Remember Memories 投稿者:M.R. 投稿日:7月12日(水)03時15分
 「お、あかり。おはよう」
 「おはよう、浩之ちゃん」

 いつもの交差点。あかりと浩之が朝に落ち合う場所だ。
 もちろん、浩之が寝坊をしなければ、という条件付きだが。
 ただ、ここ何週間は寝坊どころかあかりより早くこの場所に来ている。
 浩之が学業に目覚めたわけでもなければ、あかりのチャイム攻撃に耐えきれなくなったわけでもない。
 その理由は……

 「今日も早いね、浩之ちゃん」
 「おう。あれを見逃すわけにはいかないからな」
 「ふふふ。そうだね」
 「朝から楽しみがあるっていうのは、学校へも行き甲斐があるぜ」

 数週間前までは考えられなかった会話をする浩之とあかり。しかし、内容とはうらはらに今までと全く変わらない様子で学校へ向かう。
 公園を抜け、商店街を通り抜け、坂道を登る。ここまでは数週間前と何ら変わりが無い。
 しかし、校門が近づくにつれ、2人の顔に笑顔が浮かぶ。
 丁度遠くから聞こえる声につられるようにして。

 校門前までやってくる。周りは衣替えも終わって半そでの制服を着た生徒達でいっぱいだ。
 友達とはしゃぎながら歩いている人、眠そうな顔をして歩いていく人、皆それぞれだ。しかし、彼ら彼女らに声をかける一人の女生徒に気を留める者は誰もいない。
 しかしその女生徒はそんな事気にもしないふうに近くを通っていく生徒一人一人に挨拶をしている。右手にはほうきを持ったまま。

 「おはようございまーす」
 「おはようございますー」
 「おはようございまーす」

 2人はその光景を見て、いつものように軽くため息を吐く。そしていつものようにその女生徒に近づいていった。

 「お、マルチ。今日も頑張ってるな」
 「おはよう、マルチちゃん」
 「あ、浩之さん。あかりさん。おはようございますー」

 マルチと呼ばれたその女生徒は2人に声をかけられて満面の笑みで答えた。
 マルチ。正式名称HMX−12型。来栖川エレクトロニクスが開発した汎用メイドロボットの実験機だ。
 メイドロボとは言っても見た目はほとんど人間の何ら変わりが無い。耳のあたりに付いているセンサーを除けば。
 彼女が来たのは今年の4月。初めは運用最終テストという形で約2週間の予定でテスト入学してきた。しかし、さらなるデータ収集が必要となった為、通学期間を延期したのだ。

 「朝早くからいつもいつも大変だろ」
 「いえ、そんな事ありません。皆さんに少しでも気持ちよく学校に来て頂きたいですから」
 「えらいね、マルチちゃん」
 「私も皆さんのお役に立てて嬉しいですー」
 「よーし、マルチ。ご褒美だ」

 浩之はそう言うとマルチの頭に手を乗せる。

 なでなで。
 なでなで。

 マルチはほわーんとした顔でされるがままだ。
 この「なでなで」はマルチのお気に入りだ。春にこの高校へ来た時に浩之にしてもらって以来やみつきになってしまったらしい。浩之もそれを知ってか知らずか、何かと付けてなでなでをしている。もはやコミュニケーションの一つになっているようだ。

 「浩之ちゃん。そろそろ行かないと遅刻しちゃうよ」
 「おう。なでなでしてたら学校の事なんか忘れてたぜ」
 「もう、浩之ちゃんたら」

 目を細めながら浩之とのやり取りを楽しむあかり。
 マルチはと言うと、まだぽーとしている。なでなでの余韻に浸っているのだろうか。

 「じゃあな、マルチ。掃除頑張れよ」
 「え? あ、はい。頑張りますー。浩之さんもお勉強頑張ってくださいねー」
 「お、おう」

 マルチに痛い所を突かれて少しうろたえる浩之。もちろん、マルチに悪気は全く無い。

 「浩之ちゃんも頑張らないとね」
 「ほっとけ」

 ぺしっ

*****

 きーんこーんかーんこーん……

 チャイムの音と共に教室中が眠りから覚めたように活気付く。
 時刻は14時50分。6時間目が終了したところだ。恐らく学校中全ての教室で同じような事が起こっているだろう。
 浩之のクラスももちろんその一つ。教師が教壇から降りるのを待ちきれない生徒はすでに帰る支度を始めている。
 しかし、浩之は浮かない顔をしていた。

 「浩之ちゃん。どうしたの? 学校終わったのにあんまり嬉しそうじゃないみたいだけど」

 気になったのかあかりが聞いてきた。

 「掃除だよ、掃除。しかも玄関。あそこは面倒なんだよ」
 「そうだね」
 「そうだ。あかりは今日掃除当番じゃなかったよな。ちょっと手伝ってくれるか?」

 しかし今度はあかりが浮かない顔になる。

 「ごめん。浩之ちゃん。今日は志保の買い物に付き合う事になってるの。だから……」
 「ばーか。冗談だよ」

 あかりのすまなそうな顔を見てさすがに悪いと思ったのか、浩之は話をはぐらかす。

 「ほら、志保が待ってるんだろ。早く行かないとあいつうるさいぞ」
 「うん。ごめんね、浩之ちゃん。掃除頑張ってね」
 「ああ。分かったから早く行けよ」

 何度も浩之の方を振り返りながら教室を出ていくあかり。浩之はちょっとした罪悪感にとらわれながら重い腰をあげた。

*****

 「ふう。ようやく終わったぜ。あの先生、やっぱり俺に恨みがあるんだぜ、絶対」

 担当の先生の細かいチェックに翻弄されながらもどうにか掃除を終わらせた浩之。口につくのはその先生への愚痴ばかりだ。

 「どうせ掃除したって明日には汚れるんだからよ。いや、ひょっとしたら1時間もしないうちに汚れるかもしれないな。ああ、考えると余計に無駄に思えてきたぜ。掃除なんて週に1回やれば充分…… お? あそこにいるのは……」

 2階への階段を上りきって自分の教室に向かおうとした浩之の目に、脚立に乗って窓をふいている女生徒の姿が飛びこんできた。
 ちびっこい体、緑色の髪、耳のセンサー。
 間違い無い。マルチだ。
 マルチは廊下の高いところにある窓をふいていた。普段なら大掃除の時にでもないと拭かない場所なのだが、マルチにはそんな事関係無いようだ。
 で、そのマルチだが、いかんせん背が低いので脚立の上で背伸びをするようにして窓を拭いている。時々バランスを崩しかける時もある。端から見ていると危なっかしい。
 驚かさないように注意しながら、浩之はマルチに声をかけた。

 「おーい。マルチ。大丈夫か?」
 「あ、浩之さん。今お帰りですか?」

 手を止めて下を向いて答えるマルチ。

 「まあな。それよりマルチ。なんかふらふらしてるぞ。大丈夫か?」
 「はい。こう見えてもバランス感覚には自信があるんですー」
 「……」

 浩之はマルチとの出会いの場面を思い出したが、あえて口にはせず、話をそらす事にした。

 「掃除は窓拭きで終わりか?」
 「いえ。あとモップがけが残ってますー」

 意外な答えに驚く浩之。思わず廊下を見渡してしまう。
 ここで浩之は普通の掃除の光景とは何か違う事に気がつく。このあたりで他に掃除をしているような生徒は見当たらないのだ。

 「おい。他の人はどうした? マルチ以外に掃除している奴はいないみたいだけど」
 「はい。皆さん忙しいみたいで、先に帰られましたー」
 「またかよ。いつもの事ながらひでえ話だな」

 一人つぶやく浩之。当のマルチは笑顔で受け答えしている。
 その裏表の無い笑顔を見るとほおって置けない。浩之は壁に立て掛けてあったモップを手に取った。

 「じゃあモップがけは俺がやるから、マルチは窓拭きを終わらせてしまえよ」
 「え? そんな。大丈夫です。浩之さんに御迷惑ばかりおかけするなんて」
 「そう言うなって。2人でやったほうが早いし、楽しいだろ」

 ちょっと表情を曇らせたマルチだったが、すぐにいつもの笑顔に戻って、

 「はい。そうですね。じゃあ、一緒にお掃除やりましょう」

 と言った。

*****

 浩之はモップを順調に走らせていた。マルチのいるところを起点に15メートルほど向こうまでが掃除の範囲らしい。しかし、廊下の幅はそれほど広くない。5往復もすれば終わるだろう。 
 今丁度2往復半。全体の半分が終わったところだ。一息つく浩之。両膝に両手をつき、ゆっくりと肩で息をしている。日頃の運動不足が恨めしい。
 ふと顔を上げると少し向こうでマルチはまだ窓拭きをしている。息を吹きかけたりしながら念入りに拭いているようだ。
 それを見て気合を入れなおそうとした、その時だった。

 ガタッ

 「は、はわっ、はわっ、はわわわわー」
 「マルチ、危ない!」

 バランス崩したマルチは腕をバタバタさせながら体勢を戻そうとして踏ん張っていたが、ついに脚立から足が離れてしまった。
 浩之が1歩踏み出そうとした時にはマルチはもう頭から廊下に落ちていくところだった。

 ガツッ
 ガシャン
 ガラガラ……

 派手な音を立てて倒れる脚立。遠くにほおり出された雑巾。そして、動かないマルチ。
 浩之はモップをほおり投げ、マルチのもとへ駆け寄った。
 
 「おい! マルチ! 大丈夫か!」

 マルチは答えない。

 「マルチ! しっかりしろ!」

 体を抱き起こしてほおをペチペチと軽くたたいてみる。
 しかしマルチはブレーカーでも落ちたのか反応が無い。
 今までに驚いたり興奮したりしてブレーカーが落ちた事はあったが、外部からのショックで動かなくなった事は初めてだ。ブレーカーが落ちたのなら数分もすれば目を覚ますだろうが、もしそうでなければ……
 見たところ外傷はなさそうだ。頭から落ちたように見えたが特に異常は見られない。それを確認して浩之は少し落ち着きを取り戻す。

 「とにかく、しばらく様子を見よう。少し待ってみて、それでも元に戻らなければ研究所に連絡しよう」

 研究所、来栖川電工中央研究所第7研究開発室HM開発課の電話番号は以前に長瀬主任から聞いている。浩之とマルチの仲がいい事を知った長瀬主任が、何かあったら連絡するように頼んでいたのだ。
 浩之の制服のポケットにはそこの電話番号と携帯の番号(恐らく長瀬主任のものだろう)を書いた紙切れがいつも入っている。だが、実際にそこに電話したことは1度も無い。

 数分が経った。マルチは動く気配すら無い。ブレーカーが落ちたのならもう動き出してもいい頃だ。
 浩之はマルチを壁にもたれるようにして座らせた。マルチは人形のように力無く座っている。
 マルチの体勢が安定したのを確認して、浩之はポケットに手を突っ込む。

 「まさかこんな形でこいつの世話になるとはな」

 ぽつり、と浩之はつぶやく。それに答える者は居なかった。

*****

 研究所の人達がマルチを連れていったのはそれから20分ほどしてからの事だった。
 浩之から事情を一通り聞いた後、マルチの様子を色々と見ていたが、ここではどうする事も出来ないと判断したのか、マルチを抱えて学校を後にした。
 浩之は、一緒に行く、と言ったのだが、

 「大丈夫です。明日にはまた元気に登校しますよ」

 と制されてしまった。
 しつこく食い下がろうとしたが素人があまり口出しするのもどうかと思い、2度ほどお願いした後は全てをその人達に任せる事にした。

 研究所の人たちが学校を出ていった後しばらくそこで立ちすくんでいた浩之だったが、そのうちにかばんを手にして自宅へと向かっていった。
 脚立と雑巾はその場に散乱したままだった。

*****

 翌日。

 浩之はいつもの交差点であかりを待っていた。今日は最近に増してさらに早い。
 マルチの事はまだあかりには言っていない。あかりに変な心配をかける必要は無いし、ひょっとしたら何事も無かったようにマルチが掃除をしているかもしれないからだ。後者は浩之の願望がかなり入っているが。

 「とにかく、早く学校へ行って確かめたい」

 浩之は昨日の夜からそのことばかり考えていた。

 しばらく待っていると、あかりが駆け足でやってきた。

 「ごめん、浩之ちゃん。待った?」
 「いや、今来たとこだ。ほら、早く行くぞ」
 「う、うん」

 いつもの時間にきたあかりに挨拶もせずに歩き出す浩之。
 あかりはその態度に何か引っかかるものを感じていた。

 「ねえ、浩之ちゃん。数学の宿題、やった?」
 「ああ」
 「問3、難しかったよね。私、答え出せなかったよ」
 「ああ」
 「浩之ちゃんは答え出せた?」
 「ああ」
 「え? ほんと? 凄いね。やっぱり浩之ちゃんはやれば出来るんだね」
 「そうか」
 「……ねえ、浩之ちゃん。話聞いてる?」
 「ん? 何がだ?」
 「もう……」

 浩之は登校途中、どこか上の空だった。
 あかりの話に相づちは打つが生返事。問いかけにもピントのずれた答えを返してくる。
 何も事情を知らないあかりは不思議に思ったに違いない。だがさすがは幼なじみ。深く追求する事はしなかった。

*****

 学校前の坂道を登り出した頃、あかりは何か違和感を感じていた。
 浩之の事も気になっていたが、それ以外にも何か足りないような気がしてしょうがなかった。
 しかし校門の辺りまで来た時にそれは解決した。

 「そう言えば浩之ちゃん。今日はマルチちゃん居ないんだね」
 「ああ。そうだな」
 「風邪でも引いたのかなあ」
 「やっぱり居ないか……」
 「あ、マルチちゃんは風邪引かないんだっけ……て、浩之ちゃん。やっぱりって何か知っているの?」
 「え?」

 さすがはあかり。浩之の言葉は隅々まで聞き逃さない。

 「ああ、実はな……」

 浩之は昨日の放課後の出来事をあかりに話した。こうなった以上あかりに隠し事をしてもばれてしまう事は浩之もよく分かっている。その時起こった事からマルチの状態まで、話せる事は全て話した。
 話を聞き終わったあかりは本当に心配そうな顔をしていた。

 「マルチちゃん。大丈夫だよね?」
 「ああ、あの天下の来栖川だ。大丈夫だろう」
 「そうだよね。明日になったら学校に来てるよね」
 「そうだな」

 お互いに不安を消し去ろうとしているのか、2人は教室に入るまでマルチの事ばかり話していた。
 しかし、2人の近くを通りすぎていく生徒達はマルチが居ない事にすら気が付いていないのか、その話をしている気配すら無かった。

*****

 2人の不安が的中したのか、マルチはあれからなかなか学校に来なかった。
 浩之とあかりは毎日のように学校へ早めに行っていたが、あの笑顔で挨拶を受ける事は無かった。
 その度に2人は肩を落として教室に向かっているのだった。
 特に浩之の落胆ぶりはひどく、朝はますます無口になっていき、放課後もどこへも寄らず真っ直ぐに帰宅するようになっていた。
 もちろん、志保がカラオケに誘っても断り続けていた。

 「あかり。ヒロ、最近冷たいわよね」
 「浩之ちゃんはマルチちゃんの事が心配なんだよ」
 「それは分かるけど、あそこまで落ちこまなくてもいいじゃないのよ」
 「一緒に掃除してたんだからしょうがないよ」
 「でも、あいつが悪いわけじゃないんでしょ」
 「そうだけど…… でも、それが浩之ちゃんの優しいところなんだよ」
 「でもねえ……」
 「志保も心配なんでしょ?」
 「え? わ、私はただカラオケに行きたいけど一人で行ってもつまん無いからヒロを誘っているだけで、別にヒロが落ちこんでいるからとかそういうのは関係無いわよ」
 「……マルチちゃんの事だよ」
 「へ? あ、そうそう、マルチね。そうね、心配ね」
 「……」
 「なによう。変な勘違いしないでよね」
 「うん、分かってる。志保も私と同じだね」

 それ以上2人の会話は続かなかった。

*****

 数日後。午後の授業が終わった後、浩之は教室の前で来栖川先輩に呼び止められた。

 「……」
 「え? 最近元気が無いって? そうか、先輩にも心配をかけてたんだな。ゴメンな」
 ふるふる。
 「……」
 「え? 先輩よく知ってるな。そう。マルチの事なんだ。あれから1週間も経つのに未だに学校に来ないからな。そうだ、先輩。先輩ならマルチの事何か知ってない?」
 ふるふる。
 「そうか。先輩も知らないのか」
 「……」
 「いや、気にしなくていいよ。ありがとうな、心配してくれて」
 「……」
 「え? 何でも力になります? うん。その時はお願いするな。……そうだ。明日は土曜日だから学校が終わったら来栖川の研究所へ行ってみるよ。長瀬のおっさんに頼めば何か教えてくれるかも知れないし。何かわかったら先輩にも教えるからさ」
 こく。
 「じゃあ、また明日な」
 
 浩之はその場から立ち去った。
 その後姿を来栖川先輩は何とも言えない表情で見送っていた。

*****

 翌日。
 マルチはやはり学校には来ていなかった。それを確認した浩之は放課後に研究所へ行く決意を固めた。
 あかりも誘ってみたが、あかりは母親と出かける用事があるらしく、結局一人で行く事になった。

 そして放課後。浩之は授業が終わると一目散に学校を後にした。
 しかし、校門の所で思わぬ人物と会う事となった。

 「そんなに慌ててどこに行くつもり?」
 「綾香? なんでお前がここに居るんだよ」

 そこに居たのは来栖川先輩の妹、来栖川綾香だった。

 「そんな事どうでもいいでしょ。それよりも、来栖川の研究所へ行くんでしょ」
 「! よく分かったな」
 「姉さんに聞いたからね。最近姉さんの元気が無いと思ったらそういう事だったのね。でもね、浩之、一つだけ言っておいてあげる」
 「なんだよ。ひょっとしてマルチの事か」

 綾香も来栖川の人間。何か知っているのかと期待した浩之。
 しかし、綾香の口からは意外な言葉が発せられた。

 「浩之。研究所には行かない方がいいわよ」

 浩之は何を言われたのか一瞬理解できなかった。しかし、その一瞬の後、今まで考えないようにしていた事が頭に浮かんできてしまった。

 「それって、まさか、マルチはもう……」
 「マルチの体は大丈夫。研究所に運ばれた2日後には元に戻っているわ」
 「じゃあ、なぜ……」
 「言ったでしょ。体は大丈夫って。問題はそこじゃないの」
 「……」
 「マルチもセリオもメイドロボなの。体は修理する事も出来るし、最悪の場合スペアボディだって使える。でも、メモリー、つまり記憶ね。これはそうはいかないのよ。毎日メモリーのバックアップはやってるけど、あまりにひどく壊れてしまったら一からやり直しなの」
 「それって、つまり……」
 「そう。今までのマルチの記憶は全て書き換え。当然あなたの事も忘れる。いや、正確には知らない事になってしまうの」
 「そんな……」
 「浩之。あなた記憶を無くしたマルチに今まで通り接していける?」

 浩之は即答できなかった。
 しかし綾香も答えは求めていなかったらしく、すぐに言葉を続けた。

 「今、研究所ではマルチの再登校について議論しているの。あなたの高校にもう一度通わすか、それともうちの西園寺女子に通わすか。記憶を無くしたマルチがまたあなたの高校に通ったら周りの人が混乱すると思うのよ。マルチもいい思いはしないと思うし。それだったら今度は西園寺女子に通えば、ね」
 「……」
 「多分今日あたりにも結論は出るんじゃないかしらね。いつまでも議論していてもしょうがないし」
 「それじゃあ……」
 「明日、もしあなたの高校にマルチが来なければうちに来る事になった。そう考えていいと思うわ。どっちにしても今までの記憶は失っているんだけど」
 「……」
 「私の言いたかった事はそれだけ。それじゃあ」

 綾香はそう言い残すと足早にその場を去っていった。途中で何度か振りかえって浩之の様子をうかがっていたが、彼はその場に立ちすくんだまま顔を上げようとはしなかった。

 「いつまでも黙っているわけにもいかないし。これでよかったのよね」

 独り言のようにつぶやく綾香。彼女もまた浩之を心配する人物の1人だった。

 その浩之の頭の中にはもうすでに「研究室へ行く」という選択肢は無い。彼の頭の中は「マルチが記憶を失った」という言葉に占領されていた。
 その後彼は家に帰ったのだが、その途中の記憶は無い。足が機械的に動いているだけで、頭の中はその事でいっぱいだった。
 着替えるのももどかしくベットに倒れこむ。もう何もする気が起こらない。
 ただ、マルチの事だけが頭に浮かんでは消えていく。それだけだった。

*****

 次の日。
 浩之はまぶたに降り注ぐ眩しい日の光で目が覚めた。ふと窓に目をやると窓越しに雲一つ無い青空が目に入る。
 昨日はあのまま寝てしまったらしい。カーテンを閉める事もしないで。

 正確には彼はほとんど眠っていない。
 マルチの事を考える。そのうち意識が遠くなっていく。眠りに入りかけるとマルチの顔が浮かんでくる。意識が戻る。マルチの事を考える……
 この繰り返しだ。
 しかしその堂々巡りの中、中心はいつも同じだった。
  
 もしマルチが登校してきても、もう俺の事は覚えていない。全くの初対面という状態での再会。そんな事俺は耐えられるのだろうか。

 理屈では分かっている。もう一度あの時みたいに掃除を手伝ってやったり、なでなでしてやればいい。記憶を失ったとしてもマルチだという事には変わりない。
 だが、気持ちがついていかない。マルチは、運用テストとして入学してきてから今までの事を全て忘れている。しかし俺は逆にはっきりと覚えている。このギャップを乗り越えてあの笑顔を真正面から見る事が出来るのだろうか。きっと俺の方から目をそらしてしまう。

 彼の気持ちは後者の方が優勢だった。今までの思い出が大きい分それを失った時、しかも相手だけが失った時の反動もまた大きい。

 いっそのこと寺女に行ってくれた方が苦しまなくていいのかも。
 でもそれでは恐らく2度とマルチに会えなくなる。それは嫌だ。
 しかし……

 ピンポーン

 突然インターホンが鳴る。
 はっと思い時計を見ると8時15分。いつもなら坂の手前まで行っている時間だ。
 いつまでたっても来ない浩之を心配になってあかりが迎えに来たのだろう。聞きなれた声もインターホンを通して聞こえる。
 浩之はようやくベットから動き出した。

*****

 「待ってよ、浩之ちゃん」
 「……」

 あかりは浩之の背中に向かってうったえる。
 2人は浩之の家を出てから駆け足で学校に向かっていた。
 遅刻しそうというのもあるがそれだけではないようだ。少なくとも浩之には。
 いつもならあかりがへばってくると速度を落とすのだが、今日に限って落とす気配すら無い。それどころか家を出てから、

 「少し急ぐぞ」

 と言ったきり話もしてない。
 ただ、あかりには何となく理由が分かっている様で、あまり追求しなかった。ただ必死に浩之に付いて行っていた。

 学校の近くまで来た時、ようやく浩之が速度を落として歩き出した。そのすぐ後ろであかりは肩で息をしている。
 歩き出してから数十秒後。あかりの呼吸もどうにか落ちついてきた。周りの様子も分かるようになる。
 その時初めて校門の辺りの雰囲気がいつもと違うような感じがするのに気が付いた。どう表現していいのか分からないが、なんか懐かしいような感じだった。
 浩之もそれに気が付いたのかやけにそわそわしている。
 2人はお互い合図を送るわけでもなく、そろって校門へと急いだ。

 校門のところには同じ制服を着た生徒が沢山いた。見なれた光景だ。
 しかし1人だけ、数日の間その光景には無かった生徒がそこにいた。その生徒は近くを通る生徒一人一人に向かって元気よく挨拶をしている。

 「おはようございますー」
 「おはようございますー」

 あかりはその生徒の事をよく知っていた。だからその生徒のところへ行こうとした。
 浩之もその生徒の事はよく知っている。しかし、彼はその生徒のところへ行こうとしなかった。

 「浩之ちゃん?」

 あかりの問いかけにも答えずに浩之はその生徒から少し離れたところを通って行く。

 「おはようございますー」
 「おはようございますー」
 「あ、おはようございますー。浩之さん。あかりさん」

 ?!
 浩之の足が止まる。

 「お元気でしたか? 浩之さん」

 浩之の顔がその声の方を向く。
 その声の主である生徒、マルチはいつものにっこり笑顔を浩之に見せていた。

 「マルチ? 俺の事が分かるのか?」
 「はい。もちろんですよ、浩之さん」
 「でもお前の記憶は……」
 「まさに奇跡だったよ」
 「?」

 背後から声がしたのに気付き、慌てて振り向くとそこには白衣を着て不精ひげを生やした中年の男性が立っていた。しかしその人を浩之は知っていた。

 「長瀬のおっさん?!」
 「あ、主任さん。今日は送って頂いてありがとうございますー」

 マルチも挨拶をする。

 「マルチ。掃除はいいのかい?」
 「あ、そうでした。じゃあすぐに終わらせてきますねー」
 「ああ。それと、あかり君だったね。悪いがマルチの手伝いをしてもらえないだろうか。このままだと間に合わないだろうから」
 「え、はい。分かりました」

 そう言うとマルチとあかりは、マルチがさっきまでいた場所に戻って掃除を再開した。

*****

 「さて、マルチの事だったね」

 マルチの掃除姿を目を細めてみていた長瀬主任は白衣のポケットから煙草を出しながら言った。

 「確かにマルチのダメージは大きかった。特に頭部の損傷が。と言っても修復するのにはそれほど時間はかからなかった。スペアもあるしな。だが、問題は……」
 「記憶ですよね」

 浩之が口を挟む。

 「そうだ。マルチの記憶も人間のそれと同じように頭部で処理している。そこに大きなダメージを負ったのだから当然何らかの障害がある事は想像に難くない。実際彼女のメモリーを解析してみると復旧不能なほど破損していた。これを見た時はショックだったな」

 言いながら長瀬主任は煙草に火をつけ感慨深そうに一服する。

 「すぐに緊急の会議が始まった。ここでマルチの運用テストを中止するわけにはいかない。だが、どこでその続きをするべきなのか。そこで一番問題になったのが……」

 そう言うと長瀬主任は浩之の方を見た。

 「君の事はマルチから毎日のように聞いていたよ。メイドロボとしてではなく1人の女の子として接してくれているという事もね。マルチもその事を知ってか知らずか君の事を気に入っていたみたいだしね」
 「……」
 「だからみんな困った。マルチにも君にも悲しい思いはさせたくない。だか、運用テストは続行しなければならない。何日も議論したがなかなか結論は出なかった」

 また長瀬主任は遠くの方を見る。

 「そんな時だ。いつものように議論していると不意に声が聞こえた。その声を聞き間違えるはずは無い。我々みんなが手塩をかけて育てた大事な娘の声だからな。でも、スリープモードに入っているので話せるはずが無い。不思議に思って様子を見てきた」

 一息入れる長瀬主任。

 「驚いたね。マルチが君の名前を口にしていたんだ。涙を流しながら」
 「え? 俺の名前ですか?」
 「そうだ。すぐにメモリーのチェックをしたよ。そうしたら、メモリーの一番奥底に残っていたんだ。君との思い出が」
 「……」
 「これを見た瞬間、議論する必要が無くなった。マルチは君の事を忘れていない。それだけで充分だ」
 「それで今日つれてきたんですね」

 何も言わず長瀬主任は頷く。浩之を見る目は優しいものだった。

 「浩之君」
 「はい」
 「我々のふつつかな娘だが、これからも頼むな」
 「分かっています。俺からもお願いしたいくらいです」
 「そうか。それはよかった。マルチも喜ぶな」

 長瀬主任はまたマルチに視線を戻す。やはり目は優しいままだ。

 「浩之さーん。主任さーん。お掃除終わりましたー」
 「おう。お疲れさん。あかりも」
 「うん」

 マルチとあかりが掃除を終わらせて戻ってきた。マルチの手にはごみ袋が下がっている。

 「さて、学校が始まってしまうな。そろそろ私も研究所に戻らないと。では、失礼するよ」

 くるりと踵を返すと長瀬主任は校門に掛け込んでくる生徒を掻き分けるようにして学校を後にした。その背に浩之達がお礼を言うと片手を上げて返事を返す。

 「よかったねマルチちゃん。また一緒に勉強できて」
 「はい。これからもよろしくお願いしますー」
 「おう。まかしとけ」

 ここ数日見せなかった浩之の笑顔を見て、あかりは目を細めて微笑んだ。
 キーンコーンカーンコーン
 その時、朝の予鈴が鳴った。
 聞きなれたいつものフレーズも、この場にいた3人には歓喜のファンファーレに聞こえた、かどうかは定かではない。

  ……おしまい

http://www.aat.mtci.ne.jp/~ytomoya/index.htm