
「長いお付き合いだとは理解しておりますし、私どもとしてもお得意さんにこのようなことを言
うのは心苦しいのです。しかし、これは譲る訳にはまいりません」

 足立さんの視線と支店長の視線がぶつかり合う。暫しの沈黙が落ちる。

「……分かりました。そういうことなら返済しましょう」
「し、社長」

 青ざめた経理部長が足立さんに話し掛けようとする。それを制した足立さんは、いつもの穏や
かな表情に戻り、支店長に向かって言った。

「来月が期限でしたね。その際にきちんとお返しします」
「そうですか。いや、厳しい時期にこのようなお願いをするのは心苦しい限りなのですが、返済
いただけるのならば結構です」

 支店長の目に宿っていた光がとたんに緩んだ。再び肩が縮められる。空気が変わった。お互い
に礼儀にかなった、それでいてそっけない別れの挨拶が交わされる。2人の訪問客は会長室から
出ていった。

「……社長、すみません」
「なぜ君が謝るんだ」
「あんな話だとはつゆ知らず……」
「仕方がないさ。相手も言っていただろう、本部の指示だって」
「それにしても、前の支店長ならもっと我々のことも考えてくれたでしょうに」
「だから、新しい支店長と交代させられたのかもな」
「ま、まさか」
「いや、分からないけどね。いかにも回収のために送り込まれてきました、って感じの人じゃな
いか」
「ですが、あんなにあっさりと受け入れなくても……」
「……あれは、相当危ないな」
「はい?」
「あの銀行だ。余程切羽詰まっているんだろうね。年度末でもないのに……」
「……もしかしたら、BIS規制の関係、とかですかね」
「それよりつらい事情じゃないのかな。どうも本当に資金繰りに窮しているような気がする」
「そこまで追いつめられているんですか?」
「証拠はないけどね。もしそうなら、あそこと取引を止めるのはむしろいいことかもしれない」

 経理部長と足立さんが顔を突き合わせて話している。けどそこにわたしが入る余地はない。と
いうより、彼らが何を話しているのか、わたしには理解できない。

「しかし社長、人の心配をしている場合じゃありませんよ。わたしらだって大急ぎで資金繰りを
考えなくては」
「ああ、そうだな。早速だが心当たりを探してくれないか。わたしもいくつか当たってみるよ」
「分かりました。では失礼します」

 立ち上がり、わたしに向かって一礼した経理部長は慌ただしく会長室を去った。後には呆然と
ソファに座ったままのわたしと、何かを考えているかのように黙り込んだ足立さんだけが残され
る。

「……足立さん」
「え? なんだい、ちーちゃん」
「あの、いったい、何があったんですか?」

 何も知らない、何も理解していないわたしの質問に、足立さんは悲しげな表情を浮かべて答え
た。

「あれが、貸し渋りだよ」
「貸し渋り……」

 新聞でよく見かける見出し。テレビニュースでも耳にしたことがある。

「銀行が、ウチみたいな企業に貸している金を回収しようとすることだよ。だから貸し渋りって
いう表現は本当はおかしい。正確に言うなら借金の『取り立て』かな」
「取り立て……、ですか」
「そうだよ。銀行は他人に金を貸してお金を儲ける商売だからね、最後はきちんと取り立てない
と儲からない。でもね、今の銀行は取り立てるばかりで、新しく貸そうとはしていないんだよ」
「そうなんですか?」
「儲けるためには貸さなくてはいけない。でも貸そうとしない。なぜなら、貸す余裕がないから
だ。手元にお金がなくなっているからさ」
「え、で、でも、銀行にお金がないなんてことが」
「あるのさ。今、実際にそういう銀行が出てきている。建設、不動産、ノンバンクという業種に
大量の金を貸して、それがほとんど焦げ付いて、返ってこなくなってしまった銀行が数多く存在
するんだよ。だから手元にお金がない。少しでも手元のお金を増やすためには取り立てをするし
かない。ウチみたいに取り立てやすいところからね。当然、新しく貸す余裕なんてないよ」
「でも、鶴来屋にとってもそのお金は必要なのでしょう?」
「もちろんさ。だから、何とかして他から調達しなくちゃいけない」

 足立さんが宙を睨む。ついさっき、あの支店長を睨んだ時と同じ目で。

「まったく、やりきれないよ。あんなことをする銀行のために、わたしや社員が汗水流して働い
て納めた税金が使われるんだから。おまけに、その銀行にいる人間は我々より遥かに高い給料を
もらっている。納得できる訳がないじゃないか」

 ため息を一つつくと、足立さんは書類を掴み、立ち上がった。

「では、会長。わたしもここで」

 立ち去ろうとする足立さんを見て、わたしは焦りを覚えた。よく理解できなかったとはいえ、
鶴来屋にとって良くない事態が生じたことくらいは分かる。だから、だからわたしは何かをした
かった。

「あ、足立さん」
「はい、何ですか」
「あ、あの、その……」
「…………」
「その、わたしに何かできることはありませんか?」



 テレビの画面では、童顔のエコノミストが話をしている。

『……株価の下落で銀行の含み益はほぼ底を尽きました。つまり、不良債権処理を進める余力が
本当に失われたことになります。まさに金融危機の真っ只中であり、早急に公的資金を導入した
うえでの解決を図らなければ……』

 わたしはロビーを去り、従業員用の通用口に向かった。外には車が待っている筈だ。今、この
時間に、ホテルでは多くの人が仕事をしている。足立さんも、経理部長も、鶴来屋のために駆け
回っているのだろうか。
 なのに、わたしには何もできない。雑誌のインタビューすら入っていない。

 無力な存在。

 通用口を出た。空には満天の星が浮かぶ。仰ぎ見るうちに、従兄弟の顔が浮かんできた。

 鬼の血を引いた従兄弟。わたしが誤って殺してしまいそうになった従兄弟。わたしがこの世で
何よりも愛する従兄弟。

 そう、あの時、あの暴走した鬼と戦った時、わたしは従兄弟に助けられた。生涯最大の危機を
乗り切った。
 わたしはもう少しで取り返しのつかない失敗をするところだった。彼が、従兄弟がわたしを信
じてくれたから、わたしを助けようとしてくれたから、だからわたしはこうしていられる。

 星が滲む。

 そうだ。わたしは無力な存在だ。鶴来屋の中だけでなく、あの時もそうだった。だけど、わた
したちはその危機を乗り切った。だから……。

 だから、今度はわたしが信じる番だ。鶴来屋のみんなを。この危機を必ず乗り切れることを。
もしかしたら、鬼との戦いよりもつらいかもしれない。それに、この戦いは終わることはない。
多分、従兄弟も大学を出たら鶴来屋に入るだろう。それからもまだ戦いが続くのだろう。そうす
れば、今度はわたしが彼を助ける機会もあるだろう。

 待ち構えていた運転手が車の扉を開いた。車に乗り込みながら思った。

 取りあえず、車を使うのを止めよう。すぐ止められなくても、わたしでなく他の人が使えるよ
うにした方が鶴来屋のためになるだろう。わたしは電車通勤でも構わない。たいした効果はなく
てもいい。できることから始めよう。

 そうでしょう、耕一さん?


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 時事ネタです(^^;

 これも今までの作品と同じ……ではありませんが、言いたいことを書いたものです。

 では、最後に魂の叫びを

「おいっ銀行っ! てめえのケツくらいてめえで拭けぇっ!」

                               一納税者 R/D

 補注
 この物語はフィクションであり、実在の人物、団体、企業などとは一切関係ありません