その日、綾香は暇だった。 いつもなら外出しているところであったが、あいにく、外は曇り空。 雨の降り出しそうな天気の中、好んで出ていくほどの元気は、その日の綾香にはなかった。 広い自室の中、年代物の家具らしきベッドに腰掛け、頬杖をつく。 ちら、と窓の外を眺めやり、再び視線を戻す。 「セリオ…は、いないのよね…」 セリオは今日、来栖川エレクトロニクスの、研究室に行ってしまった。 メンテナンスは、今日いっぱい、かかる予定だ。 「ふう…」 何度目かのためいきの後、天井を見上げる。 しばらく、見上げ続ける。 やがて、ふっ、と力を抜き、そのままベッドに倒れ込んだ。 窓の外は、薄暗い。 小雨。 綾香は、部屋の中央で、膝を抱えている。 その前には、携帯のコンロ。 その上には、ヤカン。 その注ぎ口からは、糸のような湯気が、二筋。 綾香は、薄暗い部屋の中、その湯気がたゆたうのを、ぼんやりと、見ている。 なかなか、お湯は沸かない。 綾香は、じっと座って、ただ、ぼんやりと、見ている。 窓の外が、一瞬、光った。 稲光。 雨。 綾香は、部屋の中央。 仰向けに、寝転んでいる。 ほっそりした腹部の上には、猫。 ときおり、猫が床の上に降りようとするのを、手で押しとどめる。 猫を体に乗せながら、綾香は、天井を眺めている。 猫が、また床の上に降りようとする。 綾香が、とどめる。 猫が、うらめしそうに鳴く。 雨。 綾香は、ベッドの上。 あぐらをかいて、座っている。 左手には、消毒用のスプレー缶。 右手は、腕まくり。 丹念に、吹き付ける。 吹き付けた後、スプレー缶を、じっと見る。 注意書を、ゆっくりと、三度読む。 耳元に近づけ、振ってみる。 なにもない空中に向けて、吹き付ける。 スプレーから射出された細かい泡。 あるいは空中に溶け、あるいはベッドの上に不規則に散らばり、やはり溶けていく。 シーツの上、泡が溶けた部分を、綾香はそっと撫でた。 雨。 綾香は、クローゼットの前。 背中越しに、ハンガーごと、服を放り投げる。 背後には、服の小山。 ふと、手を止めて、持った服を、鏡の前で合わせてみる。 そして、また放り投げる。 引き出しを開け、下着を手に取る。 一つ一つ、見るともなく見ながら、やはり投げる。 綾香の額に、うっすら、汗が浮かぶ。 それでも、根気強く、丹念に、引き出しを空にしていく。 そして、2番目の引き出しに取り掛かった時、声がした。 「綾香様?」 「せっ、セリオっ!?ノ、ノックはどうしたのよ!!」 「致しました」 「あ、ああ…あ、あのさ、あ、アレ、どこいったのかな、アレ…」 「『アレ』と、申しますと?」 「え、ええっと、だから、アレよ、えーと、あ、そうそう、Tシャツ。そう、あの、チ ョウチョの絵のやつ。見つかんないのよ。そ、それで、まあ、こうやって、探してんのよ」 「綾香様?」 「だっ、だから、しょうがないじゃない。見つかんないんだから。全部、こうやって、 探さないと…」 「今、綾香様が着てらっしゃいます」 「な、何?あたしが、着てるって?で、でも、ほら、これ、無地じゃないの。無地。真っ 白でしょ、ほら。何言ってんのよ、セリオ。あっ!!ひょ、ひょっとして、メンテナンス で何か変なことされたんじゃないでしょうね!す、すぐ研究所に行かないと。あ、ああ、 ど、どうしよ…」 「綾香様?」 「は、早く支度しなくちゃ。せ、セバスに車出してもらわないと…もう、人んちのセリオ になんてことすんのよ、あいつらは!!」 「綾香様」 「ほ、ほら、あんたも、早く支度を、いや、あんたはそのままでいいから、早く、ほら!」 二人、いや、一人と、それに引きずられた一体は、部屋を出て行く。 一人の背中には、極彩色の蝶の絵。 雨は、いつの間にか、止んでいた。