『一番大好きだった』 投稿者: TaS
 信号待ちに見上げた空は、よく晴れていた。
 綺麗ではあるがどこかくすんだようなその色は、春の空の色だった。
 ……こんな空を見ても、泣かなくなったんだな、僕は。
 そんな風に考えて、ひどく辛い気分になった。
 なにか、薄ら寒い感じすらする。
 もしかすると。
 僕は、忘れかけているのだろうか。
 もしかすると。
 いつかは、すべてを忘れてしまうんだろうか。

 あの時の事を。
 瑠璃子さんの事も。




     『一番大好きだった』




 青に変わった信号を合図に、人の波が動き出した。僕は、その流れに逆らおうともせず
に歩きだす。以前はあんなにも嫌だった人の群れも、今ではどうと言う事のない風景の一
つだった。
 高校を卒業してから、一年と少しの月日が流れていた。
 その間に、僕は一体どう変わったんだろう。
 強くなったのかもしれない。
 もしかしたら、鈍くなったのかもしれない。
 ……変わってない、のだろうか。
 だとしたら、何故僕はこんな空を見ても涙も流さないようになったんだろうか。
 そんな事を考えながら、アスファルトのゼブラを踏みしめていった。

「あれ? 長瀬……くん?」
「え?」
 思いがけず掛けられた声に、そんな間抜けな声で答えてしまった。
 振り返った先には、つややかな長髪が見えた。だけど、その綺麗な髪よりも、整った顔
立ちよりも、何よりその瞳の輝きが印象に残る、そんな女性だ。
 誰だろう。
 そう思うと同時に、なにか懐かしいような気もした。
「覚えてないかな? ほら、高校三年の時に同じクラスだった……」
 そこまで言って、僕の表情の変化に気がついたのだろう。彼女の顔が目に見えて明るく
なる。
「そう、新城沙織よ。思い出した?」
 明るい彼女の声を聞きながら。
 僕はこの奇妙な偶然を呪っていた。
 沙織ちゃんと……いや、新城さんとは、三年生になって同じクラスになった。
 それだけだ。
 あの夜の事を彼女は覚えていないし、同じクラスになってからもけして仲がよかったわ
けじゃない。
 あの頃の僕は、毎日屋上に行っては来るはずのない電波を見つけようとする、そればか
りを繰り返していた。彼女と話した事など、数回程度しかないだろう。
 それだけに、まさか彼女が僕の顔を覚えているなど想像もしていなかった。
「久しぶり。元気だった?」
 だけど、彼女のそんな話振りを聞いていると、とてもそうは思えない。
 あいまいな返事を返しながら、僕はただ困っていた。

 相変わらず、と言うべきか。
 新城さんは明るく、よく笑う人だ。
 周りを明るくさせる才能のような物を持っているのかもしれない。
 さして共有する話題もないはずの高校生活だったけど、それでも彼女と話していると時
を忘れた。
 こんなに誰かと話をしたのは、久しぶりだったかもしれない。
「……ねぇ」
 だけど、その声だけはそれまでのものとは違った。
 遠慮がちに絞り出した声は、やっとの事で僕の耳に届く。
「長瀬くん……もう、大丈夫なの?」
「えっ?」
 心配そうな新城さんの顔が見えた。彼女もこんな表情をするんだ。ふと、そんな間抜け
な感想を抱いてしまう。
「大丈夫、なの?」
 明るい瞳を少し曇らせ、軽く髪を掻き揚げて、それからもう一回同じ事を言う。
「え……何が?」
 戸惑いながら答える。
「ううん。ならいいんだけど……」
 いまいち的を得ない彼女の答え。それを最後に、新城さんは小さく俯いてしまった。


 街の色が紅く変わりつつあった。
 増え始めた人ごみの中で、僕と新城さんはなんとなくその流れを見つめていた。
 わずかな違和感。
 「僕はなんでここにいるんだろう」なんて、そんな陳腐な感傷もある。
 でも、そんな物じゃない何かもあった。
「長瀬くん……なんで泣いてたの?」
 新城さんの声が聞こえた。
「ホントはね。長瀬くんの事、ここで何度か見かけていたんだ。でも、忘れちゃってたん
だろうね。長瀬くんだって、気づかなかった」
 雑踏のざわめきの中、新城さんの声は不思議とよく聞こえていた。だけど、僕は何も答
えずに聞いていた。
「でも、長瀬くんさっき空見上げていたでしょ? あれ見て思い出しちゃったんだ……」
「あ……」
「思い出した?」
 少し意地の悪い笑みを浮かべて、新城さんの顔が僕を向いた。
「……うん」
「ごめんね」
「ううん。多分、あの時の新城さんのおかげだから……」
 言ってから見ると、彼女の顔に明るさが戻っていた。
 それが無性に嬉しくて。
「大丈夫だよ、僕は」
 そう、答えた。
「今なら、笑えるよ」





 静かだった。
 夜の病院は、その温かみのない壁面の色のせいか、必要以上の静けさを感じさせた。
 ”彼女”が眠っている病院。
 病院の門とは正反対に位置する、彼女の病室の窓が見えるこの場所。
 高く白い壁に前をふさがれたここに、僕は一人で立っていた。
 こうやって見上げるのは、多分あの日以来だろう。
 彼女がここに入ったと知った、あの日。
 その日以来、僕がここに来る事は一度もなかった。
「怖かったんだ。ここに来ても瑠璃子さんがいないってわかっちゃうのが」
 呟く。
 そう、
 だから、学校の屋上で泣いていたんだ。
 泣く事しか出来ないって思いこんでいたから、遠くで泣いていたんだ。
”思い出した?”
「うん」
 さっきの新城さんの声が、また聞こえたように思えた。
 思い出した。
 あの時、真っ赤に染まった夕暮れの屋上。
 瑠璃子さんが待っていてくれたような、そんな空。
 あの日、いつものように僕が泣いていた屋上。
 彼女が、いたんだ。

”……泣いてるの?”                    ……泣いていたんだ。

 僕は、子供のように泣いていたんだと思う。

”……悲しいの?”                    ……よく、わからない。

 その時、彼女がなんでそこにいたのかはよくわからない。

”……泣きたいの?”               ……泣きたくなんか……ないよ。

 そんな僕を見て、それから空を見て、風に揺らぐ髪を押さえて。

”じゃあ、笑おうよ。その方が絶対にいいよ”       ……無理だよ、そんなの。

 新城さんは笑ったんだ。

”大丈夫だよ、長瀬くんなら”                      …………



 白い壁を目の前にして、その奥に眠っているだろう彼女を心に描いて、それから目を開
いた。
 ”電波”の力を使おうか、とも思った。
 だけど、これだけは自分の口で言いたかった。
 白い壁と、それに埋め込まれた窓は、何も映さず、闇に浮かんでいる。
 それを見ながら、僕は最後の決心をする。
 ちゃんと最後まで言う、そんな他愛のない決心。
 小さなものだけど、僕が前に進む為には絶対に必要な、そんな決心。
 そんな風に心を決めて、満月に少し足りない月を見て、病院の窓に視線を戻して。
 ゆっくりと、口を開いた。

「瑠璃子さん」

 自分の声をちゃんと聞いたのは、一体いつ以来だったろうか。

「瑠璃子さん」

 自分の声でちゃんと話したのは、一体いつ以来だったろうか。

「僕は……」

 僕の声にも、窓は動かない。
 それでも。

「僕は、瑠璃子さんの事、大好きだったよ」

 細かく区切るようにそう言って。
 僕の初恋は、終わりを告げた。






                    了


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 なんとなく。
 最近、自分の文章が変わってるような気がする。
 ……まぁ、自分以外じゃわからん事だろうけど(笑)
 なんとなく久しぶりな気がします。こーゆーハッピーエンドな話。
 #書くの自体久しぶりじゃねえのか、って突っ込みは不可(笑)
 #もーちょっとまともなペースで書ければいいんだけどねぇ。