目の前にそびえる、とても、とても大きな影。 その眼が帯びた強い光は私を貫くかと思えた。 恐くて、逃げたくて、泣きたくて、そんな私にその影は、すっと頭を下げてこう言った。 「始めまして、芹香お嬢様。大旦那様よりあなたのお世話を仰せつかりました、長瀬と申 します。どうぞよろしくお願いいたします。」 その言葉を聞いたと同時に、私の眼からは涙が零れていた。 「へぇ、そんなに恐かったんだ。なんか意外だなぁ。」 日差しに包まれた中庭からゆっくりとした足取りで移動しながら、藤田浩之は隣を歩く人 間にそう言葉を掛けた。 話し掛けられた相手は、さらにゆっくりとした動きで彼に向き頷く。 「・・・・・・」 「え、それまではお爺様とお父様以外の男の人を見たことがなかったって?それでいきな りあのセバスチャンじゃ泣き出してもしょうがないか。」 なかなかに失礼な事をさらっと言う浩之。 話していた相手 −来栖川芹香− はさすがに困ったような顔をして、浩之を見つめている。 中庭からオカルト研究会の部室までのこの短い距離が、芹香はとても好きだった。 「ここには生命を感じます。」 以前浩之に言った言葉だ。 四季の彩りと、風の香りと、人間の生活と。 そのすべてを感じる事が出来た。 その渡り廊下から見える鮮やかな新緑を見つめながら、芹香はゆっくりと思い出していく。 大切な、あの日の事を。 その頬を緩やかな春の風と、それ以上に緩やかな黒髪が撫でていった。 春風がその香を匂わせる頃、芹香は自室の窓から空の青を眺めていた。 胸に抱いたウサギの人形が寂しげに俯いている。 長瀬が始めて芹香に紹介された時からすでに一年が経とうとしている。 しかし、芹香はどうしてもあの執事とは打ち解けずにいた。 いや、長瀬とだけではない。 今この屋敷の中には、芹香とまともに話の出来る人間どころか、芹香の笑顔を見たことの あるものすらいなかった。 芹香は・・・孤独だった。 常に大勢の人間によって世話をされていたにもかかわらず。 芹香は孤独だった。 空の蒼さに少し疲れたのか、芹香はゆっくりと顔を下ろした。 芝生の青さを見ながら、なにか違和感を覚える。 その違和感の正体を捜そうかと思った時。 ふと、視界に影が過る。 その影を追って視線を下ろしてみる。 見つめる先にある人形、手の中にあるウサギの人形は寂しげに視線を落としたままの姿勢 で耳を垂らしていた。 その鼻先、芹香の瞳から20センチと離れていない場所にウサギは純白のリボンを新たにつ けていた。 「・・・チョウチョウ?」 小さな、囁くような声。 しかし、小さな蝶を驚かすにはそれで充分であったようだ。 ぱたぱたと、今にも力尽きそうな弱々しい羽ばたきで蝶は廊下へと向かって飛んでいく。 「あっ・・・」 一瞬の躊躇の後。芹香はその後を追いかけていった。 外見やその物腰から良く勘違いされるのだが、芹香はけして運動は苦手ではない。 単純な身体能力でいうのであれば同年代の少女のそれよりもかなり高い。 後年、妹の綾香がエクストリームのチャンピオンになったという事からもそれは想像でき るだろう。 しかしそれはあくまで同年代の少女と比べて、という事だ。 今ウサギの人形を抱きしめたまま走っているのは、小学校に上がる前の少女にすぎない。 たとえ小さな蝶でも、普通ならば追いかける事など出来るものではない。 しかしその純白の欠片は芹香を先導するかのようにゆっくりと、しかし確実に進んでゆく。 それに、いつもなら必ず誰かとすれ違う、そんな廊下なのに今に限っては人のいるような 気配がまるでない。 そんな様子を不思議に思う余裕もなく、芹香は走っていた。 廊下の突き当たり。そこにある裏庭に面した窓。 開け放たれていたその窓を蝶がゆっくりとくぐって行くのが見えた。 ここは一階。窓から出るのは決して無理な事ではない。 しかし、芹香は困っていた。 「許可なく外に出ては行けません。」 そう、彼女は言われており、彼女自身も今までそれにしたがってきた。 最近は長瀬と一緒にいる事を条件に敷地内であればある程度自由に外出できるようになっ たのだが、それでも裏庭にだけは行ってはいけないと言い渡されていた。 悩む、悩む。 そんな間にも蝶はひらひらと芹香を誘うが如くその羽をはためかせている。 やっぱり止めようか、そんな風に思った時。 「お嬢ぅさぁまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」 そんな叫び声が聞こえた。 最近は多少聞きなれた、しかしやっぱり恐いあの声。 一瞬うろたえるかに見えた芹香は、次の瞬間にその瞳を窓の外へ向ける。 覚悟を決めるかのようにウサギの人形をぎゅっと握り締め、窓に手を掛けた。 芹香の頬が紅かったのは、今まで走っていた為だけではないだろう。 この来栖川邸は、幼い芹香が想像できないほどの広さがある。 当然生まれて数年しか経ってない彼女が赴いた事のない場所は山のようにある。 この裏庭はその中の最たるものだった。 しかし。 「・・・・・・きれい・・・」 鬱蒼としげった森のようになっている裏庭は、だからこそ木々の間から零れる日の光を美 しいと思えた。 深い緑に鮮やかな新緑、煙るような草の香り、今まさに弾けんとする蕾、そして木々の間 に咲く小さな花。 窓越しでは伝わらない、圧倒的な生命の息吹。 すべてが新鮮で、眩しく、そして綺麗だった。 初めてみる春の森の姿に暫しの間魅了されていた芹香の瞳に、純白の一片が踊った。 「あっ・・・」 蝶はゆっくりとその歩を進めてゆく。 芹香はそれを追い、森の奥へと進んでいった。 蝶が芹香を導いている。 誰かがこの光景を見ていたのならそう表現した事だろう。 詩的な表現、という訳ではない。明らかにそう見えるのだ。 しかし当の芹香にしてみればそんな事はどうでもよかった。 この冒険の行く先がどうなるのか、ただそれだけが気になった。 だから、ただひたすらにそのまっしろな蝶を追いかけていった。 だが、 「あれ・・・」 今まで追いかけていた白い欠片が急にその姿を消す。 目を離していた訳ではない。 芹香にしてみれば虚空に溶けたかに思える、そんな唐突な消えかただった。 「・・・・・・」 周りを見渡してみても、その姿は何処にも見付からない。 不思議に思っていた芹香を、何処からか聞こえてきた鳥の声が現実に戻す。 ここは何処なのだろう。 此処まで自分で歩いてきたという事がにわかには信じられない。 先ほどよりも焦ったように周りを見回す。 しかし目印になるようなものは一切見当たらない。 不安に眉を曇らせながら、しかし何とか今まで自分が歩いてきた方向へと足を踏み出した。 その時。 「!!・・・・・・」 一瞬の浮遊感。 地面が崩れる。 足元の感覚が急に無くなる。 刹那の後に、芹香の姿が森の景色から消えていた。 ここは何処なのだろう。 つい十分前と同じ問を自問する芹香。 日の光は遥か上方に見えるのみ。恐らくあそこから落ちたのだろうという事は幼い芹香に も推察できた。 しかしその穴は遥か、遥か彼方にしか見えず、芹香がそこまで登るのは不可能と思えた。 もっともそんな高さから落ちて怪我一つ無いというのは僥倖と言うべきかもしれない。 だが芹香はそんな自分の幸運を喜ぶ気にはなれなかった。 周りの壁に触ってみるとどうやら石を積み上げて出来ているらしい。 その冷たい感触に驚いたのかさっと手を引っ込める。 苔さえ生えていない死の世界。 先ほどまでの生命にあふれた森と同じ場所だとはとても思えなかった。 急に寒気がしたように思う。 それは、不安と言われる物だったかもしれない。 いっしょに落ちてきたウサギの人形をぎゅっと抱きしめた。 芹香は狭い穴の奥でうずくまっていた。 小さな手で人形を抱え、小刻みに震えながらうずくまっていた。 ずっとこのままだったらどうしよう。 ずっとここにいなくちゃいけないのかな。 ずっとこうやっていなくちゃいけないのかな。 ・・・このまましんじゃうのかな。 そんな考えが頭を占めてゆく。 なにかに押しつぶされそうな感覚。 心の中が暗くなってゆく。 辛かった。 それからどのくらいの時が過ぎたのだろう。 不安に疲れて芹香の意識が鈍くなってきた頃。 穴の中の影が一瞬より深みを増す。 それを感じた芹香はびくっと体を震わせ、そっと上を見上げてみる。 そこには。 「芹香お嬢様ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!ご無事ですかぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」 そこには、彼女の執事がいた。 恐い人。 うるさい人。 良く分からない人。 でも、助けてくれた人。 それが、彼女の執事だった。 長瀬の手によって地上に戻った芹香は外がもうすっかり暗くなっている事に気づいた。 「芹香お嬢様、お怪我はありませんか?」 長瀬が尋ねる。しかしその顔も闇に紛れはっきりとは見えない。 暫しの間惚けていた芹香は、その声に己を取り戻しゆっくりと頷いた。 「では、帰りましょうか。」 そう、言ってから背中を向けしゃがみこむ長瀬。 「?・・・・・・」 長瀬の行動が分からないらしく芹香は戸惑っている。 「おんぶ、でございます。背中に乗ってください。」 それを聞いて、芹香はゆっくりとその大きな背中によじ登った。 しっかりと芹香が掴まった事を確認してから長瀬は立ち上がる。 ぐっ そんな感覚が芹香を襲った。 その感覚に目を閉じた芹香は、収まった事を確認してからゆっくりと目を開く。 「・・・・・・たかい・・・」 その高さは、芹香にしてみれば未体験の世界だった。 ついさっきまでと同じ場所であるはずなのに、まるで違う世界にしか見えなかった。 「恐ろしゅうございますか?」 長瀬の声に、芹香はふるふると首を振って答える。 それがわかったのか、長瀬はゆっくりと歩き出した。 玄関の前、ライトが照らしている下へと着くにはそれから五分とかからなかった。 そこまでの間、芹香は最初のうちこそ楽しそうにしていたのだが、だんだんと落ち込んで いるのが背負っている長瀬にはわかった。 しかし、その理由が分からない。 お爺様に叱られるのが恐い、という風でもない。 第一あのお爺様は芹香にはやたらに甘い。 孫娘と一緒にいる所はまさに好々爺、とても来栖川グループ会長の姿には見えない。 もっともそんな事を面と向かって言える人間などいないだろうが。 そんな事を考えるには、玄関までの距離は少々短かったようだ。 長瀬は自らの考えを捨て去りながら芹香をそっと地面に降ろした。 「そろそろ夕食の時間でございます。どうぞお急ぎください。」 そう言って玄関のドアを開ける長瀬。 しかし芹香は動かない。長瀬に降ろされた所から動こうとはしない。 「いかがなされました?」 何かを言おうとする芹香。しかし声にはならず、ただ俯いているようにしか見えない。 芹香はゆっくりと目を上げる。 上げた目ですぐ前にいる長瀬を見上げた。 いつもの白と黒の衣装。それに映える手元の紅。 「・・・!?」 紅。 そんなはずはない。 長瀬はいつも黒のタキシード。似合ってはいるが、それ以上の装飾はない。 芹香の視線に気が付いたのか、長瀬は慌ててその手を隠そうとする。 しかし、それよりも早く芹香がその手を掴む。 両手で掴んだその手は、血にまみれていた。 「あ、いや、あの、これはですな・・・」 しどろもどろになりながら何か言おうとする長瀬。 しかし、芹香はただじっとその手を見つめていた。 「だ、大丈夫でございます。お嬢様のお洋服を汚すような・・・」 芹香が急に眼を上げる。 自然、長瀬と目が合う。 ポロリ 芹香の瞳がその輝きの一つを零す。 それが引き金になったかのように次々に涙の雫が零れていった。 あの穴の中でも落とさなかった涙が、芹香の頬を伝っていった。 しかし、まるで構わないかのように芹香は長瀬を見つめ続けていた。 「・・・・・・ごめん・・・なさい・・・」 そんな声が、長瀬の耳に届く。 芹香は、ただ涙を流していた。 「・・・落ち着かれましたか?」 こくん 長瀬の優しい声に芹香は小さく頷く。 「私めでしたら大丈夫でございます。老いたりと言えどこの長瀬、この程度の怪我で参る ようなやわな体ではございません。どうかご安心を。」 そう言ってにっこりと微笑む。 「・・・・・・」 「え、本当にですかと?もちろんでございます。」 その言葉を聞いてから暫し考え、芹香はスカートのポケットからハンカチを取り出す。 それを、長瀬の手に巻こうとする。 「いけません!そのような事をしてはお嬢様の・・・」 そんな長瀬の声を無視して、芹香は長瀬の手の傷をハンカチで包む。 そして。 「いたいのいたいのとんでいけ。」 そっと呟いた魔法の呪文。 そんな二人の周りを、小さな蝶がゆっくりと飛んでいた。 「・・・・・・」 「へぇ、それが先輩の初めての呪文かぁ。あれ、それはまだオカルトとかにはまる前の事 何でしょ。」 こくん、小さく芹香が頷く。 ここはオカルト研究会の部室。 藤田浩之と来栖川芹香の二人しかいない。 芹香に言わせるとここで二人きりになれるなんて珍しいとの事だ。 因みに浩之はここで他の人間を見たことはない。まぁその辺は認識の違いにすぎないが。 「でも小さい頃の先輩って可愛かったんだろーなぁ。」 そんな事を言う浩之。芹香は真っ赤な顔になって俯いている。 「俺もさぁ・・・」 浩之が続けて何かを言おうとした瞬間。 「ちぇすとぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!」 オカルト研究会の薄い扉はあっさりと砕け散った。 扉をぶち割って入ってきた物体は仮面ライダーも真っ青の美しい『飛び蹴り』の形のまま 2メートルほど床と水平に飛び、見事に一回転した後に直立不動の姿勢になる。 物体はそのまますっと頭を下げ、 「お嬢様、お迎えに上がりました。」 などとほざいた。 「こらじじい!なんであんたは・・・」 「喝ぅぅぅぅぅぅぅぅっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!」 言いかけた浩之を一喝し、ぎろりと睨む。 「藤田様、私めはじじいではなく、セバスチャンだと何度も申しあげているではありませ んか。」 「やかましいっ!それよりもなんで迎えに来ただけで一々扉を砕いて入るんだよ!!」 「やはりこういう事は演出も大切ではないかと。」 「何が演出なんだよ!!だいたい・・・」 「しかし藤田様・・・」 「・・・・・・!!」 「・・・!」 「・・・・・・」 芹香は浩之とセバスチャンのやり取りを眺めていた。 言いたい事をちゃんと言える浩之は羨ましいと思える。 以前浩之に言ったら、彼はこう答えた。 「言わなきゃいけない事を、言えないで後悔すんのは嫌だしね。」 だから、ちゃんと口に出すのだと。 だから、私もちゃんと言おう、そう決心した芹香の瞳は明るい。 いつも自分を守ってくれた人に。 いつも自分のそばにいてくれた人に。 芹香は、そっと息を吸って。 了 -------------------------------------------------------------------------------- TaS:皆様こん??は、TaSでございます。 柳川 :ふん、相変わらず下らん物を書いているようだな。 TaS:ってちょっと待て、なんであなたがここに? 柳川 :仕方あるまい。今回の相方は私なのだから。 TaS:よ、よりにもよって・・・しかしどういう基準で選んでるんでしょう? 柳川 :私が知るか。しかし今回はずいぶん長く書いたものだな。 TaS:ええ、個人的には短い話の方が好きなんですが、どうもその分私は話を急いでし まう傾向にあるように思えまして。 柳川 :ほう、多少は考えているのだな。 TaS:で、ゆっくりじっくりと話を進めていくってのをやってみようかと。 柳川 :なるほど、まぁ成功したようにも見えんが。 TaS:ぎくっ。 柳川 :言うだけであれば誰にでも出来る事だしな。 TaS:ぐっ。 柳川 :志は立派かもしれんが、技量が付いてきていない。悲しい事だな。 TaS:うっ。 柳川 :もっともその志も底の見えたものだ。ま、努力は認めるがね。 TaS:ちっ、ちっっっくしょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!! 柳川 :大体・・・ん?何処へ消えた? TaS:どうもお待たせいたしました。改めまして、TaSでございます。 柳川 :・・・何処へ行っていたんだお前は? TaS:なに、ちょっとした気分転換です。 柳川 :ほう・・・ところでその手に持っている紙はなんだ? TaS:えっ、あっ、こ、これは・・・ 柳川 :(TaSから奪い取って)ほう、私の似顔絵か。なかなかに良く描けている。や ぶれていなければの話だがな。 TaS:何でそんなものを持っていたんでしょうかねぇ? 柳川 :向こうに散らばっているのは・・・砂と、布か?サンドバックでも壊したのか? TaS:物騒な話ですねぇ。お互いに気をつけたいものです。 柳川 :まったくだな。クックックックっクック・・・ TaS:ええ、本当に。フッフッフッフッフッフ・・・ TaS:さて、ではそろそろこの辺でお開きにしようかと。 柳川 :ふむ、しかしまったく意味の無い後書きだな。 TaS:気にしないでください。 柳川 :まぁいいか。ところでTaSよ。 TaS:なんですか? 柳川 :お開き、という事はこれ以上貴様と馴れ合う必要はないという事だな。 TaS:ええ、もちろんそのつもりです。(ゆらぁり) 柳川 :ふふ、いい度胸だ。(ふらぁ) TaS:私に対する暴言の数々、許せるものではありません。 柳川 :いいだろう。狩猟者の真の力、見せてくれよう!! TaS:あまり私を甘く見ない事ですねぇ!!! 柳川 :貴様こそ、人間如きが思い上がるなぁぁぁぁぁ!!! 続く・・・のか?