「鬼の伝説」(前編) 投稿者: MA
 その日の朝も、私はいつもと同じ時間に目を覚ました。そして、いつものように顔を洗い、着替えを済ませた。
 私は朝食の支度のために台所にむかう前に、千鶴姉と耕一の部屋を覗いてみた。どちらの部屋も空だった。
「まったく……、二人で何処へ行ってるんだか」
 私は文句を言いながら、台所に向かって歩き始めた。

 あんな事件が起こっているにもかかわらず、私は二人の事は全然心配していなかった。私が心配していたのは昨日から行方不明になっているかおりの事だった。耕一だけならともかく、千鶴姉が一緒なら何が起こっても大丈夫だと思っていた。
 私は千鶴姉の鬼の力を信じていた。 あの時まで、私はそう信じていた……。

 私が庭に面した廊下まで来た時、近くに強い鬼の力を感じた。その気配を確かめようと振りかえった私が見たのは、何処からか跳躍してこの庭に降り立った一人の人物だった。とっさに身構えようとした私だったが、目の前に立っていた人物の正体を確認して緊張を解いた。
「なんだ、耕一か……」
 一体こんな朝っぱらからどうしたんだよ。私は耕一が力を使えるようになったことに驚きながらも、そんな文句のひとつでも言ってやろうと口を開きかけた。だが、耕一の抱きかかえていた人を見た途端、そんな文句は私の頭から消え去っていた。耕一の抱きかかえていたのはひどい傷を負った千鶴姉だった。私は裸足のまま庭におりて千鶴姉に駆け寄った。
「冗談なんだろ……。何とか言ってよ、千鶴姉!!」
「梓……」
 私は千鶴姉の手を取ったが、その手は氷のように冷たかった。
「嘘だ……。千鶴姉がそう簡単に死ぬものか!! そうだろう、耕一!!」
「すまん……。俺は……、俺は千鶴さんを……、守れなかった」
「嘘だ!! 嘘だ!! 嘘だ!! こんなの嘘だ!!」
 だが、いくら叫んでも、答えが返ってくることはなかった。


「鬼の伝説」


 私達が落ち着いてから、耕一は昨夜の出来事を話してくれた。
 千鶴姉から聞いたという、柏木の鬼の力の秘密、そしてその力を制御できなかった者の悲劇。そして、耕一が力を制御できないと勘違いされて千鶴姉に殺されかけた事。その後に謎の鬼が千鶴姉を襲った事。最後に、耕一がその鬼を倒したものの、千鶴姉は助けられなかった事。
 私は千鶴姉が背負っていたものを知らなかった。私は自分や姉が鬼の力を持っていることは知っていた。そして、その力が叔父や父にもたらした悲劇についても薄々気付いていた。しかし、それが千鶴姉をあれほど苦しめていた事を知らなかった。鬼の力のため父と叔父を失っただけでなく、耕一さえも殺さなければならなかった千鶴姉。私はそんな千鶴姉の事を何も知らなかった……。自分が何も知らずにいた事が情けなかった。

 耕一の話が終わった後で、私は気になっていたことを聞いてみた。
「ところで、その鬼は誰だったんだ。耕一はそいつが死ぬところを見たんだろ?」
 耕一は少しの間考えてから答えた。
「いや、俺は死ぬところを見たわけじゃないんだ。普通なら間違いなく死ぬだけの傷を負わせた自信はある。しかし、鬼の力についてはよく解っていないからな。死ぬところを確認していない以上、死んだと断定はできない。だが、奴がまだ生きているとしても、必ず俺が倒す」
 千鶴姉を殺した奴がまだ生きているかもしれない。私はそう思うと居ても立ってもいられなくなった。玄関に向けて歩きだした私に耕一が声を掛けた。
「どうするつもりだ、梓」
「決まってるだろう。今から水門に行って、奴がどうなったか調べるんだ」
 耕一は私の前に立ちふさがった。
「だめだ。俺は梓にそんな事をさせるわけにはいかない」
「どうしてだめなんだよ、耕一!!」
 私は怒っていた。最初は千鶴姉を殺した奴に対する怒りだった。しかし、今は私の行く手を阻むもの全てに対して、その怒りをぶつけようとしていた。
 だが、耕一はそんな怒りを向けられても、動じる事もなく、冷静さを保っていた。
「もし、奴が死んでいるなら、慌てる事はない。後で調べれば済む。しかし、もし奴が生きていて襲ってきたなら、おまえの力では奴には勝てない。だから、俺に任せてくれ」
「じゃあ、私の力で奴に勝てるかどうか、試してみようじゃないか」
 私は庭に降りた。私は自分の行き場のない怒りを何かにぶつけたかった。
「梓姉さん、やめてください」
「梓お姉ちゃん、そんな事やめようよ」
 楓と初音が私を止めようとした。しかし、私にはその言葉を聞くつもりはなかった。私は耕一を睨みつけた。
 しかし、耕一は動こうとしなかった。
「もし、奴が生きているとしたら、千鶴姉の仇は、私がとる。この力で……」
 私はそう言ってから、近くにあった石燈籠を殴りつけた。石燈籠は粉々に砕け散った。
 耕一は黙って庭に降り、私の正面に立った。

 私は耕一を倒そうと全力で戦った。だが、私の繰り出す突きも蹴りもすべて耕一に防がれていた。耕一は自分から手出ししようとはせず、防御に徹していた。
「なめるなぁ、耕一!! あたしにだって力はあるんだ!!」
 私はそう叫びながら、無我夢中で右腕を振り上げた。そして、その腕を振りおろしたときに私が見たものは、私の手から伸びた鋭い爪とその爪に切り裂かれた耕一の体だった。私はその時初めて鬼の爪を使った。
 その一撃は耕一が咄嗟に避けたので、たいした傷は与えられなかった。だが、耕一に隙を作ることは出来た。私はそれを見逃さず、渾身の力を込めた蹴りを放った。耕一はその蹴りを避けずに、受け止めようと身構えた。私はその瞬間勝利を確信した。いくら防ごうとしたところで、この蹴りに耐えられるはずがない。そう思っていた。
 だが、耕一は鬼の力を使いその蹴りに耐えてみせた。私の渾身の力を込めた蹴りが通用しなかったのだ。呆然となった私はそのまま庭に座り込んでしまった。
「もう一度言う。梓、おまえの力では奴には勝てない。だから、奴の事は俺に任せてくれ」
 私はその言葉を聞いた途端、涙が溢れてきた。
「ちくしょう!! あたしは千鶴姉もかおりも助けられなかった。いったい何のための力なんだよ、この力は!!」
 私は自らの拳を何度も地面に叩きつけてそう叫んだ。


 その後、耕一が警察への連絡を行った。その日は、現場検証やら事情聴取やらで大変な事になった。もちろん、柏木の鬼の力については警察には話す事はできない。耕一は、うまくごまかして説明するから心配するなと言っていた。


 その夜、私は眠れずにいた。自分の無力さを思うと眠る事など出来なかった。昨日までは私はどんな相手とでも互角に戦えると思っていた。そんな自分の思い込みが滑稽だった。自分の無力さが情けなかった。私は強くなる、誰にも負けないよう強くなって、今度こそ大切な人を守ってみせる。私はそう決意していた。


 あの日から私達の生活は変わった。結局、耕一がこの家に残り、鶴来屋の会長も引き受ける事になった。そう決まるまでには一悶着あったのだが、足立さんの協力もあって何とか片付いた。
 だが、一番の変化はその耕一自身についてだった。あの日から耕一は変わった。何が耕一を変えたのか、それは分からなかった。千鶴姉の死が原因のひとつだとは思ったが、それ以外にも理由があるように思えてならなかった。以前は年上といってもどこか頼りないように思ったものだが、今では私達は何かにつけて耕一を頼りにするようになっていた。
 それともう一つ変わった事があった。楓が耕一とよく話すようになった事だ。以前の楓は耕一に話かけられても避けているように見えたのだが、むしろ今は楓から積極的に耕一に話かけていた。
 私にはあの事件以来の耕一と楓の変化、その理由が解った訳ではなかった。だけど、なんとなく解ってしまった事もあった。それは、楓が耕一を想い、耕一もそれに応えたという事だった。なぜ、私がそう感じたのか、その理由は解らなかった。だけど、それは真実だと感じていた。私はその事実を一抹の寂しさと共に受け入れた。こうして、私の初恋は片思いのまま終わった。

 あの連続殺人事件については、行方不明となっていたかおりと相田さんという女性が発見された事以外に進展はなかった。二人の命に別状は無かったものの、薬物中毒等の治療のために暫くの間入院が必要だと聞いていた。一応、その二人が監禁されていた部屋の住人である大学生の男が逮捕されたものの、その男はひどい薬物中毒でとてもあのような殺人を実行できないという事が解った。結局は真犯人はまだ捕まっていないという事が解っただけだった。また、あの水門付近で死体が発見されたという話もなかった。



 千鶴姉が亡くなってから半月が過ぎだとき、再び事件は幕を開けた。

 その日はクラブの練習の後、病院にかおりを見舞いに行った。そのためにすっかり帰りが遅くなってしまった。
 早く帰らないと耕一に怒られるな。そう思いながら歩いていたとき、背後から声を掛けられた。
「よう、柏木じゃないか、こんな時間にどうしたんだ」
 私が振り返った先に立っていたのは、一人のクラスメイトだった。いつもはくだらない冗談を言って周囲を笑わせているような男だが、一応は小学校入学以来の友人の一人という事になる。
「まさか……、デートの帰りって事は無いよなぁ?」
「……あんた、私に喧嘩を売ってるの」
 私はあいつを睨みつけた。
「冗談だよ、冗談。そう怒るなよ」
「別に私が何処に行こうとあんたとは関係ないでしょ。じゃ、さ・よ・う・な・ら」
 私はそう言うと、再び歩き始めた。
「おいおい、待ってくれよ。さっきは俺が悪かった。謝るよ。どうせ途中までは同じ道を行くんだから、話でもしながら一緒に行くぐらい良いだろ」
 あいつはそう言って私の隣に並ぶと、一緒に歩き始めた。あいつは歩きながら色々と話かけてきた。私は適当に相槌を打ちながら、あいつの話を聞いていた。

 私達が公園の前に差し掛かったときだった。
「この公園でも、事件があったんだよな……」
 あいつがぽつりと呟いた。私はその言葉を聞いて足を止めていた。あいつはそんな私に慌てて言った。
「すまん……。柏木のところの姉さんもあの事件で亡くなってるのに、無神経な事を言っちまったな。悪かったよ」
「いいよ、別に気にしてないから。ちょっと、あの事件の事を考えてただけ」
 そう答える私を、あいつは心配そうに見ていた。
「あの事件の犯人はまだ捕まってないけど、あんたはどう思う」
 耕一は奴の死体が発見されない以上安心はできないと言っていた。だが、あの日から一件も事件が起こっていない事から、私は犯人は死んだのではないかと考えていた。死体は何処かに流されていったから発見されていないのだと考えていた。警察も依然犯人の捜査は行っているものの、事件はもう起こらないと考えているという噂も聞いていた。確かにあの頃に比べるとパトロールの警官の数も少なくなっているようだった。世間でももう事件は起こらないと考えている人が多いのだろう。
 だが、あいつの答えは違っていた。
「確かに、しばらく事件は起こっていない。だけど、犯人が捕まっていない以上、まだ解決はしていないよ。犯人はほとぼりが冷めるのを待っているだけかもしれない。とにかく、用心しておいた方がいいと思う」

 公園の奥からかすかなうめき声が聞こえたのは、そんな事を話している時だった。私はその声と共に鬼の力も感じていた。
 私はその声の聞こえた方向に走り出した。奴に会ったらすぐに逃げろと耕一から言われていた事など忘れていた。奴が生きていたのか、そう思った瞬間から私は奴を倒す事としか考えられなくなっていた。

 公園の奥にベンチが置かれた広場があった。奴はそこにいた。奴は既に鬼の姿になっていた。そのそばで一人の男が死んでいた。スーツを着た会社員風の男だった。奴はこちらに気付くと、その男の死体の頭を掴んで持ち上げた。そして、奴はにやりと笑うと、片手でその男の頭を握り潰した。何とも形容し難い、嫌な音が聞こえた。奴はその男の死体を捨てると、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「おい、いったいなんだありゃあ? まさか……」
 背後からあいつの声が聞こえた。
「ばか、どうしてここまで来たんだ!! すぐにここから逃げるんだ!!」
 私は奴と睨み合ったままそう叫んでいた。だが、あいつはここから逃げ出しそうとはしなかった。
「おい、柏木。おまえこそどうするつもりなんだよ。まさか、あんなやつと戦うって言うんじゃないだろうな?」
「…………」
「あんな化け物と戦って勝てるわけがないだろう!!」
 確かに私は奴を間近に見て力の差を思い知らされていた。私がまともに戦っても勝てる相手ではなかった。だが、今となってはここから逃げ出す事もできなかった。下手に逃げようとしたならその途端に殺されるだろう。
 いや、私一人なら逃げる事も出来るかもしれない。だけどあいつは……。私はこれ以上人が殺されるのを黙って見ているのは嫌だった。昨日まで笑いながら話をしていた人が、今日は物言わぬ冷たい骸となっている。そんな光景を見るのはもう御免だった。
 奴はゆっくりとこちらに近づいてくる。
 私は決心すると、鬼の力を解放した。足元の地面が陥没する。それと同時に全身に力がみなぎってくる。化け物か……。あいつの言葉が胸に突き刺さる。あんたは私の事を心配しているようだけど、私も人とは違う化け物なんだよ。奴にはかなわないけどね……。だけど、私にもあんたが逃げる時間を稼ぐ事ぐらいは出来る。
「すぐにここから逃げるんだよ!!」
 私はそう叫んでから、奴に向かっていった。

 私は以前に耕一と戦ったときの経験から、力任せの攻撃は奴には通用しないと考えていた。私は奴と正面から殴り合うようなことはせず、常に相手の死角から出来るだけ弱点と思われることろを狙って攻撃することにした。相手が態勢を整えたならすぐに引いて、また別の方向から攻撃する。それを繰り返すしかなかった。力では敵わないのだから、そうするしかなかった。陸上で鍛えた足には自信があった。今の私にはこれだけが頼りだった。
 私は奴の左側に回りこんで蹴りを放った。しかし、頭を狙った蹴りは奴の腕に防がれてしまった。私は続けて攻撃しようとはせずいったん奴との距離をとった。今度は奴の右側に回りこんで、足を狙って蹴りを放った。今回は私の蹴りは奴に命中した。だが、奴は私の蹴りを受けてもびくともしなかった。多少のダメージはあったのだろうが、奴はそんな事は気にもとめずに鬼の爪を私に向かって振り下ろした。私は横転し辛うじてその爪を避けた。そして、そのままの勢いを利用して立ち上がると、再び奴との距離をとった。

 戦い始めてからどのくらいの時間が経ったのだろう。私には時間の感覚などなくなっていた。
 私は相変わらず奴と対峙していた。私は奴の攻撃をすべて避けていた。だが、私の攻撃も何度か奴に命中したもののたいしたダメージは与えられなかった。違いがあったのは双方の疲労だった。私はずっと動き回っていたが、奴はほとんど動かずに私の攻撃を防御していただけだった。私は自分の体力が限界に近づいている事を感じていた。そして、私の動きが止まったとき、この戦いも終わると感じていた。
 奴は私の体力が限界に近づいている事を見抜いて攻勢に転じた。鬼の爪を避けたと思った瞬間、奴の蹴りが私の腹に命中した。私はそのまま吹き飛ばされ、水銀灯の支柱に叩きつけられた。即死は免れたものの、次の奴の攻撃を避ける事など到底できそうもなかった。
「耕一、ごめん……」
 私はポツリと呟いた。私が無茶をしなければこんな事にならなかったのに……。私は目をつぶって最後の瞬間を待った。

 ズダンッ!!

 風を切る音とともに何かが私の前に着地した。驚いて瞼を開いた私の前に立っていたのは、もう一人の鬼だった。なぜか私にはその鬼が耕一だと解った。
 たちまち形勢は逆転した。不利を悟った奴は跳躍するとその場から逃げ出した。耕一も奴を追って闇の中へ消えていった。


 再び公園に静寂が戻っていた。
 りーり、りーり、りーり、りーり……。
 私は水銀灯の支柱にもたれたまま虫の音を聞いていた。いくら鬼の力があるといっても、暫くじっとしていない事には体が動かせそうになかった。
 こちらに近づいてくる足音に気付いた私が振り向いた先にいたのは、あいつだった。私はまだあいつがこの場にいた事に驚いていた。さっきの戦いの最中にはそんな事を確認する余裕もなかったが、てっきり私の言葉に従いここから逃げたと思っていたのだ。
「柏木……、大丈夫なのか……」
 あいつは私が死んでしまったかと思っていたようだった。
「なんとかね……」
「なんとかって……、怪我してるんじゃないのか? 救急車を呼んだほうがいいんじゃないか?」
「いいよ、暫くすれば歩けるようになると思う。それより聞きたい事がある。どうして私の言うとおりに逃げなかったんだ」
 あいつは少し困ったような顔をした。
「結局さっきのあれの姿を見たら怖くて足が竦んじまって、逃げるどころか一歩も動けなかったんだ。それに、柏木が俺に逃げろといってから、何をするつもりなのかも気になったしな」
 私は困った事になったと感じていた。あいつは奴と私の戦いを見ていた。私は鬼の爪は使っていなかったが、良く見ていたなら私が人間離れした力を持っていた事に気付いただろう。どうしたら良いだろう……。だが、あいつはそんな私の気持ちにはまったく気づいていないようだった。
「俺の事はどうでもいいよ。それより、おまえこそ本当にだいじょうぶなのか」
「本当に大丈夫だよ」
 私は苦笑しながら答えた。このままだと、いつまでもあいつに「大丈夫か」と言われ続けそうなので、私は無理やり立ち上がった。水銀灯の支柱にもたれかかって何とか立っているというありさまだったが、その姿を見たあいつは少し安心したようだった。その様子を見て私はさっきから考えていた事を口に出した。
「さっきの事なんだけど、誰にも言わないで欲しいんだ」
「さっきの事って……。人が死んでるんだぞ!!」
 私はあいつの言葉を聞いて次の言葉に詰まってしまった。だが、鬼の力の秘密は絶対に守らなければならない。何時の間にか私はあいつを睨みつけていた。
「だめなんだ、さっきの事は誰にも言っちゃだめなんだ……」
 私の態度に驚いたあいつは暫く私の顔を眺めていた。
「わかった……。さっきの事は誰にも言わない」
 それからは私もあいつも一言も話そうとはしなかった。あいつは私が歩けるようになってから、途中まで一緒に送ってくれたが、何も話す気がおきなかった。
「じゃあな……」
 あいつはそう言って私と別の方向へ歩いていった。

 私は暫くあいつの後姿を見つめていた。あいつの姿が曲がり角の向こうに消えてから、私は振り返った。そこには耕一、楓、初音の三人がいた。公園を出たあたりから三人が近くにいる事は感じていた。
「耕一はともかく、なんで楓や初音まで一緒にいるんだい」
「俺もいろいろ考えたんだが、こういうときは一緒にいたほうがいいんじゃないかと思ってな。もし俺が奴に逃げられたとしたら、二人が家にいるところを襲われる可能性がある。それなら近くにいてもらったほうが守りやすいと思ったんだ」
 私の行動とは大違いだった。いつも私たちの事を第一に考えている事に頭の下がる思いだった。
「ごめん、耕一。またあんたに迷惑かけちゃったね」
「なに言ってんだよ、梓。俺たちは家族だろ」
 耕一はそんな私の髪をくしゃくしゃとなでながらそう言った。照れくさくなった私は耕一の手を払いのけた。
「ところで、さっきの鬼はどうなったんだい」
「逃げられてしまった……。謝らなきゃならないのは俺のほうだな」
「耕一こそなに言ってんだよ。さっき自分で言った事をもう忘れたのかよ」
「そうだったな……」
 耕一は苦笑しながら、そう呟いた。
「梓姉さん、体はもう大丈夫ですか」
「うん、もう大丈夫だよ。二人にも心配かけてみたいで……」
「お姉ちゃんが無事で良かった、本当に良かった」
 初音はそう言ったかと思うと私に抱きついてきた。私は初音の頭を優しくなでてやった。


 その日私たちが家に帰ったのはずいぶん遅くなってからだった。今日は楓と初音が夕食の支度をしてくれる事になった。どんな様子かと台所を覗きに行った私は二人に追い返されてしまった。怪我人はおとなしく料理のできるのを待っていろという事らしい。そういう訳なので私は居間で大人しく夕食が出来あがるのを待っていた。
「なあ、梓。あの男の事だけど、大丈夫なのか?」
 耕一の言うあの男とはあいつの事だ。そして、大丈夫かと言うのはあいつが今日の出来事を誰かに話す心配がないかという事だ。あいつがあの事を人に話せばそこから柏木一族の秘密が漏れてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けなければならなかった。
「大丈夫だと思う。あの事は誰にも話さないように言っておいたから。明日学校で念を押しておくよ」
 だが、あいつがあの事を誰かに話そうとしたなら、私はどうしたらいいのだろう……。
「梓、一人でなに考え込んでるんだ。そういうときは俺にも相談してくれよ。俺だって少しは力になれるかもしれないからな」
 耕一は微笑みながらそう言ってくれた。
「ありがとう、耕一」
 さらに耕一はなにかを言おうとしたようだったが、それは楓と初音が料理を持って現れた事で中断された。
 私は夕食を食べながら、さっきの事を考えていた。もし、あいつがあの事を人に話そうとしたなら……。このささやかな団欒のひととき、そして楓と初音の笑顔。私は絶対に守らなければならないのだ、何物に代えてでも……。