淡い桜色のカーテンが風になびく。
薄いレースのハンカチが揺れるロッキング・チェアにかかっている。
懐かしい匂いと、かすかな思い出をのせて、そのロッキング・チェアは揺れていた。
キィ……キィ…………
と、揺れるロッキング・チェアにはぬくもりが残っている。
誰のぬくもり?
男の子と女の子が問い掛ける。
それはね……
『ロッキング・チェアをゆりかごに』
「なんだよ! お前んとこ父ちゃんいねえじゃねえか!」
その言葉に浩明は二つ年上の、5年生になる男の子を殴り付けた。
毎回その後に殴りかえされるのもわかっていたんだが、許せなかった。
なぜそんな事を言うのかにではない。なぜ妹に言うのかだ。
そう、浩明の横にはもう一人、双子の妹がいた。
明奈という女の子は浩明の後ろで涙を必死に抑えようとする。悪いのは自分だと、兄の袖を引く。
兄をおさめるにはそうするしかないからだったが、もう遅かった。
「いってーな!」
男の子が浩明を殴りかえした。子どもの二歳の違いは体の成長に差があった。体格のちがう拳に浩明は地面に倒れ込んだ。その上にのしかかろうとする男の子の足を蹴る。男の子もひるまず、浩明の髪を掴む。
子どもの喧嘩だ。
でも、どんな子どもの喧嘩にもそれなりの理由があった。
一見、傍若無人に見える男の子の行動にも、それなりの理由があった。
「今日は父兄参観日です」
いつもよりめかし込んだ女性教師が子供たちに微笑む。
教室の後ろに列を成す人たちを意識してのことだが、普段が優しくないわけではない。
「じゃ、お父さんたちに皆のお勉強を見てもらおうね」
「はーい!」
元気な声で返事をする子供たち。
本来ならどの教室でも絵の発表をやっているはずだ。
ほんの数日前にそういったテーマで絵を描いていたからだが、この教室だけは普段の授業をやっていた。
「これ出きる人〜」
黒板に書かれた簡単な数式に数人の子供たちが手を上げる。
そんな中に明奈の手もあった。
「じゃ、藤田さん」
明奈が元気よくその答えを述べた。
「はい。正解で〜す」
先生が次の問題を出そうとした時だった。
ガラァァ……ガッ! ガッ!
扉が途中で引っかかってしまったのだろう。教室の後ろが騒がしくなった。
「あ、遅れてすいませんですー」
必死に扉を開けて入ってきたのは、ダボダボのスーツを着た女性だった。
男性物のスーツを着、サングラスをかけてはいるが、一目瞭然だ。
「か、母ちゃん!」
浩明は思わず立ち上がる。
「えっ? お母さん?」とまじめに前をむいていた明奈もそれにつられ振り返る。
「あ、浩明ちゃんに明奈ちゃん」
サングラスを取り、二人に大きく手を振る。
教室は騒然となった。
子供たちだけでなく、教室の後ろの父兄方までがざわついている。
女性が男装していたから?
違う。
二人の子どもの口から出た事が信じられなかったからだ。
帰り道、明奈は母親の腕を引いて歩く。
女の子には些細な疑問すらない。
その引いている手を幸せそうに握っている。
浩明はその少し後をついて歩く。並んで歩くのが照れくさいのだろう。いつものシルエットだった。
「ねぇ、お母さん? どうしてそんな服を着てるの?」
ダボダボのスーツのことだ。
浩明は安易に想像がついたが、母親はにこやかに笑ってこう言った。
「ひろ…あなたたちのお父さんのスーツなんですけど、似合ってますか?」
明奈はちょっと笑って頷いた。
少し幸せの三人が歩く先の曲がり角から男の子が現れた。
浩明は一瞬バツの悪そうな顔を見せたが、その男の子は浩明を無視した。
視線はあったのに、横を通り抜けようとする。
が、何を思ったのか、浩明の横に来た時、肩を小さく叩く。
「……お前の母ちゃんか?」
小声で二人には聞こえないように訊ねる。
「そうだよ!」これまた小声で言い返す。どこか構えた口調だが、男の子はもう一つ訊ねた。
「……ホントのか母ちゃんは?」
答えのかわりに手が出そうになったが、何とか抑えて「そうだよ!」同じように答えた。
「……そうか……」
なんだかいつもの勢いが無い口調で呟く。挨拶もないまま浩明たちと反対の方に歩き出す。
「お友達ですか?」
母親はその男の子が少し離れてから浩明に聞いた。
別に他意はなかったのだが、気づいたのがその時になってからだったからだ。
浩明はわざとらしく大きく首を振る。「そんなわけないよ」と言いたそうな目で。だが、母親はちょっと笑って男の子を見た。浩明でなく、去っていった男の子だが、その子が高校生の男たちにぶつかりそうになっていた。
「危ないです!」
遅かった。
ドンッ!
「あっ」っと声をあげて男の子が尻餅をつく。
その男の子を睨んでいるのはぶつかられた高校生だ。
もう一人の少年はそんな少年を見て笑っている。
「おい。謝れよ」
ぶつかられた方の少年は男の子に言い寄る。
しばらく待っても何も言わない男の子を無理矢理立たせた。腰を落とし視線を同じにし、睨み付ける。
「……」
恐怖と少しの意地で男の子は余計に口をとざす。
「!」
思わず手を振り上げたが、もう一人の少年が笑いながら諌めた。
同時にもう一人、その少年に声を投げつけた。
「や、やめなさい!」
初めて聞く母の怒声に明奈は驚いていた。
怒声といっても、他の人が言うよりはるかに優しい感じだった。
そのおかげで少年たちの注意は男の子からそれた。
打って変わって興味のある目だ。
「おい! 変な服着たメイドロボだぜ!」
笑っていた少年が指をさす。
「謝れよ!」
少年たちに食って掛かったのは浩明ではなかった。
「謝れよ!」
男の子はもう一度少年の袖をひき、そう言った。
その男の子をうざったそうに突き飛ばした
再び尻餅をつく男の子だが、食い下がらない。
「やめろよ」
「や、やめてください」
男の子の頭を面白そうに抑える少年たちを、浩明や母親が止めようとする。が、もとより興味があったのはそっちだった。
「おいおい、メイドが何か言ってるぞ。なぁ、メイドって召し使いだろ?」
「はははっ、そうだな、召し使いだ」
へらへら笑ってはいるが、男の子から手を離さない。
その言葉に明奈は愕然とし、浩明はカァっと頭の中が上気するのを感じた。
「そ、その手を離してください」
少年たちの手を男の子から離そうとするが、中途半端な力がかかり、余計に男の子に負荷がかかる。少し苦痛に顔を歪めたが、男の子は泣き言を言わなかった。
それに気づいたのか、手を離す母親に代わって浩明が少年たちの足を蹴りつけた。
「痛っ!」
やっと男の子は自由になったが、その代わり浩明が目をつけられた。
「何すんだ!」
とっさに浩明を背中にかばう。明奈もそこにいて、飛び出していきそうな浩明をひっぱる。
「どけよ、母ちゃん! こんな奴等俺がやっつけてやるよ!」
浩明の言葉に一瞬怒気を失った少年たちは、再び大きな笑い声を上げた。
このあたりになると小さな人垣が出来て、一種の見世物となっている。
その中にその様子を真剣に見ている三人がいた。
「か、母ちゃんだってよ! メ、メイドロボが……!」
少年たちの笑い声に、明奈は涙を流し、浩明と男の子は顔を真っ赤にした。
「ははっ……お、おい坊主。お前の本当の父ちゃんと母ちゃんは酷いな。メ、メイドロボが……母ちゃんだってよ……はははっ……」
パァァン……
明奈と浩明は目を疑った。
驚いたのは笑っていた少年たちも同じだった。
「あ、謝ってください!」
震える声で、しっかりと言った。
「この子達に謝ってください!」
ジンッとしびれる右の手のひらを震わせながら、もう一度言った。
少年の一人は少し赤くなった左頬を抑える。
一瞬、何も言えなくなって、そうさせた人物をぼうっっと眺めた。
その本人は、少し張り詰めた気が緩んだのか、ちょっと体を震わせている。
その一瞬時が止まったような場面に入り込んでくる者たちがいた。
「はいはい。そこまで」
そのうちの一人は少年たちの胸を押し、少し距離をあける。そして浩明たちの頭を撫でる。暖かい視線で。
「すいません……遅れたみたいで……」
と、母親に頭を下げる人物に明奈と浩明は驚いた。
見まちがうはずのない、すっとしたロングヘアーの女性だ。
「君たちはもう帰りなさい。これ以上はだめだよ」
少年たちより背の高い20代の後半だろう男は、風貌どおりの優しい口調で言う。
さすがに逆らえなかったのか、少年たちはおとなしく引き下がった。
しばらくして、男の子が小さく呟いた。
「……それじゃ、俺は……」
それ以上は何も言わず、軽く会釈して離れていった。
母親がそっと浩明の背中を押す。
ちょっと戸惑って、でも少し頷いて「またな!」そう叫んだ。
男の子は振り返らず、、それでも浩明にわかるくらいの大きさで頷いた。
「それにしても驚いたわよ」
男の子が角を曲がるのを確認してから、浩明を抱き上げたショートカットの女性はにっと笑った。
「あんたが人を叩くなんて、初めて見たわ」
「お、おろせよ!」
浩明はおろされた後も、抱き上げられた照れから女性に文句を言う。
その様子に笑みをもらしたのは、子どもたち以外の全員だった。
笑われたと勘違いした浩明はふくれっつらになるが、その様子そのものがまた笑みを深めるしぐさだと気づかなかった。
「さすがにそっくりだね」
誰にそっくりかは聞くまでもないのだが、実際に分かるのはその男しかいなかった。
ただ、雰囲気で笑みをもらすには十分なほどだった。
浩明だけじゃない。明奈についてもそうだ。
あまりに……だったから、少し潤んだ瞳を見せまいと母親に向く。
「でも、ほんと久しぶりだよね」
「はい! 皆さんもお元気そうで」
「でも、私とは今日あいましたよね」
「そうなんだ。浩明奈(ひろあきな)の先生だっけ?」
ショートの女性は二人をまとめてそう呼んだ。浩明が怒り出しそうな呼び方だったが、しかし、その呼び方にどこか懐かしいものを感じた。明奈も同じだ。
前に何度か会っているのかもしれない。思い出せないけど、悪い気はしなかった。
それは、女性だけではないく、男の人からも、不思議と先生からも感じた。
感じた懐かしい何かは、ふいに心で揺れた。
淡い桜色のカーテンが風になびく。
薄いレースのハンカチが揺れるロッキング・チェアにかかっている。
懐かしい匂いと、かすかな思い出をのせて、そのロッキング・チェアは揺れていた。
「さっきも言ったけど、あんたが人を叩くなんて、初めて見たわ」
それは明奈と浩明も驚くべき事だった。
しかし、一番驚いていたのは本人だった。
「わたしもどうしてだかわからないです……」
「いいんじゃない? あれはあんたが正しいよ」
ぱたぱたと手をふる。
男も頷く。
「でも、もう少し早く止めに入ろうとしたんですけど……」
少しの罪悪感からか、非難の目でショートカットの女性を見る。
その目はすぐに笑みを取り戻し、浩明と明奈に向けられる。
「きっとこの子達のおかげですよ」
浩明と明奈にはわからなかったが、他の皆はなんとなくその意味を理解した。
ショートカットの女性は空を見上げ、クスッと笑う。
「以前、あいつがさぁ、言ってたんだよね。『喜怒哀楽じゃないけど、怒らなく、我侭を言わないのは問題あるんじゃないか』『いつかその答えが見つけられる日が来たら一緒に祝ってやろうぜ』って勝手に先にいっちゃったくせに……でも、その後に笑って言ったんだよね。『あいつはそれで良いのかもな』って」
「僕も聞いたよ。『そういうのも含めて一緒にいて欲しいんだ』って」
心配そうに見上げる二人の子どもを抱きしめる。
「なんでもないです」と、涙を拭い。強い視線で二人を見つめた。
小さな胸の中にある、二つの鼓動に感謝して。
心をくれたもう一組の少年少女に感謝して、「ありがとうです」と呟いた。
淡い桜色のカーテンが風になびく。
薄いレースのハンカチが揺れるロッキング・チェアにかかっている。
懐かしい匂いと、かすかな思い出をのせて、そのロッキング・チェアは揺れていた。
キィ……キィ…………
と、揺れるロッキング・チェアにはぬくもりが残っている。
誰のぬくもり?
男の子と女の子が問い掛ける。
それはね……
「で、それ、あいつのでしょ?」
着ていたダボダボの服をさしている言葉だ。
頷く前に男が懐かしい目を見せた。
「たしか結婚式に、なんだ、服が無い! って慌ててた時のやつだね」
「そうそう! それであの子も焦っちゃって、とりあえずって買ったんだけどねぇ」
「あの時は大変だったです」
「すごく窮屈そうでしたね」
くすくすと笑いがこぼれる。
「そこにあんたたちもいたんだよ。覚えてないだろうけど」
と浩明と明奈に笑いかける。
全員がいっせいに呟いた。
「あのロッキング・チェアをゆりかごにして……」
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