夢を見る方法    投稿者:Rune 
「――――…………」

 ぼくは代わり映えのしない教師の呪文を聴きながら、今日もねっとりとした妄想の世界
へと落ちていく。

 空気の淀んだ教室。
 何かを見失ったまま、ただ、涙も乾いてしまった瞳を曇らせて板書する教師。
 何かに追い立てられるように、ぼろぼろの手で黒板の記号をノートに写す生徒たち。
 きらきらと毒々しい色彩の粉塵――ラーフルに追い立てられたチョークの粉だ――が、
南に面した窓から差し込む光で化粧して、忙しく舞い散る。
 空気の淀んだ教室。
 けれど、誰も息苦しいと訴え出ない。
 自分を綴じ込めることに十数年もかけて熟達してきたぼくたち。
 今更そのくらい、どうということもない。それが生きることだと理解してしまったから。
 空気の淀んだ教室。

 掠れた教師のそれとは別の呪文が聴きたくなった。
 マイナーだけれど、でも、決して悪くはないアーティスト。
 ぼくは目を閉じる。
 ふと。
 ウォークマン一つ手元にない自分が悲しくなった。
 仕方なく。記憶に刻まれたメロディの感触をなぞる。

 ふと、窓の内から、解放を少しだけ期待して、外へと視線を躍らせた。
 が。
 空は、ただ曇っているだけ。
 二学期が始まって、幾週。
 気怠い雰囲気の教室を、鏡のように、空は強すぎず、弱すぎず、明かりを灯している。

 ――去年の、ことだっけ。
 そう。思いを馳せる。
 瑠璃子さんが、眠りに就いてから。
 忘れた訳じゃない。
 ただ。一年という時間に、何かを区切られてしまったような感触を覚えて――言い様の
ない寂しさが、ふと、ぼくを動揺させたのだった。

 二人は今も眠っている。
 原初の世界に、心を裸にして、身を寄せ合いながら。
 醒めない夢にゆらゆら漂っている。
 きっと。
 ぼくはその世界に憧れたのだろう。
 瑠璃子さんに教えて貰うまでは。
 実際、ぼくはそこまで想われた月島さんに――月島拓也さんに――嫉妬を、羨望を……
口に出すことも躊躇われるほどの感情を抱いていた。
 一人にさせないために、瑠璃子さんが後を追った人。
 そこまで想われて。
 そこまで慕われて。
 月島さんが羨ましくて、妬ましくて――そして、憎みさえしたのかも知れない。
 でも――
 時が経つと共に、そうした感情の一切が薄れていった。
 結局、靄が晴れるように、何もかもが季節と共に記憶の彼方へ吹き飛ばされ。
 今は、ただ、寂しいだけだ。
 学校の何処を歩き回っても。
 昼でも。夜でも。
 ぼくがどんな感情を抱いていても。
 それを受け止めることのできる二人はいない。
 何処にもいない。完全に消失した、ということが、多分、ぼくにはまだ実感として掴め
ていなかったんだろう。
 その想いは、じわじわと、この季節まで、ぼくの胸に満ちようとしていた。

 淀んだ空気の教室。
 淡く沈んだ、外。
 今のここにはロボットのように、ただ、決められたことを決められたように黙々と行う
ぼくらがいる。
 外は外で、煮え切らない天候をだらだらと続ける空から降りて来た熱くも冷たくもない
風が、ゆらゆらと校庭の砂を、その向こうの風景をくすませるだけの埃として舞い上げる。

 あれから、気づいていた。
 瑠璃子さんも。月島さんも。ぼくも。
 みんな、同じだったんだ。
 みんな、寂しくて、悲しくて、怖くて。
 身を寄せ合うことへの欲求に、哭いていたんだ。
 月島さんはその余りに暴走した。誰からも満たされない欲求を数で補おうとした。本当
に身を寄せ合いたい筈の瑠璃子さんへと向き合う強さを持たなかったから。
 瑠璃子さんは、かたくなに背を向ける月島さんに振り向いて欲しかった。だから、彼女
は助けを求めたんだ。彼女は、月島さんを強引に振り向かせるための力も、勇気も持って
いなかったから。

 ――ふと。あれから、考えたことがある。
 瑠璃子さんは、月島さんときちんと話をしてみなかったのだろうか。
 電波の力ではなく、言葉の力で。
 不可思議の力ではなく、ごくごく当たり前の方法で。
 月島さんを抱き締めて、ただ許すと一言言ってみなかったんだろうか。
 多分、勝手な思い込みではあるけれど、おそらくは――できなかったんだろう。
 彼女には、その一歩を踏み出す勇気がなかったんじゃないかと思える。
 だからどうだっていう訳じゃない。臆病であることを罵る資格のある人間なんていない。

 ――ぼくは。
 ぼくには、誰もいなかった。
 それが孤独なふりでしかないことを、ぼくは考えてみようともしなかった。
 ぼくは、誰にも顧みられず、ただ、生きているのを嫌悪するだけだった。
 自分一人が生きている、考えて自己の意味に苦しんでいるという感覚に、どうしようも
なく溺れていた。
 もし、そうであったなら。
 ぼくは、誰彼構わず隣の人間の胸のドアをノックして回らなければならなかった筈だ。
 そうして、ただ感傷に浸るのではなく、挫折しているだけでなく、少しでも自分から、
何かをしようとしなければならなかった筈なんだ。
 ぼくは、それが怖かった。それをすることから逃げていた。
 自分の心をさらけ出すことを、恐れていたから――

 ――勿論、今でも恐れているのだけれど。

 ぼくらは、寂しかったんだ。
 そのためにどうするか、をぼくらは誤ってしまった。
 やり直しの効かないところまで来てしまったぼくの胸に、今すぐ来た道を折り返して、
何もかもをハッピーエンドで埋め尽くしてやりたいという無茶な衝動が突き刺さる。
 みんな笑っていて欲しいと願うことがどれだけの理不尽なんだと慟哭する。
 やり直して何もかも想い出の1ページに閉じこめてしまいたいと哀願する。

 けれど、時は巻き戻しを許してくれない。

 寂寥のままに終わった物語。
 その延長線に、ぼくはだらだらとしがみついている。
 本当にだれもいなくなった世界の感触が、ざわざわとぼくの肌を撫で回して。
 ぼくは、何度この淀んだ教室中の机という机を、ひっくり返して叫びたい衝動に駆られ
たろう。
 夜、眠れない時に、二人のことを思って、何度枕を涙で濡らしそうになっただろう。
 何度、病院に行って二人の肩を揺さぶろうとしただろう。
 それをしなかったのは、弱いからでもあった。
 強がりでもあった。
 そういう姿を自分にすら、ましてや他人に認識させるのが怖くて。
 そして二人の想い出に縛られていないと――自分は一人でも生きていけると信じたくて。
 ぼくは、泣かなかった。
 泣かない分だけ、涙は胸の奥に染み通っていく。
 それが、ぼくにできる二人への精一杯の何かだった。
 それが何と形容されるべきかは理解らないけれど。
 ただ、そう、思った。

 空はどんよりと曇っている。
 明るく大地に光の雫をこぼすのも、闇で閉ざして静かに眠るのも疲れたと言いたげに、
ただ、世界を灰色に揺らめかせる。
 この教室の人間たちの内心を映し出すかのように。
 何かにぼろぼろになることに疲れ切って。
 ただ、そうやって漂って――
 漂って――
 自らの思考から、ただ、逃れたいがための、ささやかな抵抗。
 世界への、ではない。
 それを受け容れるだけしか思いつかない自分への、だ。

 もっと、別の方法があった。
 月島さんも、瑠璃子さんも、きっと二人並んで笑えるそんな方法があった筈なんだ。
 ぼくが今のように寂しくても。
 せめて微笑んでいられる二人を見ることができるなら、その寂しさに見合った何かで、
ぼくはこの空を、もっと優しい気持ちで見られたかも知れない。

 けれど、時は巻き戻しを許してくれない。

 寂寥のままに終わった物語。
 その延長線に、ぼくはだらだらとしがみついている。

 空は、ただ曇っている。
 二学期が始まって、幾週。
 気怠い雰囲気の教室を、鏡のように、空は強すぎず、弱すぎず、明かりを灯している。

 永久に繰り返されるかに思える日常。
 それは、簡単に打破できるのに――
 打破していくことにさえ疲れて。
 或いは脅えて。
 何もできなくなったことを、できなくなることを、考えまいとする。

 自分一人が生きている、考えて自己の意味に苦しんでいるという感覚に、どうしようも
なく溺れていた。
 違うんだ。
 そうして、ただ感傷に浸るのではなく、挫折しているだけでなく、少しでも自分から、
何かをしようとしなければならなかった筈なんだ。
 苦しくても。怠惰にそこに座り続けたいという気持ちを捨て去って。
 ぼくは独りじゃない。
 このどうしようもないやるせなさを共有できる誰かがきっといる。
 瑠璃子さんが屋上で祈るように電波を発信したように。
 月島さんが瑠璃子さんの代わりを彼女たちに求めたように。
 やろうとするなら幾らでもある。
 ぼくの前に拡がる未来は、この空のように、何処までも見える先の読めたものじゃない。
 ぼくの手で変えることができる。
 そして。
 今は、決して独りも怖くない。
 こうして、授業の昼下がりに、二人を想うことが、悼むことができるのだから。
 それは勿論過去に逃げる行為だ。

 けれど、時は巻き戻しを許してくれない。

 寂寥のままに終わった物語。
 その延長線に、ぼくはだらだらとしがみついている。

 それで、いい。
 少なくとも、今は。
 今は、二人を想えるだけ想っていたい。
 二人は過去の世界から帰ってこない。
 この現実へと戻っては来ない。
 だから。せめて。
 その傍らに、今だけはいたい。
 やがて立ち上がって自分の道を切り開くにせよ。
 そのままずるずると二人の傍にいるにせよ。
 まだ、遅くはない。

 寂寥のままに終わった物語。
 その延長線に、ぼくはだらだらとしがみついている。
 それが、物語を生んだ者の最後の仕事。
 永遠に終わることのない――

 けれど、時は巻き戻しを許してくれない。
 早送りさえ許してくれないのだから――

 くす、と。
 そんな微笑が机の上に滴り落ちた。
 がたり、と椅子を揺らして立ち上がる。
 みんな、そんな誰かに気づくこともなく、熱に浮かされたように黒板に魅入っている。
 教師は掠れた声で、色鮮やかな粉塵の舞うこの密室に背を向けるばかり。
 ぼくは満席の教室を、仕方なく最前列を突っ切ってドアに辿り着く。

「おい」

 誰かが焦点の霞んだ瞳にやや驚きを載せて、ドアに手を掛けたぼくに横から声を掛けた。

「何?」
「何処行くんだ?」

 彼は、瞳にぼくではなく、彼自身を映してそう問い掛ける。
 その彼の瞳の中で、彼がゆっくりと上下の唇を引き剥がす――
 ぼくはエスケイプと呟いた後、引き開けたドアの外から吹き込んで来る、あらゆる全て
を吹き飛ばす明日からの風に目を細めた。

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 ……………………(とことことことこ)。
(ぺこりん)
 えーと、ちは。
 Runeです。『普通のSS』を書くのは久しぶりです。
 何か既に皆さまの中では『Lメモ専属作家』と認識されているらしく、少し不本意(笑)。

 冒頭で祐介が思い浮かべた歌詞は、鋭い方ならお理解りかも。
 ZABADAKというアーティストです。
 表題のまんま「夢を見る方法」ってやつで……まあ、誰にも曲を薦めたりはしませんが、
普段は。
 自分、好きなアーティストであればCDを複数買う傾向があるです。
 で、誕生日とかに贈るわけですね。結構好評なんですが、懐が痛むです(笑)。

 どの辺が夢を見る方法なのか、どの辺が10万ヒットお祝いなのか、どの辺が図書館へ
なのかは……まあ、あるんですが、せっかく考えて暗喩を織り込んだんで、書きたくない
です、はい(笑)。
 そゆのって自己満足に他ならないですけどね(笑)。
 ま、お暇な方のみ、持て余す時間があったら考えてみてやって下さいませ(笑)。

 あなたに、あなたのための掛け替えのない物語が訪れていますように。

  1998年 9月 某日 初期稿完成
  1998年 9月 別日 改稿(お世話になっている会議室の皆さんに感謝を添えて)

                        『魔法使いになりたい』 Rune