七瀬彰の「エコーズ」日記 〜緒方理奈事件〜     Prologue 投稿者: MRT
 僕の名前は七瀬彰。
 職業は、喫茶店のマスターだ。
 店の名前は「エコーズ」。とあるテレビ局の近くで、ひっそりと営業している。
この店ができた時のオーナー兼マスターは、フランク長瀬という人だった。ちょっと日本人離れした名前だけど、れっきとした日本人で、ついでに言うと、僕の母さんの弟、つまり血のつながったおじさんだ。
 もともと、フランクおじさんはロボット工学の分野で先端的な研究活動をしていた学者だった。
 おじさんの研究活動は、2つの特許として花開いた。僕は根っから文型の人間なんでよくわからないけど、最近急速に普及しつつあるメイドロボを作る際に、この2つの特許は必要不可欠なんだそうだ。したがって、最大手の来栖川をはじめとして、日本のメイドロボ・メーカーはすべて、メイドロボを一台生産するごとに、おじさんに特許使用料を支払うことになる。もちろん、数年前に設立された「国際特許著作権管理機構」という舌を噛みそうな名前の国際機関が、アメリカやイギリス、ドイツなどのメイドロボ・メーカーにも、おじさんの特許に対して特許使用料を支払わせている。
 まあ、要するに、フランクおじさんは超リッチな人で、この先メイドロボの普及がさらに進めば(間違いなくそうなるだろうけど)、もっともっとリッチになるだろう、ということだ。
 こうして大金を手にしたおじさんはあっさりと研究の道を捨て、テレビ局のそばに土地を購入し、喫茶店を建て、そこのマスターにおさまってしまった。
 今から6年ほど前のことだ。
 当時僕は大学に入ったばかりのころだったけど、おじさんから頼まれて、この店でバイトとして働くことになった。まあ、あまりお客の多い店ではなく、楽なバイトだったし、幼友達の冬弥と一緒に働けたので、とても楽しかった。
 やがて、僕は大学4年になり、就職活動をはじめた。でも、なかなかうまくいかず、「このままだと就職浪人かな〜」などと、やや投げやりな気分になりかけたころ、フランクおじさんがとんでもない話を持ちかけてきた。
 この店を、「エコーズ」を、僕にくれるっていうんだ。
 おじさん曰く、南太平洋のキリバス諸島というところが、えらく気に入ったので、コテージを建てて移り住むつもりだ、ということだった。
 で、この店はいらなくなったから、僕が店を引き継いでくれるんなら、ただであげる、ということらしい。
 まあ、就職浪人とかフリーターとかよりはましかな、と思って、2代目マスターになることにした。
 店自体の売上はなきに等しいけど、2階が貸事務所になっていて、テナント料として、それなりの金額が安定して入ってくるから、経営的にはそこそこ安定している。
 特に、半年前に入った新しいテナントは、業績の順調な優良企業だから、テナント料をもらい損ねることはないだろう。
 その会社の名前は、「フジイ・エージェンシー」という。アイドルから本格派のアーチストへと、華麗なる転身を果たした歌手、森川由綺と、新進気鋭の小説家兼エッセイスト、澤倉美咲の2人について、いわゆるエージェントとして、仕事のスケジュール調整などのマネージメント活動を行っている会社だ。
 社長の名前は、藤井冬弥。かつてこの店で一緒にバイトしていた、僕の幼友達だ。ついでにいうと、森川由綺の夫でもある。
 そして、美咲さんは僕と冬弥、由綺の3人にとっては、高校、大学を通じての先輩にあたる。つまり、4人とも長い付き合いの友達なのである。
 さて、この4人のうち、冬弥と由綺は結婚した。
 で、問題は残る2人。僕と美咲さんである。冬弥に言わせれば、僕が美咲さんのことを好きなのは、僕らの仲間うちでは「公然の秘密」というやつらしい。そう、僕は美咲さんのことが好きだ。もう、高校時代から、ずっと。
 でも、なんとなく面と向かっては告白できないまま、「友達以上恋人未満」の微熱っぽい関係のまま、今にいたってしまっている。
 たぶん僕は、臆病すぎるんだろう。
 告白することで、今の微妙な関係を壊してしまうことを、恐れているんだろう。
 こういうのを、きっと「モラトリアム」というんだろうな。

 それにしても暇な店だ。
 今も、客はたった1人。そのたった1人の客というのも、他ならぬ美咲さんだから、あまり「お客様」って感じでもない。
 この店のもう一人の従業員であるウェイトレス(一応)の河島はるかなんて、カウンターの端の席で居眠りしてるし…。
 それとも、僕と美咲さんに気を使って、寝たふりをしてくれてるのかな?
 いや、まさかね。
 履歴書を書かせたら、趣味の欄に「散歩」、特技の欄に「昼寝」と書きかねないはるかのことだ、きっと、ただ単に眠たかったんだろう。はるかは、冬弥同様、ほんとに小さいころからの友達だから、そのへんはお見通しだ。
 美咲さんはよくこの店に顔を出す。店には美咲さんのラップトップコンピュータがキープしてあって、フロッピーさえ持ってくれば、ここで仕事もできる。仕事の合間には、僕やはるかと雑談をしながらコーヒーも飲める。
 美咲さんは穏やかな笑みを浮かべながら、昨日はるかと公園に散歩に出かけたときの話をしている。僕はその話を、うんうんとうなずきながら聞いている。
 僕にとっては、昼下がりの、ちょっとした至福のひととき、というやつだ。

 カランカラン。
 店のドアが開いた。お客さんだ。
「あ、理奈ちゃん、いらっしゃい」
 緒方理奈。数年前にはアイドル歌手として頂点を極め、現在ではドラマやバラエティ番組へも積極的に進出している。いわゆる「大物芸能人」の一人だ。
 僕たちとは由綺を通じて知り合い、友達になった。
 彼女も、忙しいスケジュールの合間を縫って、この店によく顔を出してくれる常連客の一人だ。
 ん?なんか変だ。理奈ちゃんの顔色、やたらと青ざめてないかな?
 僕らのほうを見もせずに、テーブル席に座ってしまう。
 突然、むっくりと起き上がったはるかが、すたすたと理奈ちゃんのほうに歩み寄る。
「どうかした?」
 間近で声をかけられて、はっとしたように理奈ちゃんは顔を上げた。
 ただならぬ雰囲気を察した美咲さんも、席を立って理奈ちゃんのほうへ近づいていく。僕は、理奈ちゃんがいつも注文するキリマンジャロをミルにかけながら、成り行きを見守っている。
 はるかが理奈ちゃんと向かい合うように座った。美咲さんは理奈ちゃんの横に座り、その肩に優しく手をかける。
「何があったの?…私たちでよければ、話してもらえないかしら」
 理奈ちゃんはちょっとだけ逡巡する様子を見せたけど、やがて意を決したように話し始めた。
「お昼のバラエティ番組の生収録が終わって、さっき私のマンションに帰ったの」
 かつては兄の緒方英二さんの家に同居していた理奈ちゃんだけど、2,3年前からマンションを借りて、一人暮しをしている。
「そしたら…」
「そしたら?」
 美咲さんが、うつむいた理奈ちゃんの顔を覗きこむように、聞き返す。
 その次の、理奈ちゃんの言葉を耳にした瞬間、彼女専用のジノリのカップを取り出そうとしていた僕は、危うくカップを取り落としそうになった。
「そしたら、リビングの床の上で、人が死んでたの」
                               (続く)