恋する季節 投稿者:NTTT 投稿日:5月9日(火)20時43分
「そろそろ初夏という頃合いでもあるし、君にも話しておいた方がいいかと思ってね、こ
うして呼び出したわけさ、藤田君」
「はあ…」
「君は、『ストックホルム症候群』というのを、知っているかね?」



今日は、お買い物なのです

卵と、キャベツと、お台所の洗剤と、ティッシュのお徳用

卵は、6個入りのパックです

これからだんだん暑くなってきますから、食中毒には気をつけないとです

洗剤は、自然に優しい物を選ばないといけません

「買ってはいけない」に載ってないものを選ぶです

マルチは、ご主人様を、環境の敵にはしないのです

マルチ、ご主人様のためにも、地球を守らねばならないのです

ご主人様も、きっと、ほめてくれるです

えへへ



「で、何なんです、その『スト…なんとか』ってのは?」
「『ストックホルム症候群』って言ってね、要するに、極限状況に置かれた場合、人間同士
は、心の結び付きが、男と女であれば、愛のような感情が芽生えるという話なんだよ」
「あ、人質と犯人で恋に落ちたって、あれ?」
「よく知ってるじゃないか」
「なんか、テレビで見たか、漫画で読んだかした覚え、あるような…」
「じゃ、吊り橋の実験とか、知ってるかな?」
「いや、知りません」
「有名な実験なんだけどなあ…」



ふう、ふう

重いですー

特売だったので、キャベツを2玉買ってしまいました

ご主人様はお野菜をあまり食べないので、ビタミンが足りなそうで、心配なのです

今日から付け合わせに、キャベツをいっぱい使うです

でも、2玉は重いですー

手のひらが、痛いですー

負荷が多いのか、体もちょっと熱いですー

ちょっと、公園で、一休みですー



「つまりね、グラグラ揺れる不安定な吊り橋の一方の端に男の子、もう一方の端に女の子
を立たせる。で、男の子のほうに、吊り橋を渡らせるんだ。すると、あら不思議。男の子
が女の子のいる端にたどり着くころには、男の子はその女の子に、恋してしまっているん
だね」
「なんか、嘘くさいなあ」
「ちゃんと確かめられてるし、理論もしっかりしてるのさ。つまりね、グラグラ揺れる吊
り橋を渡る際、どうしても男の子は、女の子を見てしまうんだけど、その時、吊り橋が揺
れるせいで、男の子はドキドキして、鼓動が早くなるんだね。で、ここからは脳の不思議。
脳は、そのドキドキに、女の子を関連付けてしまうんだ。『こんなに胸がドキドキするのは、
この女の子を見てるせいで、僕はひょっとしたら、この子に恋してしまったのかもしれな
い』ってね」
「へえ、面白いな、それ」



ベンチで、一休みですー

今日の公園は、誰もいませんねー

あ、でも、向こうのベンチで昼寝してる人がいます

サラリーマンの方でしょうか?

気持ちよさそうですねー

あ、犬さんもいます

犬さん、犬さん、こんにちわー

はい、いいお天気ですねー

ひなたぼっこですかー

あ、これはダメですよ

ご主人様のための、お買い物ですから

犬さん、わかってくれたんですね

偉いですー

背中をなでなでしてあげるですー

でも、今日は暑いですねー

もうすぐ、夏なんですねー



「大体、マルチとその吊り橋と、どういう関係が?」
「そうそう、その話。感情を持つマルチは、これからの季節、危険なんだよ」
「危険?」



犬さんの背中、ふわふわですねー

もっと、なでて欲しいですか?

じゃ、もっとするですー

本当に、今日は、暑いですねー



「マルチは、危険な吊り橋でも、まあ、ドキドキするんだが、それよりドキドキする状況
というのが、日常的にあるんだよ」
「そうなのか?」
「オーバーワークなどで、回路が一旦ヒートしてしまうことが、よくあるだろ?君も見た
はずだと、思うんだけどね」
「ああ…」
「日常的な動作では、それほど回路が熱をもつことはないんだが、どうしても精密な機構
だから、高い気温にさらされるのには弱くてね」
「え、でも、風呂とかにも、入れるぜ」
「システム自体は、日常的な状況には、充分、耐えられるんだよ。問題は、マルチの感情
がそれをどう処理するかなんだ。今までは、そういう状況でドキドキするような時は、君
が常にそばにいただろうから、何も問題はなかったんだが…」



ああ、暑いですー

犬さん、気持ちいいですか?

あ、気持ちいいんですね

こうして見ると、犬さん、すごく素敵ですー

ひょっとしたら、ご主人様より…

あ、ダメなのですー

浩之さんは、れっきとした、マルチのご主人様なのですー

犬さんと比べてはいけないのですー

あ、舐めちゃだめです、犬さん

ダメなんですー

マルチには、ご主人様が…

あ、そんなとこまで…

ああ、マルチ、困りますー

ああ、でも…

そんな目で見られたら…

犬さん、犬さん、犬さん…


ざっぱああああああああああああああああああああん


「マルチ、大丈夫か、マルチ!!」
「あ、ご、ご主人様、どうして、ここに?それに、その、バケツ…」
「悪い。これしか冷やす方法が思いつかなかったんでな」
「ふぇぇ、ずぶ濡れですー」
「いや、危ないとこだったぜ」
「えっ!マルチ、危なかったんですかー」
「おお、早く家に帰ろうぜ。これからは、買い物は、夏場は夕方にして、あんまり重い物
とか持つなよ」
「…ご主人様、やっぱり、優しいです…」
「さ、帰って着替えないとな」
「は、はいぃ…あ、犬さんは、どこに?」
「ああ、あっちに逃げてっちまった」
「そうなんですかー」
「ほら、早く帰るぞ」




また会いましょうね、犬さん

ご主人様がいない時に…