まだ癒えぬ痕 投稿者: MA
「妹たちのこと、頼みます」
 それが、千鶴さんの最後の言葉だった。

「耕一さん・・・、耕一さん・・・」
 誰かが俺を呼んでいる声がする。そう思った瞬間、俺は目が覚めた。既にあたりは明るくなっていた。昨夜の出来事はすべて夢だったのではないか、俺はそんな事を考えていた。しかし、俺がそう考えたところで、事実が変わるわけでもなかった。俺が抱きしめていたままの千鶴さんの体は既に冷たなっていた。もう千鶴さんは目覚めることはない。そのことを実感すると、俺はこのまま何もかも棄てて逃げ出したい気分になった。しかし、俺は逃げ出すわけにはいかなかった。俺にはこれから成さねばならないことがあった。俺は抱きかかえたままの千鶴さんにそっと語りかけた。
「帰ろう、千鶴さん。あの子達が待っている家へ」
 俺は鬼の力を開放すると、千鶴さんを抱きかかえて跳躍した。

 俺は屋敷に帰ると、千鶴さんの突然の死に悲しむ梓たちに、昨夜の出来事を説明した。柏木の一族に伝わる鬼の力とその力を制御できなかった者の悲劇。そして、謎の鬼の襲撃と千鶴さんの死。最後にその鬼を俺が倒したこと。全てのことを話した。ただひとつ、千鶴さんの最後の言葉を除いて。

 しばらくして梓たちが落ち着いてから、俺は警察への連絡を行った。その日は、現場検証やら事情聴取やらで大変な一日となった。もちろん、柏木の鬼の力については何も話すつもりはなかった。警察には、俺が最初に背後から襲われ水門から転落、しばらく気を失っていて、そのあと水門に戻ったら、千鶴さんが殺されていて、犯人は逃げ去った後だった、という話をしておいた。警察は俺の事を疑っていた。何かを隠していると考えているようだった。事実、俺は事件の真相を隠していたのだから当然の疑いだった。これからは、警察に目をつけられて何かとうるさいことになりそうだった。しかし、俺はそんなことさえどうでも良いと思っていた。大事なことは柏木一族の秘密を、そして梓たち三人を守ることだった。

 その夜、俺は眠ることができなかった。俺は千鶴さんの最後の言葉を思い出していた。最後の最後まで妹達の事を心配していた千鶴さん。しかし、もう千鶴さんはこの世にはいない。俺に最後の願いを託して、逝ってしまった。俺はその願いを果たさねばならない。すべてを犠牲にしても、その願いだけは果たさねばならない。俺は改めてそう決意していた。

 俺が眠れないまま部屋にいると、だれかが近づいてくる足音が聞こえた。その足音は俺の部屋の前で止まった。
「耕一さん、お話したい事があります。入ってもいいですか」
 楓ちゃんの声だった。その声はなにか今までと違うように聞こえた。俺は得体の知れない胸騒ぎを感じていた。
「ああ、どうぞ」
 俺は布団から起き上がってから、そう返事をした。楓ちゃんは静かに障子を開けると部屋に入ってきた。俺が明かりを点けようとすると、楓ちゃんはそのままでいいと言った。俺の部屋は月明かりだけで薄暗かった。楓ちゃんは俺の正面に座ると話し始めた。
「耕一さんはこのままこの家に残るつもりなのですか。」
 俺はそのどこか非難するような口調に驚きながらも、頷いていた。
「どうして、そこまでしてくれるのですか。自分の生活を犠牲にしてまで・・・。理由を教えてください」
 俺と千鶴さんとの最後の約束。この事だけは話すわけにはいかなかった。千鶴さんが自分の心を隠し続けたように、俺もこの事を隠し続けなければならなかった。俺は別の答えを用意した。
「俺達は従姉妹じゃないか、こんな事があった後だから心配に思うのは当然だろう。もうあんな三流大学のことなんかどうでもいいんだよ」
 楓ちゃんは俺を睨みつけた。
「耕一さん、あなたがここに残ろうとした理由はそれだけでは無いはずです。私は知っているんです、その本当の理由を」
 俺はうろたえていた。楓ちゃんがこんな事を言い出す理由が分からなかった。あの言葉は俺しか知らないはずだった。楓ちゃんはそんな俺に構わずに話を続けた。
「実は私は鬼の力に目覚めたのは早かったのですが、今でもあまり直接の力はないんです」
 確かに今の楓ちゃんからは怪力を振るう姿は想像できなかった。
「でも、私にはそれとは別に人より強い力がありました。知っていますか、我々鬼の一族は自分の意思を言葉に出さずとも伝えあう事が出来るんです。私はその意思を感じる力が強いんです」
 俺はその言葉を聞いて驚いていた。確かに俺も他の鬼の意思を感じた事があった。しかし、それは例外中の例外だと思っていた。
「それじゃあ・・・、まさか・・・」
 楓ちゃんは頷いた。その顔はどこか悲しげに見えた。月明かりに照らされただけのこの部屋では表情など分からないはずなのに、俺には確かにそのことが分かった。楓ちゃんは話し続けた。
「私には千鶴姉さんの最後の言葉が聞こえたんです。あの言葉、最後の願いを聞いてしまったんです。だから、耕一さんはここに残ると言った」
 俺は何も言えずに、話を聞いていた。
「私は千鶴姉さんが本当の心を隠してきたんじゃないかと思うんです。私達に心配をかけないようにそうしてきたんじゃないかって思うんです。本当は千鶴姉さんが一番つらかった筈なのに。千鶴姉さんは私にだけは叔父さんたちの死の真相を教えてくれました。その話を聞いてから、私は千鶴姉さんの力になりたいと思ってました。たいしたことは出来ないかもしれないけど、千鶴姉さんを助けたかった。だけど、私は何の力にもなれなかった」
 楓ちゃんは泣いていた。俺はその言葉に驚くと同時に、楓ちゃんの悲しみを思い知らされた。
「私は耕一さんも同じ思いをするのかと思うと我慢ができなかった。耕一さんは憶えていないかもしれないけれど、私はずっと待っていたんです」
 そう言うと楓ちゃんは俺の胸に飛び込んできた。
「ずっと待っていたんです、あなたの事を・・・」
 その時俺は不思議な光景を見ていた。一人の少女が夕日を背にたたずんでいる。その顔は少し悲しげに見えた。はじめて見る光景の筈なのに懐かしい思いがした。
「エディフェル・・・」
 俺はその少女の名を呟いていた。
「耕一さん、今なんて言ったんです」
 俺は楓ちゃんの声で現実に引き戻された。楓ちゃんは泣きながら俺を見つめていた。その面影は先程の少女と重なってみえた。そう思った瞬間、俺は楓ちゃんを抱きしめていた。このまま離したくない、そんな想いで胸がいっぱいになっていた。

 そして、俺はすべての事を思い出した。
 五百年前の俺の名は「次郎衛門」その少女の名は「エディフェル」
 今この時の俺の名は「柏木耕一」その少女の名は「柏木楓」
 五百年の時を経て再び巡り合った二人だった。
「ずっと待っていてくれたんだな。今こそ五百年前の約束を果たそう。これからはずっと一緒だ、もう、おまえを離さない」
 俺は楓ちゃんを抱きしめたまま、そう話していた。

 しかし、その言葉とは裏腹に俺は千鶴さんのことを思い出していた。最後の最後まで妹達の事を心配していた千鶴さん。俺はそんな千鶴さんを少しでも幸せにすることが出来ただろうか。あの夜、二人は体を重ね、愛を確かめあった。たとえ、それが仮初めの愛だったとしても俺は千鶴さんを少しでも幸せにすることが出来ただろうか。いや、俺にはわかっていた。千鶴さんはこんな幸せを知ることもなく逝ってしまった事が。俺は千鶴さんが哀れに思えた。そして、俺にはこんな幸せを手にする資格などないと思った。千鶴さんを助けられなかったこの俺に、そんな資格などありはしない。だが、俺は楓ちゃんの幸せを壊すこともできなかった。五百年の時を越えた想い、それを壊すことなど俺にはできなかった。

「耕一さん・・・」
 俺は楓ちゃんの言葉で我に返った。さっきからずっと楓ちゃんを抱きしめたままだった。俺はそのことに気付くと慌てて手を放した。
「耕一さんも思い出したのですね、あの時のことを・・・。これからはずっと一緒です。だから、何でも話してください。耕一さん一人でつらい思いをしないでください。私は耕一さんの力になりたいんです。」
 俺は頷いた。精一杯の笑顔を作ったつもりだった。
「楓ちゃん、ありがとう」
 俺はそう言うと、楓ちゃんをもう一度抱きしめた。
 しばらく二人は無言のまま抱き合った。
 その後、楓ちゃんは自分の部屋に戻るといった。
「朝までここに居たりしたら、梓姉さんに怒られそうですから」
 楓ちゃんは冗談まじりにそう言うと、俺の部屋を出ていった。



 楓は自分の部屋に戻ると、ベッドに倒れこんだ。
 そして、今はもういない姉の事を思って泣いた。
「千鶴姉さん、あなたはずるい人だわ。
 最後の最後に耕一さんの心を奪ってしまった。
 私と一緒にいてくれるのだって、半分は千鶴姉さん、あなたとの約束のため。
 私には分かってしまったの、耕一さんの心が。
 私はこんなことを望んじゃいなかったのに。
 なぜ、私にはこんな力があるんだろう。
 もし、耕一さんが千鶴姉さんを選んだなら、それで良いと思ってた。
 たとえ、自分の想いがかなわなくても、千鶴姉さんが幸せになってくれるなら、
 それでも良いと思ってた。
 それなのに、運命は残酷ね。
 耕一さんは私のことを思い出してくれた。
 でも、耕一さんの心の中にはずっと千鶴姉さんがいる。
 そして、耕一さんはこれからも自分自身を責め続ける。
 耕一さんの心からその傷痕は消える事はないかもしれない。
 でも、私は耕一さんと一緒に生きていきます。
 私では耕一さんの傷痕を癒す事は出来ないかも知れないけど、
 ずっと一緒に生きていきます。
 耕一さんと一緒に生きていくこと、
 そして耕一さんの力になること、
 それが私の願いだから・・・」

<終>