『始まりはただ、始まりでしかなく』 投稿者: TaS
 口の中に、スチールの匂いを感じた。
 一瞬待って、塩味の混じった甘味が広がっていった。
 少し、気分が悪かった。



 神社の裏のこの空間は、いつもの通りに静かだった。それはたぶん、ここがうるさくな
る原因は、私以外には無いから。
 そんな事を考えて、手に持ったスポーツドリンクの缶を口につけて、傾けもせずに5秒
ほど待って。
 それから、ゆっくりと前を見た。

 何もない空間。
 唇に感じる冷たさが、気持ちよかった。

「……綾香さん」
「なに?」

 横に座っている彼女の顔も見ないで声を掛けて、それから、気づいた。
 失礼。
 慌てて缶を口から離した。
 いつのまにか口の中に充満していたスチールの匂いが、唐突に薄れていった。
 だけども、体ごと向き直った先に座っていた綾香さんは、まるで気にした様子も見せず
に缶を口につけていた。

 そんな綾香さんの姿を見て、それから手元の缶に視線を落とした。
 見下ろした小さい空洞は、赤錆の色にも見えた。
 少し、考えた。
 何を言おうとしていたのか、忘れてしまった。

「……綾香さん」
「ん?」

 そんな軽い返事を聞いて、また少し考えた。

「……これ、おいしいですね」
「ん……そう? 私は、ほんとはあんまり好きじゃないけど」

 私と綾香さんと、同じ柄のそれぞれの缶を見比べるようにして、そう答えた。

「そう、なんですか?」
「うん。……あ、ごめんね。別にケチをつける気じゃないのよ」

 少し焦ったように、そう付け足す。
 なんだか、珍しい物を見たような気がした。
 もう一度、缶に口を付けた。
 スチールの匂いが広がって、塩の効いた砂糖のような味が広がって、でもやっぱり水っ
ぽくって。
 また少し、考えた。
 ゆっくりと吹きつづける風が、汗を冷やしていた。
 体を冷やしちゃいけないのはわかっているけど、もう少しこのままでいたかった。
 風は、枝を揺らしていた。
 缶は、雫を身に纏いはじめていた。
 空は、次第に赤く染まっていた。
 私は、少し考えていた。



「ねぇ、葵」

 綾香さんの声は、唐突だった。
 少し驚いて顔を上げると、綾香さんはまだ、缶を口に付けていた。
 綺麗だな。ふと、そう思った。
 そう思って、少し笑いそうになった。
 笑いそうになっている自分が、なんだか惨めにも思えた。
 そんな風に考えてしまう自分が、少し嫌だった。
 だけど、そんな私の馬鹿な考えを綾香さんが知る筈もなく。
 彼女は缶を口元から離してから、軽く首を左右に振った。
 それから、もう一度口を開いた。

「ねぇ」
「はい」

 そう言って、そこで止まった。
 それ以上綾香さんは何も言わず、手に持った缶を軽く揺らしていた。
 ちゃぷちゃぷという小さな音が、ほんの僅かに聞こえていた。

「葵はさ……」

 そう言って、止まった。
 少し首を傾げるような、そんな仕草。
 私の目の端に映る黒い髪が、緩やかに流れていた。

「そうじゃなくって、その……私はさ、」

 缶を持っていない手を胸に当て、私の目を覗きこんだ。
 なんだか、不安そうにも見えた。

「うーん……」

 唸るような声で、結局そのまま止まってしまった。
 そんな綾香さんの姿を見ていて。私はなんだかすごく不思議なものを見ているような、
そんな気になっていた。
 綾香さんでも、悩む事もある。それが、なんだかすごく不思議な事に思えた。
 失礼、なんだとはわかっていた。
 でも、そう考えて、なんだか少し気が楽になって。
 でも、そんな風に考えてしまう自分がとても嫌で。
 手に持った缶に口に付けた。
 もう、中身はなかった。
 スチールの匂いだけが、口の中に広がっていた。
 やっぱり、あまり、おいしくない。
 そう思った。





                   了


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 ども、TaSでございます。
 前にここで書いたのは……五ヶ月前ですな(笑)
 はじめましての人の方が多いと思います。
 基本的には図書館の方に出入りしている事が多い人間ですが、たまにはこちらにも顔出
したいなぁ、とは思ってます(笑) どうぞよろしく。
 それでわ。