傾きかけた日の中を、俺はあるマンションに向かって歩いていた。 俺はある手掛かりを頼りに行方不明になったかおりちゃんを捜していた。 俺が向かっているマンションに住む「阿部貴之」という男、こいつがかおりちゃんを連れ去った犯人だと俺は知っている。 いや、知っているというのは正しくないな……。 すべては夢で見たことなのだから。 昨夜見た夢の中で俺は恐ろしい化け物となっていた。 その化け物は四人の男を殺し、かおりちゃんをどこかへ連れ去った。 奴はかおりちゃんをある部屋に連れ込むと妙な薬を飲ませ、彼女を犯した。 俺が見たのはそんな夢だった。 今朝目を覚ました時には、妙な夢を見たものだと苦笑した。 だけど、あの夢はただの夢じゃなかった。 あの夢と同じ殺人事件――四人の男が殺害される事件が起こっていた。 その事件は何もかもがあの夢と同じだった。 そして、殺人が行われた現場にはかおりちゃんの鞄だけが残されていた。 なぜあんな夢を見たのか? 俺にはその理由は解らない。 だけど、あの夢が事実だとするなら、俺は犯人を捜し当てることが出来るかもしれない。 なぜなら、その夢の中で聞いた電話にいくつかの手掛かり――その部屋の住人の名前等があったからだ。 俺はその手掛かりから犯人を捜すことにした。 警察に連絡しようかとも考えたが、止めておいた。 その内容がいくら今回の事件と一致しているといっても、俺が見たのは夢なのだ。 警察に連絡しても信じてもらえるとは思えなかった。 同じ理由から、俺は従姉妹達にも話していなかった。 それに夢に登場した化け物は恐ろしい力を持っていた。 あの化け物が現れたなら、殺されるかもしれない。 俺はそんな危険な事件にあの従姉妹達を巻き込みたくはなかった。 たとえ、梓が後輩のかおりちゃんのことをどれだけ心配しているのだとしても……。 あの夢が現実であるなら、かおりちゃんは目の前の部屋、401号室に監禁されているはずだ。 俺はそれを確かめるために部屋の中の様子を探ろうとした。 最初に扉にある小さな覗き窓から中を覗き込んでみたが、中が暗くて何も見えなかった。 次に扉に耳を当ててみたが、何も聞こえてこなかった。 嘘をついてでも、警察にこの部屋を調べてもらうか……。 そんなことを考えながら、俺は何の気なしにドアノブを回してみた。 「あっ……」 驚いたことに、鍵は掛かっていなかった。 俺がドアノブを引くと、扉はゆっくりと開いていく。 警察を呼ぼうか、ともう一度考える。 しかし、怪しげな電話ひとつで警察が駆けつけるだろうか? 物音から判断する限り、この部屋に人がいる様子はない。 あの夢の通りなら、多分監禁されているかおりちゃんがいるだけのはずだ。 ならば、先にかおりちゃんを助け出そう。 俺はそう決意すると、静かに扉を開け部屋の中に入った。 俺はゴクッと唾を飲み込んだ。 部屋の中は薄暗く、外の日差しになれた目には、まるで深い闇に覆われているかのように思えた。 この闇のどこかにあの化け物が潜んでいるのではないか、そんな気までしてくる。 あの夢で見た光景を思い出して、手足が震えそうになる。 一応護身用にナイフは用意していたが、そんなものが役に立つ相手ではないことは分かっていた。 あの化け物が部屋にいないこと、俺はただそれだけを願った。 しばらくしてから、ようやく部屋の薄暗さに目が慣れてきた。 俺はあたりを見回してみたが、この部屋には誰もいなかった。 しかし、部屋の奥には別の部屋へと続く戸があった。 俺は足音を立てないようにその戸の前まで進んだ。 耳を澄ませてみるが、やはり何も聞こえない。 俺はゆっくりと戸を開けた。 真っ先に俺の視界に飛びこんできたきたのは、かおりちゃんの変わり果てた姿だった。 彼女は玩具のように弄ばれボロボロに汚された後の痛ましい姿のまま、冷たいフローリングの床に捨てられるように放置されていた。 かおりちゃんは、右手首と右足首、左手首と左足首を鎖で繋がれ、身動きを封じられた上に、太い鎖の付いた首輪まではめられていた。 まるで拘束された奴隷のような扱いだった。 「……ふはぁ……ふはぁ」 かおりちゃんは虚ろな瞳で宙の一点を見つめ、胸をゆったりと上下させていた。 俺は薄暗い部屋の中に浮かぶ白い肌を呆然と見詰めていた。 ガチャリ……。 俺は、玄関の扉が開く音で我に返った。 がさがさ……、すた、すた、すた、すた……。 この部屋に近づいてくる足音が聞こえる。 奴が――あの化け物――が帰ってきたのか……。 恐怖に顔を引きつらせながら、俺は振り返った。 だが、そこに現れたのは意外な人物だった。 「あ、梓……。ど、どうしてここへ?」 「耕一、それはこっちが聞きたいことなんだけど……」 梓はそう訊き返しながら、不審そうに室内を見回した。 その梓の視線が一点で釘付けになった。 「かおりッ!!」 梓はかおりちゃんに駆け寄ると、手足を拘束されたかおりちゃんを抱き起こした。 「かおりッ、かおりッ!!」 だが、梓が何度呼びかけても、かおりちゃんは虚ろな瞳で宙を見つめたまま何の反応も示さなかった。 俺はそんな梓になんと声を掛けていいのか分からず、視線を逸らした。 その時だった、部屋の奥にもう一人の人間がいることに気づいたのは。 部屋の隅でうずくまる男、その顔には見覚えがあった。 この部屋を捜す途中に写真で見たこの部屋の住人――この事件の犯人「阿部貴之」に違いなかった。 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……。 胸の鼓動が早まっていく。 四人の人間を殺し、かおりちゃんをここへ連れて来てこんな酷い目に遭わせた男。 そして、あの恐ろしい化け物でもある男。 あの夢の映像が、恐怖と共に蘇ってきた。 上下の歯がガチガチとぶつかり、手足がガクガクと震えだす。 「あ、梓……」 俺はやっとの事でそれだけ言うと、あの男を指差した。 梓は怪訝そうな表情で俺の指差した方向を見た。 梓はしばらくその男を見つめた後で、振り返って俺に訊いた。 「この男は?」 「あ、阿部貴之……こ、この事件の……犯人だ」 梓は首を振る。 「違うよ、こいつにはそんな事できっこない」 「そ、そんな……」 梓はなぜか悲しげな表情で俺を見た。 「耕一、あんたはどうしてここにいるの?」 「えっ……」 「あんたはどうしてここにいるの?」 「それは……その……ゆ、夢で見たんだ。お、恐ろしい化け物が四人の男を殺して、かおりちゃんを連れ去る夢を見たんだ!!」 俺は「阿部貴之」を指差す。 「あいつが犯人なんだ!! あいつが夢で見た化け物なんだ!!」 梓は悲しげな表情で首を振る。 「ちがうよ。その化け物はこいつじゃない」 「じゃあ、この事件の犯人……あの化け物はどこにいるんだ」 「……この部屋にいるよ」 俺は慌ててあたりを見回した。 しかし、他に誰かが潜んでいる様子はない。 この部屋にいるのは、俺と梓、かおりちゃん、阿部貴之、この四人だけだった。 梓はゆっくりと立ち上がると、俺を指差した。 「その化け物はね……耕一、あんたなんだよ」 「……な、何を言うんだよ」 俺には梓の言葉は悪い冗談だとしか思えなかった。 「それにね……化け物はもう一人いるんだ」 梓は寂しげに笑うと、自分を指差した。 俺は梓の言葉を笑い飛ばそうとして、失敗した。 俺を見る梓の眼は夜行性の獣のような光を発していた。 俺は梓から言い知れぬ恐怖を感じた。 「耕一、あんたもちからを抑えられなかったんだね……」 梓はゆっくりと俺に近づいてくる。俺は梓から逃げようと、一歩また一歩と後退った。 「父さんも……叔父さんも……ちからを抑えられなかった。だから、自ら命を絶った」 梓の目から涙がこぼれる。 「だけど、あんたは……もう四人も殺してる」 それは違う、俺はそう叫ぼうとした。 だが、俺の口は上下の歯がガチガチとぶつかるだけで、そこからは何の言葉も出てこなかった。 「だから、あたしは……あんたを……止めなきゃならない」 そう言った途端、梓の足下の床が、ミシミシと軋むような音を立て始めた。 まるで梓の体重が、突然増加したかのようだった。 梓の全身からユラユラと陽炎のようなものが吹き上がるのが見える。 それと同時に、部屋の温度が、急激に下がったような気がした。 後退っていた俺の背が壁にぶつかった。 「あんたを殺してでも……止めなきゃならないんだ」 目の前に迫った梓が、両手で俺の首をつかんだ。 俺はそれから逃れようとした。 俺は梓の腕を振り解こうとした。 だが、梓の力は尋常ではなかった。 俺がいくら力を込めても、梓の腕はピクリとも動かなかった。 梓は俺の首をつかんでいた手を持ち上げた。 首が絞められて息が詰まり、意識が朦朧としてきた。 もうだめかな……。 そう思った瞬間、俺の意識は闇に飲み込まれていった。 俺は闇の中にいた。 一面の暗闇の中で、泣き声だけが聞こえた。 聞き覚えのある泣き声だった。 どこかで聞いた泣き声……誰だっけ……。 息が苦しい。 意識を回復した俺は激しく咳き込みながら、呼吸を再開した。 床に寝かされていた俺の体に梓が縋りついていた。 「やっぱりできない……あたしには……できない……」 梓は泣いていた。 俺は何とか呼吸を整えると、梓に話し掛けた。 「なあ、梓……」 梓は泣き腫らした目で俺を見た。 「俺は人なんて殺してない。信じてくれ」 「耕一……」 「信じてくれるか?」 梓は暫く躊躇してから、こくりと頷いた。 「だったら、おまえの言ってたちからのことを教えてくれないか。そこに犯人を捜す手掛かりがあるかもしれない」 「それは……」 梓が口を開きかけたときだった。 ガチャリ……。 再び、玄関の扉が開く音がした。 俺達の前に現れたのは見覚えのある人物だった。 昨日、事情聴取に訪れた警察の人間――柳川とかいう刑事だった。 事情を説明するのは面倒だが、取りあえずかおりちゃんを保護してもらおう、俺はそう考えた。 俺はふらつきながらも何とか立ち上がった。 「どうしたんですか?」 柳川はそう言いながら近づいてきた。 「あの……あ、あそこに行方不明になっていた日吉かおりさんがいるんです。すぐ病院へ――」 俺がそこまで言った時、梓が叫んだ。 「耕一、そいつから離れろ!!」 「え……」 俺が戸惑っていると、梓がもう一度叫んだ。 「そいつが犯人なんだ!!」 梓のその言葉を聞いて、俺は目の前の男をもう一度見た。 目の前の男の眼は、夜行性の獣のような光を発していた。 次の瞬間、俺は激痛を感じた。 痛みを感じた腹を見てみる。 長い爪が突き刺さっていた。 目の前の男はニヤリと笑うと、その爪を引き抜いた。 俺の体から吹き出した血が、俺と奴の体を赤く染める。 出血と共に体から力が抜け、立っていられなくなった。 二三歩よろめいた後で俺は倒れた。 吹き出した血が、床に血溜まりをつくっていく。 梓の悲鳴が聞こえる。 俺はなんとか首だけを動かすと、そちらを見た。 梓の泣き顔が見えた。 それを最後に、俺の意識は闇に飲み込まれていった。 俺は不思議な夢を見ていた。 子供だった俺達――俺と梓、楓ちゃん、初音ちゃんが裏山の水門にいた。 今も良く覚えている懐かしい光景だった。 でも、それは俺の記憶とは少し違っていた。 俺は川へ飛び込もうとしていた。 水門で足を滑らせ、川で溺れたかけた梓を俺は無事助けた。 だか、梓は買ってもらったばかりの靴を川底に沈めてしまったていた。 普段は元気一杯といった様子の梓がしょんぼりとしている。 俺はそんな梓の顔を見ていられなくなり、その靴を取りにいくために再び川へと飛び込んだ。 俺は川底で死にかけていた。 息が苦しい。 俺は水面に向けて必死に手を伸ばした。 だが、俺の足は頑丈なワイヤーロープに捕らえられていた。 もうだめなのか……。 死の恐怖を感じた瞬間、俺の中でちからが目覚めた。 頑丈なワイヤーをあっさりと引き千切った俺は、獲物を求め水面へと向かった。 俺は従妹達に向けてゆっくりと歩いていた。 俺の中では、獲物を狩れと命ずる鬼の本能とそれを止めようとする俺の心が争っていた。 やめろ、やめろと俺は心の中で叫びつづけた。 だが、俺の歩みは止まらなかった。 俺は従妹達の目の前に立っていた。 「大丈夫……」 俺は鬼の本能に打ち勝っていた。 「もう、大丈夫だから……」 俺はもう一度そう言うと、梓に拾ってきた靴を差し出した。 俺は梓を背負って隆山の家へと向かっていた。 あの後、梓は俺に抱き付いて泣き出した。 結局、梓がそのまま離れてくれなかったので、俺は梓を背負って家へと戻ることになった。 それは今でもはっきりと覚えている光景だった。 真っ赤な夕焼け空と俺の背中でグスグスと泣き続ける梓。 初対面の俺を呼び捨てにし、その後も生意気そうな口を聞いていた梓。 その後も元気一杯といった様子だった梓が泣いていた。 いや、俺が泣かせたんだ。 俺は長い間忘れていたその訳を思い出していた。 生意気に思うこともあったが、俺はこの従姉妹のことが好きだった。 あいつに泣き顔は似合わないな……俺はそう思った。 俺はもう二度とあいつを泣かせたりしないと誓った。 俺はその日の晩、左足に負った傷のせいで高熱を出して寝込んでしまった。 そして、熱が引き目が覚めた時には、俺は水門での出来事を忘れていた。 俺はその記憶をちからとともに封印していた。 「ごめん、あたしのせいでこんなことになって……」 翌日、梓はそう言って謝った。 「もう、いいよ……」 謝り続ける梓に、俺は困惑しながらそう答えていた。 懐かしい光景はそこで終わった。 そして、泣き顔の梓――俺が意識を失う前に見た梓が目の前に現れた。 「ごめん、あたしがもっと早くあいつに気付いていれば……」 梓は首を振って自らの言葉を否定する。 「ううん、あんたの言葉を初めから信じていれば――犯人はあんたじゃないって信じていれば……。あたしのせいだ……」 「いや、違うよ」 俯く梓に、俺は答えた。 「でも、このままじゃ……」 梓の目から涙がこぼれる。 「大丈夫、俺は死なないよ」 もうおまえを泣かせるようなことはしないから……。 激痛と共に意識が回復した。 腹の傷からは血が流れ続けていた。 床に倒れたままで考える。 このままじゃ死ぬな。 死を前にしているというのに、奇妙なほど冷静だった。 「そうだな」 俺の中にいる「なにか」が答えた。 あの時と同じだな。 「ああ、そうだ」 ちからが欲しい。 「何のために?」 生きるために……俺が死んだらあいつが泣くから。 「そうか……。だが、おまえに制御できるかな?」 大丈夫、出来るさ。 もうあいつを泣かせるようなことはしない、あの時そう誓ったからな……。 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……。 胸の鼓動が早まっていく。 あの時から封印していたちからが目覚め、全身に満ちていく。 腹の傷は急速に治っていくと共に、全身に力がみなぎる。 俺は長い間封印していた鬼のちからを取り戻していた。 俺はゆっくりと立ち上がった。 梓も柳川も俺を見ていた、驚きの表情を浮かべて。 まあ、そうだろう。 致命傷を負っていたはずの人間が、立ち上がったのだから。 「ククク……獲物がひとつ増えただけのことだ」 俺が立ち上がったことの意味を理解し、先に仕掛けたのは柳川だった。 だが、柳川の鬼の爪は俺にではなく梓に向かっていた。 俺に気を取られていた梓は、反応が一瞬遅れた。 梓を助けようと柳川に向かった俺の目の前で、梓の体は柳川の爪に切り裂かれた。 鮮血が梓の体を染めた。 よろめき後退さる梓を俺は抱きとめる。 「耕一……なの?」 梓は心配そうに俺を見る。 「ああ、俺は耕一だよ」 再び柳川が爪を振るう。 「仲良くあの世へ行くんだな!!」 俺は柳川の爪を片手で弾き飛ばした。 続けて蹴りを放ったが、柳川はそれを躱すと間合いを取った。 「良かった……ちからを……抑えられるんだ」 「ああ、そうだ。だから、待っててくれ。すぐに終わらせるから」 「うん……」 梓は少しほっとしたような顔をして頷いた。 俺は梓を静かに床に横たえると柳川と向き合った。 「すぐに終わらせるだと……」 柳川はそう呟くと、俺を睨んだ。 「これを見ても、そう言えるか!!」 奴の体が変化を始めた、地上最強の力を持つ生き物の体へと。 だが、俺がその変化を待っていなければならないという理由はない。 俺は低く跳んで奴との間合いを詰めると、渾身の力を込めた突きを放った。 奴は腕を使ってその突きを防ごうとしたが、奴が自らの変化に気を取られていたことが命取りとなった。 奴の腕より一瞬早く、俺の鬼の爪が奴の胸を貫いていた。 確かに本来の姿――より戦い向きな野生の獣に近い姿へと肉体を変化させることで我々はより強くなる。 しかし、その肉体の変化は一瞬ですむというものでもない。 普通の人間相手なら目の前でそれを行なってもいいだろう、大抵の人間は恐怖で動けなくなってしまうのだから。 だが、俺は違う。 結局、奴は目の前の相手のことが分かっていなかったのだ。 自分と同じ鬼のちからを持つ相手のことを……。 そのことが奴の命取りになったのだ。 柳川の胸を貫いていた鬼の爪を引き抜く。 奴の返り血を浴びながら、俺は奴の生命の炎の最後の輝きを味わっていた。 「こう……いち……」 その声を聞いて、俺は我に返った。 俺は床に横たえたままの梓の元に駆け寄ると、その傍に跪いた。 梓の体は傷口からあふれた血で真っ赤に染まっていた。 「ごめん……」 普段の梓からは想像できない弱々しい声だった。 「もう喋るな!! すくに病院へ連れて行くから」 「もう……だめみたい」 「な、なに言ってんだ!! 今からすぐに病院へ行くから、だから――」 「もう……いいんだ……」 梓はゆっくりと首を横に振った。 「だから……いっておきたいことが……」 梓は少し寂しそうな表情を見せた。 「ごめん……こういちを……うたがったりして……」 「え……」 「すいもんの……あのときだって……こういちは……」 梓の瞳から涙が溢れ、頬を伝った。 「なのに……あたしは……」 「もう良い、喋るな!! 今からすぐに病院へ行くからな」 「あたしは……もうだめ……」 梓はゆっくりと微笑んだ。 「こういちを……ころそうとした……ばつかな……」 「な……」 「ごめん……」 梓はもう一度そう言うと静かに瞼を閉じた。 その表情は安らかで、まるで眠っているようだった。 だけど、梓は何度呼びかけても目を覚まさなかった。 俺は夢を見ていた。 梓の傍らで泣いていた俺は、泣き続けるうち疲れて眠ってしまってようだ。 夢の中の梓は自分の部屋でノートを前にしていた。 俺はその様子を近くで眺めていた。 「……あたしが出来ることって、これくらいだからねぇ」 梓はそう呟きながら、ノートをぱらぱらとめくる。 「あった。これだ」 梓の見ているページには俺の食べ物の好き嫌いが書いてあった。 「まったく、耕一って好き嫌いが多いんだから。料理を作る身にもなって欲しいよ」 梓はぶつぶつと文句を言う。 「ま、それを何とかするのが腕の見せ所なんだけどね……」 ぶつぶつと文句を言っていた梓だったが、ノートの一点を見て急に黙り込んでしまった。 梓は鉛筆を持つと、ノートに何か書き加えた。 書き加えた文字は「梓」、書き加えた場所は「耕一のすきなもの」と書いてあるところだった。 梓はそれをしばらく眺めた後でため息をつく。 「あたしが好きだってこと……気付いてないよねぇ……」 梓はもう一度ため息をついてから苦笑する。 「耕一って……鈍いからなぁ……」 それまで驚いて何も言えずにいた俺だったが―― 「……おい、そりゃあないだろ」 そんな言葉が思わず口を突いて出た。 振り返った梓は驚愕の表情を浮かべていた。 「ど、ど、どうして耕一がここにいるのよ!!」 「どうって言われても……」 自分の夢の登場人物がそのような問いをすることなど予想外のことだった。 「……じ、じゃあ、全部見てたの?」 「全部って言うのが何処からかは分からないが――」 俺は梓のおでこをを人差し指でちょんと突っついた。 「ああいうことを書くなんて、結構可愛い奴だったんだな……」 その瞬間、梓の呼吸が停止し、3秒ほど硬直した。 「……ばっ!!」 硬直の解けた梓の顔が、一瞬で真っ赤に染まる。 「馬鹿やろおーーーーーーッ!!」 いきなり、梓のカモシカのような脚が持ち上がったかと思うと……。 どかあッ!! 次の瞬間、雷光のような蹴りが旋風をまとって鳩尾を直撃した。 「ぐはっ!!」 不思議だった、夢のはずなのに俺は痛みを感じていた。 そして、その痛みで俺は夢から覚めた。 「い、いってえ〜〜〜〜〜〜!!」 夢の中で蹴られたはずの鳩尾がズキズキと痛む。 この痛みの原因――痛みを伴なう夢があるのでなければ――は何なのだろうと頭をひねっていた時だった。 聞こえるはずのない声が耳に入った。 それは小さな呟き声だったが確かに聞こえた。 聞き間違えようのない声だった。 俺は恐る恐るそちらを見た。 「耕一の……馬鹿……」 梓の唇はゆっくりと動いていた。 胸もゆっくりと上下し、呼吸していることを示していた。 梓は死んでいなかった。 鬼のちから――親父や伯父さんを死に追いやったちからが、今度は梓の命を救ったのだ。 「梓、梓……」 俺は梓の手を取ってゆっくりと呼びかけた。 何度目かの呼びかけの後で、梓はゆっくりと瞼を開いた。 「お目覚めかな?」 「こういち……なの」 「ああ、そうだ。予め言っておくが、ここは天国でも地獄でもないからな」 「あたし……いきてるの? もうだめだとおもってたのに……」 「鬼のちからのおかげだな。今回ばかりはあの力に感謝するよ」 「……あたし……いきてるんだ」 「ああ、そうだよ。だから、早く目を覚ましてくれよ。それともなんだ――」 俺は梓の顔を覗き込む。 「王子様のキスがないと目が覚めないとでもいうのか?」 ほんの冗談のつもりの言葉だったが、一瞬で梓の顔は真っ赤になった。 「……ば、馬鹿っ!!」 どかあッ!! 「ぐはっ!!」 梓のパンチが鳩尾を直撃した。 「あんたねぇ、あたしが大怪我してるからって、何てこと言うのよ」 ……あのなぁ、大怪我をしてる人間がそんな暴力を振るうのか? そう言ってやりたかったが、俺は痛みをこらえるだけで精一杯で、口を開く余裕などなかった。 「まったく、ろくでもない夢を見たと思ったら、目が覚めてもこれだ……」 梓は独り言のつもりだったのだろうが、俺はその言葉に引っかかるものを感じていた。 俺は何とか痛みをこらえると、真顔になって梓に向き直った。 「なあ、梓。ちょっといいか」 「な、なによ」 「おまえの見た夢って、どんな夢だった」 「……な、な、なんだって良いじゃない!!」 梓は頬を赤く染めると、俺から視線を逸らした。 「俺もおまえが目覚める前に夢を見てたんだ」 「……そ、そう」 「梓、おまえの出てくる夢だった」 「……え」 「おまえは自分の部屋でノートを見てた。あれは多分、俺が帰る前のことだと思う。そこでおまえは――」 「ち、ちょっと、待ってよ」 梓は突然大声を上げて、俺の言葉を遮った。 「どうかしたか?」 「な、な、な、何であんたが――」 「おまえの見た夢を知ってるのかってことか?」 梓は口をパクパクさせているが、言葉が出てこないようだ。 「多分、これも柏木家に伝わるちからのひとつなんだろうが、理由は説明できない、俺にも解からんからな。だけど――」 俺はひとつ深呼吸する。 「俺もおまえも同じ夢を見ていた。これは事実なんだろ、梓」 梓は俺の言葉を否定しなかった。俺はそれを肯定の意味にとって話を続けた。 「別に俺だっておまえの夢を覗こうと思った訳じゃない。多分、なにかの偶然みたいなものだと思う」 俺は梓をじっと見詰めた。 「……な、何よ」 「だけどさ……あの夢を見て俺は後悔したんだ、おまえの想いに気付いてやれなかったことを」 「……耕一」 「だから、目が覚めて梓が生きてるって分かった時は、ほっとした。死んでしまった相手には何も言えないからな」 「あたし、耕一が好き。あたしは小さい頃からずっと耕一が好きだった」 梓はいきなり俺の胸に飛び込んでくるとそう言った。 「耕一はあたしを……」 小さく囁くような声だった。 多分、がさつだの、乱暴だの、凶暴だのと、今までさんざんなことを言ってきたことを気にしているのだろう。 でも、俺はそんなところも含めて、こいつはこいつで可愛い奴だと思っていたんだ。 「俺、初めておまえに会った時、男の子だと思ってた。初対面の俺を呼び捨てにしたし、その後も生意気なこと言ってただろ。でも、俺は嬉しかった。ひとりっ子だった俺は弟が出来たみたいで嬉しかった」 梓の手がぎゅっと俺の服を握る。 「俺はずっとおまえを弟みたいに思ってきた。おまえが女らしくなっていくのを見ても、ずっとそう思い込んできた。俺は寂しかったんだと思う、弟みたいに気兼ねなく接することが出来るおまえを失うことが……」 梓は震えていた。俺は梓をそっと抱きしめる。 「俺は馬鹿だったよ。弟を失うことを恐れるあまり、こんな可愛い女の子がいることに気付いてなかった」 「え……」 「こうして俺の腕の中にいる梓を可愛いって思う。確か――」 俺はちょっと意地悪く言った。 「夢でも言っただろ、可愛い奴だって」 「ば、馬鹿っ……」 梓は小さく囁くと、ぽくぽくと俺の胸を叩いた。 梓の拳は何度も俺の胸を叩いたが、不思議と痛みは感じなかった。 「梓、もうお前は弟なんかじゃない。俺はおまえが好きだ、ずっと傍にいて欲しい」 俺は梓をきつく抱きしめると、その唇を塞ぐように口づけをした。 初めて触れた梓の唇は、つややかで、とても柔らかった。 <終>