『空っぽの君』 投稿者: Kouji


 聞こえてくる蝉時雨と、流れていく大きな入道雲、
 少し短くなった太陽の時間と、暮れかけた赤とんぼの空、
 降るように美しい星空と、神様の気まぐれの白い世界、
 気だるく心地よい陽の光と、風が運ぶ穏やかな新緑の香り、

 季節が彼女の時を止めた

 冬の前に来る秋が……
 秋の前に来る夏が……
 夏の前に来る春が……
 そして、春の前に来る冬が……

 彼女の時を止めていた

 そう、
 ずっと、そう思ってただけだった……




   『空っぽの君』


 なんだい……
 泣いているのかい?
 おかしなやつだな……
 笑ってくれよ……
 ……どうしたんだい?
 いつものように笑っていてくれよ……

 夢だってわかっているのに俺は少し泣いていた……

 その人は笑顔を強要する。
 笑えない時だってあるのに、
 その声が聞こえないならなおさらなのに……

 それでも彼女は少し笑ったような気がした。

 でも、俺は知っている……
 その笑顔が決別のものだと、
 あなたへの手向けには大きすぎたものだと、
 叫んでも聞こえないのに
 夢だってわかっているのに……

 目が覚めたとき、涙を流していたのに少し苦笑した。





 久しぶりに大学にやってきた由綺をつれ、冬弥と彰は食堂でたわいも無い談話を繰り広げていた。
「……おふぁよ」
 その日、珍しく寝不足の様子で大学に現れたはるかに少し驚いた。
 いつも健康体のはるかが寝不足で現れたからではない。
 その日がはるかにとって一年で一番大事な日だったからだ。
「……おい…なんでここにいるんだ?」
 冬弥も由綺も、彰も、皆同じように驚いている。
 今日は彼女の兄の命日だった。
 高校の時からずっと……今日だけはいつもきまって居る場所があったはずだ。
 なのに……
「……なんでって?」
 ここにいる事の何がおかしいのか、そんな表情で問い返した。
 一瞬、誰もが口を噤んだ。
 他の誰が忘れても、彼女が忘れるはずがないと思っていたからだ。
 それに、自分の口からそれを告げるのには戸惑いがあった。
 はるかはそんな三人の思惑などわからずに、いつものどこか惚けたような表情で考えている。
「……あっ」
  ・
  ・
  ・
「…………」
  ・
  ・
  ・
「ん……」
 そういってはるかは食堂から出ようとした。どうやら今日は早退するらしい。とはいえ、まだ授業のはじまっていない時間だが。
「おい! マジで忘れてただろ」
 冬弥が呆れた表情でその背中を見送った。



 取るものも取らずにその場に向かったはるかだが、ボーっと考え事をしていたら行き着く先が違っていた。
「……あれ?」
 はるかは辺りを見回した。
 見覚えのあるマンションの下だった。
「?」
 はるかは小さく首をかしげる。
 踵を返し、もう一度歩き出す。
 確かにその場に向かって歩き出したはずだったが、しばらく考え事をしながらだと、どうしてもそこに戻っていた。
「……」
 もう一度歩き出す。そうとすると、前から一組の男女が現れた。
「あれ? はるかじゃない?」
 由綺は不思議そうに首をかしげた。
 仕事のため、午前で大学を出たのだが(冬弥はそれに付き合って家まで送ろうと付いてきた)どうしてはるかがここにいるのか不思議だった。
「もう、済ませたのか?」
 冬弥も不思議そうに訊ねたが、はるかは首を振るだけだった。
「? まだなの?」
「なんで、こんなとことにいるんだ?」
 少し驚いた顔でみる二人に、はるかは「あはは」と笑った。
 自分でも分からないのだから、笑うしかなかったのだが、二人はやっぱり納得がいかない様子だった。
「じゃ、これから行くんだな?」
 冬弥はそう訊ねた。
 はるかはもちろんそのつもりだったので頷く。
「ついでだから俺も行くよ」
 冬弥は由綺に小さく謝る。本来送る場所はもう少し先だったからだが、由綺は笑って言う。
「だって、冬弥くんがついてきてくれたんだよ。私はいいって言ったのに……私ってそんなに聞き分けないかな?」
 ちょっと意地悪に、ちょっと面白がって言う。
 冬弥は唖然とした口を閉じた。
 心の底から逆だよと思っていた。冬弥はどれほど由綺が聞き分けがよすぎて、それで心配してたほどなのに、それは逆だよと心の中で呟いた。
 また、そんな二人だから、はるかがどうして此処にいるのか疑問を持たなかった。
 小さく笑うはるかの本当の気持ちを正確には理解できなかった。はるか本人も含めて……



「もう何年になるかな?」
 そこには午前中に誰かが来ていたのだろう。冬弥は、小奇麗にされた碑に手をあわせる。
 花も供えも持ってきていない。
 でも、ここにいる事が大切なのだと思っている。
 少なくとも冬弥はそうだ。
 はるかはどうだろう?
 一昨年。いや、昨年なら冬弥の気持ちよりはっきりそうだと言えたはずだが……
「……そうだね。何年かな……」
 曖昧な返事だ。
 ずっとそう思っていられたならよかったのだろうか……
 確かに楽だったかも知れない。
 ずっとそう思っていられたなら、あの日以上の苦い思いはありえないだろう。
 夜中のテニスコートに置いてきた思いより……
 でも、今の生活は充実している。
 同時に少し苦い気持ちも感じられるようになってきた。
「……笑ってろ……か」
 冬弥は夢を思い出し、少し笑った。
 こうしてみても、はるかは何も失ってないのかも知れない。
 いや、ただ忘れてただけだと、そう思えるようになった。まだ思い出しきれていないだけで、決してなくしてないんだと思えるようになった。
 どうしてそう思えるのかは分からないが、嬉しい事だった。
「……笑ってろ……か」
 冬弥の声ははるかには届かなかったが、振り返って「ありがとう」と笑う。
 付き合ってくれた事への礼だろうとは思いながらも冬弥は少し驚いた。言葉が口から出たのではないかと焦っていた。
 しかし、それは冬弥がそこにいてくれた事への感謝の気持ちだった。
 ずっといてくれた事への気持ちだった。
「ん、そろそろ帰ろ……」
 すべてに答えのでないまま一時間ほどそこにいただろうか、少し陽が落ち、西の空を赤く染めはじめている。
 はるかと冬弥は最後にもう一度手をあわせた。
「また……来るよ」



 どれくらいの思いをそこにおいてきたのだろうか……
「……綺麗だね」
 なんとなく分かる。
 夕焼けが赤く染めたはるかに不思議な何かを感じた。
 捕らえようのないはるかを、少しだけつかめたのかも知れない。
 以前のように、少しだけ……
「ああ、綺麗だ」
 冬弥は空を少し眺めた。
 ほのかに赤い空が綺麗だった。




「だ〜れだ!」
 不意に後ろから目隠しをされる。
 冬弥はため息を吐いて、「由綺だろ」と振り向くが、そこにいたのは由綺ではなかった。
「あっ、きたね〜」
 正確に言うなら、そこにいたのは由綺だけではなかった。
 はるかが「あはは」と笑うと、由綺も「あはっ」と笑う。
 どうしてか、それがすごく幸せに思える。
 冬弥はコツッと二人の頭を小突く。
「痛っ!」
 二人は非難の目を向けたが、それも一瞬の事で、また笑顔を見せた。
 どうしてか、それがすごく幸せに思えた。


 たわいも無い日常なのに、それがすごく幸せに思えた。









 季節はめぐる

 聞こえてくる蝉時雨と、流れていく大きな入道雲、
 少し短くなった太陽の時間と、暮れかけた赤とんぼの空、
 降るように美しい星空と、神様の気まぐれの白い世界、
 気だるく心地よい陽の光と、風が運ぶ穏やかな新緑の香り、

 季節が彼女の時を止めた

 ずっとそう思ってただけだった……
 




       (fin)


 

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