むじなの  投稿者:MIO


 子供の頃のことを思い出す。

 やれ、つないでおいた鼠はどこかいな?
 猫めが食ろうてしもうたぞ。
 やれ、つないでおいたむじなはどこかいな?
 狗めが食ろうてしもうたぞ。

 はて、むじなは、狗が食ろうたのであったか・・・
 ―――やめろ。
 昔を振り返れば、武運が落ちる。
 戦の場で、昔を思えは―――命を落とす。
 雨雲の蔓延り、月のない晩、次郎衛門は、宿を求めて歩いていると、
 りん・・・
 と、鈴の音を聞いた。
 ・・・なんだ?


 ―――鬼でも斬りにいきなさるか


 藪の中からかけられた声に、次郎衛門は足を止めた。
 見れば、背の曲がった老爺が一人、こちらを見ている。
 頭のはげた、汚いなりの老爺であった。
 面妖な―――そう思い、次郎衛門は刀に手をかける。
「今、なんと申したのか」
 刀に手をかけての詰問に、老爺は笑って答える。
「ヘェ、鬼でも斬りに行きなさるか、と申してございます」
 笑うと、その細い目は、皺に埋もれてしまう。
 刀に手をかけた士を前にして、笑うのか―――
「どうして・・・そう思う」
「ヘェ?」
「どうして、俺が鬼を斬りにいくと、解ったのか」
 老爺は再びくしゃくしゃと笑う。
「なに、おさむらい様の顔が、あんまり怖い顔をしてらっしゃったので」
 ―――怖い顔。
「これは、鬼退治にでも行かれるものかと―――じじの寝ぼけた戯言にございますよ、ヘェ」
 次郎衛門は刀を収めると、老爺に向き直る。
「俺は、そんなに怖い顔をしていたか?」
 老爺は、ヘェと言って頷いた。
「畜生どもも、震え上がるほどで」
 老爺はにこにこと笑っている。
「実はな―――斬るのだ」
 老爺は、再びヘェと頷いた。
 一瞬、知っているかとも思ったが、ただの口癖らしい。
「雨月山の鬼の討伐隊に参加せよとお声がかかった―――鬼退治だ」
「鬼は―――」
 老爺の声音が変わった。
「鬼は、人の身では殺せませぬぞ」
 背虫の老爺は、異様な雰囲気を纏ながら、そう言う。
 次郎衛門は動じない。怪しい動きをすれば、即座に斬って捨てるだけの技はある。
 天城忠義は、雨月山のそれを鬼と言う、しかし―――
「どうせ野党の類だ」
「失礼ながら、おさむらい様は・・・山城は八瀬にて鬼を斬ったはず」
「いかにも」
「ならば―――」
「あれも、ただの野党であった」
 それでも、八瀬の童子殺しの通名は、次郎衛門を雨月山へと導いたのだが・・・
「―――次ぎも、同じであろう」
 老爺は、にやりと笑う。
 ―――何が可笑しい。
「雨月山には、まことの鬼が出ますぞ」
「それでも―――斬り捨てるまでだ」
 老爺は、大笑した。
 ぽっかりと開いた口に歯はなく、真っ暗な空洞が、突然顔に現れたようにも見えた。
 りん・・・
 再び鈴が鳴る。見れば、老爺の腕に、小さな金いろの鈴が・・・
 その鈴・・・何処かで・・・
「おさむらい様は、たいそう剣の腕の達者な御方でありましょうよ―――しかし」
「俺は、鬼など信じぬ」
 老爺は、笑って―――ヘェ、存じておりやす、と言った。
「それでも・・・居るのでございますよ、あの―――雨月山には」
 鬼は真実居るのでございます、ヘェ―――老爺はそう言ってしつこく食い下がる。
 りん・・・
 次ぎは、次郎衛門が笑って見せる番だった。
 人差指を唾で濡らすと、そっと眉をなでる。
 老爺は、目を剥いた。
「人も化かせぬむじなに、何を言われても、心変わりするものではない」
 老爺は、はげた頭をぴしゃりと叩き、
「いや、気づいておられたか・・・」
 と、言った。
「それ、その鈴だ。それは、俺がおまえにつけてやったものだ」
「ヘェ、左様にございます」
「狗にでも食われたかと」
 むじなはカカカと笑う。
「なんの、あの馬鹿いぬ如き」
「どれくらいになるか」
 むじなは、ヘェ、あれから十年になりましょう、と懐かしそうに笑う。
 ―――生きていたのか。何故か嬉しくなる。
「・・・今日は、如何様で現れたのだ。まさか、俺を化かそうと言うのではあるまい」
 むじなは笑い、なにやらもぞもぞとやると―――
「ヘェ、これをお返しにあがりました次第」
 りん・・・
 鈴か。
「本当ならば、雨月山に行かせぬところではございますが、お心変わりの無い様子―――」
「うむ」
「ならば、せめてこの鈴をお持ち下され。きっと、きっと次郎衛門さまのお命を、お守り
いたしましょうよ」
 りん・・・
 鈴は、遠きあの日と変わらぬ音がした。
 ふと気づけば、むじなは居なかった。
 後に残ったのは、蔓を絡めて作った、人形だけである。
 背の曲がった、不恰好な人形であった。
 夢ではないのか―――そう呟くと、再び藪の置くから声が響いた。

 ―――ゆめゆめお忘れめさるな・・・雨月山の鬼は、まことの鬼にございますぞ。
 
 りん・・・
 鈴が鳴った。
 まことの鬼―――
「そんなものがいるとすれば・・・それはやはり、人のことであろうよ」
 むじなはもう居ない。

 出立を三日前に控えた、月の無い晩の出来事である。